2019年7月12日金曜日

James Martin 神父様 SJ の説教,World Pride NYC 2019 前晩のミサ,2019年06月29日


2019年06月30日に World Pride NYC 2019 のパレードが行われる前日,6月29日の晩,LGBTQ Catholic community のために,Church of St Francis of Assisi において,James Martin 神父様 SJ の司式によるミサが行われました.その説教の録画とテクストが公開されています.


説教の邦訳を以下に掲載します.

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年間第13主日
第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62




[Jesus Christ の]弟子である — それは,何を意味するでしょうか ? Christian である — それは,何を意味するでしょうか?自由である — それは,何を意味するでしょうか?カトリック信者として,LGBTQ カトリック信者として,あるいは,LGBTQ カトリック信者の家族,友人,同盟者として,[Jesus Christ の]弟子であり,Christian であり,自由であることは,何を意味するでしょうか?

今日の聖書朗読は,一見すると,わたしたちにはたいして関係が無い,と思われるかもしれません.つまるところ,列王記が書かれたのは紀元前550年ころ — ユダヤの民がバビロンで捕虜となっていた時代です.聖パウロの Galatia の信者たちへの手紙が書かれたのは,紀元55年ころです.ルカ福音書 — 今日,朗読されたもののうちでは最も新しいもの — が書かれたのは,紀元85年ころです.そのような昔のテクストが言っていることは,今のカトリック信者たちにとっては,たいした意味はないだろう,いわんや,LGBTQ の人々にとっては,なおさらたいした意味はないだろう,と思われるかもしれません.

いえ,とんでもない.とても意味があります.聖書は,生きている〈神の〉ことばです.朗読された箇所がどれほど昔に書かれたものであっても,わたしたちがそれらを読み,聞くとき,わたしたちの耳が神のことばに開かれるなら,神の声は常に明かされます.

福音朗読の箇所から始めましょう.Jesus は,牧者としての働きを求めてくる人々に,正面から,あい対します.

Jesus は,Jerusalem へ向かう途中です.Jerusalem には,彼の運命が彼を待ち受けています — 受難と,十字架上の死と,そして,復活です.Jerusalem に到着する前でさえ,彼は,敵意を持つ人々に直面します.そして,彼はそのことを知っています.彼がサマリアをとおるとき,人々は彼を拒絶します :「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」とルカは言っています.なぜか?宗教的な理由によって:サマリア人は,「よきイスラエル人は,いかなるものか?」について,とても異なる考えを持っており,Jerusalem の神殿を神がいます座とは認めてさえいません.サマリアの人々の拒絶に対して,Jesus の弟子たちは,彼れらを処罰したい,と思います.しかし,Jesus は「ダメだ」と言います.Jesus は,彼れらを罰しようとはしませんが,しかし,拒絶のせいで意気消沈したりもしません.

ついで,Jesus は,「弟子にしてください」という求めへ注意を向けます.彼は,とても無愛想に対応します.彼は,彼の弟子となることの代価をよくわかっており,弟子になりたいと言ってくる者たちにも,その代価を覚悟してほしい,と思っています.ある者が「あなたがおいでになるところなら,どこへでも従ってまいります」と言う.「本当かい?」と Jesus は言う — ルカはそうは書いていませんが —「もしわたしについてくるなら,あなたは,ねぐらすら持てないことになる」.Jesus の弟子のすべてが旅の途上の Jesus につきしたがっているわけではありません — Martha や Maria のように,家にとどまっている者もいます — が,弟子の多くは,実際,Jesus と同じく,旅回りを続けています.弟子になるということには,旅回りの生活を続けるということも含まれているのだぞ,と Jesus は言っています.

ほかの弟子たちのなかには,ふたり,家族に対する責任にもとづく言いわけをする者がいます.ひとりは,「父を葬りに行かせてください」と言い,もうひとりは,「家族にいとまごいをするために行かせてください」と言います.しかし,Jesus は,そのような言いわけを受けつけません.しかし,彼は,本当に,死者が死者を葬るだろうと思っているのでしょうか?そうではないでしょう.彼は,話しのポイントをわからせるために,誇張法を使っているだけです.

もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたはタフでなければならない.もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたは後ろを振り返ることはできない.

Jesus は,旧約聖書の預言者たちよりも徹底的です.第一朗読の列王記(上)では,Elijah は,Elisha を預言者とするために彼に油を注ぐよう神に命ぜられ,自分の外套を Elisha にかぶせます.Elisha は,しかし,「父と母に別れの接吻をさせてください」と言い,それをすませてから,Elijah につきしたがいます.

Jesus は,もっと徹底的です.彼は「ダメだ」と言います.家族を言いわけにするな.わたしにつきしたがうことより優先されるものは何も無い — 家族に対する義務でさえも.

Jesus は,福音書のほかの箇所で,そのことを明示しています.彼の家族が,ナザレトからガリラヤ湖へやってきて,彼と会おうとします.このエピソードのことを,わたしたちはあまり話題にしません — その話にショックを受ける Christian が少なくないからです.しかし,マルコ福音書は語っています — Jesus が牧者として公に働き始めたとき,彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思う.そこで,親戚を含む〈彼の〉拡大家族は,ナザレトから,Jesus が住んでいるガリラヤ湖畔のカファルナウムにまでやってきて,彼を拘束しようとする.しかし,Jesus は,「あなたの家族が外で待っています」と告げられると,こう言う:「誰がわたしの家族か?それは,神の意志を行う者たちだ」.神とのつながりが,家族とのつながりよりも,より重要なのです.

最後に,話しの要点を理解させるために,Jesus は,大多数が農民である社会の人々がよくわかる比喩を用います:いったん鋤に手をかけたなら,後ろを振り返るな.なぜなら — 牛たちから目をそらすと,どうなるか?牛たちは,へんな方向へ進んでしまう.注意をそらすな.

さて,今日の聖書朗読箇所は,いずれも,昔に書かれたものではありますが,今日,わたしたち皆にとって — 特に,LGBTQ カトリック信者にとって —,とても有意義です.三つのことを示唆しておきましょう.

1) タフであれ [ be tough ]. この数年間,LGBTQ カトリック信者にとって,多くのポジティヴな歩みが為されました.ふたつの大きな潮流があります.最初のものは,ふたつの単語に要約されます : Pope Francis [ Papa Francesco ]. 五つの単語から成る彼の最も有名な文は,あいかわらず,これです : Who am I to judge ?[わたしは,断罪する権限を有する誰であろうか?]それは,最初は,gay である司祭に関する質問に対する答えでしたが,ついで,LGBTQ の人々すべてに関する文へ拡大されました.Papa Francesco は,gay という単語を使った史上初の教皇です.彼には,LGBTQ である友人たちがいます.そして,彼は,LGBTQ の人々をサポートする枢機卿や大司教や司教を,たくさん任命しています.もうひとつの潮流は,このことです:自身が LGBTQ であることを come out し,そのことについて open であるカトリック信者がふえるにつれて,彼れら自身と,彼れらの家族とが,彼れらの希望と願望を小教区のなかに持ち込むようになり,教会の文化が少しずつ変わってきています.

しかし,LGBTQ カトリック信者であることが辛いときもあります.カトリックの学校が〈同性婚をした〉職員を解雇する事例が,今だに起きています — straight である職員は,さまざまな教会の教えに従っていない場合でも,仕事を続けることに何ら問題が無いにもかかわらず.また,教会の指導者たちがメディアに発表する文書や声明や引用によって,このことが明らかになることもあります:彼らが LGBTQ の人々やその家族の経験に耳を傾けたことがあるという証拠は,いささかも無い,ということ.さらに,勿論,地方のレベルでは,homophobic な司牧者や教会職員や小教区信者たちがいるところが,いまだにあります.

であればこそ,Jesus のようでありましょう:つまり,タフでありましょう.そして,なによりも,あなたは教会のなかで正当な居場所を有していることを主張しましょう.御覧なさい:あなたが,自身,LGBTQ であり — あるいは,LGBTQ である人の家族であり —,かつ,洗礼を受けたカトリック信者であるならば,あなたは,教皇や司教や司牧者やわたしと同様に,教会の一員です.あなたが受けた洗礼を根拠にして,教会のなかであなたの居場所を主張しましょう.

