2019年10月25日金曜日

Richard Rohr 神父のブログから — 聖書の homophobic な箇所をどう読むかの示唆

Walter Wink (1935 - 2012)

LGBTQ+ 人権擁護のために積極的に活動している Richard Rohr 神父 OFM が,彼のブログ のなかで,1999年に出版された論文集 Homosexuality and Christian Faith のなかに神学者 Walter Wink 牧師が書いた Homosexuality and the Bible の一節を紹介しています.James Martin 神父 SJ が SNS でその記事を紹介していたので,目にとまりました.以下に,邦訳を提示します.

******
より深い意義

わたし [ Fr Richard Rohr ] の友人,故 Walter Wink — メソジスト牧師,聖書学者,神学者,非暴力活動家 — は,gender および sexuality との宗教の格闘を,歴史的な展望のなかへ位置づけることによって,いかに Jesus が被抑圧者と抑圧者をともに解放しているかを学ぶ機会を,改めて提供してくれている.

******
[以下,Walter Wink の Homosexuality and the Bible からの一節]

ともあれ,聖書は,同性どうしの性的行為に言及するとき,それを明らかに断罪している.わたしは,そのことを率直に認める.問題は,まさに,聖書の判断は正しいのか否か,ということである.たとえば,聖書は,奴隷制を容認しており,それを不当なものと攻撃してはいない.では,今日,我々は,奴隷制は聖書によって正当化されている,と論ずる気になるだろうか?150年以上前,奴隷制の当否について盛んに議論されていたとき,聖書は,明らかに,奴隷制支持論者の側に与しているように思われていた.奴隷制廃止論者たちは,聖書にもとづいて反奴隷制論を正当化するのに苦労していた.ところが,今日,米国南部のクリスチャンたちに「聖書は奴隷制を容認しているか?」と問えば,答えは,ほぼすべて,「否」で一致するだろう.同様に,今から 50 年後に現時点をふりかえって見れば,人々は,神の聖なる息吹が我々の社会のなかで sexuality に関して為した新たなわざに対して,キリスト教会がかくも鈍感であり,かくも抵抗的であったことを,いぶかしく思うことだろう.

奴隷制に関してそのように記念碑的な変化をもたらしたものは,次のことである:すなわち,キリスト教会は,ついには,聖書の律法的な性格を超えて,より深い意義 — それは,イスラエルによって,出エジプトの経験と預言者たちの経験にもとづいて述べられており,そして,Jesus が自身を娼婦,徴税人,病者,障碍者,貧者,社会から見棄てられた者たちと同一化していることにおいて崇高に具象化されている — へ到達するよう,促された,ということ.すなわち,神は,無力な者たちの側に位置しており,抑圧されている者たちを解放し,苦しむ者たちとともに苦しみ,すべてのものの和解のためにうめき声をあげているのだ.それゆえ,Jesus は,先天的な障碍や生物学的な条件や経済的な挫折のせいで〈人間社会や宗教によって〉「罪人」と見なされた者たちのところに立ち寄って,「あなたの罪は赦された」,「あなたたちは無条件に愛されている」と宣言した.そのような崇高なあわれみの光のもとでは,我々の gay に関する立場がいかなるものであれ,「愛せ」,「無視するな」,「苦しみを分かち合え」という福音の命令は,見まごうかたなく明瞭である.そして,勘違いしないでおこう — LGBTQ+ であることを祝福する世俗的な文化にもかかわらず,彼れらのなかにはなおも深い苦悩があり,しかも,それは,最もしばしば,彼れら自身の家族やキリスト教会によって惹き起こされている.

同様に,女性たちは,聖書のなかに性差別と家父長主義 — それらのせいで,かくも多くの女性たちが,キリスト教会から疎外されている — が蔓延していることを認めるよう,我々に催促している.その出口は,聖書のなかの性差別を否認することではなく,しかして,聖書さえをも Jesus における啓示の光のもとで裁き得る解釈学を発展させることである.Jesus が我々に与えてくれたものは,あらゆる形態における支配に対する批判 — 聖書そのものへも向けられ得る批判 — である.そのように,聖書は,聖書自身を正す原理を包含している.我々は,聖書を偶像崇拝することから,解放される.聖書は,神のことばの証しとしてのその本来の座へ位置づけ直される.そして,神のことばは,書物ではなく,ひとりの人[三位一体を構成する三つの位格のひとつ]である.

******
[Richard Rohr 神父による補足]

我々は,奴隷制,死刑,体罰,重婚,ある種の子育て方法,相続制度,有利子融資,商業一般などに関して,聖書が編纂された当時は,一見,容認され得たと見える多くの問題について,正義と公平の方向へ進んできた.我々が LGBTQ+ の人々を拒絶し,彼れらを我々の教会へ全的に包容することを拒み,法によって平等に保護される権利を彼らに否むことによって,彼れらが被ってきた苦しみを,我々クリスチャンは,終わらせ,癒す作業の最前線に立つべきだ,と わたしは思っている.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年10月21日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2019年10月20日

Nikola Sarić (1985- ) : Parable of the Unjust Judge (2014)


鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年10月20日(年間第29主日 C 年) 


第一朗読:出エジプト 17,08-13 
第二朗読:第二テモテ書簡 3,14 – 4,02 
福音朗読:ルカ 18,01-08(不正な裁判官の譬え) 

「モーセはその上に座り,アロンとフルはモーセの両側に立って,彼の手を支えた」(Ex 17,12)

今日の「裁判官 と やもめ」のお話しは,わたしのお気に入りのひとつです.それは,当時,御殿場の神山複生病院[こうやま ふくせい びょういん]にいたフランス人の Robert Juigner 神父様* が,このお話しで紙芝居をつくって見せてくれたからです.牛のようにおおきな神父様が真似てくださった〈裁判官を発狂寸前まで追い立てるくらいの〉おばあさんやもめの〈執拗にくりかえされる,甲高い声での〉訴えが,お話しのなかの裁判官の耳にではなく,わたしの耳に,いまもこびりついて離れません.修友となみだを流して笑ったのをよく覚えています.

さて,そんなお話ができないわたしは,真面目にお説教をすることにいたします. 

祈っていて,ふたつのことに気づきました. 

ひとつは,「祈りは難しくないらしい」ということです. 

モーセのしていたのは,立って(後になると,すわって)手を上げていることだけでした.また,やもめ(Juigner 神父の紙芝居では,おばあさんでしたが,そうとは限りませんが)は,別に,主の祈りや,天使祝詞を知っているようでもなく,気散じをしないように気をつけているようにもみえません.念祷と観想の区別を意識しているふうでもありません. 

祈りは,自然なもののはずです.詩編やイエスの祈る姿は,子供が父親に自分の思うこと,願うこと,欲しいものを,あるいは,日々の哀しさや嘆き,うれしいことや感謝を語るように,神様に聞いてもらうのに,似ています.どこにも形はなく,どこにも決まりがなく,いい祈りと悪い祈りの区別もありません. 

