2019年2月13日水曜日

日本におけるカトリック聖職者による青少年に対する性的虐待事件 — 被害者自身による初の証言


今月21-24日,Vatican で,世界各国の司教協議会の長を招集して,カトリック教会における青少年に対する性的虐待の問題と未成年者の保護の問題に関する会議が開かれます(通称 Vatican sex abuse summit : ヴァチカン性的虐待サミット).

それに対する皮肉のごとくに,今までも homosexuality に関する著作を多数発表している社会学者 Frédéric Martel 氏が,Vatican に内在的な homosexuality に関する研究書 Sodoma — Enquête au coeur du Vatican[ソドム — ヴァチカンのただなかにおける調査](英訳表題 : In the Closet of the Vatican : Power, Homosexuality, Hypocrisy[ヴァチカンの隠し所:権力,ホモセクシュアリティ,偽善]を,その会議の初日に合わせて出版します.

そして,日本でも,カトリック聖職者による性的虐待の被害者が,初めて,みづから名のり出ました:竹中勝美さんです(1956年生れ — わたし[ルカ小笠原晋也]と同い年です).彼の証言が,文藝春秋2019年03月号に発表されました.以前に彼が洗礼名「エドワード」名義で発表した書簡の方が,記事よりも,彼の痛々しい経験をなまなましく伝えています.

それによると,竹中勝美さんは,初等教育期間を東京サレジオ学園で過ごしました.1955年から 6 年間,学園の小中学校の校長を務めた Thomas Manhard 神父 SDB (1915-1986) から,竹中さんは,9-10歳ころ,頻繁に性的虐待を受けました.その後遺症は,長年にわたって彼を苦しめ続けました.

わたしは東京学芸大学附属小金井小学校中学校に通っていたので,そのすぐ近くにあるサレジオ学園の名前はなじみのものでした.そのなかで子どもたちに対する虐待が頻繁に行われていたのかと思うと,今さらながら,強いショックを感じます.ともあれ,竹中さんの勇気をたたえるとともに,彼の証言が日本におけるカトリック教会の改革に貢献してくれることを願いたいと思います.

今までも繰り返し強調してきたように,カトリック聖職者による青少年に対する性的虐待の原因は,加害者の homosexuality に存するのではありません.そうではなく,カトリック教義が homosexuality を厳しく断罪していることこそが問題です.

カトリック聖職者には castitas[貞節,貞潔]の義務が課せられています.その義務を果たし得るためには,単に性欲を「我慢」すればよいのではなく,しかして,欲望の昇華 (sublimation) が達成されていなければなりません.欲望の昇華に至るためには,自身の sexuality に関する自覚と内省の多大な努力が必要です.

ところが,教義が homosexuality を断罪しているせいで,gay である神学生の場合,排斥と否認のメカニズムが働き,自身の sexuality に対する自覚的な取り組みをすることが困難になってしまいます.すると,どうなるか?「わたしは,女性に接しても性欲をまったく感じないから,性的な問題を克服することができている」とカン違いしてしまいます.そして,司祭に叙階され,たまたま,身近に子どもたちがいる環境で働くことになると,どうなるか?排斥されたものの回帰の症状として,抑えがたい性的衝動が襲ってきます.子どもに手を出してはいけないとわかっていながらも,その行動を抑制することはどうしてもできません.そして,適当な合理化のもとに,性的行動を強迫的に反復することになります.

では,神学生から gay を除外すればよいのか?それは,技術的に不可能です.まさに教義による homosexuality 断罪のせいで,gay である神学生は自身が gay であることを自覚し得なくなっているからです.そのような場合でも有効な「homosexuality 探知機」として機能し得る心理テストのようなものは,ありません.勿論,直接の面接によっても,確信的に察知することはできません.

Vatican は,考え方を根本的に方向転換する必要があります.教義における homosexuality に対する断罪を即座に廃するべきです.homosexual である人々が教会のなかで抑圧されているように感じざるを得ない雰囲気を変えるべきです.

聖職者が gay であっても,それはまったくかまわないことです  castitas の義務が守られているならば,つまり,性的欲望の昇華が達成されているならば.

そして,それは,heterosexual の聖職者の場合にも,当然,当てはまります.司祭による女性に対する性的暴力の事件も,昔から,かつ,最近も,大きな問題になっています.

人間存在は,本来的に性的なものです.神が人間をそう創造したからです.性的な欲望の問題については,それにフタをして,そこから目をそらしていたのでは,解決は得られません.欲望の昇華にこそ主題的に取り組むべきときがきたのだ — わたしは,精神分析家として,そう思います.

ルカ小笠原晋也

2019年2月6日水曜日

Franz-Josef Overbeck 司教 :「カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」

Bischof Franz-Josef Overbeck

神学雑誌 Herder Korrespondenz の2019年02月号にドイツの Essen 教区の Franz-Josef Overbeck[フランツヨーゼフ・オーヴァーベック]司教がゲスト・コメンテーターとして書いたテクストが,LGBTQ+ 関連のニュースのなかで話題になっています.題して :「偏見を克服すること ! カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」(Vorurteile überwinden ! Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern). 

Franz-Josef Overbeck 司教は,1964年生れ.1989年,25歳時に Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)により司祭に叙階.神学博士.2007年に司教に叙階され,2009年から Essen 司教,2011年からドイツ連邦軍指導司教.

彼がその寄稿において言っていることは,わたし(ルカ小笠原晋也)の主張とほぼ一致しているので,御紹介したいと思います.

ただし,最後の方で彼は「同性どうしが性的関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問い」に関して判断保留を表明していますが,わたしは,カトリック教会において,性的指向や性同一性 (sexual orientation and gender identity : SOGI) にもとづくあらゆる差別は,同性カップルに結婚の秘跡を授けないという差別も含めて,如何なる条件においても正当化され得ない,と考えています.

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偏見を克服すること ! 

カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない 

Vorurteile überwinden ! 
Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern
Von Franz-Josef Overbeck

今,homosexuality についてどう考えるかという問いほど,カトリック教会のなかで人々を熱くさせる問題はほかにほとんど無い.全世界的に見れば,homosexual の人々にとっては,最小限の対人的な敬意を払ってもらうことさえ必ずしも確実ではない.カトリック教会において,より立ち入ったしかたで homosexuality に関する道徳的な価値判断の問題に取り組むことは,現在,喫緊の課題である.それは,[聖職者による青少年に対する]性的虐待に関する MHG 調査[Mannheim, Heidelberg, Gießen の三大学の研究所による合同調査;20189月にドイツ司教協議会に報告された]の検討から出発した議論の流れのなかで,カトリック道徳学を考慮に入れないでおくべきではない,というドイツ司教協議会の要請に応えるためである.仮定および問いとしてかかわっているのは,このことである:もしかして,sexuality に関するカトリック教会の教えの幾つかの内容が,人間の sexuality の諸現象を不幸にもタブー視することを促したのではなかろうか?そのことは,特に homosexuality について妥当する.なぜなら その推察によれば 教会の[homosexuality に関する]あのように否定的な見方は,個々人の心理においても,また,ついには,教会組織においても,[homosexuality という]性の現象形態の不健全な排斥を または,否認をさえ 促進したからである.

ここで,何をどう関連づけようと,ひとつのことは確かである:ひとりの人間の性的指向 heterosexual であれ homosexual であれ そのものは,性的虐待の原因と見なされることはできないし,かつ,そうされてはならない.また,専門家の見解によれば,pedophilia homosexuality との間には,いかなる内的な関連性も無い.それゆえ,たとえば,性的虐待の問題は,司祭職への門戸を自分は heterosexual だと感じている男たちだけに制限することによって解決され得る,と主張するとすれば,それはまったくの見当違いであろう.そのような対策によっては,まさに,教会内における排斥 問題多き排斥 を惹起したあの態度が継続され,さらには強化されることになるのではなかろうか?とわたしは自問する.また,そのような対策によっては,性的虐待というこの非常に複雑な問題に関して我々は確実な解決法を既に所有している,という危険な錯覚が大きくなることにもなるのではなかろうか?

