2018年12月1日土曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

 Philippe de Champaigne (1602-1674), Le Christ aux outrages (ca 1655), au Musée national de Port-Royal des Champs

王たるキリスト の祝日

「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ 18.33b-37)

“King” と聞いて,皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。マーティン・ルーサー・キング牧師を思いうかべる人から「バーガー・キング」を思いうかべる人まで,いろいろかもしれません。わたしは,短距離走者の Ben Johnson や、ボクシングの井上尚弥、あるいは矢沢永吉をイメージしてしまいます。とはいっても,私の中で King of
 Rock 'n' Roll 忌野清志郎は別格です。

或るパパ様は「王」を「他のどんな者よりも秀でていて」、すべてのもの、とくに人のこころを見とおして語りかけて、またその語りかけがこころの真実にまでたっする力をもっていることで「人のこころを統べる者」だと言われたよう
です (cf. Annum Sacrum, Leo XIII, 1899, n.7). もちろんパパ様が言われる王はイエス・キリストただ一人のはずですが、人のこころに語りかけ、その言葉によって人の意志を何か大切なものに向けさせるのが王なら、それは部分的にはミュージシャンたちの役目でもある気がします。また少なくとも福音のなかのピラトには、権力と恐怖による「支配」は理解できても、この意味での「王」には思いいたれなかったようです。 

もうすこし政治的な意味で現代で「王」とは誰でしょうか。EU が求心力を失いかけている状態では、どんな人物であるかを別にすれば、合衆国大統領と中国共産党総書記は
現代の「この世の王」たちであるように見えます。この二つの国の統治制度は,日本のそれよりも、聖書が語る「国」の理論に近いように見える部分があります。どちらの国でもトップが変わると、それに合わせてたくさんの職員か制度が変わり、社会とそこに住んでいる人たちの生活も一変するからです。「統治者 / 王 (basileus)」が変わればその「統治 / 国 (basileia)」が変わるのは当然です。「統治」はその統治にあらわされた「統治者」の姿でもあります。 

ともかく,わたしたちの「王」、わたしたちのこころと社会を統べる「王」が大統領でも、総書記でも内閣総理大臣でもなく、人のこころの痛みと願い、苦痛とよろこびを知り、そのすべてを自分の身に負いながら、人を癒し、なぐさめ、弟子たちを導いた方であるのはありがたいことです。 

ところで,この祭日の制定を思うとき、わたしはそれをただありがたい祝いだと片づけることができません。教皇がこの祭日を宣言したのは、第一次世界大戦後、急ぎ設立された国際連盟が早々に無力化され、各国がふたたび自国の権益拡大にむけてわれ先に駆けだしたころです。王はただ一人、すべての存在を愛し、支える王だけであることを,教皇は何としてでも訴えたかったことでしょう (cf. Quas primas, Pius XI, 1925).

しかし,それ以上に,わたしにとっては「王たるキリスト」という言葉は、それにつづく期間にたくさんの人の口から叫ばれた "Viva Christo Rey !" という声と結ばれています。わたしの所属する修道会はスペインに一つの起源をもち、またそのためたくさんの会員が中米、南米などで働いています。たくさんのスペイン人の神父様がたにとってスペイン内戦 (1936-39) の記憶はあまりに苛烈なものです。たくさんの司祭は夜、連行されて,平原のなかの谷の底で射殺されました(或る神父さんは,その数は 6,000人くらいだろうと話していました)。そしてその何十倍の人たちが、戦場で、あるいは対立側の人間と見なされることでただ、逮捕され殺されてゆきました。そのなかで教会の人間はこの言葉 "Viva Christo Rey !" を叫んで銃殺されてゆきました。 

もちろんこの内戦はフランコ派と共和派の戦いであり、またその後ろにいた独伊連合とソビエト・社会主義派の戦いであって,その一方に肩入れすることもできませんが、そこで射殺されようとするとき、"Viva Christo Rey !" — たとえば「王はキリスト(ただ一人)!」あるいは「キリストよ、永遠に!」とでも訳したらいいのでしょうか — と叫んだ人たちのこころには、その対立をこえて,愛によるキリストの統治、キリストの国への希求があったに違いないと思いたい気持ちを抑えられません。 

「わたしの国はこの世には属していない」とイエスは言います。わたしたちにとっても同じだと思います。私たちの祖国は神の国一つ、私たちの法はイエスの言葉、私たちの王はキリストただ一人、それがいちばんしあわせな生き方だと思います。

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

Nicolas POUSSIN (1594-1665), Les Aveugles de Jéricho (1650), au Musée du Louvre

「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ 10.46-52)

今日の福音は目の見えない人の話です.