ただ,もしわたしたちと違うところがあったとすれば,多分,ふたりとも,熱心に祈った,ということだと思います.やもめが何のために裁きを願ったのかはよくわかりませんが,モーセは,神に託された民,愛する民のために祈りました.しかも(聖書には,ただ,ときには「イスラエルは優勢になり」,また,ときには「アマレクが優勢になった」とだけ書いていますが)その民と同胞が,ときには剣によって打たれ,刺しつらぬかれ,騎兵の馬や戦車に踏みひしがれるのを,丘の上から見ながら,たとえ目を閉じていたとしても,兵と馬のたてるたけだけしい騒乱と,ときには民のうめきや断末魔の叫びを聞きながら,それでも祈りつづけたのだと思います.祈りの力を,すくなくとも,祈るという自分の務めを,彼はほんとうに信じていたのだろうと思います.『カトリック新聞』に,昨週,教皇がまだアルゼンチンで修道院の院長だったとき,息子の行方のわからない女性の訴えを聞いて,彼がすぐに,誰にも何も言わずに,断食をして祈りはじめた,という話しが紹介されていました**.彼も,祈りと,そして,祈るという自分の務めを,信じていたのだと思います. 

ふたつめは,とても簡単です.人がひとりで祈るのは,ときとして難しく,苦しいときほど難しく,「祈りつづけるのには,仲間の助けが必要だ」ということです. 

わたしたちの場合,祈る人の腕が下がらないように支えるのが祈りの助けになるかどうかわかりませんが,つらさや苦しみをもって祈っている人をほうっておかないでください.ときには本当に「しずかにしておいてあげる」ことも助けでしょう.また,あるときには,お話しを聞かせてもらうのも助けでしょう.そして,何よりも,その人のために,ときには,その人のそばで,祈ることは,大きな助けでしょう.たとえその人が何を祈ってるかも分からずとも,その願いの切実さは,かならず伝わってくるはずです. 

祈って,祈って,わたしたちは苦しいときをのりこえ,苦しみが過ぎさったとき,そのときの苦しさを祈りながらとおり抜けられたなら,何もなかったかのようにではなく,感謝して心から喜ぶように召されているように思います. 


注:

* Robert Juigner 神父様 MEP (1917-2013). 彼の名は,カタカナ書きでは「ジェイニエ」と表記されることが多かったようだが,フランス語の発音により近づけるなら,「ジュィニェ」.1917年12月23日,Anger で出生.第二次世界大戦中,兵役につく.1940-1941年,20ヶ月間,ドイツ軍の捕虜となった.1943年,司祭叙階.1946年,中国の貴州省の安順で宣教,司牧を開始.共産党政府によって逮捕され,10ヶ月間,投獄された後,1952年に香港で釈放.1952年06月からは,日本で宣教,司牧.東京大司教区の徳田教会,次いで,秋津教会,1972年からは,札幌司教区の八雲教会で,主任司祭.1994年から,御殿場の 神山復生病院 付 司祭.2007年10月,離日し,フランスで隠退生活.2013年05月13日,帰天.彼の 紙芝居カルタ は,今後も,末永く伝説として語り継がれるだろう.

** カトリック新聞 2019年10月13日付,Juan Haidar 神父様 SJ の「身近に見た教皇フランシスコ」4 :


2019年10月12日土曜日

「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」に対して

Charlotte von Kirschbaum (1899-1975) and Karl Barth (1886-1968)

2019年09月11日付の キリスト新聞 で,日本のキリスト教界のなかでも あからさまな反 LGBTQ の動きが 多かれ少なかれ組織的に 始まったことが,報ぜられた.そのことに関して,わたしは「帝国の逆襲 —『キリスト教 性教育 研究会』について」と題したブログ記事を書き,その一部は 09月21日付のキリスト新聞の「読者の広場」欄で紹介された.そして,わたしの見解に対して,10月11日付の同紙の「読者の広場」欄で,新潟市の 日本基督教団 東中通教会 の信徒,村上 毅 氏の意見が「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」の表題のもとに紹介されている:
9月11日付の紙面で,井川昭弘氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演したキリスト教性教育研究会の記事を,なるほどと思って読みました.ところが,9月21日付の本欄に,井川氏と同じカトリック信徒の小笠原晋也氏から,当該講演は「形而上学的偶像崇拝」との投稿が詳細に掲載されていました.内容は,井川氏の講演内容に真っ向から対立するもので,この問題の深刻さを改めて感じさせられました.
わたしの所属する教会はカルヴァンによって創始された改革長老派系列の教会で,人間は神により男と女の両性に創られたことを基調と考えています.LGBTQ+ の活動内容がどのようなものか,よく理解しておりませんが,必要に応じて学びたいと願っています.
小笠原氏の投稿において,ニヒリズムを克服するのは ルカ福音書 15:11-32 で書かれてある「慈しみ深い 愛の神」であると述べられていますが,この放蕩息子の寓話の前提は,神の前の悔い改めである,ということを認識したいと思います.

村上毅氏は御自分がカルヴァン派であるとおっしゃっているので,Karl Barth を引き合いに出すことをお許しいただこう — 勿論,それは,「LGBTQ+ とキリスト教」に関する議論においては,単なる tu quoque の偽論にしかならないが.

日本のキリスト教界のなかでどれほど一般的に知られているか,わたしは知らないが,Barth は,秘書の Charlotte von Kirschbaum と,1926 年から死去するまでの 40 年以上にわたり,「不義」の関係を続けた.しかも,1929 年以降は,妻と子どもたちもともに暮らす自宅に,Charlotte を同居させた.彼らの関係は,Karl の妻 Nelly Barth (1893-1976) に非常に大きな苦痛を与え続けた.以上の事実は,Barth と Charlotte との間に交わされた書簡 Karl Barth - Charlotte von Kirschbaum Briefwechsel (TVZ, 2008) によって,もはや「うわさ」の域を超えて,実証されている.

旧約聖書の律法のなかで,十戒は「不義を犯すなかれ」と規定しているが,当時,「不義」は,男が既婚女性と性交することであり,相手が未婚女性の場合は,「不義」には当たらない.しかし,申命記に記されている律法に従うなら,Barth は,Charlotte の父親に「罰金」を払い,彼女と結婚しなければならない (Dt 22,28-29). いかにも,古代のユダヤ社会においては,男は複数の妻を持つことができた.しかし,当然ながら,現代の西欧社会においては,重婚は禁止されている.となると,Charlotte は,彼女の父親の家の前で,その町の男たちによって,石打の刑に処されねばならない (Dt 22,20-21). が,そのような私刑も,当然ながら,現代の西欧社会においては禁止されている.

さあ,信仰のなかで律法遵守を何よりも大切と考える保守的なキリスト教徒の皆さん,あなたたちは,Barth と Charlotte を前にして,彼らをどう裁くのだろう?あなたたちは,好んで homosexuality と transgender being とを断罪する限りにおいて,20世紀の最も偉大な神学者とその秘書との「不義」を裁くことを免れることはできない.

話を本題に戻そう.村上 毅 氏は,放蕩息子の譬えにおいて,父が慈しみ深く息子を赦すのは,息子が自身の罪を悔い改めたからだ,と主張している.おっしゃりたいのは,こういうことだろう:同性どうしの性行為は,聖書に記されている律法によって,罪深いものであり,当事者が自身の罪を悔い,行いを改めて,初めて,その罪は赦される.つまり,村上 毅 氏は,同性どうしの性行為が罪深いものである,ということを,無反省に信じ込んでいる.それは,わたしが「形而上学的偶像崇拝」と呼ぶものの典型的な症状のひとつである.

