2019年6月9日日曜日

なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのか

2019年04月28日,Tokyo Rainbow Pride のパレードにて

Happy Pentecost and Happy Pride !

今日(6月 9日)は,聖霊降臨の祭日でした.そして,今月は,世界的には,あちらこちらで LGBTQ+ の祭典が行われる Pride Month です.

6月 6日付の Washington Post 紙に,The case for why Catholics should march in LGBT Pride parades[なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのかの主張]と題された論評記事が掲載されました.筆者 John Gehring 氏は,Faith in Public Life という団体の Catholic Program Director という肩書きを持っている人です.彼は,記事のなかで,Thomas Tobin 司教 — 彼は anti-LGBTQ な主張を tweet した — に対する批判を展開しています.以下に,記事全文の邦訳を紹介します.

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なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのかの主張

by John Gehring

Stonewall In の常連たちが沈黙し続けることを拒み,gay であるアメリカ人たちのための市民権運動の口火を切ってから50年たって,Pride行事は多くの州でなじみ深い伝統となっている.6月をとおして行われるパレードや講演会やシンポジウムは,人々の尊厳を — 歴史的に差別され,今も差別に直面し続けている人々の尊厳を — 肯定するものである.

LGBT Pride Month の祭典に参加する宗教指導者たちがいるなかで,ひとりのカトリック司教[USA の Massachusetts 州にある Providence 教区の Thomas Tobin 司教]の tweet が,social media で論争を引き起した — カトリック教会は同性婚に反対し,同性どうしの性行為を断罪しているのに,カトリック信者が LGBT の行事に参加してもよいのか?

Thomas Tobin 司教 の2019年06月01日付の tweet :「忘れないように:カトリック信者は,6月に行われる LGBTQ “Pride Month” の行事を支持したり,それらに参加したりすべきではない.それらの行事は,カトリックの信仰と道徳に反する文化と活動を宣伝し,奨励するものであり,特に子どもたちに対して有害だ」.

わたしは,わたしが所属する小教区の教会を愛し,かつ,わたしの gay である友人や家族を愛するカトリック信者として,この Thomas Tobin 司教の表現 — 偽善的で,homophobic で, いたずらに不安をあおる表現 — に,うんざりさせられている.今,カトリック教会は,何十年にもわたって子どもに対する性的虐待を組織的に隠蔽してきたことが明らかになった後,道徳的な信頼性を取り戻そうと悪戦苦闘している最中である.そのようなときに,カトリック指導者が Pride 行事は「特に子どもたちにとって有害だ」と言い放つとは,何とも驚くべき自覚欠如の露呈である.

また,それは,特別に調子はずれで欺瞞的な断言である — なにしろ,Thomas Tobin 司教は,1990年代,Pittsburgh 教区の補佐司教を務めていたわけだが,それは Pennsylvania 州 — 同州においては,数十年にわたって1000人以上の子どもたちが300人以上の司祭たちによって性的虐待を受けてきたと信ぜられる,と[2018年8月に発表された]州の大陪審による壊滅的な調査報告は告発している — にある六つの教区のひとつである.だが,Thomas Tobin 司教は,昨年[2018年]夏に行われたあるインタヴューにおいて,こう言ってのけた:聖職者による性的虐待を監視することは,当時,彼の責任の範囲の外にあることだった,と.

Thomas Tobin 司教は,昨年夏,Twitter は彼の spiritual life にとって妨げとなり,「わたしにとっても,ほかの人々にとっても,罪を犯す機会」となり得る媒体である,と述べ,Twitter をやめるつもりだ,と言っていた[が,実際にはそうはしなかった].もし仮にその計画に忠実であったなら,彼は,賢明であっただろう.

わたしたちの歴史と文化において,gay と lesbian と transgender の人々は,しばしば,彼れらの宗教保守的な家族によって見棄てられ,教会によって拒絶されてきた.そのような事実への反応において,わたしたちは,彼れらを愛する.彼れらの人間性と基本的な尊厳を回復させ,称えること — Pride 行事に参加するカトリック信者たちがしているのは,そのことである.

National Center for Transgender Equality[transgender の人々の平等のための全国センター]と National LGBTQ Task Force[LGBTQ の人々にかかわる諸問題について調査し,問題解決を図るための全国的な委員会]は,全国で六千人以上の transgender およびジェンダー不適合の人々にインタヴューした結果,41 % が自殺未遂歴のあることを見出した(それに対して,一般人口においては,自殺未遂歴を有する人は 1.6 % のみである).学校におけるいじめ,職場におけるいやがらせ,物理的および性的な暴力を経験したことがある,と答えた人の割合も高かった.Human Rights Campaign[人権キャンペーン]によると,2018年,USA においては,transgender の人々が少なくとも26人,殺害されている.被害者のうち,82 % は非白人のトランス女性であり,大多数は35歳以下であった.

先週の土曜日(2019年6月1日),Dallas で,黒人トランス女性である Chynal Lindsey の遺体が,警察により発見された.彼女は,過去三年間に Dallas で殺害された少なくとも四人めの黒人トランス女性である.

もしカトリック司教がそのような文脈を理解しておらず,デジタル説教壇を,癒すのではなく,傷つけるようなしかたで利用するならば,彼は,差別的文化 — そこにおいては,固定観念が強化され,差別が祝福され,極右は暴力に訴えてもよいと励まされる — に貢献することになる.

Thomas Tobin 司教を弁護するために集まったカトリック信者たちは主張する:彼は単純にカトリック教義を表現しただけだ,と.しかし,それは欠陥のある議論である — そのような議論は,せいぜい,論者は教会の教えを狭く,機械的にしか理解していない,ということを明かすか,あるいは,より悪い場合には,教会の教えを,現実に有害な結果を招くしかたで歪めている.