しかし,カン違いしないでおきましょう.Jesus は,わたしたちにこう告げています:ときには辛いこともある.ときには,あなたの家族があなたを理解しないこともある — まさに Jesus の家族が Jesus を理解しなかったように.ときには,あなたはほかの人々に受け入れられていないと感ずることもある — まさに Jesus がサマリアでそうだったように.ときには,ホームレスになったように感ずることもある — まさに Jesus が野宿しなければならなかったときに感じたように.ときには,友人たちと意見が一致しないと感ずることもある — まさに Jesus が「しかえしはわたしのやり方ではない」と弟子たちに告げたときに感じたように.しかし,そのようなことはすべて,旅につきもののことです.Jesus とともにいれば,ほかの人々に理解されなかったり,受け入れられなかったり,等々のことは起こり得ます.

そのようなことすべてを通じて,Jesus は,「タフでありなさい」とわたしたちを招いています.教会のなかで居場所を主張しなさい.あなたが授かった洗礼のなかに根拠を持ちなさい.あなたは全的にカトリックである,と自覚しなさい.

カトリック教会は,歓迎し,肯定し,包容するだけでは十分ではない,という声を,わたしは最近,聞きました.わたしは賛成します.それらは,最小限のことです.それだけでなく,LGBTQ の人々は,「わたしたちは教会のなかの司牧活動すべてに参与することができるはずだ」と完全に思えるべきです.単に歓迎され,肯定され,包容されるだけでなく,みづからリーダーシップを取ることができる.しかし,そうし得るためには,あなたたちは,鋤をしっかり握り続けねばなりません.そして,タフであらねばなりません.

2) 自由であれ.今日の福音朗読箇所からのふたつめの教えは,Jesus の至高なる自由です.福音がサマリアについて何と言っているかを,もう一度見てみましょう:「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」.しかし,Jesus は,サマリアに拒絶されても,気にしません.確かに,Jesus は,サマリアの人々が彼のことばを聴くことを欲していたでしょう.そうだったことを,わたしたちは知っています — ヨハネ福音書のなかで,Jesus は,サマリアの女と長い会話をかわしているからです.あの有名な「井戸端の女」の話です.彼女は,Jesus との出会いを,サマリアの人々と分かち合います.しかし,サマリアの人々が歓迎しようとしないなら,それで結構.Jesus は自由です.彼は,歩み続けます.

Jesus は,愛されたい,好かれたい,認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,サマリアの人々から愛されたい,という欲求からは,自由です.彼は,弟子たちから好かれたい,という欲求からは,自由です — ヤコブとヨハネを戒めたときのように.彼は,家族 — 彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思っています — から認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,このうえなく自由です.では,何のために自由なのか?— 御父の意志に忠実であるために.

LGBTQ カトリック信者たちの多くが,「わたしは歓迎されていない」と感ずる — Jesus がそう感じたように;排除され,拒絶され,ときには迫害されていると感ずる — Jesus が排除され,拒絶され,迫害されたように.それは,苦痛なことであり,腹立たしいことです.そう感じても,当然です.それは,人間的なことであり,自然なことです.そして,ときには,そのような感情が,あなたを行動へ — 迫害されている人々のために行動することへ — 駆り立てることもあるでしょう.しかし,究極的には,Jesus は,わたしたちに,こう求めています:愛され,好かれ,認められたいという欲求からは,自由でありなさい.そして,本来的なあなた自身に信頼を持ちなさい.

もうひとつ指摘しておくと,Jesus は,罰したいという欲求からも自由です.ヤコブとヨハネは,Jesus を拒んだサマリアの人々を滅ぼすために「天から火を降らせる」ことを欲しました.しかし,そのような彼らを,Jesus は戒めます.それは,彼のやり方ではない.彼は,しかえししたいという欲求からは自由です.ですから,Jesus のようでありましょう.自由でありましょう.

3) 最後に,希望を生きろ.Jesus Christ の弟子である人生は,単なる苦行ではありません.単にタフなだけではありません.単なる苦労ではありません.今日の第二朗読で,聖パウロはこう言っています:「キリストは,わたしたちを,自由のために自由にしてくださった」(τῇ ἐλευθερίᾳ ἡμᾶς Χριστὸς ἠλευθέρωσεν). すばらしい言葉ではありませんか ?Christian の生は,単なる辛い重荷や軛(くびき)ではありません — 聖パウロが用いている「軛」という語は,Jesus の「鋤」の比喩と呼応しています.Christian の生は,奴隷の軛につながれて生きることではなく,自由を生きることへの招きです.ちょうど Elijah が Elisha に外套を被せたように,わたしたちは皆,LGBTQ であろうと straight であろうと,Jesus の招きを受けたなら,神学者 Barbara Reid の表現で言えば,「Jesus の息吹 [ spirit ] という〈守ってくれる〉コート」に包まれています.わたしたちは,自由を生きています.喜びを生きています.そして,希望を生きています.

LGBTQ カトリック信者やその家族は,教会の現状を見て,こう言いたくなる誘惑にかられるかもしれません:「教会は,決して変わらないだろう」,「わたしは歓迎されていない」,「ここには,わたしの居場所は無い」.しかし,Jesus がわたしたちに住んでほしいと思っている場所は,そこだけではありません.将来は,現在よりも,もっと充実しているでしょう.そのことを,Jesus は知っています.わたしたちは,鋤をしっかり握り続けましょう — 単に道からそれてしまわないためだけでなく,地平線から目をそらさないために.

ときには,LGBTQ カトリック信者が,こう言うことがあります:わたしは,教会とも,信仰とも,神とも,縁を切った.そう言う人々は,教会のなかに Christ を探し求めるときに,しばしば,現在をしか見ていないのです.しかし,Jesus が Jerusalem で経験することは,受難と死だけではありません.最も重要なのは,受難と死ではありません.最も重要なのは,復活です.復活の善き知らせは,これです:希望は絶望より強い;苦しみは最後の言葉ではない;愛は,つねに,憎しみに対して勝利する.愛は,つねに勝ちます.ですから,希望を生きましょう.

今日,朗読された聖書のことばは,とても古く,とても異質で,とても遠くにあるもののように見えるかもしれません.しかし,実は,今のわたしたちのためにあつらえられてあることばです.神と出会うよう呼ばれたわたしたち皆のために書かれてあることばです.そこにおいて,わたしたちは,神がわたしたちにこう言うのを聴きます:タフであれ,自由であれ,希望を生きろ.カトリック信者であることに誇りを持て.そして,LGBTQ であるわが同胞たちよ,LGBTQ カトリック信者であれ — あなたたちは,そうであるよう,Jesus Christ 御自身によって,呼ばれているのです.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年7月2日火曜日

阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019年06月30日



阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019630


教皇フランシスコが説く三つのよろこび : gaudium, laetitia, exsultatio



皆さん,今日は集まってくださり,ありがとうございます.先ほど,御ミサもいっしょに捧げました.

今日は,今のカトリック教会の動きを紹介したいと思います.

皆さんにお配りした資料[A4 の紙一枚]は,四つに折ると,ひとつの小冊子になります.





まずこう折り,つぎにこう折ってください.「よろこびのひびき」と「聖性,聖なる生きかた」と書いてあるページが最初のページ,フランシスコ教皇のイラストが描いてあるページが最後のページです.四つに折った全体を開くと,裏面が「わたし(キリスト)のよろこびがあなたがたのうちにあるように!」と書いたページになります.

子どもたちに配ると,何も言わなくても,すぐに作ってくれるのですが,おとなに配ると,作り方がわからなくて,迷っている人が多い.おとなの方が感覚が鈍くなっているのかなと思います.修道者とか教区司祭に配ると,もっともたもたします.年齢を重ねたり,上の立場に立つにしたがって,単純なこともできなくなる,ということがわかります.

これは,もともと,ほかの講話のときに配った資料です.一枚の裏表で見ることができ,小さくたたんで持ち歩くことができ,紙の節約にもなります.あとは,塗り絵として,自分で色を塗って楽しむこともできます.

この資料は,キリスト教徒の立場で教皇フランシスコの気持ちを理解して生きるためのひとつのヒントになっています.

