2015年9月4日金曜日

百人隊長の少年愛

我々の友人 Stephen Lovatt 氏は,彼の著作 Faithful to the Truth : How to be an orthodox gay Catholic において,福音書のなかの少年愛について興味深い指摘をしている.

彼が注目したのは,マタイ福音書 8, 5-13 に物語られているイェスの奇跡である.その一節は,手元にあるフランチェスコ会訳においても共同訳においてもほぼ同様に訳されているので,フランチェスコ会訳から引用すると:

(...) 百人隊長が近づいてきて,イェスに懇願した.「主よ,わたしの僕が中風でひどく苦しみ,家で寝込んでいます」.イェスが「わたしが行って,癒してあげよう」と仰せになると,百人隊長は答えて言った.「主よ,わたしはあなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ただお言葉をください.そうすれば,わたしの僕は癒されます (...)」.(...) イェスは百人隊長に仰せになった.「帰りなさい.あなたが信じたとおりになるように」.すると,ちょうどそのとき僕は癒された.

邦訳を読むだけでは,この一節が有する意義は把握し得ない.ギリシャ語原文を提示すると:

(...) προσῆλθεν αὐτῷ ἑκατόνταρχος παρακαλῶν αὐτὸν καὶ λέγων· Κύριε, ὁ παῖς μου βέβληται ἐν τῇ οἰκίᾳ παραλυτικός, δεινῶς βασανιζόμενος. καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· Ἐγὼ ἐλθὼν θεραπεύσω αὐτόν. καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη· Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς· ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου. (...) καὶ εἶπεν ὁ Ἰησοῦς τῷ ἑκατοντάρχῷ· Ὕπαγε, καὶ ὡς ἐπίστευσας γενηθήτω σοι. καὶ ἰάθη ὁ παῖς αὐτοῦ ἐν τῇ ὥρᾳ ἐκείνῃ.

百人隊長はローマ帝国の軍隊の士官である.当時,ユダヤの地はローマ帝国の属州であり,その統治はヘロデ王朝に任されていたが,政情を監視するためにローマ軍の部隊も常時駐在していた.イェスのもとを訪れた百人隊長は,聖書の文脈から判断するに,明らかにユダヤ教徒ではない.

マタイ福音書 8, 5-13 は,いわゆる Q 文書に基づく一節であろうと思われる.共観福音書内のその平行箇所は,ルカ福音書 7, 1-10 に見出されるが,マルコ福音書には無い.しかるに,ヨハネ福音書 4, 46-54 にこの物語は若干の変奏のもとに語られている.

さて,イェスが奇跡的に癒やす百人隊長の「僕」は,原文では παῖς である.この語は確かに「召使い」という意味をも有しているが,本来は「子ども」である.例えば「小児科」はフランス語で pédiatrie であるが,この語は παῖς ἰατρεία [癒し,治療]に由来する.ちなみに,ἰατρεία と関連する動詞 ἰάθη [(彼は)癒された]と ἰαθήσεται [(彼は)癒されるだろう]が,マタイ福音書 8, 8 et 13 において用いられている.

マタイ福音書において παῖς が「子ども」の意味において用いられていることは,ヨハネ福音書の平行箇所においてイェスが奇跡的に癒やすのは或る βασιλικς [ヘロデ・アンティパス王に仕える官吏]の息子 [ υἱός ] であると言われていることからも推測される.

ついでながら,もし παῖς が「子ども」であるとすると,παραλυτικός を「中風」と訳すのは誤訳であろう.なぜなら,「中風」は脳血管障害による麻痺である.それは,一般的に言って高齢者によく見られる病理であり,もし子どもに出現するとすれば先天性脳動静脈奇形などの比較的限られた条件においてのみである.むしろ,マタイ福音書 8, 6 で用いられている動詞 βέβληται に注目するなら,それは βάλλειν [投げる]の受動態完了形である.つまり,患者は投げ出されるように急に倒れて,麻痺に陥っているのである.それは,むしろ癲癇発作を示唆している.実際,明らかに癲癇発作の現象が記述されているマルコ福音書 9, 17-27 の一節において,καὶ πολλάκις αὐτὸν καὶ εἰς πῦρ ἔβαλε καὶ εἰς ὕδατα, ἵνα ἀπολέσῃ αὐτόν [そして,発作を起こす霊気は,わたしの息子を殺すために,彼を火のなかへも水のなかへもしばしば投げ込んだ](Mc 9,22) と言われている.「投げ込んだ」と訳した動詞 ἔβαλε は,βάλλειν のアオリスト形である.