教皇フランチェスコは,使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]において,カトリックの教義と道徳律を「人々の生に対して投げつける石」(#305) にしないよう,カトリック信者に警告している.そのような態度は,「通常,教会の教えの背後に隠れる閉ざされた心」(ibid.) を証すものである.カトリック教会は同性婚に反対しており,また,男女の結婚以外の状況におけるあらゆる性関係を断罪しているが,しかるに,カトリック教会のカテキズム (#2358) は,こうも述べている : gay の人々は「敬意と共感と気遣いとを以て,受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」.Pride 行事は子どもたちとって危険であると述べる司教の言葉は,LGBTQ の人々を悪魔化し,差別的に刻印する危険性をはらんでおり,カテキズムが禁じている「不当な差別」の一例である.

よい知らせもある.Thomas Tobin 司教は多くの注目を集めたが,彼の見解は,教会の指導者たちのうちでは,声高な少数派を反映しているにすぎない. transgender の人々や同性カップルと出会う教皇フランチェスコによって形づくられ,発展しつつある司牧神学は,より多くの司祭たちと司教たちが LGBTQ の人々との架け橋を作るよう,促している.それは,非難ではなく,謙虚さと聴く態度とを要することである.

Newark 大司教 Joseph Tobin 枢機卿は,2年前,Newark のカテドラルに LGBTQ の巡礼者たちを迎えたとき,彼れらにこう言った:「わたしはジョセフ,あなたたちの兄弟です」.San Diego の Robert McElroy 司教は,2016年,イェズス会の週刊誌 America magazine とのインタヴューにおいて,同性どうしの関係を「内在的に乱れたもの」と呼ぶカテキズムの言葉づかいを「非常に破壊的な表現であり,司牧において用いるべきではない,とわたしは考える」と述べている.

Chicago や New York や San Francisco のような都市にある小教区のカトリック信者たちは,何年も前から Pride 行事に参加し続けている.より保守的な地方においても,連帯を証しするカトリック信者たちはいる.Kentucky 州の Lexington 教区の John Stowe 司教は,2017年,Lexington 市の最初の Pride Interfaith Service へ書簡を送り,行事を「あまりにしばしばキリスト教徒たちからの差別に苦しんできた人々へ手を差しのべるすばらしい行い」と絶賛している.

キリスト教の伝統においては,pride[傲慢]は「七つの大罪」のひとつと見なされてきた.キリストに従う者は,極端な放縦や過度な個人主義に用心すべきである.では,場合によって Pride parades において見うけられる自由放埒な雰囲気と,キリスト教徒はどう折り合いをつければよいのか?

1960年代の black pride の表現が白人至上主義者たちの抑圧的な不正義に対する反応であったのと同様に,LGBTQ Pride の行事は,LGBTQ の人々にとって安心できる空間となるよう作られている.彼れらは,ある種のコミュニティのなかで通りを歩いているとき,彼れらの身体的な安全性が尊重されるか否かを懸念する理由を有している.

わたしは,gay ではない白人男性として,そのような現実を経験したことがない.もし仮に,わたしが,ケバケバしく過剰に見えるかもしれない Pride 行事における解放と歓喜の表現を断罪するならば,わたしは,安楽で特権的な場所から批判を行っていることになるだろう.もし仮に共感が欠けていれば,わたしは,Jesus が時をすごした辺縁的な場所へは行かないことになるだろう.わたしが prideful[傲慢]になることへの人間的な誘惑に対して用心するとしても,黒人トランス女性 — 彼女は,へたな方向へ街角をまがると殴打されるかもしれないと恐れ,あるいは,12の州では性同一性を理由にして合法的に解雇されるかもしれない — が prideful[自身に誇りを持つ]になっていけないわけがない.

カトリック教会の指導者たちは,Pride 行事について断罪の態度を取る前に,よりキリスト教徒的な答えをしようとするがよいだろう.そして,他者が経験する辛さや不愉快を追体験してみようとするがよいだろう.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年5月7日火曜日

満川元一氏の conversion therapy 関連の発言に対して

少年時代にいわゆる conversion therapy を強いられた Garrard Conley の体験記をもとにして制作された映画 Boy Erased[邦題:ある少年の告白](2018) のポスター

2019年05月06日付の東京新聞の記事によると:茨城県医師会副会長の満川元一氏(産婦人科医,もと水戸赤十字病院長)は,茨城県の主催する LGBT 支援策検討会議において,「性的マイノリティー(少数派)の人にマジョリティー(多数派)に戻ってもらう治療はないのか」と発言しました.

性的指向と性同一性 (SOGI : sexual orientation and gender identity) に関して伝統的な社会規範を疑問に付する人々を「矯正」し得ると主張する「治療」は,俗に conversion therapy または reparative therapy と呼ばれています.

日本においては,いわゆる conversion therapy に関する専門的な研究はまったく行われていませんが,USA においては,医学および心理学の諸学会は明確な結論を既にくだしています:いわゆる conversion therapy は,科学的に無根拠であり,治療的に無効であるばかりか,欝や自殺を誘発し得ることにおいて,有害である.

明らかに,そのことを満川元一氏はまったく知らないわけです.

そこで,わたし(ルカ小笠原晋也)は,彼に,若干の資料を添えて,以下の書簡を送りました:


2019年05月07日

満川元一先生

Re : SOGI に関するいわゆる conversion therapy の無効性と有害性について

拝啓,

初めまして.わたしは,ラカン派精神分析家です.都内で精神分析の臨床を行っています.また,カトリック信仰を有する LGBTQ+ の人々の信仰共同体 LGBTCJ の共同代表を務めています.

今月 6 日付の東京新聞で 記事「LGBT 支援検討会合 茨城県医師会副会長発言:多数派に戻る治療ないのか」を読みました.

そこにおいて先生が「性的マイノリティの人に性的マジョリティに戻ってもらう治療」と呼んだと報ぜられているものは,英語では,俗に conversion therapy または reparative therapy と呼ばれています.