今年の11月にフランシスコ教皇が来日するといううニュースが流れていますが,まだ教皇庁から正式な発表は出ていないので,もう少し待つ必要があります.しかし,一応,準備委員会は立ち上がって,話し合いが始まっています.歴史上,教皇の訪日は38年ぶりになります.教皇フランシスコは266代目ですが,38年前は,264代目のヨハネパウロ II 世が日本に来ました.38年間という長い隔たりがありますが,教皇はもう一度,日本に来てくださるわけです.あとだいたい5ヶ月くらいです.

教皇フランシスコが何を思っているのかを理解すると,11月の行事の意味がもっとよくわかるだろうと思います.

わたしは,教皇フランシスコの行事に行くつもりはありません.彼が司式するおおがかりなミサに出るつもりもありません.というのは,キリストの方がだいじだからです.キリストを中心に考えます.

キリストを証しして生きるのが教皇です.彼は,キリストのメッセージを伝えるために日本に来ます.だいじなのは,キリストを理解して生きているひとりの指導者が日本に来る,ということです.キリストが主役です.キリストのメッセージを日本の社会全体に広く示す責任を感じて,彼は来ます.教皇フランシスコの来日の目的は,キリストを知らせること,キリストを人々に実感させることです.キリストを知って,学んで,受け継いで生きる それを伝えるのが,教皇フランシスコの目的です.

わたしたちキリスト者も,彼を迎えるときに,彼の気持ちを理解して迎える必要があります.教皇フランシスコを主役にして騒ぎを盛り立てるだけでは,意味がありません.教皇は,82歳を超えた後期高齢者でありながら,体力の衰えをものともせず,日本に来てくれます.キリストを示したいがために日本に来るひとりの老人がいる そのことの重大さの方が,意味があります.

キリストを中心にすること,教皇フランシスコが伝え,示そうとしているキリストを信じ,キリストに感謝すること そのこと方が,教皇を特別な人として迎え,彼を主役にしてお祭り騒ぎをするよりは,もっとだいじである,と思っています.

さて,今日配ったプリントの,教皇フランシスコのイラストが書いてあるページを見てください.

彼が教皇になって,年たちます.この 年間,彼が言っていることは,三つのラテン語のキーワードに要約されます : gaudium, laetitia, exsultatio.

gaudium は,2013年の使徒的勧告 Evangelii Gaudium[福音の喜び],laetitia は,2016年の使徒的勧告 Amoris Laetitia[愛の喜び],exsultatio は,2018年の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate[喜びなさい,おおいに喜びなさい]で用いられています.

いずれも,日本語では「よろこび」と訳されますが,教皇フランシスコのこころのなかでは,三つの「よろこび」は区別されています.

gaudium は,個人レベルのこころの安らぎ,安心感,おだやかさです.生きていてよかったという感覚です.キリストと出会った人が,「わたしは,受け入れてもらえた;わたしは存在してもいいんだ」と感ずる;「わたしが生きている」ということを全部,受けとめてもらえる,と感ずる その感覚が gaudium です.

キリストと出会う人は皆,おちつきを取り戻す;そして,自分は意味のある存在であり,生きていてよいのだということを実感する それは,福音書を読むと,よく出てくるメッセージです.病気を抱えている人や,差別を受けている人が,キリストから声をかけてもらい,肩に手を置いてもらい,励ましを受ける そのような場面が,福音書のなかによくでてきます.そのときの安心感が,gaudium です.

キリストは,みづから近づいてきて,声をかけてくれ,肩に触れて,励ましてくれる.キリストは,ひとりひとりの名を呼んで,理解してくれ,そばにいてくれる.そのような善さを,キリストは持っています.そういうキリストと出会った人が感ずるのが,gaudium です.生きていて本当によかったという感覚です.

教皇フランシスコも,gaudium はキリスト者の生き方の土台になっている,と述べています.

ひとりひとりがキリストと出会って,gaudium を実感します.わたしたちは今,約二千年前に生きていたナザレのイェスという人に直接会うことはできませんが,聖書のメッセージを読んだり,こころのなかで思いをめぐらせたりすることで,キリストを感じ取ります.聖体拝領のときに,パンとなってわたしのなかに入ってきてくださるキリストを実感します.ミサは,聖書朗読と聖体拝領によってキリストと出会うひとときです.そのときの安心感を gaudium というラテン語は言います.キリストとかかわるよろこびは,キリスト者にしか味わえないよろこびです.

ふたつめのよろびは,laetitia です.それは,人間関係における相手とのキャッチボールのようなやりとりのよろこび,かかわりやコミュニケーションの楽しさやうれしさ,友情のよろこび,愛のよろこびなど,複数の人間がいっしょに生きるときにこころに感ずるうれしさのことです.gaudium 安心感,自分が認められているという感覚 を持っている人が,他者と出会い,かかわるときに感ずるこころの動きです.人間関係のよろこびです.

キリストと出会ったわたしたちひとりひとりが,今度は,出かけていって,ほかの人に会い,いっしょによろこびあい,気持ちをやりとりする;自分のよい思いを相手にわたし,相手からも感謝の気持ちを受け取る;そのように,気持ちをキャッチボールのようにやりとりし,つながりあう 教皇フランシスコは,わたしたちにそうするよう勧めています.

三つめの喜びは,exsultatio です.人間関係が明るく整って,コミュニケーションが深まって行くと,生きている空間全体が意味を持ってきて,輝き始めます.本当に自分を理解してくれる友だちを見つけたときに,わたしたちは,こころが明るくなっていくのを感じます.人生に意味が出てきます.生きている空間全体が特別に思えてきます.親しい人といっしょに過ごしているとき,自然環境全体が非常に輝いて見えることがあります.

そのように,生活空間そのものの輝きと明るさのなかで,人間どうしの深いつながりにもとづいて,存在が意味を帯びてゆく状況 それが,exsultatio です.それは,あらゆる生きものの調和の状態,全宇宙の明るい響き合いの状態です.この最終的なよろこびは,生活環境そのものが祝福されてよいものと感じられる状態のことです.

教皇フランシスコは,そういうメッセージを,環境問題に関する2015年の回勅 Laudato si’ のなかで述べています.

教皇は,12世紀の聖人,アシジのフランチェスコの歩みをまねようとしています.それで,教皇としての名も,その聖人にのっとって,フランシスコとしています.

12世紀の聖フランチェスコは,何をしたか?自然の緑あふれる土地を歩きながら,ロバや,馬や,あらゆる生きものを優しくなでながら,感謝しつつ旅をする生活です.彼にとっては,すべての生きものが神の前で尊い命です.彼は,歌を歌いながら,旅をします.歌と祈りと自然環境の生きものが一体化した状態での旅です.生きものを認めて,すべてを作った神に感謝する生活を,彼はおくっていました.

教皇フランシスコは,その12世紀の聖人をまねようとしています.あらゆる生きものといっしょに神を賛美すると,生きていることがそのままで祈りになり,その祈りは天に昇って行きます.そのような壮大な感覚があります.それが exsultatio です.

それは,宇宙万物の響き合いとかかわり合いのよろこびとうれしさであり,生きものがいきいきとスキップして,よろこんで踊っている状態です.

赤ちゃんや幼な子は,うれしいことがあると,ジャンプして踊りながら,手をパチパチ叩いて,躍動して,踊ります.赤ちゃんや幼な子が持っているすなおな態度,踊りながら,からだでよろこびを表現する姿 それも,exsultatio につながってゆきます.

世のなかの生きものも,すなおに感情を表して,からだで表現して,踊ることがあります.ネコもイヌも,うれしいことがあると,シッポをふります.

からだでよろこびをすなおに表現すると,その震えは空気に伝わって,皆が幸せになります.

人間も,幼な子のような気持ちでよろこび踊りながら,すべての善さを受け入れて,感謝して,ほめたたえて,踊る それが理想です.ところが,成長するにしたがって ものの見方を整えて,頭だけで判断して行こうとするおとなの状態になるにしたがって からだが動かなくなります.頭だけで判断して固まってしまい,よろこびをすなおにからだで表現することができなくなります.

世界中の司教や司祭たちのなかには,硬直した状態で厳しい顔をしている人が多い,と思います わたしもそのひとりですが.緊張して,かしこまって,からだが固まって,動かない.人をすぐに助けない.動きのない直立状態で終わってしまう そのような人が教会のリーダーになっている場合があります.それは,本来的な exsultatio からはほど遠い姿です.