インターネットのニュースで色覚異常(以前は「色盲」と呼ばれていた症状です)の方が、はじめて補正眼鏡を着ける体験が紹介されることがあります。色覚というのは不思議なもので,本当は波長の高低しかない電子線を、波長を分けてバランスをとることで、よく知られた光の三原色というダイアグラムを形成します。ですからたとえ波長上の色覚に欠けるところがあっても、そのバランスさえ補正すればほぼ色覚を再構成することができます。そう言えば簡単ですが... 一度,動画サイトで "color-blind"(英語ではこの用語はまだ使われているようです)を検索してみてくだされば、その方たちが眼鏡を着けたとたん動きが止まり、そのまましばらくしてから涙を流し、そして身の回りのものを一つ一つ自分の色覚に刻印してゆく様子がご覧になれます。見えない人が急に見えるようになるという治療がいまだ多くないのに対して、色覚異常の方は補正眼鏡を着けたときに一挙に、本当にドラマチックに新しい世界を体験します。

でも今日はこの福音を別の角度から読みで見たいと思います。というのも二つあるマルコの「盲人の癒し」の一つは、たしかにゆっくりと「見えるようになる」体験を描いていますが (8.22-26), 今日の個所は別のことを描いているように思うからです。

情景となるエリコは,いわば街道町です。山の上の街エルサレムから東に山をくだると、ヨルダン川沿いの街道にぶつかります。そこがエリコです。たくさんの人と家畜、車と荷物が土ぼこりをあげなら通りすぎてゆきます。その「路のはたに」一人の男がすわっています。しかし彼には人も家畜も目にうつりません。砂まじりの風と物音と人々の話し声が聞こえるだけです。地面の上にすわっているのでしょうから、たくさんの足音、砂利を踏む音、荷車の輪が路を踏む音を聞くでしょう。頭のうえを人の話し声がとおってゆきます。

しかし見えない人が、道を急ぐ人に普通に対等に声をかけることは難しいでしょう。この人はずっとそこにすわって過ごし、人々はどこかから来て、どこかへと向かって遠ざかってゆきます。路を急ぐ人たちは、この人とは関係のない別の世界に生きています。この人が路上にすわっているときに聞く人々の声は、どこかこの人とはまったく関係のない話し、ただのざわめきのようなものにしか聞こえないでしょう。この人は、ただずっとそこに座っていることしかない世界に住んでいるわけですから、自分とは関係のないことを話しながら通り過ぎてゆく声を、ずっとずっとずっと,砂ぼこりと風に吹かれながら,聞いていたのだろうと思います。

一日、一日がそうして過ぎてゆくなか、この人にそれまでとは違う、意味のある音が入ってくるようになります。通り過ぎてゆく声のなかで「イエス」という言葉がくり返されるのに気づきます。

願いは人のなかで気づかれることなく眠っています。それはその人が死ぬまでそのままであったかもしれません。しかし路上の、光なくすわっていたこの人のなかに、ある人の名がくり返されることで、この願いはめざめ、ついには「叱りつけて黙らせようと」してもおさえられないものになります.

いくつかの心象がわたしのこころに残ります。一つは「主がお呼びだ」という返事をもらったときのこの男の「飛び上がる」姿です。「上着を脱ぎすてて」とありますが、乞食をしている人ですからりっぱな「上着」は合わない気がします。「上に被っていたもの」ぐらいでしょうか。路上生活をしている人はよく何枚も重ね着をします。タンスはありませんから。その汚れて黒ずんでしまった厚い被りものを、まるで殻が割れてひなが飛び出してくるように、自分の両脇に置き去りにして、そこから飛び出してくる人の姿をわたしは思いうかべます。わたしはそこに長い苦痛な生活のなかで押さえつけられてきていた、彼のこころの裂け目から湧き出している、切実な願いと希求を感じます。