保守的なキリスト教徒たちが「gay[男を性愛の対象とする男]どうしの性行為は,禁止されている」と考える おもな根拠は,レヴィ記に記された規定に存する:
女と寝るように男と寝てはならない.それは,忌まわしいことである (Lv 18,22).
ある男が,女と寝るように男と寝るならば,彼らふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼らは処刑される.彼らの血は,彼ら自身にふりかかる (Lv 20,13).

一見すると,それらの条文は,確かに,gay どうしの性行為を断罪しているように見える.しかし,「女と寝るように」という表現に注目するなら,このことを読み取ることができるだろう:おまえは,女と寝る heterosexual の男である;にもかかわらず,おまえが男と性的な関係を持つなら,それは忌まわしいことである.

つまり,それらの条文の言葉は,heterosexual の男に向けられているのであり,gay に向けられているわけではない.そもそも,旧約聖書のことばの宛先は,もっぱら,古代ユダヤ社会の支配的構成員である heterosexual の男たちであって,そこには,女性も LGBTQ+ も含まれてはいなかった.また,そもそも,SOGI に関して heterosexual でない者や cisgender でない者の存在は,古代ユダヤ社会のなかでは想定されていなかった.勿論,そのことを歴史資料にもとづいて実証的に証明することは困難であろうが,我々は,旧約聖書に描かれた古代ユダヤ社会が家父長制的であることにもとづいて,そう推定することができるだろう.

したがって,聖書にもとづいて,同性どうしの性行為を断罪することはできない — 聖書にもとづいて Karl Barth と Charlotte von Kirschbaum との関係を断罪することができないのと同様に.

ところで,放蕩息子の譬え話 (Lc 15,11-32) は,「罪 と 悔悛 と 赦し」をテーマにしているのだろうか?律法の遵守にこだわり,違反に対する神による処罰を 何よりも恐れる キリスト教徒は,そう読むだろう.しかし,そこに物語られている 慈しみ深い父 は,実際には何と言っているか?
この〈わたしの〉息子は,死んでいたが,命へ返ってきた [ οὗτος ὁ υἱός μου νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησεν ] (15,24) ;
この〈おまえの〉弟は,死んでいたが,命へ返ってきた [ ὁ ἀδελφός σου οὗτος νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησε ] (15,32).

つまり,この譬え話の本当のテーマは,罪の赦しではなく,しかして,死から永遠の命への復活である.

愛にあふれる神は,既に,無償で,我々に 永遠の命 を与えてくださっている.塵から創られた我々が今,生きているのは,神が 御自分の息吹によって 神の命である永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからである.我々は,今,現に,永遠の命を生きている.我々は,そのことに気づき,神の愛の恵みに感謝すればよいだけである.

それが Jesus Christ の福音の本質だ,と わたしは 思っている.

ルカ小笠原晋也

2019年9月12日木曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年08月25日


Fra Angelico (1395-1455) : il Giudizio Universale (1431 circa)
nel Museo nazionale di San Marco a Firenze

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年8月25日(年間第21主日,C年)


第一朗読:イザヤ 66: 18-21
第二朗読:ヘブライ書簡 12: 05-07, 11-13
福音朗読:ルカ 13: 22-30

そのとき,イェスは,町や村を巡って教えながら,イェルサレムへ向かって進んでおられた.すると,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた.イェスは,一同に言われた:「狭い戸口から入るように努めなさい.言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ.家の主人が立ち上がって,戸を閉めてしまってからでは,あなたがたが外に立って,戸を叩き,『御主人さま,開けてください』と言っても,『おまえたちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである.そのとき,あなたがたは,『御一緒に食べたり飲んだりしましたし,また,わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう.しかし,主人は,『おまえたちがどこの者か,知らない.不義を行う者ども,皆,わたしかた立ち去れ』と言うだろう.あなたがたは,アブラハム,イサーク,ヤーコブや,すべての預言者たちが神の国に入っているのに,自分は外に投げ出されることになり,そこで泣きわめいて歯ぎしりする.そして,人々は,東から西から,また,南から北から来て,神の国で宴会の席に着く.そこでは,後の人で先になる者があり,先の人で後になる者もある.(Lk 13: 22-30)


ミサに初めて与るときには,まわりの動作に合わせようとしたり,会衆側からの応唱についていこうとしたりして,緊張することがあります.熱心な信者さんは,司祭の唱える祈りに心を合わせようと意識を集中しようとつとめる方もいます.ですが,わたしのひとつの薦めは,周りにいる人たちのことは気にせず,「は~ぁ,この一週間,一ヶ月間,疲れた」と思いながら,ゆっくりと頭を空にして与ることです.「天のいと高きところには神に栄光」という歌も,何も考えずに,教会のきれいな天井を見上げながら,大きな声で歌っていると,だんだん日々のめんどうくさいことも忘れていって,元気になったりします.そして,司祭の説教を聴くころになると,何か良い話を聴けるかもしれないという気分になってくることもあります.そうすると,話を頑張って聴こうとするより,話しが自然にこころに吸い込まれていったりもします.

今日の福音で,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」(Lk 13.23) と,ある人がイェスにきいています.「救われる者は少ないのでしょうか?」— つまり,少しの人しか救われないのではないかと懸念しているのでしょう.

この「救われる」という言葉は,あとに出でくる宴会場の「門が閉まる」(13.25) という話しと重ね合わせると,「天国に入れるかどうか」という懸念とつながっているような気がします.

さて,わたしたちは天国に入れるんでしょうか?そこに招かれる人は多いんでしょうか?あるいは,多くの人は閉め出されてしまうのでしょうか?

少し祈ってみたのですが,まずはじめに現れたのは,まるで親しい仲間から閉め出されたときに感じるような怯えと孤独感でした.もしかしたら,小学校や中学校のときにそんな経験があったのかもしれません.また,今もそれと気づかずに感じているのかもしれません.しかし,祈っているうちに,何か違う感じがしてきました.「それは,神様がわたしに示してくださろうとしているものではない」という感じかもしれません.

入れるかどうか,もしかしたら閉め出されるかもしれない,という不安 — たしかに,それは,「お前たちがどこの者か知らない」(13.25, 27), 「外に投げ出される」(13.28) などの言葉が指示するところではありますが — は,今日の福音の中心的なメッセージではない気がします.祈りながらテキストを読み返している間に,「救われる者は少ないのでしょうか?」という問いに対してイエスは直接(「少ないよ」とか「たくさん救われるよ」とは)答えてはいないことに気づきました.結局,こう感じられてきました :「救われるのかどうか」と問うこと自体に何か心のボタンの掛け違いのようなものがある.その気づきの瞬間から,祈りが心に流れ込んできた気がします.

「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」— こう質問する人は,もしかしたら,救われることを望もうか,望むまいか,迷ってる人のように思えてきました.「天国にはたくさんの人は入れない,もしかしたら,わたしも入れない — だとしたら,違うことを考えた方がいい.もしそうだとすれば,本当は天国に入りたいにしても,結局入れないなら,違うことを考えた方がいい.天国のことは心から締め出して,世の中で成功し,楽しいことに身を浸すことにこころを向けたほうが得ではないか」.そんなこころの動きが,この問いの裏にはあるのかもしれません.

