2019年4月23日火曜日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加しましょう


わたしたち LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 LGBTCJ は,今年も Tokyo Rainbow Pride に参加します.

4月28日,29日の両日,出展します.ブース番号は 186 です(けやき並木道の NHK ホール入口に近いところです).ブースでは,虹色十字架,虹色ロザリオ,パンフレット『LGBTQ とカトリック教義』などの販売,配布をおこないます.



28日は,パレードにも参加します.事前登録の必要ない I Have Pride のフロートに参加する予定です.

わたしたちといっしょに TRP に参加しましょう!

LGBTCJ のブース (186) に是非,お立ち寄りください.

ブースを手伝ってくださる方も,歓迎です.部分的でかまいません.御協力くださる方は,lgbtcj@gmail.com へ御連絡くださるか,または,当日,直接わたしたちのブースへおいでください.

なお,全面的に come out しているわけではない方は,当日,大きめのサングラスや帽子などを着用し,服装も普段とは異なるものになさるよう,お勧めします.

2019年4月21日日曜日

主の御復活おめでとうございます

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata

なぜ主の復活のお祝いのメッセージに Maria Magdalena の肖像を添えるのか — しかも,復活した Jesus に近寄ろうとする彼女に対して発せられた彼の言葉 "Noli me tangere"(わたしに触れるな)の主題のもとに描かれた数々の名作のひとつではなく,神秘的な恍惚の状態にある彼女を描いた Caravaggio の作品を?

その理由は,Jesus は決して Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と禁止したりはしなかった,ということだけではありません.

話はちょっと横道にそれますが,説明しておきましょう.そうです,復活した Jesus は Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と冷たく禁止したりはしませんでした.

ヨハネ福音書 20 章 17 節で,何と言われているか?ギリシャ語の原文では,彼は彼女にこう言っています : μή μου ἅπτου.

文法的に説明すると,ἅπτου は動詞 ἅπτεσθαι[自身を ...へ固定する,つかむ,とらえる,しがみつく,触れる]の二人称単数の命令形です.μή は否定辞です.ですから,その文は確かに一種の否定命令 — つまり,禁止 — を表してはいます.しかし,それは単なる「触れるな」ではありません.

もし単純に「わたしに触れるな」という禁止を言うのであれば,古代ギリシャ語では,動詞を接続法アオリストに活用して,μή μου ἅψῃ と言うはずです.それに対して,Jesus が Maria Magdalena に発した言葉 — 直説法現在の否定命令 μή μου ἅπτου — が示唆しているのは,こんな光景です:復活した主を見て,彼女は,喜びのあまり,彼に抱きついた(あるいは,もし彼女は地面にひざまづくか,ひれ伏していると想像するなら,彼女は彼の下半身に抱きついたか,彼の足を手で握りしめた); そして,彼女がいつまでもそうしているので,Jesus は彼女に優しく言った :「わたしにしがみつき続けるな — いつまでもそうしていないで,いいかげんに放してくれよ」.

Vatican の web site に提示されている ラテン語聖書 では,当該箇所は,"noli me tangere" ではなく,"noli me tenere" と訳されています.つまり,「わたしをいつまでも[地上に]とどめておかないでくれ」.その方が,それに続く言葉 :「なぜなら,わたしはまだ御父のところへ昇っていないのだから」ともよりよくつながります.

最新の聖書協会共同訳では,いまだに「わたしに触れてはいけない」と訳されています.もはや,それは誤訳であると言わざるを得ません.

話をもとに戻すと,この記事の挿絵として "Noli me tangere" ではなく,恍惚の Maria Magdalena の肖像を選んだのは,単に Jesus は彼女に「わたしに触れるな」とは言わなかったからだけでなく,しかして,そもそも,死者たちのうちから復活した主は,40日間,幽霊のような地上的な「存在事象」として,彼女や弟子たちとともに「存在」したはずはないからです.

わたしは,むしろ,こう思います:福音書に物語られていること — 復活した Jesus は最初に女たちに(特に Maria Magdalena に)現れた — が真理を表しているとするなら,それは,このことである:つまり,十字架上で処刑された Jesus は,今,我々が Maria Magdalena と呼んでいるひとりの女性(または,女性たちの一団)において(「の『こころ』のなかで」とは言いません),死から永遠の命へ「復活」したのだ.そして,そのことは,同時に,彼女が Jesus によって永遠の命へ「復活」させられた,ということでもある.

まさに,Maria Magdalena における「復活」の成起を以て,キリスト教と呼ばれる信仰は誕生しました.それがいつのことなのか — Jesus の処刑(推定,紀元30年)から三日めのことなのか,何週間ないし何ヶ月か後のことなのか,あるいは何年も後のことなのか — は,定かではありません.勿論,最初のパウロ書簡(第一テサロニケ書簡)が書かれたと推定される紀元51年より前であることは確かですが.

Caravaggio が描いた恍惚における Maria Magdalena の肖像は,彼女における Jesus の「復活」の瞬間と,それと同時的な彼女自身の「復活」の瞬間 — すなわち,キリスト教の誕生の瞬間 — の図像化である,と言うことができます.

使徒 Paulus は,ユダヤ教聖典の解釈によってキリスト教神学を形成して行く作業のなかで,Jesus の「復活」がひとりの女性において成起したという事実を無視しました.しかし,口承の伝統においては Maria Magdalena は忘れ去られることはなく,彼女の名は福音書のなかにしっかりと書きとめられました.そして,彼女は,主の復活を使徒たちに告げ知らせた第一証言者として,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]の称号のもとに崇められています.彼女における「復活」の成起がなければ,キリスト教は誕生し得なかったのです.

もうお気づきのことと思いますが,「復活」は,「よみがえり」でも「死後の世界」のことでもありません.それは,わたしたちに,生物学的な意味における「死」の後に起こる何ごとかではありません.