もう一つは「何をしてほしいか」という問いの力です。イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と聞きます。この問いに応えてこの男は、もしかしたら生涯思いつづけていて、しかし一度も言葉にしたことがなかったかもしれない、自分の願いを形にします。「目が見えるようになりたいのです。」誰かが何か狂おしいまでに全身でねがっていることがあって、しかもそれは決して実現しないだろうと思っていれば、人は普通、それを人に気取られないように注意し、また自分の思いなかでもその思いに蓋をして、自分でも気づかないようにして過ごすでしょう。願っていることが切実であるほどそれを意識し、なおさら口に出すのは怖いものです。しかしそのときこの男は自分の思いのすべてを、自分の前に立っているはずの「何をしてほしいのか」という声の主にゆだねて、それを口にします。「目が見えるようになりたいのです。」

最後はこの男のすすんでいった「道」です。今日の福音の始めと終わりには,「道」という言葉が,とても印象的に使われています。はじめこの男は「道の端」にすわって、自分はそこにとどまったまま、右から左へ、また左から右へ近づいては遠ざかってゆく人と荷車の音を聞いているばかりでした。癒されたときは彼は、自分のねぐらに帰ることなく、その道を自分の願いをもって進んでゆくことを選びました。彼はもう目が見えるのです。同時に自分がついて行きたいをものを見つけ、もう誰かに助けてもらうことなく自分の目で見て望みに導かれて進んでゆくことができるようになったのです。彼にとって「なお道を進まれるイエスについてゆく」ことはきっとほかにたとえようもないよろこびだったと思います。

2018年10月20日土曜日

教皇 Francesco の胸に虹色十字架が !....





教皇 Francesco たちの胸に虹色十字架が !... Vatican News の Twitter の写真を見て大感激... と思ったのですが,この十字架は,LGBTQ 人権運動のシンボルである rainbow flag とは無関係です.

何かと言うと,la Pastoral Juvenil Latinoamericana[ラテンアメリカの若者たちの司牧]の十字架です.よく見ると,rainbow flag の色とは異なります.色の象徴は,緑がメキシコと中央アメリカ地域,黄色がカリブ海地域,赤がアンデス山脈地域,青が南部円錐地域を表します.

若者をテーマにローマで今月03日から28日まで行われているシノドスに参加しているラテンアメリカ諸国の司教たちとパパ様に,10月17日,パナマの若者たちが,虹色十字架をプレゼントしました.パパ様は,彼れらに挨拶し,彼れらを祝福しました.

LGBTCJ は,Tokyo Rainbow Pride の出店で販売するために,「本物」の虹色十字架を制作してもらってあります.


在庫がありますので,無料でお送りします(おひとりにつき二本まで).お申込みは lgbtcj@gmail.com へ.

また,同じく Tokyo Rainbow Pride のために,手作りロザリオ屋さんで特別に制作していただいたすてきな虹色ロザリオもあります.


こちらは,一本 3,000 円(送料込)で販売します.お申込みは,同じく lgbtcj@gmail.com へ.

ルカ小笠原晋也

2018年10月2日火曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年09月30日

Carl Christian Vogel von Vogelstein (1788-1868)
Lasset die Kinder zu mir kommen

2018年09月30日(年間第26主日,B 年)の LGBTQ+ みんなのミサにおける鈴木伸国神父様の説教


「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は...」(マルコ 9.38-43, 45, 47-48)

福音書の言葉のなかで今日の箇所ほど、罪に対して苛烈な言葉が向けられる箇所はありません。手を「切り捨ててしまいなさい」、足も「切り捨ててしまいなさい」、目は「えぐり出してしまいなさい」。それだけを聞いて、自分の業の深さを思えば、福音の言葉とはいえ罪への恐れよりも、ただその光景の恐ろしさに心を囚えられてしまいそうです。怖がりな私なら、宗教説話にあるような地獄での折檻の情景さえ連想してしまいます。

しかもこのマルコの箇所では、マタイと違い具体的にどんな罪を避ければいいかを一々説明さえしてくれません。怒りと暴言(マタイ 5.21- )はどうなんでしょう。情欲や姦淫 (5.27-, 31- ), 嘘や復讐 (33-, 38- ) はどうなんでしょうか。それは放っておいてもいいというんでしょうか。そんなことはないでしょうが、マルコは罪から遠ざかるために、もっと大事なことを言っているような気がします。