わたしたちが天国に入れるとすれば,それはどんなときでしょうね?わたしたちが天国に入れないとしたら,それはどんなときでしょうか?これは,わたしたちがこころに浮かべるべき質問ではない気がします.わたしたちが「入る」と思っても,天国というのは相手(神様)のいる話ですから,わたしが「入ります」と言っても,「いいや,残念でした」と言われてしまったら,それっきりということになるかもしれません.

しかし,逆に考えれば,相手がいるということは救いだ,とも思えます.誰かが,悪い人ではなくて,普段の生活のときから「人をだますのはいやだなあ」とか「人を蹴落とすのはやめておこう」と思っていて,「優しい神様といっしょに住むのは気持ちがいいだろうなあ」と思っていて,心のなかにこの優しい思いの場所が増えてゆけば,天の国の門は,場合によって,たとえ閉まりかけているようなことがあっても,その門の隙間はその人の目の前で,ゆっくりゆっくり,少しづつ少しづつ,もう一度開いて行くような情景がこころに浮かびます.

ところで,わたしは,土曜日から今朝にかけて,帰省していたんですが,家には今年高校 3 年生になる姪と甥がいました.二人は大学受験をすると聞いていましたので,甥に,学校見学をしてきたかと問うと,彼は,高校の先生に,「学校見学用に準備してある日は,客寄せのようなもので,実際の学校生活とは違うから,あまり役に立たない」という旨のことを言われたそうで,「行っていない」との返事でした.わたしは,行って見るように勧めました.とりあえず行ってみて,「ああ,いいなあ,ここに来てみたいなあ」と思えれば,勉強がはかどるからと.「ああ,ここに来たいなあ」と思うと,心はまっすぐ勉強に向かいます.逆に,「受かるかなあ,受からないかなあ,どうかなあ,不安だなあ」と心配していては,心が勉強に向かい難いからです.

わたしたちは,望むものを前にしたとき,そして,そうしたときにこそ,不安を意識するものです.本当に手に入れたいものにチャレンジするとき,心はそれを失うときの不安をも予期するものです.「この人は,わたしのことを受け入れてくれるかなあ,わたしのことを話したら,今までどおりに接してくれるかなあ... もしかしたら,心を閉ざしてしまうかもしれないなあ...」.そう思えば,思えば思うほど,たとえ本当にはその人の心の扉が閉ざされていなくても,自分の方の見え方のなかで,扉の隙間は狭くなっていってしまいます.でも,そこでその狭い扉に身を入れてみれば,気づくかもしれません :「ああ,こんなに広かったんだ,この門は!」と.

「救われる者は少ないのでしょうか?受け入れてもらえる人は少ないと思いますか?」— そう質問していると,天国の門は,自然に,どんどん閉まって行く,どんどん遠くなって行く... そのような気がします.

こころの扉が少しづつ狭くなってゆくとしたら,たしかに,天の門の隙間は狭くなってゆくでしょう.そして,自分の目には閉ざされてしまっているように見える扉の前で,道の上で,泣きわめいて,歯ぎしりをすることになったら,つらいことです.わたしたちの心が自然に神様と人に向かって開かれて行くように願って,毎日,過ごすことができますように.

帝国の逆襲 —「キリスト教 性教育 研究会」について


2019年09月11日付の キリスト新聞 に「性教育研究会で井川昭弘氏が警鐘,『多様性』言説の『イデオロギー化』」という見出しの記事が掲載されています.それによると,先月15日,福音派の牧師,水谷潔 氏が主宰する「キリスト教 性教育 研究会」の会合が都内で開かれ,八戸学院大学 準教授,カトリック塩町教会 信徒,井川昭弘 氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演を行い,ほかに,日本ホーリネス教団の牧師,上中光枝 氏,もっぱら児童と若者を対象とする国際的な宣教組織 OneHope日本支部長,宇賀飛翔 氏,福音派クリスチャンで psychologist である James Dobson 氏が創立した原理主義的クリスチャン組織 Focus on the Family の日本における関連団体 Family Forum Japan の前代表,宣教師,Timothy Cole 氏が発表を行いました.

記事は,井川昭弘氏の講演の趣旨を,次のように紹介しています:
今,「多様化」を唱道する言説を動機づけているのは,価値の相対化,過度の個人尊重,普遍的な「主義」や「大義」の否定の動向である.sexual orientation[性的指向]や gender identity[性同一性]は個人が自由に選択し得るものであるとする主張は,まちがっている.自己決定権があるとしても,それは,「客観的な道徳規範」である「自然法」(lex naturalis) に従わねばならない.男女の性別は生物学的な事実であり,gender role[男女それぞれの社会的な役割]の相違は,歴史的,人間学的に一定の合理性を持つ事実である.個人に対する配慮に満ちた対応や支援は必要だが,イデオロギーや政治運動と化した動きに対しては,賢明な対応が必要である.現在,日本のカトリック教会のなかでは,わたし(井川昭弘氏)のような立場は少数派であるが,わたしの主張は,本来のカトリック教会の考えである.

いやはや,井川昭弘氏の主張は,わたし(ルカ小笠原晋也)が「形而上学的偶像崇拝」と名づけて批判しているカトリック保守派の主張そのものです — 形而上学的偶像崇拝とは,ルカ福音書 15:11-32 で描かれているような愛にあふれる慈しみ深い父である神ではなく,Pascal が言うところの「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) を崇拝することに存します.保守派が崇拝する形而上学的偶像は,より具体的に指摘するなら,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) です.それらは,我々に対して,神の愛を完全に覆い隠してしまい,かつ,悪しき clericalism[聖職者中心主義]を条件づけています.「自然法」と「教会の教導権」の名において,カトリック保守派は,「わたしは真理を言っている」ということを保証してくれるものとして,神を利用し,それによって,自分たちを正当化し,権威づけています.

井川昭弘氏は「イデオロギー」という表現を使っていますが,彼の形而上学的偶像崇拝こそ,ひとつのイデオロギーです.そして,社会のなかで差別の対象となってきた人々が人間存在の尊厳の尊重を求めて立ち上がるとき,それは,人権擁護運動として,必然的に政治的にならざるを得ません.にもかかわらず,LGBTQ+ の「政治運動」はいけないと主張するなら,それは,差別を擁護することにしかなりません.

八戸学院大学のホームページ および researchmap に掲載されている 井川昭弘氏の経歴 によると,彼は,愛知県出身,1993年に南山大学法学部を卒業,1996年に九州大学法学部で修士号を取得,2003年に九州大学大学院法学科を満期退学,2014年に上智大学大学院哲学科を満期退学しています.専門分野は「カトリック社会倫理学,キリスト教哲学」であり,研究テーマは「現代のカトリック社会倫理学,自然法論」と記されています.2019年に八戸学院大学健康医療学部人間健康学科准教授となるまでは,さまざまな非常勤の教職ポストに就いていました.そのなかには,2011年から2019年までの日本カトリック神学院非常勤講師の職も含まれています.

彼の経歴を見ていると,ある人物の姿が思い浮かんできます —「姿」と言っても,実際に見たことがあるわけではありませんが.カトリック関係のテーマで Twitter をしている方々なら,見かけたことがあるでしょう :「教会の栄光」@glory_of_church の名称のもとに,homophobic な言説と,Papa Francesco を「異端」呼ばわりする言説を垂れ流しているあの Twitter account です.