もし仮にそう考えるなら,それは仏教の浄土信仰と本質的に何ら変わらないことになってしまいます.死後に天国ないし浄土に行くことが,今,生きていることよりもより重要なことになってしまいます.そして,それは,「我々は,今,生きており,今,実存している」ということの「かけがえのなさ」を,相対化し,むしろ,「死後の生」よりもより軽いもの,より非本質的なものと見なすことになってしまいます.そして,そのような思念は,キリスト教をも,仏教と同様に,単なる葬式のための儀式へ変質させてしまうことでしょう.また,さらには,自殺のみならず,「生きて存在していることは四苦八苦にほかならず,諸行無常であるのだから,人間たちをすべて,できるだけ早く涅槃に至らしむることこそが,彼れらを救済することになる」という邪悪な他殺の思想をさえ正当化することになるでしょう.

キリスト教は,そのような仏教と同じではあり得ません.なぜなら,「死から永遠の命への復活」は,死後に起きる何ごとかではなく,しかして,今,生きている我々において成起することであり,かつ,我々が今,生きているからこそ,我々において成起し得ることであるからです.

キリスト教の教義において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている事態は,単なる神話ではありません.そうではなく,人間が今,神の命(存在)を生きる,ということです.そして,それが可能なのは,神は,御自身の命(存在)を以て,人間を生かせて(存在させて)くださっているからです.

人間の生は,単なる生物学的な生に還元され得るものではありません.人間が生きている生は神御自身の生であり,人間の存在は神御自身の存在です.

先ほど,「主は Maria Magdalena の『こころ』のなかで復活した」と言うのは適当ではない,と言いました.その理由は,こうです:かかわっているのは,「こころ」ではなく,存在である;主は,Maria Magdalena の存在そのものにおいて復活したのであり,彼女のみならず,あらゆる人間の存在において復活する;そして,ひとりの人間の存在において主が復活するということは,同時に,その人間が復活するということである.

無からすべてを創造する神は,我々ひとりひとりを創造するとき,我々ひとりひとりの存在を神御自身の存在によって可能にしてくださいました.そのことに気がつき,そのことに感謝しましょう.そのとき,我々は,死から永遠の命への復活を自覚することができ,その喜びを生きることができるからです.

そして,その喜びは,原罪からの解放としての罪の赦しの喜びでもあります.

死から永遠の命への復活と,無からの創造と,罪の赦し — それら三つの教義が如何に密接に関連しあっているかが,示唆されます.

ところで,今年の聖週間は,本当に悲しい週でした — 我々が愛する Notre Dame de Paris の火災のゆえに.それは,まるで乙女マリアの火刑を目の当たりにするような苦痛でした.

今日,復活の主日,ある意味で,我々が感ずる主の復活の喜びは,復活した主と出会った Maria Magdalena が感じたであろう喜びと同じです — かけがえのないものの喪失を経験した後の喜びである限りにおいて.

もうひとつ,重大な喪失を,我々は最近,味わいました.カトリック聖職者による青少年および女性に対する性的虐待の構造的な蔓延による〈カトリック教会そのものへの信頼の〉喪失です.

一方は偶発的な喪失であり,他方は必然的な喪失です.しかし,それらふたつの喪失をほぼ同時に経験した我々は,そこから新たな創造が成起し得ることを予感します — 聖職者中心主義によらないカトリック教会と律法中心主義によらないカトリック信仰の可能性が,改めて我々に与えられたのです.

ある意味で聖職者中心主義を象徴する Notre Dame de Paris の建設は,12世紀に始まりました.今 thomisme と呼ばれている律法中心主義を象徴する聖トマス・アクィナスが生きたのは,13世紀でした.両者は,homosexuality と transgender を断罪し,排除するカトリック教会の象徴でもあります.

Maria Magdalena の経験がキリスト教信仰の出発点であったとすれば,聖職者中心主義も律法中心主義も,我々の信仰には異質なものであり,不要なものです.

今日,復活の主日,わたしたちは,改めて,キリスト教の原点である Maria Magdalena の経験を経験しなおしましょう.

主の御復活,おめでとうございます!

ルカ小笠原晋也

2019年4月18日木曜日

Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?



Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?


(USA のイェズス会の週刊誌 America のインターネット版に2019年04月16日付で発表された James Martin 神父 SJ の記事 — 動画つき — を翻訳して紹介します.)

昨日の痛ましい Notre Dame de Paris の火災は,世界を驚きと悲しみのうちにひとつにしたように思える.Jesus Christ の受難と死と復活を世界中のクリスチャンが記念する聖週間の始まりに起きたこの象徴的な出来事は,ほとんど耐え難いものだ.告白すると,わたしは,あのすばらしい古い教会が燃えるのを見ながら,泣いた.


中世の石のカテドラルから煙が吹き出し,木の屋根から炎が跳ね上がり,そして — たぶん,最も悲惨な瞬間 — 屋根を飾る金属製の尖塔が燃えかすのように焼け落ちたとき,わたしたちの多くは,Jesus の受難と死を思わずにはいられなかった.彼が十字架上で公開処刑される間,ちょうど昨日のように,群衆は,恐れおののきながら見つめていた — 自身を無力なものと感じ,悲しみに打ちのめされ,「いったいわたしに何ができるというのか」と自問しながら.

群衆のなかには,Jesus の母 — Our Lady, Notre Dame — がいた.聖母マリアは,まさに知っている — 愛する者が苦しみ,死んで行くのを見ながら,何もできずに,そのかたわらにたたずむということが,どういうことであるかを.

しかし,聖母マリアは,また,ある意味で,あの悲しみのときに神は彼女とともにいることも,知っている.

だが,わたしたちは,こう問うこともできるだろう:昨日,パリで,神はどこにいたのか?