今日の箇所のなかでマルコが避けるべきこととして指摘するのはただ一つ「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」こと。それだけです。決して怒りや嘘、情欲やセクシャリティなどがそれだけで罪として指摘されてはいません。

私たちがただ罪に目を留めようとすれば、その目に罪は益々大きなものになり、その恐れは私たちの心を押しつぶしてしまいます。あるいは罪を隠して、自分を罪のない者のように見せ、また自分でもそう思い込もうとするかもしれません。

そうならないようにマルコはとても簡単な道を示してくれます。それが「これらの小さい者たち」に目を留め、自分の目で見つめることです。ただ一般的に弱者のことを思えというのではなありません。マルコもマタイ (18.6) も「これらの」小さな者たちと、具体的に示唆しています。彼らを傷つけてはいけない、躓かせてはいけない、彼らを保護し、養え。そして「一杯の水」を差し出せる機会があればよろこんでしなさい、そうマルコは勧めているようです。

マルコはこれに少しだけ加えて、嫉妬と妬みからは遠ざかるように勧めていいるように思いますが(「やめさせてはならない」マルコ 9.39)、それに続くイエスの言葉は穏やかなもので、少しユーモラスでさえあります。「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」。そう読んで見ると、マルコの言葉は「罪を恐れよ」というより、「罪を恐れるあまり、心が暗くなり怖じけることをこそ恐れよ」といういう呼び掛けのようにも聞こえます。

それを思うにつけ、今年 8 月から 9 月にかけて報告された、教会のあまりにたくさんの不祥事は、聞くのにさえあまりに酷でした *。

二つ気を付けるべきだと感じます。一つはマルコが勧めるように、罪を避けようとしてただ罪にだけ目を留めるなら、人は情欲に捕らわれれば盲目になってしまうことがあるということです。目の前にいる子どもたちが「これらの小さい者たち」であることも分からなくなってしまいます。もう一つは、人間のセクシュアリティをただ抑圧するだけではいけないということです。人がただ暴力でこれほどの罪を犯すことはないように思います。知恵も良心も豊かにもちえたはずの、たくさんの人々がそれでもこんなことをしてしまうと思えば、性の力というのはやはり大きなものなのだとも思います。人と人を心身ともに結び合わせる賜物であるはずの、人間のセクシュアリティが本当にその役目を果たしてくれるためには、それをとても大事に、そして丁寧に見つめ、相応しく養ってあげることがどうしても必要なのだろうということです。

* : 8月31日、ペンシルベニアの裁判所は 300 名以上の神父が 1000 人以上の子供の虐待に関わったと報告しました。9月12日、ドイツの新聞社は国内で 1946 年から 2014 年までの虐待の被害者は 3,700 人に及ぶと報じました。18日、ブルックリン教区は 4 人の被害者の方々との和解に約 30 億円を支払うことになったとの報道がありました。21日にはケララ(インド)の司教がシスターへの数年にわたる性的暴行の疑いで逮捕されました。そして教会内のことではありませんが、今アメリカの最高裁判事候補の過去の性的暴行が告発されています。

2018年9月24日月曜日

ひとりの lesbian girl の自殺が教会を変えた



BBC で今晩(2018年09月24日)放送される予定のドキュメンタリー番組で,ある lesbian girl の自殺が教会を変えたことが取り上げられるそうです.その番組は : Didsbury church's radical change after gay girl's suicide. 残念ながら,Internet 経由で日本で視聴することはできません.そのかわり,地元の新聞の記事でその内容が紹介されているのを読むことができます.

Manchester の郊外,Didsbury にある St James 教会(英国教会,Church of England)の信徒である Kevin and Hilary Lowe 夫妻の娘,Elizabeth(愛称 Lizzie)は,四年前,14歳のときに自殺しました ‒ 彼女が lesbian であることを両親も教会も受け入れてくれないだろう,と思い悩んで.

彼女は,生前,自身の sexuality について両親に何も打ち明けていませんでした.今,両親は,もし仮に彼女が come out していたなら,愛情深く彼女を受け入れていただろう,と言っていますが,彼女は homosexuality に関する両親の考えを知る機会がなかったのでしょう

また,英国教会は,伝統的には,カトリック教会と同様,同性カップルの性行為を罪深いものと見なし,同性カップルの結婚もいまだに認めていません(civil union は認めていますが).既に2003年に gay であることを公にしている司祭が司教に任命されたことがあります ‒ 多分,Lizzie はそのことを知らなかったでしょう ‒ が,教会内では homosexuality に関する論争はいまだに続いています.