勿論,その人物の正体が井川昭弘氏である,と断定し得る証拠はありません.しかし,記事によると,井川昭弘氏は「カトリック教会のなかでは,わたしのような立場は少数派であるが,わたしの考えこそ,本来のカトリックの考え方である」と言っています.この言葉は,LGBTQ+ に関するものというより,Papa Francesco に関するもの,と解釈され得ます.「Papa Francesco は異端だ」という主張は,日本でも世界でも少数派であり,一部の超保守派に限られていますが,それはまさに @glory_of_church の中心的な主張です.

現時点では,せいぜい,井川昭弘氏の profile は @glory_of_church の人物像にとてもよく合致している,と指摘することしかできません.しかし,日本に,あの程度にカトリック神学と教会法に精通しており,かつ,あのように LGBTQ+ と Papa Francesco に対する憎悪に満ちた発言を執拗に続けることのできる人物は,そう多くはないはずです.日本のカトリック神学界の内情に詳しい方の御意見をお聞かせいただければ幸いです.また,ほかの「容疑者」の名前が思い浮かんでくる方は,是非,お教えください.

ともあれ,@glory_of_church の憎悪発言に傷つけられた LGBTQ+ は,少なくありません.あれをこのまま放置するわけには行きません.しかも,もし,Papa Francesco を異端と見なす人物が,非常勤とはいえ,カトリックの神学校で教え,また,カトリック神学の学会で臆面もなく発言している(多分,本音を隠して)のだとすれば,看過すべからざる問題でしょう.少なくとも,彼が Papa Francesco を異端視し,かつ,LGBTQ+ の人々を「地獄へ行け」と呪っている,という事実は,衆知のものとなるべきでしょう.

他方,「キリスト教 性教育 研究会」を主宰する 水谷潔 氏の homosexuality に関する主張は,彼のホームページ に記されています.要するに,homosexual である人々は教会に受け入れるが,同性どうしの性行為は断罪する — つまり,「わたしがあなたたちを受容するとしても,それは,あなたたちが性行為を慎む限りにおいてのみであり,全面的に受け入れるわけではない」— ということです.カトリック司祭になろうとしているわけでもない homosexual の人々に対して,はなはだ非人間的な態度です.水谷潔氏の場合,それを聖書と善意の名においてしていますから,ますます処置無しです.

ともあれ,きな臭さに敏感な少数のジャーナリストたちの仕事によって「日本会議」の正体が暴かれてきたのと同様に,この「キリスト新聞」の記事は,日本において LGBTQ+ に対して逆襲してこようとしている胡散臭い「帝国」の正体の一端を垣間見せてくれています.その意味において,この記事は,一見,単なる事実報道の体裁しかとっていませんが,貴重なものです.「キリスト新聞」に感謝したいと思います.

ところで,水谷潔氏の意見は,基本的に,『カトリック教会のカテキズム』が homosexuality に関して述べていることと一致しています.カトリック教会は,その教義が包含する形而上学的偶像崇拝を速やかに一掃する必要があります.Papa Francesco が試みているのは,まさにそのことです.そして,それがゆえに,彼に対する保守派の反発も熾烈を極めています.反フランチェスコ派の筆頭は,周知のように,前教理省長官,Gerhart Müller 枢機卿です.彼は,2017年,Papa Francesco によって,教理省長官の職から事実上,解任されています.

19世紀以来,我々はニヒリズムの時代を生きています.ニヒリズムに対する有効な対抗手段として,名誉教皇 Benedictus XVI は『カトリック教会のカテキズム』のなかにスコラ的な「自然法」を持ち込みました.一見すると,自然法は,ニヒリスティックな価値崩壊に対抗し得る唯一の確固たる支柱であるように見えます.しかし,違います.そのような形而上学的偶像崇拝は,能動的なニヒリズムの一型にすぎません.

ニヒリズムの克服を可能にするのは,神の愛だけです.Papa Francesco が試みているのは,カトリック教会を,自然法によってではなく,神の愛によって基礎づけることです.わたしたちも,Papa Francesco の試みに協力しましょう.

May the Force be with you !
神の愛がいつも皆さんとともにありますように!

ルカ小笠原晋也

2019年9月4日水曜日

Father Bryan Massingale : 偶像崇拝に立ち向かうこと

John Singer Sargent (1856-1925)
Moloch (1895)
from the Triumph of Religion (1895-1919), murals at the Boston Public Library


今年(2019年)は,さまざまな歴史的できごとが50周年を記念しています.LGBTQ+ community にかかわるものとしては,1969年06月28日に始まった Stonewall 反乱が筆頭に挙げられます.そして,LGBTQ+ カトリック信者たちにとって意義深いこととしては,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 Dignity の創立が挙げられます.

Dignity は,Stonewall 反乱に触発されて,かつ,1965年12月に司牧憲章 Gaudium et spes の発表を以て閉会した第二 Vatican 公会議の精神 — 現代社会に開かれた教会の精神 — において,Patrick Nidorf 神父(1932年生,聖アウグスチノ修道会司祭,1973年に聖職から離れ,心理療法家となった)の指導のもとに,Los Angeles 大司教区内で創立されました.現在,その活動は,DignityUSA および Dignity Canada の名称のもとに,全米とカナダに広がっています.

その DignityUSA が主催して,今年の06月30日から07月04日まで,Chicago で,Global Network of Rainbow Catholics の大会が行われました.その最終日に,「LGBT+ の正義のわざを行うための神学的任務」の表題のもとに,三人の神学者が参加するパネル・ディスカッションが行われました.そこで,関係者にとっては大変な驚きがありました.その驚きをもたらしたのは,三人うちのひとり,Bryan Massingale 神父です.

Bryan Massingale 神父は,STD (Sacrae Theologiae Doctor) の学位(教皇庁立大学の神学博士の学位)を有する道徳神学の専門家で,現在,NYC にあるイェズス会系の大学 Fordham University の神学教授です(つまり,神学者として高名であり,かつ,高く評価されている人です).その人が,何と,彼のスピーチの冒頭で,gay であることを come out したのです!彼は,こう話し始めました:「わたしは,この対話に,黒人であり,gay である司祭かつ神学者としてやってきました」.その場がどれほどの驚きと感激に湧いたか,詳しく伝えられてはいませんが,想像に難くありません.

ともあれ,Bryan Massingale 教授は,「LGBTI 司牧任務のために偶像崇拝に立ち向かうこと」(The Challenge of Idolatry for LGBTI Ministry) という表題のもとに講演を行いました.

彼が「偶像崇拝」という語を用いたことに,わたしは注目します.わたしも,カトリック教会にとって最大の課題は,偶像崇拝を克服することだ,と考えるからです.では,今,カトリック教会のなかで崇拝されている「金の仔牛」は何なのか?それは,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) である,とわたしは思います.両者を合わせて,カトリック教会における「形而上学的偶像崇拝」(metaphysical idolatry) と呼びたいと思います.Blaise Pascal (1623-1662) は,カトリック教会で崇拝されている形而上学的偶像を「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼びました... が,話が長くなりますから,今は立ち入らないでおきましょう.Bryan Massingale 教授の話を聞きましょう.