その答えは:神は,いたるところにいた.ひざまづき,祈り,Ave Maria や Lourdes の聖歌を歌う群衆のなかに,神はいた.人々は,祈り,歌いながら,聖母マリアの助けを求めていた — 彼女の教会が燃えるのを目の当たりにしながら.そのような人々の姿は,深い信仰の表現だった.そして,神はそこにいた.

神は,消防士たちのなかにいた.フランスの霊気的な心を象徴する建物が燃えるなかへ,彼らは,自身の危険を顧みず,飛び込んで行った.それは,まさに,神の愛の喩えだ.神は,どれほどわたしたちを愛しているか? — 燃え上がる建物のなかに救助のために飛び込んで行く消防士ほどに.

そして,神は,消防隊付の司祭[Jean-Marc Fournier 神父]とともにいた.彼は,カテドラルの最も貴重な聖遺物 — イェスに被せられた「いばらの冠」と信ぜられているもの — を救い出すために,自身の生命を危険にさらした.その聖遺物は,Notre Dame de Paris の建物の物語が主の受難と死とに密接に結びついていることを,生き生きと想い起こさせてくれる.

昨夜遅く,火が消し止められた後,わたしたちは,劇的な光景を目の当たりにした:十字架である.それは,煙が立ちこめるカテドラルのなかで,祭壇の上に高々と輝いていた — クリスチャンの希望の力強い象徴として.


希望こそ,究極のメッセージだ.そして,そのことを最もよく知っているのは,Notre Dame[聖母マリア]にほかならない.彼女は知っている:苦しみが最後の言葉なのではない,と.

聖週間の物語は,単純に死と破壊の物語であるわけではない.それは,より重要なことに,希望と新たな命の物語だ.聖金曜日は,復活の主日なしには意味をなさない.聖母マリアは知っている:希望は絶望よりも強く,愛は憎しみよりも強く,命は死よりも強い,と.そして,彼女は知っている:神がともにいてくだされば,不可能なことは何も無い,と.クリスチャンとは,悲しみを知りつつも,希望のうちに生きる人々である.

この動画に映し出されるイメージを見つめながら,そして,来る年月のうちに再建されて行くだろう Notre Dame de Paris とともに,Notre Dame[聖母マリア]の祈りを請い願おう — 彼女は,苦しむ者とともにいるということが何を意味するかを知っており,かつ,新たな命の約束に希望を持つということが何を意味するかをも知っている人である.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年4月8日月曜日

カトリック聖職者による性的虐待の児童被害者として名のり出た人に高見三明大司教様が直接謝罪

竹中勝美さんと高見三明長崎大司教様
  
高見三明大司教様と竹中勝美さんとが握手している写真を,毎日新聞で御覧ください.

カトリック聖職者による性的虐待の児童被害者として日本で唯一みづから名のり出た 竹中勝美 さんが実質的に主催した 会合 が,2019年04月07日,都内で行われました.竹中さん御自身に加えて,文藝春秋に記事を書いたジャーナリスト 広野真嗣 さんと,性的虐待の被害者の診療を多数行っている精神科医 白川美也子 さんが,発表を行いました.百人弱の参加者を集めました.カトリック信者も,たくさん来ていました.

驚くべきことに,そのなかには,高見三明長崎大司教様(日本カトリック司教協議会長)の姿がありました.彼は,竹中さんの招きに応えて,この会合に出席しました.

大司教様は,プログラムに予定されていた三人の発表の後に,即席で短いスピーチを行いました.彼は,御自身も参加した 2 月の Vatican sexual abuse summit での見聞について語り,社会中に蔓延する性的虐待の問題にカトリック教会が積極的に取り組んで行く決意を改めて述べるとともに,竹中勝美さんに対して直接,謝罪しました.

竹中勝美さんは,感きわまって,大司教のところに駆け寄り,ふたりは握手しました.

竹中勝美さんの肉声は,改めて,いかに性的虐待が被害者の生に深刻な傷を与えるかを,なまなましく証言してくれました.

日本のサレジオ会の誠意ある対応が待たれます.

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以下,この件に関してわたしが以前にカトリック教会関係者に宛てたメールの文面を再録しておきます:

1) 2019年02月17日付メール:

文藝春秋2019年03月号の記事で,故 Thomas Manhard 神父 SDB (1914-1986) による性的虐待について,被害者,竹中勝美さん(当時9-10歳)による証言が取り上げられています.日本で被害者が名のりでた初のケースだと思います.是非,御一読ください.その記事と,関連記事は,以下のとおりです:

i) 文藝春秋2019年03月号の記事

ii) 2018年04月26日付の朝日新聞「ひと」欄における竹中勝美さんの紹介記事

iii) 竹中勝美さんが「エドワード」名義で公表している2001年06月19日付のサレジオ学園宛の書簡

iv) 同じく「エドワード」名義で公表している竹中勝美さんの「想い出日記」.

彼の証言の真実性については疑う余地はないと思います.

文藝春秋の記事のなかでもうひとつびっくりさせられたのは「A 司教」のことです.カトリック信者なら誰でも,これが谷大二司教様のことであるとすぐにわかります.この疑惑に関しても,日本カトリック司教協議会の迅速な対応が待たれます.

もうひとつ初めて知ったのは,1959年に起きたある殺人事件について,故 Louis-Charles Vermeersch 神父 SDB (1920-2017) がその容疑者とされていたことです.彼は,1959年に離日した後,殺人事件の容疑に関してはまったく取り調べを受けることはなかったようです.

Vermeersch 神父のことはさておき,竹中勝美さんに関しては,加害者は既に死去しているとはいえ,今は,事件が起きた教区の司教または大司教が被害者の声を直接聴く,というのが,世界的には当然の対応になっています.例えば :

Catholic Primate meeting abuse survivors prior to Rome gathering

Only a listening church can address the sex abuse crisis

USA では,十分な根拠を以て加害者と疑われる司祭の名前が,故人も含めて,次々に公表されています.