ひとつのことは確実である:あらゆる人間は,きわめて敬意と愛に満ちた対人関係に与り得る.そこから特定の人間集団を排除するとすれば,それは,当事者にとっては耐え難い偏見の表現であり,つまるところ,彼れらを差別し,犯罪者扱いすることをさえ助長する.従来どおり,ひたすら自然法 [ Naturrecht, lex naturalis ] にもとづいて homosexuality を知覚し,評価することを単に繰り返すだけならば,教会と密なつながりを持つ信者たちの間でさえ,教会の性道徳に対する信頼性の劇的な喪失を阻止することはできないだろう この懸念は根拠がある,とわたしは思っている.

いかなる観点においてであれ「sexuality を人間的なものにする」こと [ Humanisierung von Sexualität ] は,今日,同じ程度に「sexuality personal なものにする」こと [ Personalisierung von Sexualität ] を意義している.この背景を前にして,もし仮に sexuality に関する問いにおいて人々の経験 および,人々の経験を反映する人間科学 との対話を忌避するならば,なおさら,カトリック道徳学は,知的領域において一顧だにされなくなる危険をおかすことになる.

この数十年間の聖書解釈学や道徳神学の認識との対話も,学びと認識の進歩が始めから排除されてはいないようなしかたで行われているはずである.そのようであってこそ,伝統は,キリスト教の始まり以来そうであるように,生き生きとした出来事であり続ける.キリスト教道徳が理性に適うものであることに賭け,それとともに,「単純明瞭」であるかのごとくに見える答えを選ぶよう誘惑する原理主義に抵抗することは,カトリック神学の強みに属すことであるのだから,カトリック教会の教えは,人間の実存が性的なものであること および,そのことについてより深く知ること に対して,自身を閉ざしてはならない.

それは,性道徳の問い 特に homosexuality の問い については,このことを意義する:すなわち,文化と時代によって条件づけられた諸表象 それらは,同性どうしの sexuality に関する聖書の文言へも輸入されている について,この[伝統を生き生きとした出来事にする]光のもとに,新たに省察し,聖書的倫理の基本的な かつ,ある意味で「時代を超えた」 諸様相からそれら[文化と時代に条件づけられた諸表象]を明確に区別すること.そこにおいては,「識別能力」 それを以て,聖書的な伝統と教会の伝統の多層性のなかから,今日,何を如何なるしかたで妥当なものとせねばならないかを我々が見つけ出し得るところの「識別能力」 が問われている.そも,正当にも,カトリック教会には,あらゆる時代において善とまことに人間的なものと そこにおいて神の意志が我々と出会うところ を探し求めることが,期待されている.

それゆえ,人間の sexuality に関する認識が深められることによって,過去の時代のもろもろの偏見 それらは,今日に至るまで致命的に影響を及ぼしている が克服されるならば,それは,基本的に言って,カトリック教会にとって喜ばしい限りである.homosexuality の「脱病理学化」は,当事者たちにとっては,過去と現在における 部分的には途轍もない 受難の歴史からの遅すぎる解放を意義する.この数年間,当事者たちとの多くの対話は,わたしに多くのことを考えさせ,わたしの心を動かし,わたしの視野を広げてくれた.それゆえ,今や homosexuality に関する[性道徳的な]知覚と価値判断に関して教会内で議論すべきときとなったとしても,その議論は,当事者たちが過去に受けた傷 その傷口は,まだほとんど瘢痕化していない がまた新たに口を開くことのないようなしかたで為されるべきである.その歩みは,同性どうしが[性的]関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問いからは切り離した形で,計画表のなかに予定されている.いずれにせよ,homosexuality というテーマに関して,我々は,第二ヴァチカン公会議の確信を心にとめるべきであろう:「謙虚に,かつ,辛抱強く,ものごとの秘密を探求しようと努める者は,みづからはそうと気がついていない場合でも,神の手によって導かれているかのごとくである 万物を支えつつ,あらゆるものが,それが其れであるところのものであるようにしている神の手によって」(GS 36).

(ルカ小笠原晋也による翻訳)

2019年2月4日月曜日

菊地功東京大司教様に LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を届けましょう

菊地功大司教様と LGBTCJ 共同代表 小笠原晋也
2017年12月25日10時からの降誕祭ミサ後,東京カテドラルの敷地内にて
小笠原が手に持っている本は,大司教様の著書『真の喜びに出会った人々

菊地功 東京大司教様は,2019年01月の東京教区ニュースに掲載されている彼の新年の挨拶の文章のなかでもおっしゃっているように,彼の宣教司牧方針の策定のために信仰共同体からの意見を募集しています.

2018年05月20日付で発表された「多様性における一致を掲げて」のなかで列挙されている10の課題:

1 : 修道会の垣根を越えた、教区における司牧協力体制の充実
2 : 滞日外国人司牧の方向性の明確化と見直し
3 : 継続信仰養成の整備と充実
4 : 現行「宣教協力体」の評価と見直し
5 : カトリック諸施設と小教区・教区との連携
6 : イベントの豊かさだけではなく、霊的にも豊かな共同体の育成
7 : 信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実
8 : 文化の多様性を尊重した典礼の豊かさの充実
9 : 教区全体の「愛の奉仕」の見直しと連携の強化
10 : 東日本大震災への取り組みに学ぶ将来の災害への備えの充実

に関して,「そのすべてでもかまいませんし,また一部でもよいのですが、それぞれの共同体の中で是非とも話し合っていただいて,意見を交わし、それを集約した上で、文書をもって,皆様の提言を私に御提出いただけませんでしょうか。ひとつでも多くの小教区共同体や修道院共同体からの御意見や御示唆をお待ち申し上げます。御提出いただく期限は、2019年の聖霊降臨(6月 9日)といたします」(2019年01月08日付東京教区ニュースより)とのことです.

2019年01月14日の「東京教区年始の集い」でお会いした際に,大司教様に直接確認したところ,LGBTCJ からも是非,意見を寄せて欲しい,とのことです.

というわけで,大司教様から与えられたこの宿題に答えたいと思います.特に「霊的に豊かな信仰共同体の育成」や「信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実」の項目が,わたしたち LGBTQ+ カトリック信仰共同体と関連性が高いと思います.

意見交換や議論の手段についてですが,LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いは議論の場所としてはふさわしくないので,メーリングリストを利用したいと思います.

まず,意見交換や議論のためのメーリングリストを作成したいと思います.参加希望者は lgbtcj@gmail.com へ「リスト参加希望」と表記したメールをお送りください.登録の期限は特に定めません.

そして,御意見を lgbtcj@gmail.com へお送りください.

お送りくださった文面は,メールアドレスや個人名を伏せた形で,メーリングリスト参加者全員へ配信します.

その意見に関する御意見等も,lgbtcj@gmail.com へお寄せください.その文面も,同様に,メールアドレスや個人名を伏せた形で,メーリングリスト参加者全員へ配信します.

顔を見ながら意見交換する機会を持ちたいという御意見が多ければ,Skype での会議の機会を持つか,または,5月26日に予定されている LGBTQ+ みんなのミサの後に,分かち合いの集いとは別に,会合の時間を取りたいと思います.

意見書の文面は,皆さんの意見と議論にもとづいて,わたし(ルカ小笠原晋也)が作成し,5月末または 6月始めにメーリングリスト参加者全員へ配信します.そして,その文面に関する皆さんの意見にもとづいて,最終的な形に整えたいと思います.