誰でも,幼な子のようにならなければ,神の働きのなかに入れない そう,イェス・キリストはよく説明しています.すなおにこころの思いをからだで表現して,踊りながら,まわりの人を楽しませるような,思い切った態度をとらないと,神の働きから遠ざかってしまいます.幼な子の持ってる喜びの表現 踊りながら,素直に感謝して過ごすという態度 から学ぶ必要があります.

以上のように,教皇フランシスコは,よろこびを,三つのイメージ gaudium, laetitia, exsultatio で説明しています.

日本語ではすべて「喜び」と訳されますので,三つの意味あいの違いが薄まってしまいます.しかし,よいところもあります.すべて「喜び」と訳されることによって,三つは統一されます.「喜び」という言葉のなかに三つのレベルの意味が含まれ,一体化しています.「喜び」のひとことで全体を表しています.個人レベルのうれしさも,二人以上の人が出会って,気持ちをやりとりするときのよろこびも,宇宙的な〈生きものが踊りながらたたずんで過ごす〉態度も,全部,切り離せません.それらは連続していて,ひとつのこととして生じてくる.その全体を,からだで味わって生きる感覚が,「喜び」の一語にはあります.

たとえば,この祭壇の前に花が飾ってあります.その美しさがあります.そして,それを丁寧に活けて準備してくださった方々のまごころが込められています.人がもっている善い志と,花の美しさとが,そこに表現されています.この場で静かにたたずんで,こころをおだやかに保っている人がおり,個人個人のよろこびがあり,人を楽しませようと花を準備してくださった方のまごころがあり,花そのものの美しさがあります.それらがすべて調和しているのが,この聖堂の空間です.こういう場でいっしょに集まって祈ることは,教皇フランシスコが教えている三つのよろこびの意味を同時に味わうことになります.この祈りの場にたたずむだけでも,三つのよろこびを味わうことができます.

以上,gaudium, laetitia, exsultatio という三つのよろこびの動きを紹介しました.

単純に,よいことを認めあって生きることが,一番,キリスト者としての道になるのではないかと思います.

皆さん方も,ひとりひとり,よいものを持っています.各人,考え方や性格があります.さまざまな立場の人が集まっていることに,意味があります.

皆さんは,それぞれ,自分の生活の環境で穏やかに生きて行こうとし,真剣に歩んでいる.そして,キリストを知ることになって,キリストに興味を持って,キリストとこころの会話をしながら生きている.皆さん,個人レベルのよろこび (gaudium) を持っていると思います.

そういう人々が,このように月に一回集まるとき,同じ気持で生きている人がいるということを発見して,人間どうしのつながりができて,それが laetitia に発展します.

さらに,ここに飾られてある花の美しさ,ほかの生きものの美しさにも気がついて,それを味わうことができます.12世紀の聖人,アシジのフランチェスコがだいじにした感覚 (exsultatio) を,今も生きることができます.

日本には,あらゆる生きもののつながりをだいじにしながら,旅をして,景色を眺めながら,喜ぶ感覚があります.12世紀のアシジのフランチェスコの態度は,日本人が千年以上保ってきた喜び 自然環境のなかで自然と一体化して生きる喜び と,共通性があります.

第二次世界大戦中の日本で,アシジのフランチェスコの伝記が翻訳され,彼に関する解説書がたくさん出回ったことがありました.自然環境のなかで感謝し,生きものの命の響き合い楽しむフランチェスコの exsultatio を,日本人は,敏感に感じ取って,彼を尊敬して,勉強し始めた時期あったのです.

今から70年ほど前の日本で,洗礼を受けた人々のうち,特に知識人は,フランチェスコという洗礼名をつけてもらう人が多かった時期がありました.ものごとを分析して,切り離すのとは逆に,いっしょにつなげて楽しむという態度に興味を示す人々が知識人のなかに増えた時期がありました.競争して,人を蹴落として,自分だけ生き残ろうとすることの愚かさへの反省から,協力して,生きものといっしょに楽しむというフランチェスコのイメージが,憧れとして受け入れられていたのです.そのような生き方の象徴として,アシジのフランチェスコが尊敬されていたのです.

教皇フランシスコは,その12世紀の聖人のイメージを,自分の立場として表明しています.教皇は,若いころ,日本に宣教師として渡り,日本の生活のなかで人々と出会いたいという夢を持っていましたが,肺結核を患って,片方の肺を摘出したこともあり,健康があまりすぐれなかったので,日本に宣教に来ることができませんでした.彼は,一回,挫折しているわけです.

若いころに来日の夢を持ちながら,実現できなくて挫折したこの人物が,日本にやってきます.教皇フランシスコにとっては,尊敬する日本の文化や考え方のなかに入り込んで,人々と出会いたい,かかわりたい,という夢を,80歳を過ぎてから,ようやくかなえることになるわけです.彼は,かつて一度だけ訪日していますが,そのときはまだ教皇ではありませんでした.

教会組織全体は,二千年も続いているので,ガタがきて,おかしくなってるところも,歪んでいるところもあります.そのなかで,もう一度やり直して,しっかり人を受け入れて,理解しようとするリーダーがここにいます.教皇フランシスコという人物の歩みも,わたしたちにとって励ましになります.

阿部仲麻呂神父様 SDB の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年06月30日

James Tissot (1836-1902)
With Passorver Approaching, Jesus Goes Up to Jerusalem (1886-1894)
Brooklyn Museum


阿部仲麻呂神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年6月30日 


第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62 


今日[の福音朗読箇所]は,イェス・キリストが,決意して,イェルサレムの都に向かう場面です.

イェルサレムに行くということは,十字架につけられるということです. 

イェスさまは,三年間,必死に,出会う人々を助けながら,旅をしました.その総まとめとして,神のわざを実現するために,都のイェルサレムに入ろうとします.

ところが,サマリアの人々は,「純粋な」ユダヤ人ではなく,いろいろな民族の人々が結婚して生まれた子どもの子孫ですので,民族のさまざまな状況を抱え込んで生きています.サマリアの人々は真剣に生きているのに,ユダヤの血だけを持つ人々から差別されていました.彼れらは,生活の状況や仕事の都合で,さまざまな民族の協力関係のなかで生まれた子どもたちの子孫ですが,「サマリア人」と呼ばれて,差別を受けていたわけです.

そのように差別を受けて苦しんでいる人たちからすると,イェスさまがユダヤ人だけしかいないイェルサレムの都に入るということは,裏切り行為に見えたわけです.強い立場に立つ人々のもとに出向くイェス・キリストを見たときに,サマリアの人たちは反対します.それまではイェス・キリストを歓迎していた人々ですが,しかし,あのイェルサレムにだけは行ってほしくないという気持ちを持ってました.

ところが,イェスさまは,それでも,まっすぐイェルサレムに入ろうとします.でも,反発にあいますので,別の村に入って,そこに泊まってから,イェルサレム入りを準備する — そういう動きになっています.

このように,今日の福音朗読の箇所では,一方には,神の思いを生きようとするイェス・キリスト — まっすぐに進む彼の姿 — があり,他方には,彼を迎える人たち — 彼れらは,自分たちの都合で考えてしまい,自分たちの状況しか見ない — がいて,両者は対立している,ということが描かれています.

人間が抱える問題,それは,自分を基準にして見てしまうので,他の人を理解しないという狭さです.ユダヤの人々がそうでした — 自民族だけを守ろうとして,他民族を理解しない.多くの民族の人たちの間の新しい結婚生活を祝福しないユダヤの狭い考え方の指導者をはじめ,イェルサレムの市民たちの差別意識があったわけです.

イェス・キリストは,そういう差別の中心地に向かって入って行こうとします.差別感情を全部消し去って,神の思いだけを受け入れて生きる新しい流れを作ろうとして,戦っていたのが,イェスさまです.

でも,三年間,イェスさまといっしょに関わりながらも,サマリアの人たちは,イェスさまの最後の決意を理解できませんでした.やっぱり,サマリアの人たちからすれば,何十年にもわたってユダヤ人から厳しく見くだされてきた思い出があり,それを忘れることができなかったわけです.イェスさまもユダヤ人の一員として生まれていますから,三年間はサマリアの人たちと仲良くなりましたけれど,またイェルサレムに行ってしまうということで,サマリアの人たちからすれば,「あのイェスさまでさえもユダヤ人のひとりにすぎなかったのか」と失望の気持ちが生じたわけです.