今週,21日から Vatican sex abuse summit が始まるのに合わせて,聖職者の homosexuality に関する社会学者の調査が出版されます.それに関しては,わたしのブログ記事をお読みください.

2) 2019年02月20日付メール

文藝春秋は,サレジオ学園における児童に対する性的虐待に関して,2019年02月19日付で続報を web に発表しました.そこには,記事を書いたジャーナリスト広野真嗣氏が東京サレジオ学園に2019年01月に送った質問状に対する東京サレジオ学園からの回答書(広野氏は02月15日にそれを受け取った)の内容が紹介されています.それによると,東京サレジオ学園は「事実を確認することはできなかった」と述べるにとどまっています.そして,最後に「司教協議会の指示に従います」と述べて,責任を司教協議会に丸投げするかのような態度を取っています.この件は,日本社会のなかでカトリックに対する印象をとても悪くする危険性をはらんでいます.

Thomas Manhard 神父 SDB は,わたしが Internet で確認することができた 資料 によると,1986年04月15日に享年71歳で死去しています.なお,彼はドイツ人ですので,彼の氏名のカタカナ表記は「トーマス・マンハルト」の方が適当です.記事中の写真(サレジオ学園の書簡)からは,生年は1914年であることが読み取れます.1955年から 6 年間,東京サレジオ学園の校長を務めていました.

被害者,竹中勝美さんが「エドワード」名義で公開している彼の 書簡 や 回想 にもとづいて精神医学的に判断するなら,彼が性的虐待を受けたことが真実であることには疑う余地はありません.サレジオ学園の「事実を確認することはできない」という釈明は,あまりにおそまつです.東京大司教区として,また,司教協議会として,この件に対して対応することが要請されていると思います.

谷大二司教様に関しても,彼の突然の埼玉教区司教辞任の理由について疑問をいまだに抱き続けているカトリック信者は少なくありません.疑問が疑惑としてわだかまることのないよう,この件に関する説明責任と透明性が日本カトリック司教協議会に求められていると思います.

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ルカ小笠原晋也

2019年3月25日月曜日

教皇フランチェスコの天国と地獄に関する教え

ダンテの『地獄』の最終歌 (Canto XXXIV) のための Gustave Doré (1832-1883) による挿絵

以前にも紹介したことがありますが,教皇 Francesco は,2015年03月08日にローマ市内のある小教区を訪問した際,ガールスカウトの少女の質問 :「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言いました:

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あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です.

では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています.

しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました :「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」.

神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから.

地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です.

そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです — 神との関係を全然欲しがらずに.

他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う :「主よ!...」.

その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く.

イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う :「主よ,わたしを憐れんでください!」.

すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43). 

なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです.

地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです :「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」— 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます.

わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

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死後,わたしたちはどうなるのか?それは,死の穴に直面するわたしたちが,不安におののきながら,自問する問いです.歴史上,さまざまな想像力がさまざまに答えてきました.

しかし,実は,本質的に重要なのは,「死後どうなるか?」に関する空想的な答えではなく,しかして,死の穴に直面する不安から逃げない,という態度です.そして,死の穴に直面しつつ,今,どう生きるべきか,今,どう在るべきか,について問うことです.

教皇 Francesco は,こう答えています:もしあなたが「我々人間は自律的に自立しており,自身に起こることは,単なる偶然を除けば,すべて,自業自得,自己責任であって,神の愛による救済や赦しはあり得ないこと,無用なことだ」と思っているなら,あなたの世界は地獄です.あなたは死後,神罰によって地獄へ突き落とされるのではありません.神の愛の福音に対して耳を塞ぎ,神へ背を向けたままでいるあなたは,今,地獄を生きているのです.

なぜ今の日本社会が地獄のようであるのか,よくわかります.

神は律法をふりかざして処罰したりはしません.神は愛し,赦し,救ってくださいます.神に愛されたいと欲する者は,今,もうすでに,神のみもとにいます.神とともにいます.イェスとともに天国にいます.

以上が,教皇 Francesco の天国と地獄に関する教えです.

ルカ小笠原晋也

2019年3月10日日曜日

homosexuality に関する日本カトリック司教協議会の見解について

Deus caritas est[神は愛である]
a stained glass work by Christopher Whall (1849-1924)
in the Church of the Holy Cross, Sarratt, England

昨日,Twitter で,我々の友人,細川隆好さんが,日本カトリック司教協議会が2015年05月06日付で発表した文書のなかで homosexuality に言及していることを紹介してくれているのを,見かけました.わたしは,この文書に今まで全然気がついていなかったので,ここで取り上げておきたいと思います.教えてくださった細川隆好さんに感謝します.

皆さん憶えていらっしゃるように,2014年と2015年に家族を主題とするシノドス (Synodus Episcoporum) が行われ,それを受けて,2016年,教皇 Francesco は使徒的勧告 Amoris laetitia を発表しました.

2014年のシノドスの報告書は,2015年のシノドスを準備するための文書 Lineamenta として発表されました.そして,その際,報告書の内容に関連する 46 の問いが,さらにそこに付加されました.

以下に紹介する文章は,Lineamenta として発表された2014年のシノドスの報告書のうち homosexuality に関連する部分の邦訳,ならびに,付加された 46 の問いのうち homosexuality に関連する部分の邦訳,および,それら 46 の問いに対する日本カトリック司教協議会の回答のうち,homosexuality に関連する部分です.

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[2014年のシノドスの報告書から]

homosexual な性的指向を有する人々に対する司牧的注意

55. homosexual な性的指向を有する人々をメンバーとして擁する家族がある.そのことに関して,我々は,そのような状況に対して為すべき司牧的注意について,問いあった — 教会の教えに準拠しつつ :「homosexual なつながりと,結婚および家族に関する神の計画とを,同列に置くこと,あるいは,両者の間に類似性を認めること — たとえ遠く離れた類似性であれ — には,如何なる根拠も無い」.とはいえ,homosexual な性向を有する人々は,敬意と心遣いを持って迎え入れられねばならない.「彼れらに対しては,不当な差別の刻印は,如何なるものも,避けるべきである」(教理省,「homosexual な者どうしのつながりを合法的なものと認める計画に関する考察」(Considerazioni circa i progetti di riconoscimento legale delle unioni tra persone omosessuali, 4) (2003).