性的指向と性同一性 (SOGI : sexual orientation and gender identity) に関するいわゆる conversion therapy ないし reparative therapy の無効性と有害性に関しては,日本では科学的な研究はまだ行われていないものの,USA では既に結論がくだされています:そのような「治療」は,科学的に無根拠であり,臨床的に無効であり,それどころか,自殺や欝を誘発することにおいて有害でさえあります.

その問題に関して手短にまとめられた American Medical Association (AMA) と American Psychiatric Association (APA) の文書のコピーを同封にてお送りします.是非,参考になさってください.

敬具


以上の内容の書簡を,満川元一氏へ送りました.

冒頭に上げた画像は,映画 Boy Erased[邦題:ある少年の告白](2018) のポスターです.少年時代にいわゆる conversion therapy を強いられた Garrard Conley の体験記をもとにして制作されたものです.そのような「治療」がいかに有害であり,非人道的なものであるかを知るために,是非,御覧ください.現時点(2019年05月07日)では幾つもの映画館で上映されています.


2019年5月4日土曜日

聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方


上の風刺画では,いかにも保守的で頑迷そうに見える牧師が三人がかりで(つまり,多数派)ひとりの gay(つまり,少数派)を,聖書で殴り殺しています.俗に聖書の "clobber passages"("clobber" は「激しく殴打して,叩きのめす」)と呼ばれる箇所に準拠して homosexuality を断罪する人々(ユダヤ教徒にせよ,キリスト教徒にせよ)を揶揄するものです.

いわゆる clobber passages については,『LGBTQ と カトリック教義』の § 1.3.2. "homosexuality と聖書  聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない" で詳しく検討してありますので,参照してください.

ひとつだけ例を挙げるなら :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13).


Julius Veit Hans Schnorr von Carolsfeld (1794-1872), Steinigung des heiligen Stephanus

ここで改めてそのような clobber passages に言及するのは,最近,聖書の文面を楯にとって Pete Buttigieg の homosexuality を非難する福音派牧師 Franklin Graham(Billy Graham の息子のひとり)の tweet を James Martin 神父様が批判しかえしているのを見かけたからです.

その際,James Martin 神父様は,2010年に書いた記事 Dr. Laura and Leviticus を,改めて紹介しています.聖書の clobber passages を楯にとって homosexuality を断罪する人を見かけたら,その記事に紹介されている傑作な反撃のしかたを思いだして,苦笑してください.

その記事において James Martin 神父様が言及している Laura Schlessinger は,もともと生理学者(インシュリンに関する研究で博士号を取得しているので,Dr と呼ばれています)ですが,ラジオで家族カウンセリングに関連するおしゃべりをすることで全米で有名になりました.そして,保守的なユダヤ教徒の立場から,homosexuality を断罪していました.

そのような発言をラジオでする Laura Schlessinger に対する批判文書が,Internet 上に出回りました.その匿名著者は,旧約聖書を字面[じづら]どおりに了解するならどのようなとんでもないことを言うことができるかを,そこにおいて展開しています.

James Martin 神父様による短い導入を含めて,その文書の邦訳を以下に紹介します.

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Dr. Laura とレヴィ記

James Martin, S.J.
2010年08月18日

Dr. Laura Schlessinger は,昨日,ラジオ番組から降りることを発表した[訳注:人種差別的な発言をしたことによって].そのことは,彼女がときおり披露する旧約聖書の原理主義的な読み方  特に,homosexuality が問題となるとき  に対するあの賢い反応を思い出させた.その匿名書簡は,2000年に最初に現れて以来,web 上に広く流通してきた(その出どころをつきとめることは困難であるにもかかわらず).それは,あらゆる種類の聖書直解主義に対する健全な解毒剤である.

[以下,匿名書簡]

Dear Dr. Laura :

神の律法に関して人々を教育するためにかくも多くのことをなさっているあなたに感謝します.わたしは,あなたのラジオ番組からとても多くを学びました.そして,そこで得た知識を,できるだけ多くの人々と共有しようと試みています.誰かが homosexual lifestyle を弁護しようとするときは,わたしは,単純に,たとえば,レビ記 18,22 :「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」の明確な断定を思い起こさせてやればよい.それを以て議論は終わり,というわけです.

しかしながら,わたしは,あなたからの若干の助言を必要としています — 神の律法の幾つかのほかの要素に関して;そして,如何にそれらに従うことができるかに関して.

1. レビ記 25,44[(前節で「イスラエルの同胞を奴隷としてはならない」と述べられたことに続いて,しかし)男性奴隷または女性奴隷が必要なら,まわりの国々から買いなさい]は,隣の国々から買った奴隷 — 男性奴隷も女性奴隷も — は所有してよい,と述べています.わたしの友人は,この律法は,メキシコ人には適用されるが,カナダ人には適用されない,と主張しています.説明していただけますか?なぜわたしはカナダ人奴隷を所有することはできないのでしょうか?

2. 出エジプト記 21,07[ある男が自身の娘を奴隷として売るなら,彼女は,男性奴隷と同じ条件のもとに奴隷の身分から解放されることはできない]が許しているように,わたしは,わたしの娘を奴隷として売りたいと思います.今の時代,彼女にいかほどの値段をつけるのが妥当でしょうか?

3. レビ記 15,19-24[女に月のものが訪れ,彼女の胎から血が流れ出ているときは,彼女は七日間,障りとなる.彼女に触れる者は,誰でも,その日のうちは不浄である.障りである女が寝たところは不浄となり,彼女が座ったところも不浄となる.彼女の寝床に触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.その上に彼女が座ったところのものに触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.彼女の寝床の上にあるもの,または,その上に彼女が座ったところのものの上にあるものに触れた者は,その日のうちは不浄である.もし,ある男が女と寝ているときに,彼女の障りの血が流れ出て,彼に付いたならば,その男は七日間,不浄であり,彼が寝た寝床はすべて,不浄である]によって,わたしは知っています:月のものの不浄の期間にある女に触れることは許されない,と.問題は,どうすればある女性が生理中であることがわかるか,です.もしわたしが「あなたは生理中ですか?」とたずねれば,大多数の女性は気を悪くするでしょう.