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菊地功大司教様は,2019年01月21日付のブログで「シノダリティ」について書いていらっしゃいます.

「司教たちのシノドス」(Synodus Episcoporum) は,教皇のための助言組織として,1965年,聖パウロ VI 世教皇によって設立されました.菊地功大司教様がブログで言及している「シノドス」は,若者をテーマに,2018年10月に行われたものです.

「シノドス」という語はギリシャ語の σύνοδος に由来しており,その語は共に (σύν) 道 (ὁδός) を歩む」ことに由来しています.

ですから,教皇 Francesco が「シノダリティ」(synodality, sinodalità) を強調するとき,そこには,組織の頂点に位置する者の教条的な独断や独裁とは逆に,愛を以て司教や教皇が一般信徒と共に歩み,その声に耳を傾け,愛を以て司牧することが含意されています.菊地功大司教様も,この synodality の精神を確かに実践しようとなさっています.

ブログで菊地功大司教様が言及している 2018年10月28日の Angelus の際の話のなかで,教皇 Francesco は明らかに LGBTQ+ のことに言及しています.日本語訳は,イタリア語原文ではなく英訳を邦訳しているので,誤訳している部分があります.当該箇所をイタリア語で読み直してみましょう:

Con questo atteggiamento fondamentale di ascolto, abbiamo cercato di leggere la realtà, di cogliere i segni di questi nostri tempi. Un discernimento comunitario, fatto alla luce della Parola di Dio e dello Spirito Santo. Questo è uno dei doni più belli che il Signore fa alla Chiesa Cattolica, cioè quello di raccogliere voci e volti dalle realtà più varie e così poter tentare un’interpretazione che tenga conto della ricchezza e della complessità dei fenomeni, sempre alla luce del Vangelo. Così, in questi giorni, ci siamo confrontati su come camminare insieme attraverso tante sfide, quali il mondo digitale, il fenomeno delle migrazioni, il senso del corpo e della sessualità, il dramma delle guerre e della violenza. 
この「聴く」という基本的な態度を以て,わたしたちは,現実を読むこと — わたしたちの時代の徴を捉えること — に努めました.共同体的な分析が,神の御ことばと聖霊との光のもとに為されました.それは,主がカトリック教会に与えた最もすばらしい賜のひとつです:すなわち,非常に多様な現実から[さまざまな]声と顔を集め,そして,それによって,現象の豊かさと複雑さを考慮にいれた解釈を試み得る — 常に福音の光のもとに — という賜です.かくして,この26日間,わたしたちは,数多くの挑戦 — たとえば,情報化された世界,移民の現象,身体と性の意味,戦争と暴力のドラマ — を受けながら如何に共に歩むかについて,討議してきました.

この「身体と性の意味」(il senso del corpo e della sessualità) という表現は,明らかに LGBTQ+ のテーマを指しています.教皇が LGBT という語を用いなかったのは,シノドスを準備する段階の文書には LGBT という語が用いられていたのに,最終報告書からはその語は削除されてしまったからでしょう.

ともあれ,教皇 Francesco が LGBTQ+ の人々のことを気にかけているのは,周知のとおりです.

東京大司教区においても,LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を菊地功大司教様に届けましょう.

ルカ小笠原晋也

2019年1月28日月曜日

Vincent Nichols 枢機卿が LGBTQ ミサ司式


「主の洗礼」の祝日であった2019年01月13日,カトリック Westminster 大司教区(London を含む地域)の大司教,Vincent Nichols 枢機卿は,イエズス会の Church of the Immaculate Conception で LGBTQ+ ミサを司式しました.


以前にも紹介しましたように,Westminster 大司教区では毎月二回,第二日曜日と第四日曜日,その教会で LGBTQ+ ミサが行われています.つまり,1月13日のミサは,今年最初の LGBTQ+ ミサでした.Vincent Nichols 枢機卿が LGBTQ+ ミサを司式するのは,今回で二度目です.

記事によると,説教のなかで,枢機卿は,新たな包容的な「家族」の定義を提示しました.彼は,まず,洗礼によってキリスト教徒全員はひとつの根源的な同一性を与えられている,と述べました.その同一性は,ほかのあらゆる同一性(属性)を越えます.この洗礼によって与えられた一致は,愛に根ざしており,その愛は,結婚および家族生活を含むさまざまな友愛的関係に深く参与することにおいて,生きられます.

2018年12月30日(聖家族の祝日)付の司牧書簡においても,Vincent Nichols 枢機卿は,“being at home”[自宅で,自分の家族と家庭のなかで,安らいでいる]という表現の意義について論じています.それは,単に「肉と血」のつながりに負うものではなく,しかして,我々を生かしてくれる愛と友情すべてを祝い,そのことについて神に感謝することです.「家族」という語は,生き方の多様なパターンと次元 — つまり,異性カップルの家族のみならず,同性カップルの家族も,奉献生活の共同体も — を含意し得ます.

ミサ後のスピーチで,Vincent Nichols 枢機卿は,LGBTQ+ ミサの世話役をしているグループ LGBT+ Catholics Westminster を称賛し,それは,カトリック教会のなかで at home であることができる LGBTQ+ の共同体として,Westminster 大司教区における迎え入れと包容の重要な徴である,と述べました.

ルカ小笠原晋也

2018年12月24日月曜日

降誕祭の御挨拶,ルカ小笠原晋也 LGBTCJ 共同代表

Charles Le Brun (1619-1690), Nativité (1689), Musée du Louvre

主の御降誕おめでとうございます!

神とわたしたちをつなぐ愛のしるしとして,神は,御自身のひとり子 Jesus をわたしたちのところに使わしてくださいました.そして,それによって,わたしたちひとりひとりを,神の子としてくださいました.神の愛の恵みに感謝しましょう!そして,その善き知らせに喜びましょう!

世界的に言って,カトリック教会は,この一年間,聖職者による青少年に対する性的虐待の事件によって大きく揺るがされました.多数の被害者のために改めて祈りたいと思います — 性的暴力による心的外傷の作用は,適切な治療を受ける機会がなければ,何十年間でも持続し得ます.

周知のように,カトリック聖職者の pedophilia の問題と,それに起因する性的虐待の事件とが大々的に表面化したのは,2002 年,The Boston Globe 紙が Boston 大司教区におけるスキャンダルを暴露したことによってでした.しかし,実際には,カトリック教会はその全歴史を通じてその問題を抱え続けてきたはずです.21世紀初頭に至るまで,事件はひたすら隠蔽されてきただけです.

聖職者の pedophilia の問題を隠蔽しながら,他方で,カトリック教会は何をしてきたか?一般信徒における homosexuality の断罪です — あたかも,そうしておきさえすれば聖職者の pedophilia の防止のために十分であるかのように.何という偽善と欺瞞に満ちた態度でしょう!

カトリック教義における homosexuality の断罪を条件づけているのは,実は,聖 Thomas Aquinas によってキリスト教に輸入された Aristoteles 形而上学です.それによって,形而上学的な目的論がカトリック教義に持ち込まれました.生殖を目的としない sexuality は許されないという思念は,それに根拠づけられています.詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』を参照してください.

LGBTQ がカトリック教会に対して提起している問題は,実は,単に sexuality にかかわることだけではありません.むしろ,カトリック神学に染みついた Aristoteles - Thomas Aquinas の形而上学を,我々は今やそこから一掃しなければならない — その非常に本質的に重要なことを,LGBTQ はカトリック教会に教えてくれました.わたしは,今年,そのことに明確に気がつくことができた,と思っています.