56. この領域において,教会の司牧者たちが圧力を受けることは,まったく容認しがたい.また,国際機関が,貧しい国々に対する財政援助を行うに際し,同性の者どうしの「結婚」の法制化の導入をその条件とすることも,まったく容認しがたい.

[55 および 56 に関する問い]

homosexual な性向を有する人々に対する司牧的注意は,今日,新たな課題を措定している — 特に,社会的水準において彼れらの権利[の問題]が提起されているしかたによって.

40. homosexual な性向を有する者をメンバーとして擁する家族に対して,キリスト教共同体は,如何に司牧的注意を向けるか?あらゆる不当な差別を回避しつつ,如何なるしかたで,homosexual であるという状況にある人々にかかわることができるか — 福音の光のもとで?彼れらの状況に対する神の意志の要請を,如何に彼れらに提示するか?

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日本カトリック司教協議会の〈問い 40 への〉答え

1.

i. 当事者が一番苦しんでいる。医学的治療に結びつけ、まず,人間として生きていくことができるように支援が必要。長い検査と治療の結果、性別が確定され、それによって生きる道が選択されていくのではないか。
ii. 教会は、同性婚の結婚を認めることができなくても、同性愛は本人の選択によるのではないし、神が拒絶しているとは考えられない。せめて,同性愛の傾向を持つ男女が作る家庭も神に祝福された家庭だというメッセージを発信することが必要だと思う。最近、東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例を可決した(賛成派が過半数をやや上回っている)。
iii. 彼らがさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない。むしろ、社会的な少数者として受け入れる必要がある。
iv. 結婚の目的についての教会の教えを、絶えず信者たちに教える必要がある。

2. 
同性愛者が家庭の中にいると分かれば、イエス・キリストのように愛と憐みの心をもって,「罪人と罪」を区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡の時に真実を告げられると、助言する他に方法はない。

3.
i. 裁くことなく、同性愛者とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない。
ii. 教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよい方法であろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について,専門家に話をしてもらう。
iii.「結婚の本質は夫婦愛から生まれるいのちの継承にある」という、神によって示された方向性は決して変えるべきではないが、その在り方については,母なる教会の心をもって対応されるべき。宗教学・医学・科学的見地に立ち、可能な限りの解決策を試み、それでも根本的解決に繋がり得ない場合は、その人の目から涙をすべて拭い去る救いへの努力が求められる。本人たちのせいではなく、神さまから頂いた傾向だと思われるので、秘跡に与る権利があることを本人にはもちろん,家族にも話すことは大事。

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若干のコメントを述べておきたいと思います.

まず,すぐに気づくことができるように,どうやら,日本カトリック司教協議会は,sexual orientation[性的指向]と gender identity[性同一性]とを区別し得ていないようです.というのも,Lineamenta においては homosexuality — つまり性的指向にかかわること — についてしか問われていないのに,日本カトリック司教協議会の回答においては「性別の確定」 つまり性同一性にかかわること  への言及が為されているからです.まずは日本のカトリック教会のなかで LGBTQ+ および SOGI (sexual orientation and gender identity) に関する初歩的な学習が必要であることが,示唆されます.

「当事者が苦しんでいる」 それは確かです.しかし,その苦しみを惹き起こしているのは何か?それは,LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別であり,homosexuality を断罪するカトリック教会の教義であり,そして,性別男女二元論 (gender binarism) に固執する一般的な固定観念です.今,Vatican では,教皇 Francesco も含めて,gender という単語を聞くと "gender ideology" が自動的に連想されるようですが,むしろ,性別男女二元論こそがひとつの形而上学的なイデオロギーです.教皇 Francesco が強調する「男と女の差異」は,性的なものではなく,Heidegger が「存在論的差異」と呼んだものに還元されます(詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』第 2 部「教皇 Francesco の生と性の神学」を参照).

「医学的治療に結びつけ」 もはや,homosexuality も transgenderism も,そのものとしては,精神疾患とは見なされていません.

「人間として生きてゆくこと」 LGBTQ+ の人々は人間です.各人が,今,あるがままに,人間として生きています.彼れらが「人間的に」生きてゆくことができるようになるためには,先ほども指摘したように,1) LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別 ; 2) homosexuality を断罪するカトリック教会の教義 ; 3) 性別男女二元論に固執する一般的な固定観念,それら三つのものを取り除く必要があります.

「homosexual であることは本人の選択の問題ではなく,LGBTQ+ の人々を神が拒絶しているとは考えられない」— そう断言していることは,評価できます.

「homosexual の人々がつくる家族も神に祝福されている,というメッセージを発信することが必要だ」— 大賛成!是非,早急に実行しましょう.また,地方自治体による同性パートナーシップの認定に言及していることも,評価できます.

「LGBTQ+ の人々がさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない.むしろ,社会的な少数者として,彼れらを受け入れる必要がある」— そのとおりです.ただし,LGBTQ+ に対する偏見と差別にカトリック教会が加担していることを,自覚し,反省する必要があります.特に,homosexuality に対する断罪の教義と,性別男女二元論への固執が,問題です.