Lizzie の自殺は,彼女の両親と St James 教会のメンバーたちに,このことを教えました : lesbian や gay であることを理由に断罪されたり,排除されたりすることは決してない,ということを明確なメッセージとして発しない限り,同様の悲劇を防ぐことはできない.

St James 教会では,従来,homosexuality について教会のなかで論ずることは,スズメバチの巣をつつくようなものだ,と見なされてきました.英国教会全体においても,カトリック教会においても,信者の多くはいまだにそう思っているでしょう.(日本では,homosexuality どころか,そもそも sexuality にかかわることを学校教育のなかで取り上げることは「寝た子を起こす」ことになると考える蒙昧な人々が少なくないようです.)

しかし,それでは,性の問題で,あるいは,SOGI(性的指向と性同一性)に関することで,悩む子どもたちに手を差し伸べることはできません.学校で SOGI に関することを理由にしていじめられ,自殺してしまうケースは,同性婚が法制化されている USA においてさえ,いまだに起きています.

Lizzie の死をきっかけにして,St James 教会を含む教区は,英国教会のなかで最初に,homosexual の人々に対する包容のメッセージを積極的に発することになりました.

日本においても,神から与えられた命を大切にするキリスト教徒たちは,教会内での同様の悲劇を待つことなく(日本社会全体のなかでは,多数,起きていることなのですから),LGBTQ+ の人々へ積極的に発信することが望ましいと思います:あなたたちは,神に愛されている;神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する;教会は,SOGI を理由にしてあなたたちを断罪したり,排除したりすることは決してない.

ただ単に,『カテキズム』のなかに「受け入れます」と書かれてあると言っているだけでは,不十分です.もっと明瞭に,もっと積極的に,包容の姿勢を示してゆく必要があります.

ルカ小笠原晋也

2018年6月16日土曜日

「LGBTQ+ みんなのミサ」に続く「分かち合いの集い」のために:第二案


「LGBTQ+ みんなのミサ」に続く「分かち合いの集い」のために:第二案


はじめに:集いの理念

わたしたちの「LGBTQ+ みんなのミサ」は,あらゆる人を差別なく包容する神の愛にもとづく LGBTQ+ とアラィ (ally) たちのための信仰共同体です.

わたしたちの「分かち合いの集い」は,主がわたしたちそれぞれに恵み与えてくださった霊的な(スピリチュアルな,霊気的な)糧を,主に感謝しつつ,皆で分かち合いながらいただく霊的な宴会[うたげ]です.

もしあなたが「わたしは,ほかの人々と分かち合えるようなものを何も持ちあわせていない」と感ずるとしても,あなたは主によって祝福されています:「幸せだ,貧しい人々は」;もしあなたが悲しい思いをし,または,人々から嫌われていると感じていても,主はあなたを祝福しています:「幸せだ,今泣いているあなたは」,「あなたは幸せだ,人々があなたを憎み,拒むなら」,なぜなら「神の国は,あなたのもの」だから(ルカ福音書 6, 20-22).

もしあなたが貧しく,悲しく,苦しく,悩んだり,疑念にとらわれたりしているなら,それを,主が祝福してくださる霊的な糧として,分かち合い,皆で味わいましょう.人間は,誰もが,神の最高傑作であり,神の愛し子です.

もしあなたが喜ばしい恵みを受け,心豊かであるなら,その喜びを皆で分かち合いましょう:「わたしといっしょに喜んでください,失われていたものを見つけたのです」(ルカ福音書 15, 9).

霊的な糧をいただくためには,神へ心を開き,御ことばを聴きましょう.神は,聖霊として,わたしたちに直接語りかけてくるだけでなく,ほかの人々の口をとおしても語ります.ですから,ほかの参加者の言葉へ心を開き,耳を傾けましょう.

この集いを通じて,皆が,主イェス・キリストの恵みに感謝し,聖霊によって養われ,神の愛で互いに支え合うことができますように.