今月の始め,教皇 Francesco の新たなインタヴュー本『召命の力』が出版されました.出版に先立って,homosexuality に関する部分の抜粋がイタリアの新聞に掲載され,それにもとづいて,英語圏では「教皇は,カトリック教会から homosexuality を排除するよう方向転換した」とさえ報道されました.しかし,それは誤解です.そのことを検証したブログ記事「『召命の力』のおける教皇 Francesco の homosexuality に関する発言についてを別に書きました.是非お読みください.

わたしたちの月例 LGBTQ+ みんなのミサは,2016年07月の開始以来,二年半続いています.主に感謝!そして,今までに御協力くださった神父様がた,一般信徒の方々,会場を提供してくださっているカトリック施設の責任者の方々,そして,ミサ参加者の皆さんに,改めて感謝します.来年以降も継続して行くことができますように!そして,ほかの都市においても,同様の活動が広まって行きますように!

教皇 Francesco は,2018年03月,非常に注目さるべき使徒的勧告 Gaudete et exultate を発表しました.しかし,そこにこめられた彼のメッセージは,性的虐待スキャンダルのせいであたかもすっかり忘れ去られてしまったかのようです.あらためて,その最後の段落 (nº 177) を引用しておきたいと思います:

以上の文章が,全教会が聖性の欲望 [ il desiderio della santità ] を奨励することに専念するために有用であることを,わたしは望む.聖霊に求めよう:神の最大の栄光のために,聖なるものでありたいという強い欲望 [ un intenso desiderio di essere santo ] をわたしたちのうちに注ぎ込みたまえ,と.そして,聖なるものであろうとする努力において,わたしたちは互いを助け合おう.そうすれば,わたしたちは,世がわたしたちから取りあげ得ない幸福を,分かち合うことになるだろう.

新たな年2019年が,カトリック教会にとって,形而上学を超克するための新たな出発の年となりますように!そして,それによって,ますます,神の全包容的な愛に忠実になって行くことができますように!それこそ,第二ヴァチカン公会議において示唆されたカトリック教会の方向性です.

改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!

ルカ小笠原晋也

降誕祭の御挨拶,ペトロ宮野亨 LGBTCJ 共同代表

Gerard van Honthorst (1592-1656), Anbetung der Hirten, Wallraf-Richartz-Museum, Köln

クリスマスメッセージ

主イエスの救いのメッセージをみなさんと共有する喜びに感謝!

12月16日の LGBTQ+ みんなのミサの後の集いで,私は,聖書翻訳の例を分かち合いました.

その言語を話す北方の民族の方々には,「喜ぶ」という単語がなかったそうです.「喜ぶ」という表現を調べ尽くしたところ,「シッポを振る」が誰にでも伝わる表現だという結論になったそうです.

喜びがない人達ではなくて,家畜を自分のようにして命を共有しているからだ,というのが私の直感です.

聖書学者,翻訳者たちは,呻吟苦悶したそうです.だって,「イエスはシッポを振った」っていう文章が聖書に書かれるのですから(と,わたしは,分かち合いの集いで言いました).

すると,学者の鈴木伸国神父様は,その日のうちにその話の出典を見つけてくださって,ご返事をくださいました.


Carl Heinrich Bloch (1834-1890), Christus Consolator, Brigham Young University Museum of Art


原著は:

Mark Stibbe 著,Every Day with the Father : 366 Devotional Readings in John’s Gospel[毎日,御父とともに — 信仰を以てヨハネ福音書を読む366日]

第346日 :「弟子たちは,[復活した]主を見て,大喜びした」(ヨハネ 20:20)
わたしは憶えている,牧師になるトレーニングを受けているとき,学校で必ず出席せねばならない礼拝にあまり行きたくなかったことを.わたしは非常に多忙で,せねばならないことがたくさんあったので,本当は礼拝に行きたくはなかった.しかし,あるとき,聖書をイヌイットの言語に翻訳する仕事に携わっている牧師が説教に来た.そのとき彼が言ったことは,今でもわたしの記憶に残っている.彼は,次のような話を我々にした:
ヨハネ福音書 20 章 20 節に来たとき,翻訳者たちは途方に暮れた.イヌイットの言語には抽象的な概念を表す言葉が無く,いかに「大喜びする」という観念を伝達する動詞を見つけるかは,難問だった.ヨハネはこう言っている:復活した主を見て,弟子たちは大喜びした.「大喜びする」は,ギリシャ語原文では χαίρειν であり,それは「喜ぶ,うれしい」である.イヌイットの言語にはそのような動詞は無い.そのとき,翻訳者たちはどうしたか?彼れらは,まず,祈った.すると,彼れらのうちひとりが,完璧な解決を思いついた.彼は,イヌイットの男たちとハスキー犬とのきづながどれほど分かちがたいものであるかに気づいていた.男たちは,朝起きると,犬たちのところに行く — 犬たちを外に出してやり,そして,犬たちにそりを引かせるために.犬たちは,飼い主を見ると,大喜びして,シッポを振る.そこで,彼は,ヨハネ 20:20 のイヌイット語訳のためのそのアィディアを使うよう,提案した.ほかの翻訳者たちも同意した.かくして,イヌイット語聖書ではこう言われている :「主を見たとき,弟子たちはシッポを振った」. 
読者諸氏が犬を好きかどうかはわからないが,わたしは犬が大好きだ.わたしは,いつも犬といっしょに生きてきた.結婚以来,わたしたちは三匹の黒いラブラドールを飼ってきた.彼れらは皆,とても忠実な友だった.今飼っている犬は,モリーという名だ.わたしが帰宅するとき,必ず彼女はわたしを待っており,わたしを見て,喜びのダンスを踊る — シッポを激しく振って. 
復活した主イェスを見たとき,弟子たちはそのように大喜びしたのだ.彼らは,大喜びでシッポを振ったのだ! 

実は,この後が私の分かち合いたい気持ちです.

教会共同体は,「人間が喜ぶ」という言葉をイヌイットに押し付けず,「今 & ここ」で使われている気持ちや言葉を大切にして,人々に伝わるように聖書の表現を変えました.

私の言い方ですと:神に愛されるために,私は何も変わらなくて良い.全能の神が自在に,私に合わせて変わってくださる.神が変わったときの気持ちすら,私は知るすべがない.だけど,私は「喜ぶ」という気持ちがよく分かる.

これを,私達 LGBTCJ で思い直してみます.きっと,神様は,私達にフィットする表現で福音宣教を可能にしてくださいます.

私達には「シッポを振る」という汎用言語はありませんけれど.

この先,私達一人ひとりの気持ちや言葉を紡いでいけば,長い撚り糸ができて,それで布ができます.縦糸横糸の役割があっても,90度合わせば,縦横の役割も変わります.そして,誰をも包み込めるほどの肌触りの良い布になるでしょう.その後は,必要な方に合わせて,自在に断裁されて,縫い合わせられるでしょう.私達の布は,世界中で使われる布になっていきます.

皆さん,クリスマスは,みんなでシッポを振りましょう!

ペトロ宮野亨

『召命の力』のおける教皇 Francesco の homosexuality に関する発言について


2018年12月,クラレチアン宣教会 (Congregatio Missionariorum Filiorum Immaculati Cordis Beatae Mariae Virginis : CMF) のメンバーであるスペイン人司祭,教皇庁立サラマンカ大学の神学教授,Fernando Prado による教皇 Francesco のインタヴューが,一冊の本として出版されました.その表題は,La forza della vocazione — La vita consacrata oggi[召命の力  今日の奉献生活]です.

「奉献生活」は,一般には耳慣れない語かもしれません.おおざっぱに言えば,自身の生を神に奉じた修道士や修道女の生き方のことです.

Fernando Prado 神父は,奉献生活にテーマをしぼって,2018年08月09日の午後,数時間にわたって,教皇 Francesco にインタヴューしました.そのなかでは,当然,修道士や修道女の養成の問題が取り上げられています.そして,奉献生活に入ろうとする候補者が homosexual である場合についても論ぜられています.