「結婚の目的に関する教会の教え」— 本質的に言って,それは何でしょうか?後段ではこう述べられています :「結婚の本質は,夫婦愛から生まれる命の継承にある」.そこで言う「命の継承」とは,如何なることでしょうか?まず,形而上学的な lex naturalis[自然法]の先入観を捨てましょう.そして,性別男女二元論も,生物学的な生殖を前提とする固定観念も,捨てましょう.結婚は,愛し合うカップルの愛のきづなに存します.「結婚を創造するのは,神自身である」(カテキズム 1603)— なぜなら,神は愛であるからです.ですから,教会は,異性カップルであれ,同性カップルであれ.愛し合うカップルの愛のきづなを祝福し,それを秘跡と認めるべきです.そこに差別があってはなりません.また,「命の継承」は生物学的な生殖によるものに限られる必要はなく,親子関係は adoption[養子縁組]によるものであってもよいはずです.同性カップルは,養子を迎え,その子を新たな命としてはぐくみ,信仰を伝えてゆくことができます.その側面を,教会は無視してはなりません.

「homosexual である者が家族のなかにいるとわかれば,イエスキリストのように愛と憐みの心をもって,罪人と罪とを区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡のときに真実を告げられたなら,助言するほかに方法はない」— この言説は,もはや容認しがたいものです.カトリック教会は,homosexuality を断罪することをただちにやめるべきです.homosexuality は,神のみわざです.神は,homosexual である人々を,そうであるがままに創造しました.homosexuality を断罪することは,homosexual の人々を創造した神を断罪することにほかなりません.そして,homosexual である人々と,彼れらの愛の行為とを区別することも,許されません.ふたりの人間が愛しあうことも,神のみわざです — 異性どうしであれ,同性どうしであれ.また,今や,カトリック教会による homosexuality に対する断罪がカトリック聖職者の pedophilia の原因のひとつであることから目をそむけ続けることはできません.

「裁くことなく、homosexual の人々とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない」— 賛成です.そして,聖霊は我々をどう導いているでしょうか? homosexuality を断罪することをやめなさい,と我々に告げていないでしょうか?神の愛の福音を聴くよう,耳を開くときです.

「教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよいだろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について専門家に話をしてもらう」— まず,大司教様,司教様,神父様たちが,LGBTQ+ と SOGI に関する初歩的なことがらを勉強してください.勿論,一般信徒へ教えることも有意義です : LGBTQ+ の人々を,神の全包容的な愛にしたがって,如何なる差別もなしに,教会へ迎え入れましょう ; homosexuality を断罪するカトリック教会の教義が,如何に形而上学に毒されており,神の愛に反しており,しかも,それは司祭の pedophilia 問題の原因にすらなっている,ということを,カトリック信者皆に知ってもらいましょう.

homosexual であることは「本人たちの選択によるのなく、神さまからいただいたものだと思われるので,[homosexual の人々も]秘跡に与る権利があることを,本人にはもちろん,家族にも話すことはだいじ」— そのとおりです.LGBTQ+ であることは,神から与えられたことです.LGBTQ+ の人々は,あらゆる人間と同じく,神の被造物です.そして,そのようなものとして,あるがままに,存在尊厳を与えられています.結婚に関することも含めて,如何なる差別もカトリック教会のなかでは容認され得ません.

ルカ小笠原晋也

2019年3月1日金曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2019年2月24日,LGBTQ+ みんなのミサ


Henrik Olrik (1830-1890), a detail of the alterpiece of Sankt Matthaeus Kirke in Copenhagen

2019年0224日の LGBTQ+ みんなのミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

小宇佐敬二神父様は,2017年08月以来,御病気の療養中ですが,比較的体調の良いころあいを見はからって,久しぶりに LGBTQ+ みんなのミサの司式をしてくださいました.神父様に改めて感謝します.

小宇佐神父様の熱意のこもった説教をお聴きください.音声ファイルは こちら から download することができます.以下は,当日の福音朗読のテクストに続いて,神父様の説教の書き起こしテクストに若干の補足をしたものです.

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年間第 7 主日(C 年)の福音朗読:ルカ 6 章 27-38節

[そのとき,イエスは弟子たちに言われた:]わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく.敵を愛し,あなたがたを憎む者に親切にしなさい.悪口を言う者に祝福を祈り,あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい.あなたの頬を打つ者には,もう一方の頬をも向けなさい.上着を奪い取る者には,下着をも拒んではならない.求める者には,誰にでも与えなさい.あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない.人にしてもらいたいと思うことを,人にもしなさい.自分を愛してくれる人を愛したところで,あなたがたにどんな恵みがあろうか.罪人でも,愛してくれる人を愛している.自分によくしてくれる人に善いことをしたところで,どんな恵みがあろうか.罪人でも同じことをしている.返してもらうことを当てにして貸したところで,どんな恵みがあろうか.罪人さえ,同じものを返してもらおうとして,罪人に貸すのである.しかし,あなたがたは,敵を愛しなさい.人に善いことをし,何も当てにしないで貸しなさい.そうすれば,たくさんの報いがあり,いと高き方の子となる.いと高き方は,恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである.あなたがたの父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深い者となりなさい.人を裁くな.そうすれば,あなたがたも裁かれることがない.人を罪人だと決めるな.そうすれば,あなたがたも罪人だと決められることがない.赦しなさい.そうすれば,あなたがたも赦される.与えなさい.そうすれば,あなたがたにも与えられる.押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,ふところに入れてもらえる.あなたがたは,自分の量る秤で量り返されるからである.

今日の福音朗読 (Lc 6,27-38) は,マタイ福音書の「山上の説教」(the Sermon on the Mount, le Sermon sur la montagne, die Bergpredigt) に対して,「平地での説教」(the Sermon on the Plain, le Discours dans la plaine, die Feldrede) と呼ばれるところです.

そこでは,「山上の説教」と同じような言葉の断片が,「山上の説教」とは違ったしかたでまとめられています.おそらく,「山上の説教」と「平地での説教」の比較から,聖書学で「資料仮説」[マタイ,マルコ,ルカの三つの共観福音書のテクストがいかに成立したかの過程に関する文献学的仮説]と呼ばれるものが生まれたのではないのかと思います.