しかし,イェスさまは,民族にこだわりなく,ひとりひとりの人を助けようとして,まっすぐ進んでいるだけです.

イェルサレムには何があるのか?神さまの思いを受け継いで祈る神殿があります.その神殿の場で,イェスさまは,本当の祈り方を人々に示そうとする.そのために,わざわざそこに入っていくわけです.

人間の思惑による憎しみ合いの社会状況のなかで,そこに絡め取られることなく,神の方に向かって進み,しかも,差別意識を持つ人たちの感情をいさめて,回心させよう — そういう壮大な目標を持っていたのが,イェスさまです.そのために自分の身がどうなってもよい — 自身を捧げるつもりで,必死で旅をしています.

今日,この社会で,人々のいろいろな生き方を理解しない狭さを持つ人がおります.二千年前のユダヤ民族の単一の血筋だけを守ろうとする狭い人たちがいたのと同じ状況が,今日の社会でも続いております.

そういう苦しみの状況のなかで,それでも,今日の福音朗読箇所を読むことで,わたしたちは少し安心感を得ることができます.イェスさまだけは,人間的な思惑に絡め取られないで,神を信じて進む — そのような潔い態度を見せてくださっています.そして,狭いこころを待つ人々の気持ちを打ち砕いて,変えさせようとして,戦っています.

差別を越えて,人を受け入れて,いっしょに生きようとする — それこそが神のみむねである,という信念を以て進むのが,イェス・キリストです.

ミサは,イェス・キリストが今も生きておられて,わたしたちの心を理解して,そばにいてくださる,ということを,実感する場です.生きているイェス・キリストと旅をする歩みが,ミサの集まりです.

第一朗読と第二朗読も,真剣に生きる人々の姿が描かれています.本当のことを求めて生きようとする純粋さを持つ人は意味のある生活をしている,ということが伝わってきます.

福音朗読箇所に戻ると,イェスさまのまわりには,ついて行きたい,弟子になりたい,と名のりをあげて近づいてくる人々もたくさんいる,ということが描かれていますが,イェスさまは,ひとりひとりの状況を見て,ひとりひとりへの声のかけ方が違っています.ある人は,厳しくたしなめて,家に帰させるし,ある人には「従って来なさい」と勧めるし,各人の将来をよく眺めたうえで,別々の答えを出しています.イェスさまは,全員に対して一律に同じ答えを出すことはしない,という特徴があります.

よく,修道会や教区司祭は,若い人を誰でも呼び込んで,後継者にしようとすることがあります.人のことを考えず,組織を守って存続させるために,募集しようとします.人のこころの状況を無視して,「誰でも来なさい」と誘う — 自分たちの組織に入って仕事をしてほしいからです.そのように気軽に募集しておいて,しかし,当人が自分たちのやり方に合わないとなると,すぐに切り捨てる,追い出す — そういうことをやってしまうわけです.

しかし,イェスさまの場合は,そうではなかった.イェスさまは,相手を中心にして生きています.この人は厳しい生活に耐えられそうもないから,家に帰して,社会的な奉仕活動をとおして生きる方が,よりイェスさまのこころと一致できる — そう判断したなら,その人を家に帰させる.その場合,いくら当人がイェスさまの弟子になりたいと叫んでも,その人を戻す — それが,イェスさまのやりかたです.相手が厳しい修行に耐えきれるかどうかをよく理解した上で,無理をさせない,という優しさがあります.

このような聖書の場面を読むときに,わたしは反省させられます.修道会も教区も,若い人を誰でも募集して,入れ込もうとして,その若い人ひとりひとりの成長段階や適性を無視している場合があって,組織のために利用しようとする浅ましさがあるからです.

そう考えると,イェスさまの人に対する招き方は,人を主役にして,人を中心にして,その人の行く末をしっかり考えたうえで,言葉をかけている — そういう思いやり深さがにじみ出ています.

今日の福音朗読の箇所だけをそのまま読んでしまうと,「イェスさまは,せっかく来た人を追い返している.何て冷たいんだろう」とカン違いしがちですけれども,本当はそうではなくて,イェスさまは,その人の将来,行く末をよく思いめぐらしたうえで,言葉をかけているのであって,単に無理に相手を追い返そうとしているわけではありません.相手の立場に立って,相手の将来を理解して,見送るだけの思いやりが,イェスさまのこころの底には,隠されています.厳しい言葉を使うときのイェスさまの表面だけを見るのではなくて,そのこころの奥に隠されている親心 — 相手の将来をよく理解したうえで送り出そうとする親心 — に注目する必要があります.

聖書を読むと,イェス・キリストが結構,厳しい言葉で人に接する場面が数多く描かれていますが,イェスさまのこころの内を推測してみると,深い配慮に満ちた思いによって言葉がつむぎ出されているのが,見えてきます.

イェスさまは今日,皆さんひとりひとりのこころの奥を見てくださり,いっしょにいようとしてくださり,適切な言葉をかけようとしてくださっています.

ひとりひとりが主役であって,人生のなかで意味のある生活を続けている — それを,イェス・キリストだけはしっかり見てくださっている.

そのことを今日の福音朗読箇所から学びながら,イェス・キリストと引き続きいっしょに歩みたいという気持ちを,表明してまいりましょう. 

2019年6月9日日曜日

なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのか

2019年04月28日,Tokyo Rainbow Pride のパレードにて

Happy Pentecost and Happy Pride !

今日(6月 9日)は,聖霊降臨の祭日でした.そして,今月は,世界的には,あちらこちらで LGBTQ+ の祭典が行われる Pride Month です.

6月 6日付の Washington Post 紙に,The case for why Catholics should march in LGBT Pride parades[なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのかの主張]と題された論評記事が掲載されました.筆者 John Gehring 氏は,Faith in Public Life という団体の Catholic Program Director という肩書きを持っている人です.彼は,記事のなかで,Thomas Tobin 司教 — 彼は anti-LGBTQ な主張を tweet した — に対する批判を展開しています.以下に,記事全文の邦訳を紹介します.

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なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのかの主張

by John Gehring

Stonewall In の常連たちが沈黙し続けることを拒み,gay であるアメリカ人たちのための市民権運動の口火を切ってから50年たって,Pride行事は多くの州でなじみ深い伝統となっている.6月をとおして行われるパレードや講演会やシンポジウムは,人々の尊厳を — 歴史的に差別され,今も差別に直面し続けている人々の尊厳を — 肯定するものである.

LGBT Pride Month の祭典に参加する宗教指導者たちがいるなかで,ひとりのカトリック司教[USA の Massachusetts 州にある Providence 教区の Thomas Tobin 司教]の tweet が,social media で論争を引き起した — カトリック教会は同性婚に反対し,同性どうしの性行為を断罪しているのに,カトリック信者が LGBT の行事に参加してもよいのか?

Thomas Tobin 司教 の2019年06月01日付の tweet :「忘れないように:カトリック信者は,6月に行われる LGBTQ “Pride Month” の行事を支持したり,それらに参加したりすべきではない.それらの行事は,カトリックの信仰と道徳に反する文化と活動を宣伝し,奨励するものであり,特に子どもたちに対して有害だ」.

わたしは,わたしが所属する小教区の教会を愛し,かつ,わたしの gay である友人や家族を愛するカトリック信者として,この Thomas Tobin 司教の表現 — 偽善的で,homophobic で, いたずらに不安をあおる表現 — に,うんざりさせられている.今,カトリック教会は,何十年にもわたって子どもに対する性的虐待を組織的に隠蔽してきたことが明らかになった後,道徳的な信頼性を取り戻そうと悪戦苦闘している最中である.そのようなときに,カトリック指導者が Pride 行事は「特に子どもたちにとって有害だ」と言い放つとは,何とも驚くべき自覚欠如の露呈である.