このインタヴューがどのようなタイミングで行われたのかを,想い起こしましょう:その12日前,教皇は,青少年に対する性的虐待のゆえに Theodore McCarrik 氏を枢機卿の地位から事実上,解任したばかりです.

2018年,聖職者による青少年に対する性的虐待の事件が改めて大々的に報道され,世界的にカトリック教会に対する不信感が高まりました.

そのような文脈において,12月始め,出版に数日先だって,La forza della vocazione の homosexuality に関連するくだりの抜粋が,イタリアの新聞で紹介されました.その記事は,英語圏でも広く紹介され,日本語でも報道されました:教皇 Francesco は homosexuality を単なる「最新流行」(fashionable) と見なし,カトリック教会には受け容れ難いと発言した,というような印象を与えるしかたで.

12月16日に行われた LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いにおいても,教皇の言葉にショックを受けた,と言った人がいました.

わたしは,La forza della vocazioneスペイン語版イタリア語版フランス語版をさっそく注文しました.フランス語版はすぐに届きましたが,このブログ記事を書いている時点で,スペイン語版とイタリア語版はまだ来ていません.ともあれ,フランス語版にもとづいて,および,イタリア語の新聞で紹介されているイタリア語版の抜粋にもとづいて,教皇 Francesco が homosexuality について語っている一節を含む部分(フランス語版で pp.76-85)の私訳を,以下に掲載します.

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神の聖なる忠実な民に仕えるための養成

フランシスコ教皇,あなたは,あるとき,奉献生活[神に奉ぜられた生:修道士や修道女などのこと]のための養成について語ったとき,それは「警察的な仕事」というよりは「職人的な仕事」である,と言いました.何をおっしゃりたいのか,もう少し説明していただけますか?

わたしが言いたいのは,奉献生活のための養成のスタイルのことです.それは,養成される者のあるがままの在り方を奉献生活にもっとふさわしいものにせねばなりません.カリスマの原理に則って,奉献生活の候補者たち つまり,そのために養成される者たち を,男性であれ女性であれ,彼れらのあるがままの在り方において,少しずつ奉献生活にもっとふさわしいものにすること 彼れらに寄り添いながら.それは,職人的な作業です.彼れらを見つめ,一歩一歩,彼れらに寄り添う.我々は,彼れらに教義を伝えます.彼れらの言葉に耳を傾けます とくに,彼れらが内的に感じていることがらについて彼れらが語る言葉に.彼れらが語り出してくることと,彼れらがどのような人間であるかとにもとづいて,我々は,彼れらに分別[見分けること,判断すること]を教えます.逆に,警察の比喩を改めて用いるなら,警察スタイルは,人間を規制し,制御しようとするスタイルです そうするよう,そうであるよう要請されていることと規則とに候補者が従うように.規則を尊重しない候補者は,排除されます.規則を尊重するなら,それで良し.候補者たちに〈彼れらの成長の過程において〉寄り添うことは,ありません.若者たちは,そうするよう,そうであるよう要請されていることに,単純に適応すればよい.そのようなやり方は,長期的には,彼れらが抱えている問題を隠してしまいます.そして,隠された問題は,後になって現れてきます.

家族においてと同様,ひとりの人間の成長を助けるということは,常に,職人的な作業です.もし親が子どもに寄り添わず,放っておくなら,悪い結果になります.子どもはよく成長することができません.親がそこにいて,よい環境を作り,言うべきときにしっかり「否」と言い,そして,「否」ないし「然り」と言う理由を子どもに説明する.親は,子どもたちに付き添い,寄り添います.

今日,ひとりひとりに寄り添うことのない[奉献生活候補者の]養成は,考えられません.今日,養成者[奉献生活候補者を養成する者]であることは,まったく容易なことではありません 親であることが容易でないのと同様に.養成者は,霊気的[スピリチュアル]な親であらねばならず,その能力を有していなければなりません.分別と憐れみと忍耐を有していなければなりません.本当に,今日,養成者であることは複雑な任務です.とても複雑です.できあいの行動モデルはありません.しかし,あなたは,組織のカリスマを持っており,奉献生活の概念も経験も持っており,福音も手にしている.神があなたを助けに来てくださるように!

あなたは,また,人を「全的」に養成し得るよう注意を払うことの重要性,および,神の忠実な民を養成することを究極的な目標とすることの重要性を,強調なさっています.また,「怪物」を作らないよう注意せねばならない,とまで言っています.何をおっしゃりたいのですか?

まず最後の質問 悪しき養成がどのような帰結をもたらすか から答えましょう.候補者の選別の重要性は,既に話題にしました.今度は,既に養成を始めて,あるいは終えて,まもなく司祭や修道者になる者たちの養成のことを話題にしましょう.わたしが最も懸念している悪しき養成の帰結のひとつは,聖職者至上主義 (cléricalisme)です.それは,疑い無く,奉献生活の最も重大な倒錯のひとつです.より一般的に言って,聖職者至上主義は,カトリック教会の生命を損なう倒錯です.ですから,奉献生活においても,司教区の神学校における司祭養成においても,この問題領域に関して非常に注意深くあらねばなりません.聖職者至上主義は倒錯です なぜなら,それは,第二ヴァチカン公会議の憲章 Lumen gentium が述べているように,教会 神の聖なる忠実な民 の性質を倒錯させてしまうからです.それは,とても肝腎なことです.なぜなら,奉献生活のために,あるいは司祭となるために養成を受けている者たちは,神の民に仕える者となるからです.

どのような意味において,修道士生活における聖職者至上主義について問題にすることができるでしょうか?

聖職者至上主義者であるために司祭や司教である必要はありません.上の方を向いて,差別的な態度 悪い意味での「差別」 を以て生きている者たちにおいて顕わになってくる聖職者至上主義があります.他者に対して貴族のような態度を以て生きている人々です.聖職者至上主義は,貴族主義です.修道士や修道女でも,聖職者至上主義者であり得ます.聖職者至上主義者になるのは,ミサを司式するからではなく,貴族階級に属していると思い込むからです.一般的に言って,貴族的な生活態度にともなうことです.それは,自分は,自分以外の〈神の聖なる忠実な〉民よりも上位に位置している,と人々に信じさせようとする態度に表れてきます.聖職者至上主義,貴族主義,エリート主義のあるところには,神の民はいません 神の民こそがあなたに聖職者の地位を与えるにもかかわらず.

あなたに教会のなかの地位を与えるのは,神の聖なる忠実な民です.あなたに教会のなかの地位を与えるのは,小教区においては人々との近しさであり,学校では子どもたちや子どもたちの親,病院では患者たちです.聖職者至上主義者であるような修道者は,人々のなかに入って行けません.それが鍵です.「人々のなかへ入る」こと (insertion), それがキーワードです.正当にも第二ヴァチカン公会議後に用いられるようになった表現のひとつです.ときとして,多分,それは正しく用いられず,過小評価されたかもしれませんが,しかし,わたしは,それは聖霊の息吹によって与えられた表現だと心から思います.それは,この Marko Rupnik のモザイク壁画に描かれていることに沿うものです.それは,民のなかへ入るために身を低くしたイェスσυγκατάβασις (condescendence)[身分の高い者が身分の低い者と同じ水準へ身を低めること]です.

聖職者至上主義は,人々なかへ入ることとは逆のことです.聖職者至上主義者は,エリートに属しており,民のなかに居場所を見いだせません.そこから,多くの帰結が生じ得ます 特に,権力の行使が良くないしかたで行われている場合には.後ほど見るように,聖職者至上主義は多くの問題の根源です.青少年に対する性的虐待のケースの背後にも,聖職者至上主義が見いだせます ほかの未熟さや神経症に加えて.聖職者至上主義に関しては,養成の過程において非常に注意深くあらねばなりません.未熟さを見分け,明らかにする手助けをし,健全な成長の過程において寄り添う そうせねばなりません.