イエス様の言葉が,さまざまな伝承として,福音書を記す者たちに伝えられて行き,それを,福音書記者たちは,自分の神学,キリストの理解,イエスの理解に基づいて,編集して行く そういった痕跡が,これらふたつの膨大な説教集(マタイ福音書とルカ福音書)の相違のなかに見うけられるのか,と思います.

ルカ福音書の「平地での説教」(Lc 6,17-49) は,大きく三つのセクションに分けられます.第 のセクションは「幸いと災い」です.そして,第 のセクションは,ちょうど今日読まれた箇所です.「愛の法則」というまとまりを付けたらいいのではないかと思います.さらに,それに続いて,「人間への勧告」としてまとめられる第 部が来ます.そして,次の章の始めにまとめの言葉が続きます.

このように三部構成でつづっていくのは,ルカ福音書記者の特徴です.

ルカは,この第 部で,「愛する」とはどのようなことなのかを,イエスの言葉を思い起こしながら,まとめています.

「愛する」ということの中心になっているのは,36節の「あなたがたの父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」であろうかと思います.

マタイ福音書では,同じ言葉がちょっと形を変えて用いられています.「あなたがたの天の父が完全であるように,あなたがたも完全なものになりなさい」(Mt 5,48) — これが,マタイの描き方です.

天の父の完全さと,子であるわたしたちの完全さは,違います.「天の父が完全であられることを根拠として,あなたがたも完全なものになりなさい」ということです.

ルカは,マタイの「完全な」という言葉を,「憐れみ深い」という言葉に置き換えています.

「憐れみ深い」は,旧約聖書のなかでも何回も繰り返されている言葉です.

この言葉の発端となっているのは,「神は御自分に似せて人を創造された」ということです.わたしたちは,神の似姿として創造された それが,根底にある理解です.そして,野の生き物や空の鳥をすべて支配させ,その世話をさせる そのことをとおして,わたしたちは神に似るものとなって行きます.

もっと具体的に言うと,わたしたちは,命の世話をすることをとおして,命の創造者であり,命を慈しみ,育んでおられる天の父なる神の似姿として,成長して行くことができる それが創世記のたいせつなメッセージである,と言ってよいかと思います.

わたしたちは神の似姿として成長して行く そこに,人間の目的,神による創造の目的が記されます.

そのように受けとめるなら,わたしたちはどのように自分自身を実現して行けばよいのか? それは,神様の似姿になって行くということであり,神様がどのようなかたであるかを探して行くということです.人生は,自分探しの旅であり,自分を探すということは,自分のプロトタイプ,原型である神様を探すということにつながって行きます.

では,神様はどのようなかたであるのか? それが,聖書の最初からの,いうなれば「探求」の目的である,と言ってよいかと思います.

神様は,聖なるかたです.しかし,実は,「聖である」は,非常に不思議な表現です.「聖である」という言葉には,具体的な概念がありません.神様には,これという概念が無い.いや,神様を概念づけたとき,人は間違ってしまう そう言うことができるかと思います.

「聖である」は,ヘブライ語で קָדוֹשׁ (qadowsh)[カドーシュ]と言います.それは,神様にのみ向けられた,神様にのみ属する呼び方である,と言うことができます.

神様は,聖である.もっと具体的に,「清い」とか「美しい」とか「正しい」とか,あるいは「愛」とか「憐れみ」とか「義」とか,さまざまな言い方で,神様の属性 神様の本性は目に見えませんが,属性は,人間に理解可能な姿で表されます を言うこともできます.そのような形で,神様の属性が記されて行きます.

イエス様をとおして示される神様の属性 それは:無条件にわたしたちを愛しておられるかたである;きわまりなく,わたしたちの痛み,悲しみ,苦しみ,そして喜びに,共感してくださるかたである.

この「共感」のことを「憐れみ」と呼びます.

そして,際限なくわたしたちを赦し続けてくださるかたである.

「愛」と「憐れみ」と「赦し」そこに,イエスをとおして表現された神の本質を見る.それが,わたしたちの信仰の始まりと言ってよいかと思います.

わたしたちは,無条件に愛されています.「無条件に」とは,「何々だから愛する」という理由がない,ということです.利口だから,良い子だから,言うことを聞くから... 普通,人間は,条件をつけて,美しいから,力があるから,等々のゆえに,愛そうとします.

しかし,神様がわたしたちを愛してくださるとき,そこには条件はありません.「おまえがいる,そこにいる それがわたしの喜びだ」.それが,わたしたちに向けられた神様の愛である,と言ってよいと思います.

そのような神様の愛に応えて行くわたしたちの姿 その第一は,「無条件に愛してくださるかたに対して,無条件の信頼を寄せて行く」ということです.それが,わたしたちの信仰です.

そして,神様の無条件の愛を周りの人々に伝えて行くことは,わたしたちの周りにいる人たちひとりひとりの命をはぐくみ育てて行く,ということにつながって行きます.

わたしたちに際限のない憐れみを与え続けて行ってくださるかた;わたしたちの痛みや悲しみや苦しみ,そして喜びに,こよなく共感してくださるかた そのような神様の憐れみに応えて行くこと,神様の憐れみに共感して行くこと,それが,わたしたちが神の似姿として実現されて行くためにだいじな視点になって行くのではないか,と思います.

神様は,際限なく赦し続けてくださるかたです.わたしたちが神様の似姿として実現されて行くためには,神様の赦しを 特に,十字架のできごとをとおして示されているイエスの赦しを 学び,そして,みづからも赦しの力を得て行く,赦しの力を与えられて行く必要があります.そのことをとおして,わたしたちは,聖なるもの,神の似姿として実現されて行くことができるのではないか,と思います.

愛も憐れみも赦しも,人間の「性別」には関係ありません.神様の似姿となっていくことには,性 (sexuality, gender) は関係ありません.