焼き尽くしの祭壇

4. レビ記 1,09[(主にいけにえとして献げる家畜を屠り,四つに切り分けたあと)内臓と脚を水で洗い,祭司は祭壇で全部を焼いて煙にする.それが,焼き尽くしの献げものであり,主にとって慰めの香りである]によって,わたしは知っています:わたしが祭壇で雄牛をいけにえとして焼くとき,それは主にとって快い香りを発する,と.問題は,わたしの隣人たちです.彼れらは,その臭いは彼れらにとっては快くない,と苦情を言います.わたしは彼れらを打ちすえるべきでしょうか?

5. わたしの隣人たちのひとりは,安息日に働くと言い張っています.出エジプト記 35,02[(週のうち)六日間,仕事をするが,七日目には,あなたたちにとって聖なるなにごとかがある.それは,安息日 — 主の休み — である.安息日に仕事をする者は,誰でも,死刑に処せられる]の述べるところによれば,その隣人は死刑に処せられねばなりません.わたしは,みづから彼を殺すよう道徳的に義務づけられているのでしょうか?それとも,わたしは警察にそうするよう頼むべきでしょうか?

6. レビ記 11,09-12[海のものであれ,河のものであれ,水に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいものは,ひれとうろこを持つものである.しかし,ひれとうろこを持たないものは,食べてはならない.それは禁ぜられている]によって,甲殻類を食べることは忌まわしいことであるのですが,わたしの友人は,それは homosexuality より忌まわしくはない,と感じています.わたしは賛同できません.あなたはこの問題に決着をつけることができますか?忌まわしさには程度の違いがあるのでしょうか?

7. レビ記 21,16-24 は「身体障碍者は神の祭壇に近づいてはならない」と規定しており,そのなかには「視力に欠陥のある者」も含まれています.告白するなら,わたしは,読書の際,眼鏡をかけます.神の祭壇に近づくためには,わたしの視力は完璧でなければならないのでしょうか?それとも,そこには解釈の余地があるのでしょうか?


payot と呼ばれる長いもみあげのユダヤ人男性

8. レビ記 19,27 は頭髪や髭に関して「あなたたちは,頭髪の縁[ふち]を,それが円を描くように切ってはならず,ヒゲの両側を切って,その形を変えてもならない」と禁止していますが,わたしの男友だちの大多数は,その禁を犯して,側頭部やもみあげを散髪してもらっています.彼らをどう処刑すべきでしょうか?

9. レビ記 11,02-08[陸に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいのは,分かれた蹄を有しており,かつ,反芻するものである.(それに対して)以下のものを食べてはならない — ラクダ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.イワダヌキ(訳注 : hyrax または rock hyrax — カワイイので,とても食べる気にはなれません): 反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ノウサギ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ブタ:分かれた蹄を有しているが,反芻しないから;あなたたちにとって,それは不浄である.それらの肉を食べてはならず,それらの死骸に触れてもならない.あなたたちにとって,それらは不浄である]によって,わたしは知っています:死んだブタの皮に触れると不浄になる.では,手袋をしていれば,ブタ皮でできたボールでフットボールをしてもよいのでしょうか?

10. レビ記 19,19 は「あなたの家畜のうち相異なるふたつの種[しゅ]どうしをつがわせてはならない;あなたの畑に相異なるふたつの種[しゅ]のタネを播いてはならない;相異なる二種類の糸で織られた混紡の布地の服を着てはならない」と禁止していますが,わたしの伯父[叔父]夫婦はその律法に違反しています.彼は,農場を所有していますが,同一の畑でふたつの異なる穀物を栽培していますし,彼の妻は,相異なる二種類の糸でできた布(綿とポリエステルの混紡)の服を着ています.彼は,また,たくさん,呪ったり,冒瀆的なことを言ったりします.いったい,本当に,わたしたちは,町じゅうをあげて,彼を石打刑にするという面倒なことをする必要があるのでしょうか?(レビ記 24,10-16 : 主の名を冒瀆する者は,石打刑に処せられる).もっと手軽に,プライベートな家族パーティーの場で,彼らを火刑に処することはできないのでしょうか — レビ記 20,14 に「ひとりの男がひとりの女とその母親の両方と寝たならば,それは淫らなことであり,彼れらは三人とも火刑に処せられる」と規定されているように.

Dr. Laura, わたしは,あなたがそれらのことがらを詳細に研究しており,それらのことがらについて専門的な知識をお持ちである,と知っています.ですので,あなたは助言することができる,とわたしは確信しています.

神のことばは永遠かつ不変であることをわたしたちに思い起こさせてくださったことに,改めて感謝します.

あなたを崇拝するファンより.

(もし本当にカナダ人奴隷を所有することができないのなら,ひどく残念なことです).

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以上が,USA のイェズス会の週刊誌 America の Internet 版に2010年08月18日付で掲載された記事 Dr. Laura and Leviticus の邦訳です.

以上のような揶揄が可能であるということは,このことを示唆しています:わたしたちは,聖書を読むとき,その文面を,その「意味」において「了解」しつつ読むだけで済ますことはできません.

そのような読み方にとどまるなら,Laura Schlessinger のようになります.先に引用したレビ記 20,13 :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」をそのように読むなら,「男どうしで性行為をする gay たちを処刑しろ」 と神は命じていることになります.ところが,本気にそう信ずるのは,今は,ごく一部のイスラム教原理主義者たちだけです.

そのような読み方を聖書に適用することはできません.では,どう読むのか?

わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ろうとします.ただし,ただ,やみくもに聴こうとすればよいのではありません.神がわたしたちに何を欲しているのかを前提する必要があります.

神はわたしたちに何を欲しているのか?わたしたちのために何を欲しているのか?それは,わたしたちの救済です.誰をも排除せず,あらゆる者を包容する愛を以て,神は,わたしたち皆を愛してくださっており,わたしたち皆を神のみもとへ救い出したい,と欲してくださっています.