彼は指摘します : LGBTQ+ カトリック信者が立ち向かう主要問題は,性倫理 (sexual ethics) の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.

彼は,1982年,神学生時代に初めて参加した Ignatian retreat における経験について,こう語っています:
祈りのために与えられた聖書の箇所のひとつは,創世記の最初の創造の物語だった.わたしは,祈りのなかで,自身を,神が 6 日間で万物を創造する過程を眺める観察者として思い描いた.わたしは,神が創造したものを見た.それは,すばらしかった.ただし,わたしは気がついた:創造が完了したとき,そこにはひとりの黒人もいなかった.ひとりの gay もいなかった.神の似姿に作られた者たちすべてを見たとき,わたしのような者[黒人である者,gay である者]は,ひとりもいなかった.そのことは,わたしに深い動揺を与えた.わたしの精神は苦痛を覚えた.わたしは打ちのめされた.長年にわたって「人間は皆,神の似姿に創造された」と教えられてきたのに,わたしは,わたしのなかの深いところで,そのことを信じてはいなかったのだ.わたしの祈りは,わたしが「神の似姿」として黒人も gay も思い浮かべることができない,ということを暴いてしまったのだから.
わたしは,そのことを retreat director に告げた.彼女は,賢明にも,聖書のほかの箇所をわたしに与えた.神の愛について語られている箇所だった.しかし,わたしは,祈ることができなかった.わたしは,神の愛について何も聞きたくなかった.わたしは怒っていた.わたしは,神がわたしを黒人に創造したこと,gay に創造したことに,怒っていた.
ある晩,わたしは,夜中に目がさめて,怒りと悲しみを覚えて,枕を叩きながら,神に向かって幾度もこう言った :「なぜあなたは,わたしにこのようなことをしたのですか?あなたにそのようなことを頼んだおぼえはありません.いったい,あなたはどのような神なのですか?なぜあなたは,わたしを,このようにひどい痛みと傷と拒絶を被らねばならないように,創造したのですか?」わたしは,叫び,わめき,泣いた.怒りと悲しみに,からだが震えた.
そのように叫び,悲しみ,わめいた後,わたしの傷と怒りと不安と苦痛がすべて尽きた後,初めて,神は,わたしの魂の裂け目をとおって入って来た.神のことばが聞こえた :「わたしの目に,おまえは価値あるものだ.わたしは,おまえを愛している」(Isaiah 43,04). わたしは,また泣いた.喜びに泣き叫んだ.言葉にならない喜びだった.それから,わたしは,創世記 2 章で語られている創造の物語 — 神が土から人間を創造する物語 — を祈った.わたしは,自身を,神により創造される源初の人間として見た.そして,神がわたしに命を — 神の命を — 吹き込んでくれるのを,感じた.わたしは,やっと,本当に,神による創造の一部になることができた.

以上のようななまなましい証しに続いて,Bryan Massingale 神父は論じます:我々が立ち向かう問題は,カトリック教会の性倫理の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.我々は,神について,誤ったイメージを与えられてきた.それは,白人であり,heterosexual である神のイメージである.それは,差別と不正義を正当化するために人間が作り上げた偶像にすぎない.しかし,我々は,そのような偶像を,神として崇拝させられてきた.その偶像神は,いけにえを要求する神であり,命を奪う神である.その神の名において,人々は,喜々として,黒人に対しても,LGBTQ+ に対しても,暴力をふるっている.そのような偶像崇拝に,我々は立ち向かう.

では,我々はどうすればよいのか?と Bryan Massingale 教授は問います.彼は,三つの示唆を我々に与えます.第一に,一部のカトリック信者がつく「うそ」を拒絶すること.LGBTQ+ の生は,神の目に価値ある生であり,我々は皆,Jesus Christus によって等しく贖われており,神によって根本的に愛されている — なぜなら,我々は皆,神の似姿に創造されているのだから.

第二に,我々は,教会のなかに勇気の文化を育てる必要がある.Bryan Massingale 教授は,聖 Thomas Aquinas を引用します :「勇気は,あらゆる徳の前提条件である」.我々は,新しい教会を作る必要がある — 服従が第一の徳である教会ではなく,勇気が第一の徳である教会を.偶像崇拝につなぎとめられた教会のなかで真理を言うためには,我々には勇気が必要である.

第三に,希望の感覚を育てよう.希望と楽観主義とは異なる.アメリカ流の楽観主義では:善は常に悪に勝つ;善人は,常に悪者に勝つ —「遅かれ早かれ」ではなく,必ず「早々と」;悪に対する勝利は,低コストである;楽観主義は,あらゆる困難はうまくかたづく,と思い込んでいる.

それに対して,希望は,こう信ずる:善は悪に対して勝利する — 究極的には,つまり,常に勝利するわけではない;そして,勝利のためには,しばしば,たいへんな代償が必要となる;戦いの過程において,多くの者が高い代価を払うことになる.

常に勝利するわけではないが,常に敗北するわけでもない — それが,クリスチャンの希望である.クリスチャンの希望は,復活にもとづいている.Jesus は,最後の瞬間に救い出されたのではない.彼は死んだ.死から出発して神がもたらし得るもの,それが復活である.復活を信ずることが,より義なる世界とより聖なる教会のために働く我々 — 我々の仕事は,遅々としてはかどらず,満足のゆく成果を生まず,危険でさえある — を支えてくれる.復活を信ずることが,我々に希望を与えてくれる.

以上が,Bryan Massingale 神父の講演の要約です.彼は,差別と排除と迫害を正当化する神を偶像と喝破しました.そのような偶像崇拝を条件づけているのが,カトリック教義が包含する形而上学的諸要素です.そのことについては,別途論ずることにしましょう.

司祭の coming out のニュースとしては,ドイツの Paderborn 大司教区Bernd Mönkebüscher 神父が,今年02月に gay であることを公にし,Unverschämt katholisch sein[はずかしげもなくカトリックであること]という本を出版しました.

偶像崇拝の問題について,ひとことだけ付け加えておくと,最近,あるカトリック司祭が神道と神社参拝に関して「宗教か文化か」と論じている記事を見かけました.まったく論点がずれていると思います.問題は,偶像崇拝か否か,そして,その偶像崇拝が何らかの強制や苦悩を条件づけているか否か,です.日本において,神道と,神道のみならず,仏教は,祖霊崇拝と不可分です.そして,祖霊崇拝は,家父長主義と不可分です.そして,家父長主義は,全体主義を生み,また,女性差別 および LGBTQ+ 差別を条件づけています.祖霊崇拝を包含する限りにおいて,神道と仏教は,単なる「日本文化」の要素ではなく,有害このうえない偶像崇拝である,とはっきり批判しておきたいと思います.

ルカ小笠原晋也

2019年7月12日金曜日

James Martin 神父様 SJ の説教,World Pride NYC 2019 前晩のミサ,2019年06月29日


2019年06月30日に World Pride NYC 2019 のパレードが行われる前日,6月29日の晩,LGBTQ Catholic community のために,Church of St Francis of Assisi において,James Martin 神父様 SJ の司式によるミサが行われました.その説教の録画とテクストが公開されています.


説教の邦訳を以下に掲載します.