ルール

誰もが心の思いを安心して,すなおに,着飾ることなく,ごまかすこともなく話すことができるよう,いくつかのルールを守ります.(ルールを尊重しない参加者は,集いの進行役または共同代表の判断により,退出していただきます).

1) 黄金律:「人々からしてもらいたいと思うことは,すべて,人々にしてあげなさい.それこそ,律法と預言者[が言いたいこと]である」(マタイ福音書 7,12).

2) 匿名性と守秘義務:皆,本名は名のらず,洗礼名に相当するようなニックネームを名のります.ほかの参加者の非公開の個人情報,思想,心情などを知っても,それをこの場以外のところで話題にしたり,第三者と共有したりは,しません.

3) 否定しない,批判しない,受容的であれ:ほかの参加者の思いを否定したり,批判したりは,しません.ほかの参加者の口をとおして語る神の御ことばを聴き取ることができるよう,受容的でありましょう.

4) 支配的にならない:分かち合いの宴会のホスト(主人)は,聖霊です.参加者のうち特定の誰かがこの場を支配することのないようにします.

5) 好悪を持ち込まない:わたしたちの集いは,「仲良し」グループではなく,信仰共同体です.そのよりどころは,全包容的な神の愛と隣人愛です.もし仮に感情的な「好き嫌い」や「気の合う合わない」を感じても,それを分かち合いの集いの場に持ち込まないようにします.


形式

0) グループ分け

もし参加人数が多ければ,複数のグループに分かれます.各グループの人数は10名未満となるようにします.各グループで適宜,進行役をひとり選びます.

しかし,もし参加者のなかに「多人数でも,ひとつのグループのままの方が良い」と思う人が少なくないようであれば,敢えてグループ分けはしません.

なお,複数のグループに分かれた場合,途中でグループ間のメンバーの部分的な入れ換えはしません.


1) 始めの祈り主の祈り

慈しみ深い神よ,あなたのみもとで行われるこの集いと,そこに参加するわたしたちを,祝福してください.弱く,貧しく,不安におののくわたしたちを,あなたの愛で支えてください.わたしたちの主イェス・キリストによって.アーメン.

天におられるわたしたちの⽗よ,御名が聖とされますように.御国が来ますように.みこころが天に⾏われるとおり,地にも⾏われますように.
わたしたちの⽇ごとの糧を,今⽇もお与えください.
わたしたちの罪をお赦しください.わたしたちも⼈を赦します.
わたしたちを誘惑におちいらせず,悪からお救いください.アーメン.


2) 各人がひとりひとり発言します

参加者は適宜輪状に座り,進行役が適宜定める順番にしたがって,ひとりひとり発言します.ひとりが発言している間,ほかの参加者は,その人の言葉を受容的に聴きます.

発言の順番が回ってきても,何も言わなくてもかまいません.聖霊は,沈黙をとおしても語りかけてきます.特に発言しない場合は,しばらく沈黙した後,発言しない旨の意志表示をしてください.

発言のテーマや内容は,各発言者にまかせます.持ち時間も特に定めません.ただし,集いの理念とルールを忘れないでください.

何かわからないことや,疑問に思うことがあれば,それも分かち合いましょう.即席の答えの無いまま,問いを問いとして,疑問を疑問として分かち合うことも,有意義です.

誰か特定の人(たとえば神父様や,比較的信仰歴の長い信者)から教えてもらいたい,答えをもらいたい,というような問いについては,分かち合いの集いの後の自由なおしゃべりの時間を利用して,個別に質問してください.

いずれにせよ,ひとり ないし少数 の人が,分かち合いの集いの場で支配的になることのないよう,また,議論や言い合いにならないよう,進行役も,各参加者も,配慮します.


3) 沈黙と祈り

皆が発言し終えた後,数分間,各人は沈黙のうちに祈ります.いただいた恵みを受けとめ,味わい,感謝します.


4) 終了時間 (16:30) となるまで 2)ひとりひとりが発言する」と 3)沈黙と祈り」とを繰り返します.最後の沈黙のあと「終わりの祈りと Ave Maria」を唱えます.


5) 終わりの祈り Ave Maria

恵みの源である神よ,感謝と賛美のうちにこの集いを終わります.あなたからいただいた糧に支えられて,わたしたちが日々,生き続けて行くことができますように.わたしたちの主イェス・キリストによって.アーメン.