そのことを前提にして,初めて,わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ることができます.

では,たとえば,レビ記 20,13 をわたしたちはどう読むことができるのか?まず「処刑」に関しては,神は,人間がほかの人間の生命を奪うことを許してはいません — たとえ,ある国の刑法に死刑が規定されいても,それは神の欲するところに適ってはいません.

聖書の律法書において「処刑」への言及があるとき,それは,人間が人間に対して為すことではなく,しかして,神が人間に対して為すかもしれないことです.

昔,今村昌平により映画化された佐木隆三の小説『復讐するは我にあり(1976) のおかげで日本でも有名になった聖 Paulus のローマ書簡の一節 (12,19) と,彼が引用した申命記の一節 (32,35) を思い出してもよいでしょう :「復讐と報復は,わたし[主]のものである」.あるいは,その少し後に見出される一節を思い起こしてもよいでしょう :「死なせ,生かすのは,わたし[主]である」(Dt 32,39).

しかし,それは,何か恐ろしげな「神罰」がくだされるというようなことではありません.そうではなく,このことです:神は,ある種の人間には永遠の命を与えてくださらない — より正確に言えば,ある種の人間には,「人間は誰しも,今,永遠の命を生きることができるのだ」ということに気づくことを許さない — ということです.

教皇 Francesco は,ある少女から地獄に関する質問を受けたとき,彼女にこう答えました:もしあなたが神に向かって「わたしには,あなたの愛は必要ありません」と言うなら,もしあなたが神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲するなら,そのとき,あなたは現に地獄にいるのだ.

神による報復は,そのようなものです.それが,神による処刑です.

しかるに,もし仮にあなたが今,地獄での死を生きていても(あるいは,地獄での生を死んでいても),あるとき,ふと,あなたが神の愛を欲するなら,神はあなたを赦し,死から永遠の命へ復活させてくださいます.

神による処刑は,常に,神による赦しと復活の可能性を包含しています.

では,「男が,女と寝るように,男と寝る」とは,如何なる事態を言っているのか?それは,単純に同性どうしの性行為のことを言っているわけではありません.それは,神による処刑 — 地獄での死を生きること  を招くような重大な行為です.それは,如何なる行為か?先ほど見たとおり,それは,神の愛を拒む行為,神の愛にもとる行為です.つまり,わたしが,神に愛されているひとりの人間を,神がその人を愛しているように,愛さないままに,単に欲望を束の間,満たすためだけに消費するとき,わたしは神の愛に背いています.

レビ記 20,01-16 においては幾つかのケースに関して死刑が規定されていますが,それらはいずれも,神の愛に背くことにかかわっています.たとえば,隣人の妻と姦淫を犯した男は処刑される,と規定されています.その場合,姦淫とは,愛の無い性行為,欲望を満たすためだけの性行為のことです.

ですから,単純に「男が男と寝れば,処刑される」ということではありません.姦淫の場合と同様,神の愛に背いて,単に欲望を満たすためだけにそうするなら,それは,地獄での死を生きる事態を招くことになる,ということです.同性どうしであれ,異性どうしであれ,愛を以て相手を尊重しない性行為は,そのような報いを受けます.

それに対して,同性どうしが,互いを神の愛し子として尊重し合い,互いに愛し合うなら,彼れらの性行為は神の愛に背くものではありません.ですから,忌まわしいものとして死罪に値するものではありません.

むしろ,冒頭の風刺画が示しているように聖書の文面を楯にとって gay を傷つけるような者たちこそは,神の愛に背いたことによって,地獄での死を生きるよう定められています  あるいは,たぶん,もう既に,今,現に,地獄での死を生きており,地獄での生を死んでいることでしょう.

ただし,そのような者たちも,何らかの機会にふと神の愛を少しでも欲することがあるならば,神による救済に与る可能性が無いわけではありません.

わたしたちは,聖書の文面をとおして,神の愛のことばを聴き取ろうと努めます.聖書の文面が神の愛を覆い隠してしまうような事態を招いてはなりません.

ルカ小笠原晋也

2019年5月3日金曜日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加して


予定どおり 4月28-29日に行われた Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加してきました.LGBTCJ は,両日ともブースを出展し,虹色十字架,虹色ロザリオ,冊子『LGBTQ と カトリック教義』などを販売しました.28日は,パレードにも参加しました.29日は,Juan Masiá 神父様 SJ が来てくださいました.

参加してくださった方々,御協力くださった方々,ブースを訪れてくださった方々,TRP の主催者,協賛者,皆さんに,改めて感謝します.

特に,Juan Masiá 神父様に感謝します.神父様は,ひと組の同性カップルに,彼女たちの求めに応じて,祝福を授けてくださいました.多分,日本では,カトリック司祭が同性カップルを公然と祝福してくださった初のケースだろうと思います.Muchas Gracias, Padre Juan Masiá !



28日のパレードの際に撮った動画としては,特にこれを選びました:



動画を加工してくれた Alicia に感謝します.

そのほかの写真は,LGBTCJ の Facebook ページのアルバムに収められています.よろしければ御覧ください.

今年の Tokyo Rainbow Pride は,パレード参加者の数が一万人を超え,二日間の来場者数は約20万人だったそうです. これだけ大規模になったこの行事が,日本においても LGBTQ+ の存在尊厳と人権が差別なく尊重されるようになる社会的な効果を生むよう,願っています.

今年は,LGBTCJ のような非営利団体のブース出展料金は五万円に設定され,昨年までよりも出展しやすくなりました.ブースの設営場所は,ステージからは若干離れたケヤキ並木道沿いでしたが,それでも,前を通り過ぎる人の数も,ブースに立ち寄ってくれる人の数も,とても多かったと思います.

キリスト教に多少とも関心のある人々は,過去においても現在においてもキリスト教の教義が homosexuality を断罪していることを知っており,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体が出展していることに驚きます.『LGBTQ と カトリック教義』は,まさにそのような人々のために書きました.実際,紙媒体に印刷して,製本したものを,LGBTCJ のブースで購入してくださった人々も,少なくありませんでした.