また,それは,特別に調子はずれで欺瞞的な断言である — なにしろ,Thomas Tobin 司教は,1990年代,Pittsburgh 教区の補佐司教を務めていたわけだが,それは Pennsylvania 州 — 同州においては,数十年にわたって1000人以上の子どもたちが300人以上の司祭たちによって性的虐待を受けてきたと信ぜられる,と[2018年8月に発表された]州の大陪審による壊滅的な調査報告は告発している — にある六つの教区のひとつである.だが,Thomas Tobin 司教は,昨年[2018年]夏に行われたあるインタヴューにおいて,こう言ってのけた:聖職者による性的虐待を監視することは,当時,彼の責任の範囲の外にあることだった,と.

Thomas Tobin 司教は,昨年夏,Twitter は彼の spiritual life にとって妨げとなり,「わたしにとっても,ほかの人々にとっても,罪を犯す機会」となり得る媒体である,と述べ,Twitter をやめるつもりだ,と言っていた[が,実際にはそうはしなかった].もし仮にその計画に忠実であったなら,彼は,賢明であっただろう.

わたしたちの歴史と文化において,gay と lesbian と transgender の人々は,しばしば,彼れらの宗教保守的な家族によって見棄てられ,教会によって拒絶されてきた.そのような事実への反応において,わたしたちは,彼れらを愛する.彼れらの人間性と基本的な尊厳を回復させ,称えること — Pride 行事に参加するカトリック信者たちがしているのは,そのことである.

National Center for Transgender Equality[transgender の人々の平等のための全国センター]と National LGBTQ Task Force[LGBTQ の人々にかかわる諸問題について調査し,問題解決を図るための全国的な委員会]は,全国で六千人以上の transgender およびジェンダー不適合の人々にインタヴューした結果,41 % が自殺未遂歴のあることを見出した(それに対して,一般人口においては,自殺未遂歴を有する人は 1.6 % のみである).学校におけるいじめ,職場におけるいやがらせ,物理的および性的な暴力を経験したことがある,と答えた人の割合も高かった.Human Rights Campaign[人権キャンペーン]によると,2018年,USA においては,transgender の人々が少なくとも26人,殺害されている.被害者のうち,82 % は非白人のトランス女性であり,大多数は35歳以下であった.

先週の土曜日(2019年6月1日),Dallas で,黒人トランス女性である Chynal Lindsey の遺体が,警察により発見された.彼女は,過去三年間に Dallas で殺害された少なくとも四人めの黒人トランス女性である.

もしカトリック司教がそのような文脈を理解しておらず,デジタル説教壇を,癒すのではなく,傷つけるようなしかたで利用するならば,彼は,差別的文化 — そこにおいては,固定観念が強化され,差別が祝福され,極右は暴力に訴えてもよいと励まされる — に貢献することになる.

Thomas Tobin 司教を弁護するために集まったカトリック信者たちは主張する:彼は単純にカトリック教義を表現しただけだ,と.しかし,それは欠陥のある議論である — そのような議論は,せいぜい,論者は教会の教えを狭く,機械的にしか理解していない,ということを明かすか,あるいは,より悪い場合には,教会の教えを,現実に有害な結果を招くしかたで歪めている.

教皇フランチェスコは,使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]において,カトリックの教義と道徳律を「人々の生に対して投げつける石」(#305) にしないよう,カトリック信者に警告している.そのような態度は,「通常,教会の教えの背後に隠れる閉ざされた心」(ibid.) を証すものである.カトリック教会は同性婚に反対しており,また,男女の結婚以外の状況におけるあらゆる性関係を断罪しているが,しかるに,カトリック教会のカテキズム (#2358) は,こうも述べている : gay の人々は「敬意と共感と気遣いとを以て,受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」.Pride 行事は子どもたちとって危険であると述べる司教の言葉は,LGBTQ の人々を悪魔化し,差別的に刻印する危険性をはらんでおり,カテキズムが禁じている「不当な差別」の一例である.

よい知らせもある.Thomas Tobin 司教は多くの注目を集めたが,彼の見解は,教会の指導者たちのうちでは,声高な少数派を反映しているにすぎない. transgender の人々や同性カップルと出会う教皇フランチェスコによって形づくられ,発展しつつある司牧神学は,より多くの司祭たちと司教たちが LGBTQ の人々との架け橋を作るよう,促している.それは,非難ではなく,謙虚さと聴く態度とを要することである.

Newark 大司教 Joseph Tobin 枢機卿は,2年前,Newark のカテドラルに LGBTQ の巡礼者たちを迎えたとき,彼れらにこう言った:「わたしはジョセフ,あなたたちの兄弟です」.San Diego の Robert McElroy 司教は,2016年,イェズス会の週刊誌 America magazine とのインタヴューにおいて,同性どうしの関係を「内在的に乱れたもの」と呼ぶカテキズムの言葉づかいを「非常に破壊的な表現であり,司牧において用いるべきではない,とわたしは考える」と述べている.

Chicago や New York や San Francisco のような都市にある小教区のカトリック信者たちは,何年も前から Pride 行事に参加し続けている.より保守的な地方においても,連帯を証しするカトリック信者たちはいる.Kentucky 州の Lexington 教区の John Stowe 司教は,2017年,Lexington 市の最初の Pride Interfaith Service へ書簡を送り,行事を「あまりにしばしばキリスト教徒たちからの差別に苦しんできた人々へ手を差しのべるすばらしい行い」と絶賛している.

キリスト教の伝統においては,pride[傲慢]は「七つの大罪」のひとつと見なされてきた.キリストに従う者は,極端な放縦や過度な個人主義に用心すべきである.では,場合によって Pride parades において見うけられる自由放埒な雰囲気と,キリスト教徒はどう折り合いをつければよいのか?

1960年代の black pride の表現が白人至上主義者たちの抑圧的な不正義に対する反応であったのと同様に,LGBTQ Pride の行事は,LGBTQ の人々にとって安心できる空間となるよう作られている.彼れらは,ある種のコミュニティのなかで通りを歩いているとき,彼れらの身体的な安全性が尊重されるか否かを懸念する理由を有している.

わたしは,gay ではない白人男性として,そのような現実を経験したことがない.もし仮に,わたしが,ケバケバしく過剰に見えるかもしれない Pride 行事における解放と歓喜の表現を断罪するならば,わたしは,安楽で特権的な場所から批判を行っていることになるだろう.もし仮に共感が欠けていれば,わたしは,Jesus が時をすごした辺縁的な場所へは行かないことになるだろう.わたしが prideful[傲慢]になることへの人間的な誘惑に対して用心するとしても,黒人トランス女性 — 彼女は,へたな方向へ街角をまがると殴打されるかもしれないと恐れ,あるいは,12の州では性同一性を理由にして合法的に解雇されるかもしれない — が prideful[自身に誇りを持つ]になっていけないわけがない.

カトリック教会の指導者たちは,Pride 行事について断罪の態度を取る前に,よりキリスト教徒的な答えをしようとするがよいだろう.そして,他者が経験する辛さや不愉快を追体験してみようとするがよいだろう.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年5月7日火曜日

満川元一氏の conversion therapy 関連の発言に対して

少年時代にいわゆる conversion therapy を強いられた Garrard Conley の体験記をもとにして制作された映画 Boy Erased[邦題:ある少年の告白](2018) のポスター

2019年05月06日付の東京新聞の記事によると:茨城県医師会副会長の満川元一氏(産婦人科医,もと水戸赤十字病院長)は,茨城県の主催する LGBT 支援策検討会議において,「性的マイノリティー(少数派)の人にマジョリティー(多数派)に戻ってもらう治療はないのか」と発言しました.

性的指向と性同一性 (SOGI : sexual orientation and gender identity) に関して伝統的な社会規範を疑問に付する人々を「矯正」し得ると主張する「治療」は,俗に conversion therapy または reparative therapy と呼ばれています.

日本においては,いわゆる conversion therapy に関する専門的な研究はまったく行われていませんが,USA においては,医学および心理学の諸学会は明確な結論を既にくだしています:いわゆる conversion therapy は,科学的に無根拠であり,治療的に無効であるばかりか,欝や自殺を誘発し得ることにおいて,有害である.

明らかに,そのことを満川元一氏はまったく知らないわけです.

そこで,わたし(ルカ小笠原晋也)は,彼に,若干の資料を添えて,以下の書簡を送りました:


2019年05月07日

満川元一先生

Re : SOGI に関するいわゆる conversion therapy の無効性と有害性について

拝啓,

初めまして.わたしは,ラカン派精神分析家です.都内で精神分析の臨床を行っています.また,カトリック信仰を有する LGBTQ+ の人々の信仰共同体 LGBTCJ の共同代表を務めています.