さて,百人隊長と彼の παῖς とは如何なる関係にあるのだろうか?ルカ福音書の平行箇所においては,τινος δοῦλος ὃς ἦν αὐτῷ ἔντιμος [百人隊長にとって価値のある奴隷]と言われている.そこで用いられている形容詞 ἔντιμος の語源である名詞 τιμή は「栄誉,尊敬,尊厳,価値」であり,関連する動詞 τιμᾶν は「崇める,敬う,価値あるものと見なす」である.ということは,百人隊長にとってこの παῖς はかけがえのない愛情の対象である,ということが推定される.実際,もしそうでなかったなら,異教徒である百人隊長はわざわざイェスにその子を癒してくれるよう懇願しに来なかったであろう.当時,単なる召使いや奴隷であったなら,死んでもその代用はいくらでも入手可能である.

かくして,百人隊長と彼の παῖς との関係は παιδεραστεία [少年愛]のそれである,と結論することができる.

 Frederic Leighton, Jonathan's Token to David (ca 1868)

παιδεραστεία という語は,παῖς ρως [エロス,愛]に由来する.少年愛が社会風習であったのは,古代ギリシャにおいてである.たとえば,プラトンの対話篇のひとつ,『饗宴』において論ぜられている愛は,παιδεραστεία の愛である.



口づけをかわす少年愛者と少年(壺絵,紀元前 480年ころ)

イェスの時代のローマ帝国において,そのような少年愛の風習は残っていたのであろうか?然り.皇帝ハドリアヌス (76 - 138) は,130年におよそ18歳で死んだ愛児アンティノウスを悼み,彼を神格化して崇めた.



Dionysus-Osiris として描かれた Antinous (西暦 2 世紀,Musei Vaticani 所蔵)


また,西暦 1世紀に作られたと推定されている或る酒杯  元の所有者の名にちなんで Warren Cup と呼ばれている には,少年愛をテーマとする浮き彫りが施されている.




こうして我々はやっと,マタイ福音書 8, 5-13 とその平行箇所の意義を把握することができる: イェスは,たとえ百人隊長が異教徒であり,かつ同性愛者であっても,彼のイェスに対する信仰のゆえに彼を義としたのである.

「主よ,わたしは,あなたにわが屋根の下へ入っていただくにふさわしい者ではありません.而して,ただ御言葉でおっしゃってください.されば,わが児は癒されるでしょう」(フランチェスコ会訳:「主よ,わたしは,あなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ただお言葉をください.そうすれば,わたしの僕は癒されます」).

マタイ福音書 8, 8 における百人隊長のイェスに対するこの懇願にならって,ローマ典礼においては,聖体拝領の直前に,「主の食卓に招かれた者は幸い.見よ,世の罪を取り除く神の子羊」という司祭の言葉に続いて,会衆はこう唱える : Domine, non sum dignus ut intres sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea [主よ,わたしは,あなたにわが屋根の下へ入っていただくにふさわしい者ではありません.而して,ただ御言葉でおっしゃってください.されば,わが魂は癒されるでしょう](日本の典礼では例外的に,ヨハネ福音書 6, 35 et 68 にもとづいて「主よ,あなたは神の子キリスト,永遠の命の糧,あなたをおいて誰のところへ行きましょう」と唱えているが).

つまり,カトリック信徒は全世界でミサのたびに,同性愛者である百人隊長の懇願の言葉にならって,主に魂の癒やしを願っているのである.

にもかかわらず LGBT を排除しようとする者たちがカトリック教会のなかにいるとは ! 主が彼ら・彼女らの目を主の御ことばの真理へ開いてくださいますように !