カトリック教会も,『カトリック教会のカテキズム』にこう書かれてあることを,もっと積極的に宣べ伝えるべきです:「彼れら[ homosexual の人々]は,敬意と共感と気遣いとを以て,[教会共同体に]受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」.この一節は,カトリック信者の間でもほとんど知られていないと思います.

カトリック教義は,一方で homosexuality を断罪しておきながら,他方で homosexual の人々を受容するよう言っています.それは,明瞭な矛盾です.それは,「homosexual な性行為は断罪されるべきであるが,そのような性行為を控える homosexual の人々なら受け入れてもよい」というような方便によってごまかされ得るものではありません.

その矛盾は,何に由来しているのか?それは,キリスト教の教義を合理的に基礎づけるために Thomas Aquinas (1225-1274) が導入した形而上学的な「自然法」(lex naturalis) と,キリスト教の本来的な基礎であり,よりどころである「神の愛」との矛盾に由来しています.

その矛盾のうえに建てられたカトリック教会は,今,とても動揺しています.教皇 Francesco は,カトリック教会を純粋に神の愛のうえに立て直そうとしています.しかし,自然法に執着する保守的な論者たちは,彼をあからさまに「異端」呼ばわりしています.

周知のように,菊地功東京大司教様の司牧標語は,「多様性における一致」(varietate unitas) です.diversitate unitas と言い換えてもよいでしょう.すばらしい標語だと思います.

「多様性」とは「複数の人間の間にはさまざまな差異や相違がある」ということですが,では,そこに「一致」をもたらすことは如何にして可能なのか?議会制民主主義において「多数決」の名のもとにしばしば行われるように,多数者が自身の律法を少数者に押しつけ,それによって少数者を抑圧し,排除すればよいのでしょうか?カトリック教会に関して言うなら,自然法という「絶対的」なものと思われる律法をあらゆる信者に押しつけ,それにそぐわない少数者を断罪し,排除すればよいのでしょうか?

当然ながら,答えは否です.そのようにしてもたらされる「一致」は,ただの全体主義にすぎません.

「多様性における一致」が本当に実現されるなら,それはこういう事態です:さまざまな差異や相違を有する複数の人々が,相互に異なるがままに,互いに尊重しあいつつ,相互に対立したり,無関心であったり,バラバラになったりしないようになる.

それは,如何にして可能なのか?まさに,神の愛によってです.神の愛こそが,相互に異なるわたしたちに,わたしたちが相互に異なるがままに,一致をもたらしてくれます — 神の愛が,わたしたちひとりひとりに宿り,隣人愛として作用することによって.

愛は,聖霊の賜です.神は愛であり,神は,あらかじめ,わたしたちひとりひとりを愛してくださっています.それに気がつき,それに感謝するとき,わたしたちは,主 Jesus Christ がわたしたちを愛してくださるように,わたしたちも隣人を愛することができるようになります.

神の愛によって隣人を愛することは,死から永遠の命への復活を今,生きることであり,原罪からの解放としての罪の赦しを今,生きることです.(死から永遠の命への復活は「死後の生」のことではありません.)

カトリック教会がまことに神の愛に立脚することができるよう,主 Jesus Christ および主の使徒の頭の後継者である教皇 Francesco とともに,わたしたちも神の愛を生きましょう.

カトリック教会は,LGBTQ+ の人々をただ単に「敬意と共感と気遣いとを以て受け容れる」だけでは不十分です.むしろ,わたしたちは,多様性における一致のもとに,LGBTQ+ の人々とともに,カトリック教会を立て直して行きたいと思います.

それが可能となるのは,包容的な神の愛によってのみ (Solo Amore Dei Inclusivo) です.

ルカ小笠原晋也

2019年4月23日火曜日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加しましょう


わたしたち LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 LGBTCJ は,今年も Tokyo Rainbow Pride に参加します.

4月28日,29日の両日,出展します.ブース番号は 186 です(けやき並木道の NHK ホール入口に近いところです).ブースでは,虹色十字架,虹色ロザリオ,パンフレット『LGBTQ とカトリック教義』などの販売,配布をおこないます.



28日は,パレードにも参加します.事前登録の必要ない I Have Pride のフロートに参加する予定です.

わたしたちといっしょに TRP に参加しましょう!

LGBTCJ のブース (186) に是非,お立ち寄りください.

ブースを手伝ってくださる方も,歓迎です.部分的でかまいません.御協力くださる方は,lgbtcj@gmail.com へ御連絡くださるか,または,当日,直接わたしたちのブースへおいでください.

なお,全面的に come out しているわけではない方は,当日,大きめのサングラスや帽子などを着用し,服装も普段とは異なるものになさるよう,お勧めします.

2019年4月21日日曜日

主の御復活おめでとうございます

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata

なぜ主の復活のお祝いのメッセージに Maria Magdalena の肖像を添えるのか — しかも,復活した Jesus に近寄ろうとする彼女に対して発せられた彼の言葉 "Noli me tangere"(わたしに触れるな)の主題のもとに描かれた数々の名作のひとつではなく,神秘的な恍惚の状態にある彼女を描いた Caravaggio の作品を?

その理由は,Jesus は決して Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と禁止したりはしなかった,ということだけではありません.

話はちょっと横道にそれますが,説明しておきましょう.そうです,復活した Jesus は Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と冷たく禁止したりはしませんでした.

ヨハネ福音書 20 章 17 節で,何と言われているか?ギリシャ語の原文では,彼は彼女にこう言っています : μή μου ἅπτου.

文法的に説明すると,ἅπτου は動詞 ἅπτεσθαι[自身を ...へ固定する,つかむ,とらえる,しがみつく,触れる]の二人称単数の命令形です.μή は否定辞です.ですから,その文は確かに一種の否定命令 — つまり,禁止 — を表してはいます.しかし,それは単なる「触れるな」ではありません.