******
年間第13主日
第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62




[Jesus Christ の]弟子である — それは,何を意味するでしょうか ? Christian である — それは,何を意味するでしょうか?自由である — それは,何を意味するでしょうか?カトリック信者として,LGBTQ カトリック信者として,あるいは,LGBTQ カトリック信者の家族,友人,同盟者として,[Jesus Christ の]弟子であり,Christian であり,自由であることは,何を意味するでしょうか?

今日の聖書朗読は,一見すると,わたしたちにはたいして関係が無い,と思われるかもしれません.つまるところ,列王記が書かれたのは紀元前550年ころ — ユダヤの民がバビロンで捕虜となっていた時代です.聖パウロの Galatia の信者たちへの手紙が書かれたのは,紀元55年ころです.ルカ福音書 — 今日,朗読されたもののうちでは最も新しいもの — が書かれたのは,紀元85年ころです.そのような昔のテクストが言っていることは,今のカトリック信者たちにとっては,たいした意味はないだろう,いわんや,LGBTQ の人々にとっては,なおさらたいした意味はないだろう,と思われるかもしれません.

いえ,とんでもない.とても意味があります.聖書は,生きている〈神の〉ことばです.朗読された箇所がどれほど昔に書かれたものであっても,わたしたちがそれらを読み,聞くとき,わたしたちの耳が神のことばに開かれるなら,神の声は常に明かされます.

福音朗読の箇所から始めましょう.Jesus は,牧者としての働きを求めてくる人々に,正面から,あい対します.

Jesus は,Jerusalem へ向かう途中です.Jerusalem には,彼の運命が彼を待ち受けています — 受難と,十字架上の死と,そして,復活です.Jerusalem に到着する前でさえ,彼は,敵意を持つ人々に直面します.そして,彼はそのことを知っています.彼がサマリアをとおるとき,人々は彼を拒絶します :「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」とルカは言っています.なぜか?宗教的な理由によって:サマリア人は,「よきイスラエル人は,いかなるものか?」について,とても異なる考えを持っており,Jerusalem の神殿を神がいます座とは認めてさえいません.サマリアの人々の拒絶に対して,Jesus の弟子たちは,彼れらを処罰したい,と思います.しかし,Jesus は「ダメだ」と言います.Jesus は,彼れらを罰しようとはしませんが,しかし,拒絶のせいで意気消沈したりもしません.

ついで,Jesus は,「弟子にしてください」という求めへ注意を向けます.彼は,とても無愛想に対応します.彼は,彼の弟子となることの代価をよくわかっており,弟子になりたいと言ってくる者たちにも,その代価を覚悟してほしい,と思っています.ある者が「あなたがおいでになるところなら,どこへでも従ってまいります」と言う.「本当かい?」と Jesus は言う — ルカはそうは書いていませんが —「もしわたしについてくるなら,あなたは,ねぐらすら持てないことになる」.Jesus の弟子のすべてが旅の途上の Jesus につきしたがっているわけではありません — Martha や Maria のように,家にとどまっている者もいます — が,弟子の多くは,実際,Jesus と同じく,旅回りを続けています.弟子になるということには,旅回りの生活を続けるということも含まれているのだぞ,と Jesus は言っています.

ほかの弟子たちのなかには,ふたり,家族に対する責任にもとづく言いわけをする者がいます.ひとりは,「父を葬りに行かせてください」と言い,もうひとりは,「家族にいとまごいをするために行かせてください」と言います.しかし,Jesus は,そのような言いわけを受けつけません.しかし,彼は,本当に,死者が死者を葬るだろうと思っているのでしょうか?そうではないでしょう.彼は,話しのポイントをわからせるために,誇張法を使っているだけです.

もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたはタフでなければならない.もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたは後ろを振り返ることはできない.

Jesus は,旧約聖書の預言者たちよりも徹底的です.第一朗読の列王記(上)では,Elijah は,Elisha を預言者とするために彼に油を注ぐよう神に命ぜられ,自分の外套を Elisha にかぶせます.Elisha は,しかし,「父と母に別れの接吻をさせてください」と言い,それをすませてから,Elijah につきしたがいます.

Jesus は,もっと徹底的です.彼は「ダメだ」と言います.家族を言いわけにするな.わたしにつきしたがうことより優先されるものは何も無い — 家族に対する義務でさえも.

Jesus は,福音書のほかの箇所で,そのことを明示しています.彼の家族が,ナザレトからガリラヤ湖へやってきて,彼と会おうとします.このエピソードのことを,わたしたちはあまり話題にしません — その話にショックを受ける Christian が少なくないからです.しかし,マルコ福音書は語っています — Jesus が牧者として公に働き始めたとき,彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思う.そこで,親戚を含む〈彼の〉拡大家族は,ナザレトから,Jesus が住んでいるガリラヤ湖畔のカファルナウムにまでやってきて,彼を拘束しようとする.しかし,Jesus は,「あなたの家族が外で待っています」と告げられると,こう言う:「誰がわたしの家族か?それは,神の意志を行う者たちだ」.神とのつながりが,家族とのつながりよりも,より重要なのです.

最後に,話しの要点を理解させるために,Jesus は,大多数が農民である社会の人々がよくわかる比喩を用います:いったん鋤に手をかけたなら,後ろを振り返るな.なぜなら — 牛たちから目をそらすと,どうなるか?牛たちは,へんな方向へ進んでしまう.注意をそらすな.

さて,今日の聖書朗読箇所は,いずれも,昔に書かれたものではありますが,今日,わたしたち皆にとって — 特に,LGBTQ カトリック信者にとって —,とても有意義です.三つのことを示唆しておきましょう.

1) タフであれ [ be tough ]. この数年間,LGBTQ カトリック信者にとって,多くのポジティヴな歩みが為されました.ふたつの大きな潮流があります.最初のものは,ふたつの単語に要約されます : Pope Francis [ Papa Francesco ]. 五つの単語から成る彼の最も有名な文は,あいかわらず,これです : Who am I to judge ?[わたしは,断罪する権限を有する誰であろうか?]それは,最初は,gay である司祭に関する質問に対する答えでしたが,ついで,LGBTQ の人々すべてに関する文へ拡大されました.Papa Francesco は,gay という単語を使った史上初の教皇です.彼には,LGBTQ である友人たちがいます.そして,彼は,LGBTQ の人々をサポートする枢機卿や大司教や司教を,たくさん任命しています.もうひとつの潮流は,このことです:自身が LGBTQ であることを come out し,そのことについて open であるカトリック信者がふえるにつれて,彼れら自身と,彼れらの家族とが,彼れらの希望と願望を小教区のなかに持ち込むようになり,教会の文化が少しずつ変わってきています.

しかし,LGBTQ カトリック信者であることが辛いときもあります.カトリックの学校が〈同性婚をした〉職員を解雇する事例が,今だに起きています — straight である職員は,さまざまな教会の教えに従っていない場合でも,仕事を続けることに何ら問題が無いにもかかわらず.また,教会の指導者たちがメディアに発表する文書や声明や引用によって,このことが明らかになることもあります:彼らが LGBTQ の人々やその家族の経験に耳を傾けたことがあるという証拠は,いささかも無い,ということ.さらに,勿論,地方のレベルでは,homophobic な司牧者や教会職員や小教区信者たちがいるところが,いまだにあります.