今月 6 日付の東京新聞で 記事「LGBT 支援検討会合 茨城県医師会副会長発言:多数派に戻る治療ないのか」を読みました.

そこにおいて先生が「性的マイノリティの人に性的マジョリティに戻ってもらう治療」と呼んだと報ぜられているものは,英語では,俗に conversion therapy または reparative therapy と呼ばれています.

性的指向と性同一性 (SOGI : sexual orientation and gender identity) に関するいわゆる conversion therapy ないし reparative therapy の無効性と有害性に関しては,日本では科学的な研究はまだ行われていないものの,USA では既に結論がくだされています:そのような「治療」は,科学的に無根拠であり,臨床的に無効であり,それどころか,自殺や欝を誘発することにおいて有害でさえあります.

その問題に関して手短にまとめられた American Medical Association (AMA) と American Psychiatric Association (APA) の文書のコピーを同封にてお送りします.是非,参考になさってください.

敬具


以上の内容の書簡を,満川元一氏へ送りました.

冒頭に上げた画像は,映画 Boy Erased[邦題:ある少年の告白](2018) のポスターです.少年時代にいわゆる conversion therapy を強いられた Garrard Conley の体験記をもとにして制作されたものです.そのような「治療」がいかに有害であり,非人道的なものであるかを知るために,是非,御覧ください.現時点(2019年05月07日)では幾つもの映画館で上映されています.


2019年5月4日土曜日

聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方


上の風刺画では,いかにも保守的で頑迷そうに見える牧師が三人がかりで(つまり,多数派)ひとりの gay(つまり,少数派)を,聖書で殴り殺しています.俗に聖書の "clobber passages"("clobber" は「激しく殴打して,叩きのめす」)と呼ばれる箇所に準拠して homosexuality を断罪する人々(ユダヤ教徒にせよ,キリスト教徒にせよ)を揶揄するものです.

いわゆる clobber passages については,『LGBTQ と カトリック教義』の § 1.3.2. "homosexuality と聖書  聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない" で詳しく検討してありますので,参照してください.

ひとつだけ例を挙げるなら :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13).


Julius Veit Hans Schnorr von Carolsfeld (1794-1872), Steinigung des heiligen Stephanus

ここで改めてそのような clobber passages に言及するのは,最近,聖書の文面を楯にとって Pete Buttigieg の homosexuality を非難する福音派牧師 Franklin Graham(Billy Graham の息子のひとり)の tweet を James Martin 神父様が批判しかえしているのを見かけたからです.

その際,James Martin 神父様は,2010年に書いた記事 Dr. Laura and Leviticus を,改めて紹介しています.聖書の clobber passages を楯にとって homosexuality を断罪する人を見かけたら,その記事に紹介されている傑作な反撃のしかたを思いだして,苦笑してください.

その記事において James Martin 神父様が言及している Laura Schlessinger は,もともと生理学者(インシュリンに関する研究で博士号を取得しているので,Dr と呼ばれています)ですが,ラジオで家族カウンセリングに関連するおしゃべりをすることで全米で有名になりました.そして,保守的なユダヤ教徒の立場から,homosexuality を断罪していました.

そのような発言をラジオでする Laura Schlessinger に対する批判文書が,Internet 上に出回りました.その匿名著者は,旧約聖書を字面[じづら]どおりに了解するならどのようなとんでもないことを言うことができるかを,そこにおいて展開しています.

James Martin 神父様による短い導入を含めて,その文書の邦訳を以下に紹介します.

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Dr. Laura とレヴィ記

James Martin, S.J.
2010年08月18日

Dr. Laura Schlessinger は,昨日,ラジオ番組から降りることを発表した[訳注:人種差別的な発言をしたことによって].そのことは,彼女がときおり披露する旧約聖書の原理主義的な読み方  特に,homosexuality が問題となるとき  に対するあの賢い反応を思い出させた.その匿名書簡は,2000年に最初に現れて以来,web 上に広く流通してきた(その出どころをつきとめることは困難であるにもかかわらず).それは,あらゆる種類の聖書直解主義に対する健全な解毒剤である.

[以下,匿名書簡]

Dear Dr. Laura :

神の律法に関して人々を教育するためにかくも多くのことをなさっているあなたに感謝します.わたしは,あなたのラジオ番組からとても多くを学びました.そして,そこで得た知識を,できるだけ多くの人々と共有しようと試みています.誰かが homosexual lifestyle を弁護しようとするときは,わたしは,単純に,たとえば,レビ記 18,22 :「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」の明確な断定を思い起こさせてやればよい.それを以て議論は終わり,というわけです.

しかしながら,わたしは,あなたからの若干の助言を必要としています — 神の律法の幾つかのほかの要素に関して;そして,如何にそれらに従うことができるかに関して.

1. レビ記 25,44[(前節で「イスラエルの同胞を奴隷としてはならない」と述べられたことに続いて,しかし)男性奴隷または女性奴隷が必要なら,まわりの国々から買いなさい]は,隣の国々から買った奴隷 — 男性奴隷も女性奴隷も — は所有してよい,と述べています.わたしの友人は,この律法は,メキシコ人には適用されるが,カナダ人には適用されない,と主張しています.説明していただけますか?なぜわたしはカナダ人奴隷を所有することはできないのでしょうか?

2. 出エジプト記 21,07[ある男が自身の娘を奴隷として売るなら,彼女は,男性奴隷と同じ条件のもとに奴隷の身分から解放されることはできない]が許しているように,わたしは,わたしの娘を奴隷として売りたいと思います.今の時代,彼女にいかほどの値段をつけるのが妥当でしょうか?

3. レビ記 15,19-24[女に月のものが訪れ,彼女の胎から血が流れ出ているときは,彼女は七日間,障りとなる.彼女に触れる者は,誰でも,その日のうちは不浄である.障りである女が寝たところは不浄となり,彼女が座ったところも不浄となる.彼女の寝床に触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.その上に彼女が座ったところのものに触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.彼女の寝床の上にあるもの,または,その上に彼女が座ったところのものの上にあるものに触れた者は,その日のうちは不浄である.もし,ある男が女と寝ているときに,彼女の障りの血が流れ出て,彼に付いたならば,その男は七日間,不浄であり,彼が寝た寝床はすべて,不浄である]によって,わたしは知っています:月のものの不浄の期間にある女に触れることは許されない,と.問題は,どうすればある女性が生理中であることがわかるか,です.もしわたしが「あなたは生理中ですか?」とたずねれば,大多数の女性は気を悪くするでしょう.


焼き尽くしの祭壇

4. レビ記 1,09[(主にいけにえとして献げる家畜を屠り,四つに切り分けたあと)内臓と脚を水で洗い,祭司は祭壇で全部を焼いて煙にする.それが,焼き尽くしの献げものであり,主にとって慰めの香りである]によって,わたしは知っています:わたしが祭壇で雄牛をいけにえとして焼くとき,それは主にとって快い香りを発する,と.問題は,わたしの隣人たちです.彼れらは,その臭いは彼れらにとっては快くない,と苦情を言います.わたしは彼れらを打ちすえるべきでしょうか?

5. わたしの隣人たちのひとりは,安息日に働くと言い張っています.出エジプト記 35,02[(週のうち)六日間,仕事をするが,七日目には,あなたたちにとって聖なるなにごとかがある.それは,安息日 — 主の休み — である.安息日に仕事をする者は,誰でも,死刑に処せられる]の述べるところによれば,その隣人は死刑に処せられねばなりません.わたしは,みづから彼を殺すよう道徳的に義務づけられているのでしょうか?それとも,わたしは警察にそうするよう頼むべきでしょうか?

6. レビ記 11,09-12[海のものであれ,河のものであれ,水に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいものは,ひれとうろこを持つものである.しかし,ひれとうろこを持たないものは,食べてはならない.それは禁ぜられている]によって,甲殻類を食べることは忌まわしいことであるのですが,わたしの友人は,それは homosexuality より忌まわしくはない,と感じています.わたしは賛同できません.あなたはこの問題に決着をつけることができますか?忌まわしさには程度の違いがあるのでしょうか?