もし単純に「わたしに触れるな」という禁止を言うのであれば,古代ギリシャ語では,動詞を接続法アオリストに活用して,μή μου ἅψῃ と言うはずです.それに対して,Jesus が Maria Magdalena に発した言葉 — 直説法現在の否定命令 μή μου ἅπτου — が示唆しているのは,こんな光景です:復活した主を見て,彼女は,喜びのあまり,彼に抱きついた(あるいは,もし彼女は地面にひざまづくか,ひれ伏していると想像するなら,彼女は彼の下半身に抱きついたか,彼の足を手で握りしめた); そして,彼女がいつまでもそうしているので,Jesus は彼女に優しく言った :「わたしにしがみつき続けるな — いつまでもそうしていないで,いいかげんに放してくれよ」.

Vatican の web site に提示されている ラテン語聖書 では,当該箇所は,"noli me tangere" ではなく,"noli me tenere" と訳されています.つまり,「わたしをいつまでも[地上に]とどめておかないでくれ」.その方が,それに続く言葉 :「なぜなら,わたしはまだ御父のところへ昇っていないのだから」ともよりよくつながります.

最新の聖書協会共同訳では,いまだに「わたしに触れてはいけない」と訳されています.もはや,それは誤訳であると言わざるを得ません.

話をもとに戻すと,この記事の挿絵として "Noli me tangere" ではなく,恍惚の Maria Magdalena の肖像を選んだのは,単に Jesus は彼女に「わたしに触れるな」とは言わなかったからだけでなく,しかして,そもそも,死者たちのうちから復活した主は,40日間,幽霊のような地上的な「存在事象」として,彼女や弟子たちとともに「存在」したはずはないからです.

わたしは,むしろ,こう思います:福音書に物語られていること — 復活した Jesus は最初に女たちに(特に Maria Magdalena に)現れた — が真理を表しているとするなら,それは,このことである:つまり,十字架上で処刑された Jesus は,今,我々が Maria Magdalena と呼んでいるひとりの女性(または,女性たちの一団)において(「の『こころ』のなかで」とは言いません),死から永遠の命へ「復活」したのだ.そして,そのことは,同時に,彼女が Jesus によって永遠の命へ「復活」させられた,ということでもある.

まさに,Maria Magdalena における「復活」の成起を以て,キリスト教と呼ばれる信仰は誕生しました.それがいつのことなのか — Jesus の処刑(推定,紀元30年)から三日めのことなのか,何週間ないし何ヶ月か後のことなのか,あるいは何年も後のことなのか — は,定かではありません.勿論,最初のパウロ書簡(第一テサロニケ書簡)が書かれたと推定される紀元51年より前であることは確かですが.

Caravaggio が描いた恍惚における Maria Magdalena の肖像は,彼女における Jesus の「復活」の瞬間と,それと同時的な彼女自身の「復活」の瞬間 — すなわち,キリスト教の誕生の瞬間 — の図像化である,と言うことができます.

使徒 Paulus は,ユダヤ教聖典の解釈によってキリスト教神学を形成して行く作業のなかで,Jesus の「復活」がひとりの女性において成起したという事実を無視しました.しかし,口承の伝統においては Maria Magdalena は忘れ去られることはなく,彼女の名は福音書のなかにしっかりと書きとめられました.そして,彼女は,主の復活を使徒たちに告げ知らせた第一証言者として,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]の称号のもとに崇められています.彼女における「復活」の成起がなければ,キリスト教は誕生し得なかったのです.

もうお気づきのことと思いますが,「復活」は,「よみがえり」でも「死後の世界」のことでもありません.それは,わたしたちに,生物学的な意味における「死」の後に起こる何ごとかではありません.

もし仮にそう考えるなら,それは仏教の浄土信仰と本質的に何ら変わらないことになってしまいます.死後に天国ないし浄土に行くことが,今,生きていることよりもより重要なことになってしまいます.そして,それは,「我々は,今,生きており,今,実存している」ということの「かけがえのなさ」を,相対化し,むしろ,「死後の生」よりもより軽いもの,より非本質的なものと見なすことになってしまいます.そして,そのような思念は,キリスト教をも,仏教と同様に,単なる葬式のための儀式へ変質させてしまうことでしょう.また,さらには,自殺のみならず,「生きて存在していることは四苦八苦にほかならず,諸行無常であるのだから,人間たちをすべて,できるだけ早く涅槃に至らしむることこそが,彼れらを救済することになる」という邪悪な他殺の思想をさえ正当化することになるでしょう.

キリスト教は,そのような仏教と同じではあり得ません.なぜなら,「死から永遠の命への復活」は,死後に起きる何ごとかではなく,しかして,今,生きている我々において成起することであり,かつ,我々が今,生きているからこそ,我々において成起し得ることであるからです.

キリスト教の教義において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている事態は,単なる神話ではありません.そうではなく,人間が今,神の命(存在)を生きる,ということです.そして,それが可能なのは,神は,御自身の命(存在)を以て,人間を生かせて(存在させて)くださっているからです.

人間の生は,単なる生物学的な生に還元され得るものではありません.人間が生きている生は神御自身の生であり,人間の存在は神御自身の存在です.

先ほど,「主は Maria Magdalena の『こころ』のなかで復活した」と言うのは適当ではない,と言いました.その理由は,こうです:かかわっているのは,「こころ」ではなく,存在である;主は,Maria Magdalena の存在そのものにおいて復活したのであり,彼女のみならず,あらゆる人間の存在において復活する;そして,ひとりの人間の存在において主が復活するということは,同時に,その人間が復活するということである.

無からすべてを創造する神は,我々ひとりひとりを創造するとき,我々ひとりひとりの存在を神御自身の存在によって可能にしてくださいました.そのことに気がつき,そのことに感謝しましょう.そのとき,我々は,死から永遠の命への復活を自覚することができ,その喜びを生きることができるからです.