Ave Maria, 恵みに満ちた方,主はあなたとともにおられます.あなたは女のうちで祝福され,御胎内の御子イェスも祝福されています.神の母,聖マリア,わたしたち罪人のために,今も,死を迎えるときも,お祈りください.アーメン.


6) 自由なおしゃべりの時間

16時半ころから約30分間は,参加者全員で自由におしゃべりする時間です.ただし,先に挙げた集いのルールを守ります.

なお,おおむね17時ころには会場から退出できるよう,かたづけも協力して行います.


******
以上が「分かち合いの集い」の手引きの第二案です.暫定案であり,まだ最終的な文面ではありません.

しかし,6月24日の分かち合いの集いは,この手引きにしたがって行いたいと思います.

この案に対する御意見を lgbtcj@gmail.com へお寄せください.さらなる改善のために参考にさせていただきます.

ルカ小笠原晋也

2018年5月24日木曜日

「LGBTQ+ みんなのミサ」に続く「分かち合いの集い」のために


LGBTQ+ みんなのミサに続いて,15時すぎから行われる分かち合いの集いは,基本的に,幸田和生司教様が作成してくださった「聖書の集い」のためのガイドラインに準拠して行われてきましたが,それは,10人未満の比較的少人数が参加する聖書読書会のために考案されたものですので,わたしたちの分かち合いの集いにぴったりかなったものではありませんでした.

LGBTQ+ みんなのミサは,2016年07月17日に初めて行われました.まもなく二周年を迎えます.この機会に,分かち合いの集いの理念や形式について,改めて考えてみたいと思います.

既に,LGBTCJ のメーリングリストを通じて,幾人かの参加者から御意見や御提案をお寄せいただきました.御協力くださった方々に,この場で御礼申し上げます.

今後,もう少し時間をかけて,LGBTQ+ みんなのミサの司式をしてくださっている鈴木伸国神父様と LGBTCJ 共同代表二名とで検討を続けて行きたいと思っています.

ですので,今月27日の LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いのためには,「決定版」のガイドラインを参加者に提示することは,たいへん申しわけありませんが,まだできません.御理解いただきたいと思います.

ここでは,ルカ小笠原晋也の個人案を提示します.それに対して,分かち合いの集い参加者からより多くの御意見や御提案をいただきたいと思います.

******
分かち合いの集いの理念

わたしたちの「LGBTQ+ みんなのミサ」は,あらゆる人を差別なく包容する神の愛にもとづく LGBTQ+ ally たちのための信仰共同体です.

わたしたちの「分かち合いの集い」は,主がわたしたちそれぞれに恵み与えてくださった霊的な(スピリチュアルな,霊気的な)糧[かて]を,主に感謝しつつ,皆で分かち合いながらいただく霊的な宴会[うたげ]です.

もしあなたが「わたしは,ほかの人々と分かち合えるようなものを何も持ちあわせていない」と感ずるとしても,あなたは主によって祝福されています:「幸せだ,貧しい人々は」;もしあなたが悲しい思いをし,または,人々から嫌われていると感じていても,主はあなたを祝福しています:「幸せだ,今泣いているあなたは」,「あなたは幸せだ,人々があなたを憎み,拒むなら」,なぜなら「神の国は,あなたのもの」だから(ルカ福音書 6, 20-22).

もしあなたが貧しく,悲しく,苦しく,悩んだり,疑念にとらわれたりしているなら,それを,主が祝福してくださる霊的な糧として,分かち合い,皆で味わいましょう.人間は,誰もが,神の最高傑作であり,神の愛し子です.

もしあなたが喜ばしい恵みを受け,心豊かであるなら,その喜びを皆で分かち合いましょう:「わたしといっしょに喜んでください,失われていたものを見つけたのです」(ルカ福音書 15, 9).

霊的な糧をいただくためには,聖霊へ心を開き,その御ことば聴きましょう.聖霊は,わたしたちに直接語りかけてくるだけでなく,ほかの人々の口をとおして語りもします.ですから,ほかの参加者の言葉に耳を傾けましょう.

この集いを通じて,皆が,主の恵みに感謝し,聖霊によって養われ,神の愛で互いに支え合うことができますように.


ルール

誰もが心の思いを安心して素直に話すことができるよう,いくつかのルールを守りましょう:

1) 黄金律:「人々からしてもらいたいと思うことは,すべて,人々にしてあげなさい.それこそ,律法と預言者[が言いたいこと]である」(マタイ福音書 7,12).