であればこそ,Jesus のようでありましょう:つまり,タフでありましょう.そして,なによりも,あなたは教会のなかで正当な居場所を有していることを主張しましょう.御覧なさい:あなたが,自身,LGBTQ であり — あるいは,LGBTQ である人の家族であり —,かつ,洗礼を受けたカトリック信者であるならば,あなたは,教皇や司教や司牧者やわたしと同様に,教会の一員です.あなたが受けた洗礼を根拠にして,教会のなかであなたの居場所を主張しましょう.

しかし,カン違いしないでおきましょう.Jesus は,わたしたちにこう告げています:ときには辛いこともある.ときには,あなたの家族があなたを理解しないこともある — まさに Jesus の家族が Jesus を理解しなかったように.ときには,あなたはほかの人々に受け入れられていないと感ずることもある — まさに Jesus がサマリアでそうだったように.ときには,ホームレスになったように感ずることもある — まさに Jesus が野宿しなければならなかったときに感じたように.ときには,友人たちと意見が一致しないと感ずることもある — まさに Jesus が「しかえしはわたしのやり方ではない」と弟子たちに告げたときに感じたように.しかし,そのようなことはすべて,旅につきもののことです.Jesus とともにいれば,ほかの人々に理解されなかったり,受け入れられなかったり,等々のことは起こり得ます.

そのようなことすべてを通じて,Jesus は,「タフでありなさい」とわたしたちを招いています.教会のなかで居場所を主張しなさい.あなたが授かった洗礼のなかに根拠を持ちなさい.あなたは全的にカトリックである,と自覚しなさい.

カトリック教会は,歓迎し,肯定し,包容するだけでは十分ではない,という声を,わたしは最近,聞きました.わたしは賛成します.それらは,最小限のことです.それだけでなく,LGBTQ の人々は,「わたしたちは教会のなかの司牧活動すべてに参与することができるはずだ」と完全に思えるべきです.単に歓迎され,肯定され,包容されるだけでなく,みづからリーダーシップを取ることができる.しかし,そうし得るためには,あなたたちは,鋤をしっかり握り続けねばなりません.そして,タフであらねばなりません.

2) 自由であれ.今日の福音朗読箇所からのふたつめの教えは,Jesus の至高なる自由です.福音がサマリアについて何と言っているかを,もう一度見てみましょう:「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」.しかし,Jesus は,サマリアに拒絶されても,気にしません.確かに,Jesus は,サマリアの人々が彼のことばを聴くことを欲していたでしょう.そうだったことを,わたしたちは知っています — ヨハネ福音書のなかで,Jesus は,サマリアの女と長い会話をかわしているからです.あの有名な「井戸端の女」の話です.彼女は,Jesus との出会いを,サマリアの人々と分かち合います.しかし,サマリアの人々が歓迎しようとしないなら,それで結構.Jesus は自由です.彼は,歩み続けます.

Jesus は,愛されたい,好かれたい,認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,サマリアの人々から愛されたい,という欲求からは,自由です.彼は,弟子たちから好かれたい,という欲求からは,自由です — ヤコブとヨハネを戒めたときのように.彼は,家族 — 彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思っています — から認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,このうえなく自由です.では,何のために自由なのか?— 御父の意志に忠実であるために.

LGBTQ カトリック信者たちの多くが,「わたしは歓迎されていない」と感ずる — Jesus がそう感じたように;排除され,拒絶され,ときには迫害されていると感ずる — Jesus が排除され,拒絶され,迫害されたように.それは,苦痛なことであり,腹立たしいことです.そう感じても,当然です.それは,人間的なことであり,自然なことです.そして,ときには,そのような感情が,あなたを行動へ — 迫害されている人々のために行動することへ — 駆り立てることもあるでしょう.しかし,究極的には,Jesus は,わたしたちに,こう求めています:愛され,好かれ,認められたいという欲求からは,自由でありなさい.そして,本来的なあなた自身に信頼を持ちなさい.

もうひとつ指摘しておくと,Jesus は,罰したいという欲求からも自由です.ヤコブとヨハネは,Jesus を拒んだサマリアの人々を滅ぼすために「天から火を降らせる」ことを欲しました.しかし,そのような彼らを,Jesus は戒めます.それは,彼のやり方ではない.彼は,しかえししたいという欲求からは自由です.ですから,Jesus のようでありましょう.自由でありましょう.

3) 最後に,希望を生きろ.Jesus Christ の弟子である人生は,単なる苦行ではありません.単にタフなだけではありません.単なる苦労ではありません.今日の第二朗読で,聖パウロはこう言っています:「キリストは,わたしたちを,自由のために自由にしてくださった」(τῇ ἐλευθερίᾳ ἡμᾶς Χριστὸς ἠλευθέρωσεν). すばらしい言葉ではありませんか ?Christian の生は,単なる辛い重荷や軛(くびき)ではありません — 聖パウロが用いている「軛」という語は,Jesus の「鋤」の比喩と呼応しています.Christian の生は,奴隷の軛につながれて生きることではなく,自由を生きることへの招きです.ちょうど Elijah が Elisha に外套を被せたように,わたしたちは皆,LGBTQ であろうと straight であろうと,Jesus の招きを受けたなら,神学者 Barbara Reid の表現で言えば,「Jesus の息吹 [ spirit ] という〈守ってくれる〉コート」に包まれています.わたしたちは,自由を生きています.喜びを生きています.そして,希望を生きています.

LGBTQ カトリック信者やその家族は,教会の現状を見て,こう言いたくなる誘惑にかられるかもしれません:「教会は,決して変わらないだろう」,「わたしは歓迎されていない」,「ここには,わたしの居場所は無い」.しかし,Jesus がわたしたちに住んでほしいと思っている場所は,そこだけではありません.将来は,現在よりも,もっと充実しているでしょう.そのことを,Jesus は知っています.わたしたちは,鋤をしっかり握り続けましょう — 単に道からそれてしまわないためだけでなく,地平線から目をそらさないために.

ときには,LGBTQ カトリック信者が,こう言うことがあります:わたしは,教会とも,信仰とも,神とも,縁を切った.そう言う人々は,教会のなかに Christ を探し求めるときに,しばしば,現在をしか見ていないのです.しかし,Jesus が Jerusalem で経験することは,受難と死だけではありません.最も重要なのは,受難と死ではありません.最も重要なのは,復活です.復活の善き知らせは,これです:希望は絶望より強い;苦しみは最後の言葉ではない;愛は,つねに,憎しみに対して勝利する.愛は,つねに勝ちます.ですから,希望を生きましょう.

今日,朗読された聖書のことばは,とても古く,とても異質で,とても遠くにあるもののように見えるかもしれません.しかし,実は,今のわたしたちのためにあつらえられてあることばです.神と出会うよう呼ばれたわたしたち皆のために書かれてあることばです.そこにおいて,わたしたちは,神がわたしたちにこう言うのを聴きます:タフであれ,自由であれ,希望を生きろ.カトリック信者であることに誇りを持て.そして,LGBTQ であるわが同胞たちよ,LGBTQ カトリック信者であれ — あなたたちは,そうであるよう,Jesus Christ 御自身によって,呼ばれているのです.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)