そして,その喜びは,原罪からの解放としての罪の赦しの喜びでもあります.

死から永遠の命への復活と,無からの創造と,罪の赦し — それら三つの教義が如何に密接に関連しあっているかが,示唆されます.

ところで,今年の聖週間は,本当に悲しい週でした — 我々が愛する Notre Dame de Paris の火災のゆえに.それは,まるで乙女マリアの火刑を目の当たりにするような苦痛でした.

今日,復活の主日,ある意味で,我々が感ずる主の復活の喜びは,復活した主と出会った Maria Magdalena が感じたであろう喜びと同じです — かけがえのないものの喪失を経験した後の喜びである限りにおいて.

もうひとつ,重大な喪失を,我々は最近,味わいました.カトリック聖職者による青少年および女性に対する性的虐待の構造的な蔓延による〈カトリック教会そのものへの信頼の〉喪失です.

一方は偶発的な喪失であり,他方は必然的な喪失です.しかし,それらふたつの喪失をほぼ同時に経験した我々は,そこから新たな創造が成起し得ることを予感します — 聖職者中心主義によらないカトリック教会と律法中心主義によらないカトリック信仰の可能性が,改めて我々に与えられたのです.

ある意味で聖職者中心主義を象徴する Notre Dame de Paris の建設は,12世紀に始まりました.今 thomisme と呼ばれている律法中心主義を象徴する聖トマス・アクィナスが生きたのは,13世紀でした.両者は,homosexuality と transgender を断罪し,排除するカトリック教会の象徴でもあります.

Maria Magdalena の経験がキリスト教信仰の出発点であったとすれば,聖職者中心主義も律法中心主義も,我々の信仰には異質なものであり,不要なものです.

今日,復活の主日,わたしたちは,改めて,キリスト教の原点である Maria Magdalena の経験を経験しなおしましょう.

主の御復活,おめでとうございます!

ルカ小笠原晋也

2019年4月18日木曜日

Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?



Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?


(USA のイェズス会の週刊誌 America のインターネット版に2019年04月16日付で発表された James Martin 神父 SJ の記事 — 動画つき — を翻訳して紹介します.)

昨日の痛ましい Notre Dame de Paris の火災は,世界を驚きと悲しみのうちにひとつにしたように思える.Jesus Christ の受難と死と復活を世界中のクリスチャンが記念する聖週間の始まりに起きたこの象徴的な出来事は,ほとんど耐え難いものだ.告白すると,わたしは,あのすばらしい古い教会が燃えるのを見ながら,泣いた.


中世の石のカテドラルから煙が吹き出し,木の屋根から炎が跳ね上がり,そして — たぶん,最も悲惨な瞬間 — 屋根を飾る金属製の尖塔が燃えかすのように焼け落ちたとき,わたしたちの多くは,Jesus の受難と死を思わずにはいられなかった.彼が十字架上で公開処刑される間,ちょうど昨日のように,群衆は,恐れおののきながら見つめていた — 自身を無力なものと感じ,悲しみに打ちのめされ,「いったいわたしに何ができるというのか」と自問しながら.

群衆のなかには,Jesus の母 — Our Lady, Notre Dame — がいた.聖母マリアは,まさに知っている — 愛する者が苦しみ,死んで行くのを見ながら,何もできずに,そのかたわらにたたずむということが,どういうことであるかを.

しかし,聖母マリアは,また,ある意味で,あの悲しみのときに神は彼女とともにいることも,知っている.

だが,わたしたちは,こう問うこともできるだろう:昨日,パリで,神はどこにいたのか?

その答えは:神は,いたるところにいた.ひざまづき,祈り,Ave Maria や Lourdes の聖歌を歌う群衆のなかに,神はいた.人々は,祈り,歌いながら,聖母マリアの助けを求めていた — 彼女の教会が燃えるのを目の当たりにしながら.そのような人々の姿は,深い信仰の表現だった.そして,神はそこにいた.

神は,消防士たちのなかにいた.フランスの霊気的な心を象徴する建物が燃えるなかへ,彼らは,自身の危険を顧みず,飛び込んで行った.それは,まさに,神の愛の喩えだ.神は,どれほどわたしたちを愛しているか? — 燃え上がる建物のなかに救助のために飛び込んで行く消防士ほどに.

そして,神は,消防隊付の司祭[Jean-Marc Fournier 神父]とともにいた.彼は,カテドラルの最も貴重な聖遺物 — イェスに被せられた「いばらの冠」と信ぜられているもの — を救い出すために,自身の生命を危険にさらした.その聖遺物は,Notre Dame de Paris の建物の物語が主の受難と死とに密接に結びついていることを,生き生きと想い起こさせてくれる.

昨夜遅く,火が消し止められた後,わたしたちは,劇的な光景を目の当たりにした:十字架である.それは,煙が立ちこめるカテドラルのなかで,祭壇の上に高々と輝いていた — クリスチャンの希望の力強い象徴として.


希望こそ,究極のメッセージだ.そして,そのことを最もよく知っているのは,Notre Dame[聖母マリア]にほかならない.彼女は知っている:苦しみが最後の言葉なのではない,と.

聖週間の物語は,単純に死と破壊の物語であるわけではない.それは,より重要なことに,希望と新たな命の物語だ.聖金曜日は,復活の主日なしには意味をなさない.聖母マリアは知っている:希望は絶望よりも強く,愛は憎しみよりも強く,命は死よりも強い,と.そして,彼女は知っている:神がともにいてくだされば,不可能なことは何も無い,と.クリスチャンとは,悲しみを知りつつも,希望のうちに生きる人々である.

この動画に映し出されるイメージを見つめながら,そして,来る年月のうちに再建されて行くだろう Notre Dame de Paris とともに,Notre Dame[聖母マリア]の祈りを請い願おう — 彼女は,苦しむ者とともにいるということが何を意味するかを知っており,かつ,新たな命の約束に希望を持つということが何を意味するかをも知っている人である.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)