神様には,性別はありません[『カトリック教会のカテキズム』370段落を参照].神様御自身は,性別を超越している存在です.

神様御自身は性別を超越している その超越性のなかへ,わたしたちは招かれているということ,それも確かな現実であるかと思います.

わたしたちが神様の似姿として実現されて行くために必要なこと,それは,互いの命をはぐくみ育てて行くことであり,ひとつひとつの存在をたいせつに実現して行くことです.動物であれ,植物であれ,あるいは,単なる物質であれ,神様の創造のわざとして生み出されたものです.それらひとつひとつの重さをしっかりと受けとめ合って行くこと それが最もたいせつなことかと思います.

神様は,しばしば,男性的なイメージで描かれます.そこには,おそらく,力ある神,全能の神というイメージが,あるいは,古代のユダヤの文化的なイメージが,反映しているのだろうと思います.

しかし,旧約聖書において,すでにイェレミヤ書においても,イザヤ書 特に,第 2 イザヤ書以降 においても,神様は,母性豊かな存在として描かれています.

特に,イェレミヤ書31[1], あるいは,イザヤ書49[2] では,神様に創造の胎,子宮 מֵעִים (me`iym), בֶּטֶן (beten) — がある.そして,神様から生み出されたものとして,人間がある.人間が不幸に陥り,みづからを傷つけ,互いに損ない合って行く その様を見て,神様の胎が痛み,胎が叫び声を上げる.

イェレミヤは,神様の胎の叫びを רָחַם (racham)[ラハーム:憐れむ,愛する,慈しむ]という言葉で言っています.

ルカは,神様の憐れみに,神様の本質のひとつを認めます.だからこそ,「あなたがたの天の父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」:神様の子宮が叫び声を上げるように,あなた方も,ほかの人の痛みや悲しみに対して,胎の叫び 腸の叫び,はらわたの叫び を,上げる;神様の胎の叫び,はらわたの叫びに共感して,神様の思いを受けとめて行く そこにこそ,「愛する」,「憐れむ」,「赦す」ことの根本があるのだ ルカは,そう教えています.

それが,愛の法則の根本である,と言ってよいでしょう.

わたしたちは,愛さなければならないのではなく,愛せずにはおれない;憐れまなければならないのではなく,憐れまずにはおれない;赦さなければならないのではなく,赦さずにはおれない.

なぜなら,神様のはらわたが,神様の胎が,人間の痛みや苦しみを見て,人間たちが互いに傷つけ合っているさまを見て,叫び声を上げ,苦痛のうめきを上げているから.

神様のうめきをしずめるために,わたしたちは何かせずにはおれない そこに,わたしたちの愛の法則の根本動機がある,と言うことができるかと思います.

ルカは,愛の法則を,ルカ福音書全体を包んで行く あるいは,推し進めて行く 大切な法則として,この憐れみの福音を描いていると思います.

イエスは,御自分の命を捨てて,わたしたちを愛し,神様の心の痛み,魂の痛み,胎の痛みを,わたしたちに示してくださいました.イエスの愛と憐れみにわたしたちのまなざしを向け続けて行くことができますように.わたしたちの思いが,神様の胎の叫び,胎のうめきに共感するものとなって行くことができますように.

十字架に イエスの十字架に もっともっと近づいて行きたいと願います.


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注:

[1] イェレミヤ書3120

הֲבֵן יַקִּיר לִי אֶפְרַיִם אִם יֶלֶד שַׁעֲשֻׁעִים כִּֽי־מִדֵּי דַבְּרִי בֹּו זָכֹר אֶזְכְּרֶנּוּ עֹוד עַל־כֵּן הָמוּ מֵעַי לֹו רַחֵם אֲֽרַחֲמֶנּוּ נְאֻם־יְהוָֽה

[エフライム(創世記において,エフライムはヤーコブの息子ヨーセフの息子のひとり;出エジプト記の最後でモーセからイスラエルの民の指導者を引き継ぐヨシュアは,エフライムの子孫であるとされている;ここでは,エフライムの名はイスラエルの民全体のことを指している)の悔悛の言葉に続いて,主なる神は言う:されば]エフライムは,わが愛しき息子なのか?喜ばしき子なのか?わたしは,彼を咎めて語るときも,なおも彼のことを思っている.それゆえ,わが胎 מֵעִים ] は,彼のためにうめいている.憐れむ [ רָחַם ] — わたしは,彼を憐れむ.主の宣託.

また,小宇佐敬二神父様は,さらに,ミサ後の集いの冒頭で,イェレミヤ書3122節の最後の謎めいた文:

נְקֵבָה תְּסֹובֵֽב גָּֽבֶר

にも言及なさいました.

直訳すると:「女は,男を囲む(取り囲む,取り巻く)だろう」.

その節とその直前の節では,主なる神が「イスラエルのおとめ」(つまり,イスラエルの民)に語りかけています:「戻って来い,イスラエルのおとめよ,おまえの町に戻って来い.いつまでさまよっているのだ,反抗的な娘よ.そも,主は,新たなものを地に創造した.女は,男を囲むだろう」.

おとめマリアが新たなアダム,主イェスキリストを生むことが,預言されているのでしょうか?

[2] イザヤ書4915

הֲתִשְׁכַּח אִשָּׁה עוּלָהּ מֵרַחֵם בֶּן־בִּטְנָהּ גַּם־אֵלֶּה תִשְׁכַּחְנָה וְאָנֹכִי לֹא אֶשְׁכָּחֵֽךְ

女は,自分の乳飲み子を忘れることがあろうか?自分の腹 [ בֶּטֶן ] の息子[自分の腹から生まれた息子]を憐れむ [ רָחַם ] のを忘れることがあろうか?もし女たちが[自身の子どものことを]忘れることがあろうとも,わたし[主なる神]はおまえ[イスラエルの民]を忘れることはない.