2016年8月30日火曜日

兄弟を傷つけておきながら 謝罪も和解も拒み続ける K 氏に対して


去る 7月17日,第 1 回 LGBT 特別ミサの後に行われた分かち合いの集いの場で,ある男性(ここでは K 氏 と呼んでおきます)が 同席の兄弟のひとりを 心ない言葉で ひどく傷つけました.その場にいた者たち 皆が,その事件の証人となるでしょう.

被害者は,立腹したものの,K 氏と口論しようとすることなく,すぐさま その場から立ち去りました.LGBTCJ 共同代表のひとり,宮野 亨 が 会場の玄関口で 彼に 必死で謝り,そして,わたしの妻が 最寄りの駅まで 彼に付き添いました.

ところが,加害者 K 氏は,何の反省の色も 謝罪の態度も 示しませんでした.

集いの司会役をしていたわたしは,その場の雰囲気を それ以上 悪化させないために,K 氏を即座に叱責することはせず,数日後に,誠意を以て謝罪と和解の態度を被害者に対して示すよう K 氏に勧告しました.しかし,彼は 応じようとしませんでした.

K 氏は,数年来,ほかの幾つものグループ(そのなかには,次の段落で言及する あるプロテスタント共同体も 含まれ
る)において 同様のトラブルを起こしてきており,その都度,何の謝罪も和解もしようとしないので,それらのグループすべてから排除処分を受けている,ということを,わたしは 事後的に 知りました.

本年 4月,Tokyo Rainbow Pride 2016 が行われる数週間前,K 氏は, LGBTCJ の Facebook ページに,あるプロテスタント共同体(上の段落で述べたように,K 氏は その共同体から 排除処分を受けています)を主宰する牧師に対する攻撃的な言葉を 書き込みました.わたしは K 氏に 和解の重要性を指摘し,その牧師との和解を勧めました.すると,K 氏は,わたしの勧めを拒否したばかりか,わたしに対する逆恨みの言辞を LGBTCJ の Facebook ページに書き込み始めました.結局,彼は,Tokyo Rainbow Pride の LGBT
CJ の出店にも 姿を現しませんでした.

LGBT 特別ミサは,保守的な人々により妨害されることのないよう,非公開となっており,参加希望者は 必ず 事前の申込をするよう 公示してありました.ところが,K 氏は,幾人かの仲間とともに,7月17日に行われた 第 1 回のミサに 申込無しで やってきました.いずれも顔見知りではあったので,わたしたちも 彼れ
らを拒絶せず,むしろ 歓迎の態度を示しました.ところが,その結果が 上述の事態です.わたしたちの 彼れらに対する 受容的な対応のせいで,初めて出会った兄弟のひとりがひどく傷つけられることになってしまいました.被害者に対して たいへん申しわけなく思っています.

この心ない人物 K 氏は,「今までにも 幾つものグループをつぶしてきた」と豪語しているそうです.が,彼が悪意を以て LGBTCJ の活動に対しても嫌がらせをしようとていたのかを彼に直接確認することは,敢えて しませんでした.

いずれにせよ,彼は,兄弟愛をないがしろにして,何の反省の意も示そうとしません.つまり,敢えて みづから 神の愛の恵みを拒絶し,聖霊を冒瀆しています.そのような者は,「悔悛と神の赦しとによって贖われなければ」
(カテキズム #1861),神の愛の宴に参加することは できません.したがって,LGBTCJ としても,K 氏の参加を今後は断らざるを得ない と判断しました.

8月28日の 第 2 回 LGBT 特別ミサに,K 氏は,第 1 回の際と同様,申込無しにやってきて,入場を強要する可能性が 危惧されました.主催者側には 男は わたしを含めて ふたりし
かおらず,両者とも ミサの侍者や進行役をするため,もしトラブルが起きても 対処しようがありません.

そこで,K 氏が会場に無理やり入ってくることのないよう,警備会社に依頼して 警備員 2 名を派遣してもらいました.
K 氏が実力行使をしようとしても,警備員が 二人で とうせんぼうをすれば 大丈夫でしょうから.また,K 氏が 後から「からだが触れた」等の言いがかりを我々につけてくる事態を未然に防ぐためでもあります.

わたしが警備員を 2 名 派遣するよう依頼したのに対し,
その 2 人がまだ警備の仕事の初心者であり,上司が彼らに同伴したため,結果的に 3 名の警備員が会場の建物の出入り口を守ることになりました.いずれにせよ,彼らには私服姿で来てもらっていたので,そうと言われなければ 警備員とはわからなかったはずです.