7. レビ記 21,16-24 は「身体障碍者は神の祭壇に近づいてはならない」と規定しており,そのなかには「視力に欠陥のある者」も含まれています.告白するなら,わたしは,読書の際,眼鏡をかけます.神の祭壇に近づくためには,わたしの視力は完璧でなければならないのでしょうか?それとも,そこには解釈の余地があるのでしょうか?


payot と呼ばれる長いもみあげのユダヤ人男性

8. レビ記 19,27 は頭髪や髭に関して「あなたたちは,頭髪の縁[ふち]を,それが円を描くように切ってはならず,ヒゲの両側を切って,その形を変えてもならない」と禁止していますが,わたしの男友だちの大多数は,その禁を犯して,側頭部やもみあげを散髪してもらっています.彼らをどう処刑すべきでしょうか?

9. レビ記 11,02-08[陸に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいのは,分かれた蹄を有しており,かつ,反芻するものである.(それに対して)以下のものを食べてはならない — ラクダ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.イワダヌキ(訳注 : hyrax または rock hyrax — カワイイので,とても食べる気にはなれません): 反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ノウサギ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ブタ:分かれた蹄を有しているが,反芻しないから;あなたたちにとって,それは不浄である.それらの肉を食べてはならず,それらの死骸に触れてもならない.あなたたちにとって,それらは不浄である]によって,わたしは知っています:死んだブタの皮に触れると不浄になる.では,手袋をしていれば,ブタ皮でできたボールでフットボールをしてもよいのでしょうか?

10. レビ記 19,19 は「あなたの家畜のうち相異なるふたつの種[しゅ]どうしをつがわせてはならない;あなたの畑に相異なるふたつの種[しゅ]のタネを播いてはならない;相異なる二種類の糸で織られた混紡の布地の服を着てはならない」と禁止していますが,わたしの伯父[叔父]夫婦はその律法に違反しています.彼は,農場を所有していますが,同一の畑でふたつの異なる穀物を栽培していますし,彼の妻は,相異なる二種類の糸でできた布(綿とポリエステルの混紡)の服を着ています.彼は,また,たくさん,呪ったり,冒瀆的なことを言ったりします.いったい,本当に,わたしたちは,町じゅうをあげて,彼を石打刑にするという面倒なことをする必要があるのでしょうか?(レビ記 24,10-16 : 主の名を冒瀆する者は,石打刑に処せられる).もっと手軽に,プライベートな家族パーティーの場で,彼らを火刑に処することはできないのでしょうか — レビ記 20,14 に「ひとりの男がひとりの女とその母親の両方と寝たならば,それは淫らなことであり,彼れらは三人とも火刑に処せられる」と規定されているように.

Dr. Laura, わたしは,あなたがそれらのことがらを詳細に研究しており,それらのことがらについて専門的な知識をお持ちである,と知っています.ですので,あなたは助言することができる,とわたしは確信しています.

神のことばは永遠かつ不変であることをわたしたちに思い起こさせてくださったことに,改めて感謝します.

あなたを崇拝するファンより.

(もし本当にカナダ人奴隷を所有することができないのなら,ひどく残念なことです).

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以上が,USA のイェズス会の週刊誌 America の Internet 版に2010年08月18日付で掲載された記事 Dr. Laura and Leviticus の邦訳です.

以上のような揶揄が可能であるということは,このことを示唆しています:わたしたちは,聖書を読むとき,その文面を,その「意味」において「了解」しつつ読むだけで済ますことはできません.

そのような読み方にとどまるなら,Laura Schlessinger のようになります.先に引用したレビ記 20,13 :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」をそのように読むなら,「男どうしで性行為をする gay たちを処刑しろ」 と神は命じていることになります.ところが,本気にそう信ずるのは,今は,ごく一部のイスラム教原理主義者たちだけです.

そのような読み方を聖書に適用することはできません.では,どう読むのか?

わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ろうとします.ただし,ただ,やみくもに聴こうとすればよいのではありません.神がわたしたちに何を欲しているのかを前提する必要があります.

神はわたしたちに何を欲しているのか?わたしたちのために何を欲しているのか?それは,わたしたちの救済です.誰をも排除せず,あらゆる者を包容する愛を以て,神は,わたしたち皆を愛してくださっており,わたしたち皆を神のみもとへ救い出したい,と欲してくださっています.

そのことを前提にして,初めて,わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ることができます.

では,たとえば,レビ記 20,13 をわたしたちはどう読むことができるのか?まず「処刑」に関しては,神は,人間がほかの人間の生命を奪うことを許してはいません — たとえ,ある国の刑法に死刑が規定されいても,それは神の欲するところに適ってはいません.

聖書の律法書において「処刑」への言及があるとき,それは,人間が人間に対して為すことではなく,しかして,神が人間に対して為すかもしれないことです.

昔,今村昌平により映画化された佐木隆三の小説『復讐するは我にあり(1976) のおかげで日本でも有名になった聖 Paulus のローマ書簡の一節 (12,19) と,彼が引用した申命記の一節 (32,35) を思い出してもよいでしょう :「復讐と報復は,わたし[主]のものである」.あるいは,その少し後に見出される一節を思い起こしてもよいでしょう :「死なせ,生かすのは,わたし[主]である」(Dt 32,39).

しかし,それは,何か恐ろしげな「神罰」がくだされるというようなことではありません.そうではなく,このことです:神は,ある種の人間には永遠の命を与えてくださらない — より正確に言えば,ある種の人間には,「人間は誰しも,今,永遠の命を生きることができるのだ」ということに気づくことを許さない — ということです.

教皇 Francesco は,ある少女から地獄に関する質問を受けたとき,彼女にこう答えました:もしあなたが神に向かって「わたしには,あなたの愛は必要ありません」と言うなら,もしあなたが神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲するなら,そのとき,あなたは現に地獄にいるのだ.

神による報復は,そのようなものです.それが,神による処刑です.

しかるに,もし仮にあなたが今,地獄での死を生きていても(あるいは,地獄での生を死んでいても),あるとき,ふと,あなたが神の愛を欲するなら,神はあなたを赦し,死から永遠の命へ復活させてくださいます.

神による処刑は,常に,神による赦しと復活の可能性を包含しています.

では,「男が,女と寝るように,男と寝る」とは,如何なる事態を言っているのか?それは,単純に同性どうしの性行為のことを言っているわけではありません.それは,神による処刑 — 地獄での死を生きること  を招くような重大な行為です.それは,如何なる行為か?先ほど見たとおり,それは,神の愛を拒む行為,神の愛にもとる行為です.つまり,わたしが,神に愛されているひとりの人間を,神がその人を愛しているように,愛さないままに,単に欲望を束の間,満たすためだけに消費するとき,わたしは神の愛に背いています.

レビ記 20,01-16 においては幾つかのケースに関して死刑が規定されていますが,それらはいずれも,神の愛に背くことにかかわっています.たとえば,隣人の妻と姦淫を犯した男は処刑される,と規定されています.その場合,姦淫とは,愛の無い性行為,欲望を満たすためだけの性行為のことです.

ですから,単純に「男が男と寝れば,処刑される」ということではありません.姦淫の場合と同様,神の愛に背いて,単に欲望を満たすためだけにそうするなら,それは,地獄での死を生きる事態を招くことになる,ということです.同性どうしであれ,異性どうしであれ,愛を以て相手を尊重しない性行為は,そのような報いを受けます.

それに対して,同性どうしが,互いを神の愛し子として尊重し合い,互いに愛し合うなら,彼れらの性行為は神の愛に背くものではありません.ですから,忌まわしいものとして死罪に値するものではありません.

むしろ,冒頭の風刺画が示しているように聖書の文面を楯にとって gay を傷つけるような者たちこそは,神の愛に背いたことによって,地獄での死を生きるよう定められています  あるいは,たぶん,もう既に,今,現に,地獄での死を生きており,地獄での生を死んでいることでしょう.

ただし,そのような者たちも,何らかの機会にふと神の愛を少しでも欲することがあるならば,神による救済に与る可能性が無いわけではありません.

わたしたちは,聖書の文面をとおして,神の愛のことばを聴き取ろうと努めます.聖書の文面が神の愛を覆い隠してしまうような事態を招いてはなりません.

ルカ小笠原晋也