全的な養成 (formation intégrale) の必要性については,どうでしょうか?

いかにも,養成は,人間の本質的な諸次元をカバーせねばなりません.それは,奉献生活の候補者についても,司教区の神学生についても,言えることです.養成は,四本の柱をよりどころとすべきです:霊気的生 (la vie spirituelle), 共同体的生,勉学的生,そして,使徒的生.それらはすべて,相互作用を及ぼしあうべきです.養成される人間を状況のなかに置かねばなりません.共同体における生は非常に重要です なぜなら,そのような状況において,反応として,限界が現れてくるからです.共同体的生において,各人は互いに識り合い,わたしたちはほかの者たちによって識られます.とても明白に現れてきます.ある被養成者が自身の限界に対処し得ない,ということに養成者が気づいたなら,注意が必要です.なぜなら,神経症や或る種の未熟さの徴があるなら,どう導くか,どう対処するか,ほかの者たちとは別にするか,等々を考えねばならないからです.しかし,どうかお願いだから,限界を 自分自身の限界にせよ,他者の限界にせよ 無慈悲に扱わないようにしましょう.限界にうまく対処するようにしましょう 四つの次元(霊気的生,共同体的生,勉学的生,使徒的生)において.

限界にうまく対処する

「限界にうまく対処する」という表現によって何を考えていらっしゃるのか,もう少し説明していただけますか?

わたしが言いたいのは,こういうことです 限界を恐れてはなりません.限界に寄り添い,そして,可能なら,限界を乗り越えることができるよう工夫しましょう.ひとつの逸話をお話しましょう.ある司祭が恋に落ちた.彼はそのことを司教に言いに行った.どうすればよいのか,彼は自分ではわからなかった.多分,今までしてきたことをすべてやめるべきかもしれない,と彼は考えた.彼は,自分が恋をしており,恋愛対象の女性の姿を常に追い求めている,と感じることにひどく恐怖を覚え,問題が次第にますます大きくなって行くのを感じた.実際には彼は何もしてはおらず,事はすべて,多分,若干思春期的な強迫観念だった.しかし,彼は怖くなり,どうするべきかと思案して最初に浮かんだ考えが,司教に相談しに行くことだった,というわけです.彼は正しいことをしました.父の愛を求めに行くことは,何と大きな救いであることか.危機や問題は,常にあります.それを恐れてはなりません.

わたしは常々,司祭たちに言っています:「どうか,人々の限界を無慈悲に扱わないように」.誰かが告解しに来たら,その人がしたいように告解させなさい.あのこと,このことに関して根掘り葉掘り問いただしたりしないように.その人の限界を,その人の傷を,無慈悲に扱わないように.あなたがわかったことに応じて,その人に助言を与えなさい あなたがその人に与えたいと思い,かつ,その人が受け取ることのできるだろう助言を.その人に合った助言,良い助言を,ひとつだけ.そして,その人がまた戻って来れるよう,あなたのドアを常に開けておきなさい その人がこう言い得るように:「あの神父は良い人だ.また会いに行こう」.

実例をもうひとつお話しましょう.Aurelio Luis Calori 神父のことです.彼はブエノスアイレスにいた司祭で,わたしが幼い子どもだったとき,そして,もう少し後,わたしが少年だったとき,わたしは彼のことをよく知っていました.後に彼は,大きな小教区の主任司祭になりました.わたしは,彼から多くを学びました.わたしの目には,彼は神の人であり,また,詩人でした.乙女マリアに献げられたとても美しい詩を,わたしは憶えています.彼はこう歌っています:「わたしは,さか巻く水を行く海賊だ...」.とても美しい詩です.そして,最後,自身の過ちを悔いて,彼は乙女マリアにこう言います:「マリア様,今宵,わたしは心から約束します.が,念のため,ドアに鍵をつけたままにしておくことをお忘れにならないよう,お願いします」.

常に,扉を開けたままにし,人々が入ってこれる空間を空けておかねばなりません 限界を責めたりせずに.養成を受けている若者たちが悔いるとき,彼れらが耐えることができる限りにおいて,彼れらを支え,彼れらを助けねばなりません.それが養成において必要なことだと思います 限界の克服を強制することなく,若者たちを養成することです.養成する側として選ばれた者たちにも注意を払う必要があります.養成する側の者たちのなかにも,神経症的な者がおり,若者たちの限界を無慈悲に扱ったり,若者たちが成長するのを助ける代わりに,彼れらを潰してしまったりします.

養成の過程において看過することのできない限界もあるでしょうか?

勿論です.たとえば,非常に神経症的で,精神の安定を欠いており,治療的な助けによっても導くことが難しい候補者は,受け入れてはなりません 司祭職にも奉献生活にも.そのような者たちについては,見棄てることなく,しかし,司祭職や奉献生活以外の道を歩むよう,彼れらを助けねばなりません.彼れらのために歩む道を方向づけてやらねばなりません.しかし,司祭職や奉献生活に受け入れてはなりません.教会 キリスト教共同体,神の民 に奉仕するために生きる者たちを養成するのだ,ということを,常に念頭に置いておきましょう.その目標が地平線上にあるのだ,ということを忘れないでおきましょう.彼れらが心理的にも情緒的にも健全であるよう,見守るべきです.

奉献生活や司祭職のなかに homosexual の傾向を有する者がいることは,もはや誰の目にも秘密ではありません.そのことについては,どうお考えですか?

そのことは,懸念材料です.なぜなら,その問題にしかるべく対処しなかった時代があったからです.今しがた分かち合ったことがらの続きにおいて言うなら,我々は,候補者を,彼れらが人間的かつ情緒的に成熟し得るよう,養成することに,多大な注意を払うべきです.我々は,真剣に見分けるべきであり,教会自身が有する経験の声を考慮に入れるべきです.それらすべてに関して見分けることに十分な注意を払わないとき,問題は大きくなります.先ほども言ったように,問題はとりあえずは顕在化してこないが,後になって初めて現れてくることがあります.

homosexuality の問題は,養成過程の開始時から,候補者たち自身とともに もし彼れらが homosexual であるなら 正しく見分けて行かねばならないとても重大な問題です.我々は,要求水準を高くせねばなりません.社会では今,homosexuality は「はやり」(di moda) であるようにさえ思われており,その心性は,多少なりとも,教会の生にも同様に影響を与えています.

ある司教が憤慨していました.彼は,わたしにこう語りました:彼の司教区 とても大きな司教区 に,homosexual 司祭が複数いることがわかり,そのことに対処せねばならなくなった.彼は,まず,ほかの司祭職を養成するするために,司祭養成の過程に介入した.そのような現実を,我々は否定することはできません.奉献生活においても同様に,homosexual の修道士や修道女が必ずいます.ある修道会の長がわたしに語ってくれました:彼の修道会の管区のひとつに公式訪問した際,優秀な若い神学生たち,および,既に修道立願を済ませた修道士たちのなかに,gay が幾人かいる,とわかって,彼は驚きました.彼自身は,この問題について疑念を持っていたので,彼はわたしに「何か問題があると思われますか」と質問してきました.そして,彼はこう言いました:「結局のところ,homosexuality はさほど重大なことではありません.単に,ひとつの愛情表現です」.しかし,その考えは間違っています.単なる愛情表現 (espressione di affetto) の問題ではありません.奉献生活のなかにも司祭生活のなかにも,そのような種類の愛情表現には居場所はありません.であればこそ,教会はこう勧めています:ある人々のなかにその性向が根づいているなら (le persone con questa tendenza radicata), 司牧職務にも奉献生活にも彼れらを受け入れないように.司牧職務も奉献生活も,彼れらの居場所ではありません.homosexual である司祭や修道士や修道女に対しては,我々は,彼れらが完全に貞節を守って生きるよう,勧告せねばなりません.特に,二重生活[つまり,貞節を守らないままに修道士ないし修道女であり続けること]を送ることによって彼れらの修道会や神の聖なる忠実な民を憤慨させることが決してないように,彼れらが重大な責任感を持つよう,勧告せねばなりません.二重生活を送るくらいなら,むしろ,司牧職務や奉献生活から離れるがよいのです.