警備員として派遣される人々は,職務に必要な専門的訓練を事前に受けており,K 氏がふるうかもしれない暴力に対して有効かつ合法的に対応するすべを心得ています.警備員の方が K 氏に対して 積極的に違法な暴力をふるうことは あり得ません.

いずれにせよ,K 氏は 8月28日の 第 2 回のミサの会場に みづから姿を現すことはありませんでした.しかし,彼の仲間のひとり(第 1 回のミサにも K 氏とともに 申込なしで 参加した者たちのひとり)
が やってきました.その人物は,顔見知りではあったので,わたしは,ミサに参加するよう 彼女を招待しました.しかし,彼女は 会場内に入ろうとせず,立ち去りました.その後も,ミサ後の集いが終わるまで,会場内でも会場外でも何のトラブルもありませんでした.主に感謝します.

我々は,LGBT 特別ミサの世話役として,参加者を不快なトラブルから守るために,今後も 可能な限りの対策を取って行きたいと思います.

また,我々は,被害者のために祈るとともに,加害者 K 氏が神の愛の恵みに気づき,悔悛するよう,祈り続けています.


******
参考:

『カトリック教会のカテキズム』 1864 段落には,マタイ福音書 12,31 におけるイェスの言葉の引用とともに,こう述べられています:
「あらゆる罪や冒瀆は赦される.しかし,聖霊に対する冒瀆は赦されない」(Mt 12,31). 神の慈しみは 無限である.しかし,神の慈しみを悔悛によって受け入れることを 敢えて拒むなら,それは,自身の罪の赦しと聖霊が差し出す救済とを拒むことである.さような頑なさは,臨終の不悔悛と永遠の滅びへ 至り得る.
つまり,「聖霊に対する冒瀆」とは,神の愛の恵みを拒むことです.そしてそれは,隣人愛をないがしろにすることを包含しています.

なぜなら,「わたしは神を愛していると言いながらも兄弟を憎む者は,嘘言者である.実際,目に見えている自身の兄弟を愛さない者は,目に見えない神を愛することはできない」(1 Jn 4,20-21) からであり,かつ,「イェスはキリストであると信ずる者は,神から生まれたのであり,そして,生んでくださった神を愛する者は誰しも,神から生まれた[ほかの]者をも愛する」(ibid., 5,1) からです.神を愛することと隣人愛とは相互に等価的です.

ですから,主は わたしたちにこう勧めています (Mt 5,23-24) :
かくして,祭壇に献げものをしに行くときに,兄弟とあなたとが何ごとかで対立していることを思い出したなら,献げものを祭壇の前に放置して,まずは兄弟と和解しに行きなさい.次いで,捧げものをしに戻って来なさい.
もし和解を拒むなら? 主は 譬えを用いて 次のように答えています (Mt 22,11-13) :
王は,息子の婚宴に招かれた人々を見るためにやってくると,礼服を着ていない者に 気づいた.王は彼に言った:「我が友よ,どうして礼服を着ずに来たのだね?」 その者は 黙ったままであった.そこで 王は 仕える者たちに言った:「その者を,手足を縛って,外の暗闇へ放り出せ: そこで 泣いて 歯ぎしりするしかあるまい」.
実際,『カトリック教会のカテキズム』 1861 段落でも こう述べられています:
愛がそうであるのと同様に,大罪も,人間の自由のひとつの根源的な可能性である.大罪は,愛の喪失と,聖なるものとする恵み – すなわち,恵みの状態 [ status gratiae ] – の剥奪とをもたらす.悔悛と神の赦しとによって贖われなければ,大罪は,キリストの御国からの排除と地獄での永遠の死とを 惹起する.我々の自由は,取り返しのつかない決定的な選択を成す能力を有しているのである.
そして,『カテキズム』 1415段落では こう規定されています:
聖体拝領においてキリストのからだを受けたい者は,恵みの状態 [ status gratiae ] にあるのでなければならない.大罪を犯したことを意識している者は,あらかじめ 悔悛の秘跡において 赦しを受けていなければ,感謝の祭儀に与ってはならない.
つまり,隣人愛をないがしろにしながら和解しようとしない者は,恵みの状態を剥奪されているのですから,ミサに与ることはできません.