2) 匿名性と守秘義務:参加者は匿名であることができます.また,ほかの参加者の非公開の個人情報,思想,心情などを知っても,それをこの場以外のところで話題にしたり,第三者と共有したりは,しません.

3) 否定しない,批判しない,受容的であれ:ほかの参加者の思いを否定したり,批判したりは,しません.ほかの参加者の口をとおして語る聖霊の御ことばを聴き取ることができるよう,受容的でありましょう.

4) 支配的にならない:分かち合いの宴会のホスト(主人)は,聖霊です.参加者のうち特定の誰かがこの場を支配することのないようにしましょう.

5) 好悪を持ち込まない:わたしたちの集いは,「仲良し」グループではなく,信仰共同体です.そのよりどころは,神の愛と隣人愛です.もし仮に感情的な「好き嫌い」や「気の合う合わない」を感じても,それを分かち合いの集いの場に持ち込まないようにしましょう.


形式

0) グループ分け:

参加人数が多ければ,複数のグループに分かれます.各グループの人数は10名未満となるようにします.各グループで進行役をひとり,選びます.

しかし,もし参加者のなかに「多人数でも,ひとつのグループのままの方が良い」と思う人が少なくないようであれば,敢えてグループ分けはしません.

なお,複数のグループに分かれた場合,途中でグループ間のメンバーの部分的な入れ換えは,特にしません.


1) 始めの祈りと主の祈り:

慈しみ深い神よ,あなたのみもとで行われるこの集いと,そこに参加するわたしたちを,祝福してください.弱く,貧しく,不安におののくわたしたちを,あなたの愛で支えてください.わたしたちの主 Jesus Christ によって.Amen.

天におられるわたしたちの⽗よ,
御名が聖とされますように.御国が来ますように.
みこころが天に⾏われるとおり,地にも⾏われますように.
わたしたちの⽇ごとの糧を,今⽇もお与えください.
わたしたちの罪をお赦しください.わたしたちも⼈を赦します.
わたしたちを誘惑におちいらせず,悪からお救いください.Amen.


2) 各人がひとりひとり発言します:

参加者は適宜輪状に座り,進行役が適宜定める順番にしたがって,ひとりひとり発言します.ひとりが発言している間,ほかの参加者は,その人の言葉を受容的に聴きます.

発言の順番が回ってきても,何も言わなくてもかまいません.聖霊は,沈黙をとおしても語りかけてきます.特に発言しない場合は,しばらく沈黙した後,発言しない旨の意志表示をしてください.

発言のテーマや内容は,各発言者にまかせます.持ち時間も特に定めません.ただし,集いのルールを忘れないでください.

何か質問してみたいと思うことがあるときは,質問してもかまいません.その場ですぐに答えられるような問題であり,そうするのがふさわしい,または,そうしてかまわない,と思われれば,答えることのできる誰かが手短に回答するでしょう.しかし,すぐに答えられるような問題ではない場合には,疑問を疑問として皆で分かち合うことも有意義です.

いずれにせよ,ひとり ないし少数 の人が,分かち合いの集いの場で支配的になることのないよう,また,議論にならないよう,進行役も,各参加者も,配慮します.


3) 黙想:

皆が発言し終えた後,数分間,黙想します.いただいた恵みについて,感謝しつつ,思いをめぐらします.


4) 終了時間 (16:30) となるまで,2) 3) とを繰り返します.


5) 終わりの祈り:

恵みの源である神よ,感謝と賛美のうちにこの集いを終わります.あなたからいただいた糧に支えられて,わたしたちが日々,生き続けて行くことができますように.わたしたちの主 Jesus Christ によって.Amen.


6) 自由なおしゃべりの時間:

16時半ころから約30分間は,参加者全員で自由におしゃべりする時間です.ただし,集いのルールは守ってください.

なお,おおむね17時ころには会場から退出できるよう,かたづけも協力して行ってください.

******
以上は,ルカ小笠原晋也の個人案です.これに対する御意見や御提案を lgbtcj@gmail.com へお寄せいただけると幸いです.

分かち合いの集いがより有意義なものになるよう,皆さんの御協力をお願いします.

ルカ小笠原晋也