永続的な養成に関してですが,ヴァチカンの Congregazione per gli Istituti di Vita Consacrata e le Società di Vita Apostolica (CIVCSVA)[奉献生活の養成所と使徒的生活の会のための聖省]は,修道立願した後に奉献生活や司牧職務から離れてしまう修道士や修道女のケースについて,ある種の不安を感じているようです.いかにして永続的な養成を確かなものにすることができるでしょうか?危機や困難に陥ったときに召命において辛抱強く生き続けて行くことができるために,いかに手助けすることができるでしょうか?

先ほど言った四つの柱に戻りましょう:祈りの生,共同体的生,勉学の生,使徒的生.それら四つの方向性を支えねばなりません しかも,常に寄り添いによって.修道士や修道女は,より年長の,より経験のある兄弟姉妹とともに道を歩むようにすべきです.そのような寄り添いは必要です.寄り添うことができ,聴くことができるための恵みを求めることも必要です.しばしば,奉献生活において,修道会の管区長が直面する最大の問題のひとつは,ある兄弟姉妹がひとりで道を歩んでいる事態です.どうなるか?誰も寄り添わないのか?つまるところ,寄り添ってくれる人が誰もいなければ,我々は,奉献生活のなかで,成長することもできなければ,養成されることもできません.

修道士や修道女がひとりで道を歩むことのないように,我々は気をつけねばなりません.そして,そのことは,自明なように,即席でできることではありません.誓願前の修練の時期から,寄り添ってもらう習慣をつけねばなりません.その習慣を持つのは,良いことです.なぜなら,もし良い寄り添い者がいなければ,悪い寄り添い者を探すことになってしまうかもしれないからです.ひとりでは,道を歩むことはできません.奉献生活者は皆,良い寄り添い者を探し,その寄り添いを受け入れるべきです コントラストとなってくれることができ,相手の話を聴くことのできる寄り添い者です.理想的な者を見つけるのは,多分,容易ではないかもしれません.しかし,多少とも兄貴の役を果たしてくれることのできる誰か 対話することができ,信頼することのできる誰か は,必ずいます.

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改めて強調しますが,このインタヴューにおいて,教皇 Francesco は,もっぱら奉献生活 — つまり,修道士や修道女 — について論じているのであって,修道士でも修道女でも司祭でもない一般信徒のことを問題にしているのではありません. 

LGBTQ+ であろうとなかろうと,また,離婚と再婚の経歴があろうとなかろうと(2016年の使徒的勧告 Amoris laetitia においても取り上げられていたように,家族の問題について考えるとき,homosexuality と並んで,結婚と離婚と再婚も,カトリック教会においては大問題のひとつです:あるカップルが結婚したとき,もしそれが本当に結婚の秘跡によるものであるなら,人間がそのきづなを解くことは決してできず,民法上は離婚が成立しても,教会法上は婚姻関係は解消され得ませんから,したがって,民法上は認められる再婚も,教会法上は重婚と見なされてしまいます — 最初の結婚が実は無効であったと認められない限り),一般信徒に関しては,教皇の姿勢は一貫しています:絶対的と見なされるような律法にもとづいて一般的な観点から断罪するのではなく,しかして,目の前にいるひとりの人を,神の被造物である同胞として,神の愛と慈しみを以て歓迎し [ accogliere ], その人に寄り添い [ accompagnare ], その人が語ることに耳を傾け,その人が有する苦悩,困難,問題を分析し [ discernere ], さまざまな条件を考慮にいれつつ,その人を教会共同体の一員にする [ integrare ] ために包容する [ includere ] — それが,教皇 Francesco が日ごろから奨励しているやり方です.

つまり,LGBTQ+ の人々について,同性どうしの性行為をしているか否か,性別適合のための医学的処置を受けているか否か,等々,そのようなことを教皇 Francesco は問いません.ある人が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,その人はカトリック教会に歓迎されます.

それに対して,基本的に修道会のなかで男どうし — または女どうし — の共同生活を営む修道士や修道女の場合は,条件が異なります.彼れらは,自身の生を神に奉ずるため,貞節の誓願を立てます — 清貧と従順の誓願とともに.

もし homosexual である者が修道士や修道女となった場合,どうなるか?もし貞節の誓いが性的な欲望の昇華のもとに立てられたのではなく,単に性的欲望が抑えつけられただけの状態である場合,homosexual の者にとっては貞節の誓いを守ることが heterosexual の者よりも困難になるだろう,ということは,容易に察せられます — なぜなら,欲望の昇華が達成されていない場合,homosexual の者は,同性どうしの共同生活のなかで,性的な欲望の対象となり得る他者と出会う可能性が,heterosexual の場合よりも高いからです(欲望の昇華に関しては後述します).

そもそも,カトリック教義が homosexuality を断罪するようになった歴史的な出発点は,修道会共同体のなかで修道士や修道女が同性どうしで性的行為に及ぶことの防止と禁止に存していたはずです.そのことは,6 世紀に聖ベネディクトが修道院を設立し始めた当初から問題となっていただろう,と容易に察せられます.そして,当初は修道会共同体のなかでだけ遵守さるべきものとされていた同性どうしの性的行為の禁止は,カトリック教会の歴史のなかで,いつのまにか一般信徒にまで拡大適用されるに至ったのでしょう(その歴史的経緯を調べた研究があるかどうかは,まだ確認していません).

その限りにおいて,教皇 Francesco も,カトリック教会の規定方針を追認しています:すなわち,奉献生活に入るために養成を受けている者が homosexual であるか否かを吟味し,そうであることが確認されれば,その者を奉献生活には受け入れないように.

しかし,教皇は,homosexual である修道士や修道女(既に誓願を立てている者たち)を修道会共同体から排除しろ,とは言っていません.単に,貞節の誓願を厳格に遵守するよう命じているだけです.そして,もしそうすることができないなら,奉献生活から離れるよう,命じています.

それは,当然のことです.そして,貞節の誓願の遵守は,homosexual であるか heterosexual であるかにかかわらず,あらゆる奉献生活者が自身に課したことです.もし仮に貞節であることができないのなら,homosexual であるか heterosexual であるかにかかわらず,修道会共同体から離脱すべきです.

インタヴューにおいて用いられている「愛情表現」(espressione di affetto) という語は,同性どうしの者たちの性的な行動のことを指している,と理解されます.「表現」ですから,「行動に表されたもの,行動化」(acting out) です.修道会共同体の内部での homosexuality の行動化は容認されない — まったく当然です.

そして,奉献生活者の貞節の誓願に関して言われていることは,修道会に所属していない聖職者(司祭や司教)の独身の約束にも,そのまま当てはまります.聖職者には,異性どうしであれ同性どうしであれ,性的な acting out は容認されません.pedophilia の acting out は,なおさら容認されません.

この『召命の力』のインタヴューに関して,「教皇はカトリック教会全体から homosexual の者を排除するよう命じた」というような意味合いの報道が為されましたが,それは単純に誤読であるか,あるいは,メディアが好むセンセーショナルな誇張です.そのようなことを教皇 Francesco はまったく言っていません.

我々としては,むしろ注目したいのは,教皇 Francesco が二度にわたって指摘しているこのことです:養成課程の始めにおいて,あるいは,養成の全期間をとおして,隠されていた問題が,後になってから顕在化して来ることがある.そのような好ましからざる事態を防止せねばならない.

どうしてそのような事態が生じ得るか?教皇自身の表現によれば,それは「警察的」な養成のスタイルによってです.つまり,律法や規則の遵守を強制するだけで,被養成者に寄り添う姿勢を欠いている場合です.

そう述べたとき,教皇 Francesco の念頭には,当然,枢機卿から解任したばかりの Theodore McCarrick 氏のことがあったはずです.彼は,おそらく,典型例です.

精神分析の観点から,見てみましょう.もっとも,この記事においてはあまり詳細に論ずることはできませんが.

sexuality について論ずる際,sexual orientation[性的指向]の問題と gender identity[性同一性]の問題とが区別されます.今は,sexual orientation についてのみ論じます.一般的に「性欲」と言いますが,欲望は,実は,本源的には「死的」(thanatic) なものです.つまり,死と破壊をもたらすものです.それを「性的」(sexual, erotic) なものにするのが,精神分析で言う「オィディプス複合」(Oedipus complex) です.そのメカニズムによって,欲望の客体(対象)の選択が基本的に規定されます.「選択」と言っても,我々が意図的ないし意識的に選択するのではありません.言うなれば,選択するのは「無意識的な欲望」自身です.欲望がいかなる対象を「選択」するかを基本的に規定するのが,オィディプス複合のメカニズムです.欲望の対象が homosexual であるか heterosexual であるかも,そこにおいて規定されます.

欲望の対象が homosexual であるか heterosexual であるか(あるいは,いずれでもあり得るか,いずれでもないか)は,たいてい,思春期にあらわになってきます.そして,特に妨げが無ければ,同性ないし異性の対象へ性的な関心が向かいます.

ところが,そのとき,カトリック教義などの影響のもとに homosexuality の断罪や禁止が作用すると,同性の対象を選択しようとしていた欲望は,その対象選択を断念せざるを得なくなります.今,日本で一般的に知られている用語では「抑圧」と言います.精神分析の創始者 Sigmund Freud (1856-1939) が用いたドイツ語原語は,Verdrängung です.より適切には「排斥」と訳します.

homosexual な対象選択が排斥されると,我々は,みづから自身が homosexual であることに明確に気づくことができなくなります.うすうす感づくことがあっても,「いや,そんなはずはない」と否認してしまいます.

教皇 Francesco が「警察スタイル」と呼んでいる養成のしかたは,排斥を助長し,強化します.養成を受ける者は,自身の性的指向に気がつくことができず,homosexuality は隠蔽されてしまいます.

そのような排斥と隠蔽の状態においては,たとえば gay である被養成者は,こう思うことになります:イェス様は「女性をひたすら性的欲望の対象としてのみ見る者は,それだけで姦淫の罪を犯している」と言っているが,わたしはそのようなことは一度もない.わたしは,ほかの人々が悩んでいるような性欲の問題から自由だ.貞節を守ることは,わたしにとっては容易なことだ...

それはまったく勘違いなのですが,被養成者自身も,彼を指導する者も,そのことに気づくことはできません.そして,そのまま,奉献生活の誓願を立て,あるいは,司祭として叙階される.Theodore McCarrick 氏の場合,優れた模範的な聖職者として,さらに,司教に叙階され,高位聖職者として出世して行く.

そのようにして,教会のヒエラルキーのなかで権威と権力を与えられたとき,McCarrick 氏に何が起きたか?それまで排斥されていた homosexuality が,強迫的な症状行動として回帰してきたのです.聖職者至上主義の環境のなかで,司教としての権威と権力を利用すれば,身近な神学生たちのなかから好みの homosexual な対象を入手することは比較的容易となったからです.homosexual な性的行動をしてはならない,と彼は百も承知していたはずです.しかし,彼はみづからその衝動を抑えることができなかった.それは,強迫的に彼に実行を迫り来て,それに対して彼は抗うことができなかった.そして,してはならないとわかってはいても,その行動化は際限無く反復された.

精神分析の用語においては「反復強迫」(Wiederholungszwang) と言います.Theodore McCarrick 氏に限らず,青少年に対する性的虐待を犯した聖職者たちの大多数において見出されるであろう現象です.

そのような反復強迫は,排斥によって条件づけられます.ですから,聖職者による青少年に対する性的虐待を根本的に防止するためには,homosexuality の排斥が生じないようにしなければなりません.

homosexuality が排斥されていれば,それは,奉献生活のための養成の過程において,見逃されてしまいます.そうではなく,まず,被養成者が自身の homosexuality に気づくことができなければなりません.homosexual な対象選択をしてしまう欲望が自身のなかに潜んでいることを認めることができなければなりません.そして,養成において寄り添ってくれる指導者とともに,欲望の行動化が生じなくなるよう,取り組んで行くことができなければなりません.

しかし,それは,homosexuality に限られたことではなく,heterosexual な性欲に関してもまったく同様です.自身の欲望から目をそらすことなく,欲望の行動化が起こらなくなるよう,問題に取り組んで行く.しかも,孤独にではなく,寄り添ってくれる養成者とともに.

それが,教皇 Francesco の勧めていることです.

heterosexual にせよ homosexual にせよ,欲望の行動化が起こらなくなる — それは,単に欲望を抑えつけることによって可能にはなりません.そのためには,精神分析において「昇華」(sublimation) と呼ばれている状態が達成されねばなりません.つまり,欲望が客体への隷属から解放されることです.精神分析が目ざしているのは,まさにそのことです.

欲望の昇華は,奉献生活のためにも司祭職のためにも,本当は,必要条件であるはずです.しかし,今までのところ,カトリック神学のなかで欲望の昇華について主題的に論ぜられたことは,多分,皆無でしょう.貞節ないし貞潔は奨励されてはいますが,いかにしてその状態が達成され得るのかが昇華の観点から論ぜられたことは一度もなかったのではないか,と思います.精神分析家であるわたしから見ると,大きな欠陥です.

ともあれ,教皇 Francesco が指摘しているように,奉献生活と司祭職のための養成は,律法と規則で規制し,取りしまり,抑えつける「警察スタイル」のものではなく,師匠や先輩が弟子や後輩に寄り添い,ともに歩み,若者の成長を助ける「職人スタイル」のものであるべきならば,それを可能にするためには,まず,カトリック教義から homosexuality 断罪を取り除かねばなりません.なぜなら,それこそ「警察スタイル」の象徴なのですから.

カトリック教義のなかで homosexuality が断罪されているからこそ,homosexuality の排斥と隠蔽が生じ,さらにそこから homosexual な症状行動の反復強迫が生じてきます.

自身の性的な欲望に対して,寄り添ってくれる指導者や先輩とともに,自覚的に取り組み,欲望を客体への隷属から解放する昇華へと至ること  それが望ましいことです.そして,それを達成するためにこそ,homosexuality が排斥されないよう,「警察的」な教義は削除されるべきです.

今回出版された『召命の力』において,わたしたちは改めて,教皇 Francesco がわたしたち信者を霊気的に指導するスタイルを確認することができると思います:律法を振りかざして断罪することは控えなさい.愛を以て寄り添いなさい.既定の規則やしきたりを押しつけるのではなく,ひとりの兄弟姉妹が語る言葉に耳を傾け,聖霊の知恵を以て見分け,分析しなさい.そして,その人を教会共同体のなかへ包容し,神の愛によって支えなさい.

わたしたちのカトリック教会がまことにそのような神の愛の共同体となって行くことができますように.

ルカ小笠原晋也