2016年9月30日金曜日

USA での研究は警告する: LGBT 差別を続ければ,カトリック教会の信徒は減り続けるだろう

USA の NPO, the Public Religion Research Institute (PRRI) が2016年9月22日付で発表した報告書 Exodus : Why Americans are Leaving Religion and Why They’re Unlikely to Come Back によると,USA の最大の「宗派」は「所属宗派無し」である:全人口の 25 %, 18-29歳の人口のほぼ 40 % が「無し」と答えている.

「所属宗派無し」の人々のうち,なぜ所属宗派が無いのかとの問いに対して,29 % の人々は,教会や教派が LGBT 問題に関して否定的なメッセージを発するから,と答えている.

その傾向は,特に,もとカトリックであった人々において顕著である.もとカトリックであった人々のうちで,教会から離れた理由として,「司祭による児童の性虐待」を挙げる人も 32 % であり,少なくないが,他方,「LGBT に対する教会の否定的な態度」を挙げる人はより多く,39 % である.

カトリック教会のリーダーたちは,LGBTIQ+ の人々の存在を肯定し,彼ら・彼女らを教会に歓迎するメッセージを,より積極的に発するべきであり,かつ,実際に,親 LGBT の司牧方針と司牧実践とを以て,それらメッセージを裏打ちすべきである.さもなければ,信徒人口の減少は加速され,教会の建物は将来からっぽになるだろう.

2016年9月29日木曜日

教皇 Francesco はメキシコの同性婚法制化に反対したのか?

9月25日,正午の Angelus の際,教皇 Francesco は,1945年3月に Dachau 強制収容所で殉教した Engelmar Unzeitig 神父の列福を告知し,世界聾者の日を祝福し,カテキストたちの労をねぎらいました.
 
加えて,同性婚の全国的な法制化について社会対立が続き,かつ,麻薬犯罪組織による殺人事件の絶えないメキシコに関して,こう述べました:
 
「家族と生命のために教会と市民社会が積極的に活動するのを支持することにおいて,わたしは,メキシコの司教たちと喜んで連帯します.家族と生命は,今の時代,世界中で特別な司牧的ならびに文化的な注意を要請しています.またさらに,最近幾人かの司祭の命をも奪った暴力がやむよう,親愛なるメキシコ国民のために祈ることを確言します.」
 
教皇がこのように述べたことの背景には,メキシコのふたつのまったく別々の事情があります.ひとつは,麻薬犯罪組織が頻繁に人々を拉致し,殺害している,という事態です.犠牲者のなかには,現メキシコ大統領が就任した2012年からだけ数えても,14人のカトリック司祭が含まれています.この一週間でも,三人の司祭が誘拐され,殺害されました.
 
もうひとつは,同性婚をめぐる社会対立です.メキシコでは32の州のうち11州で同性婚が既に法制化されています.大統領は全国的な同性婚法制化を目指していますが,それをめぐってこの数ヶ月間,賛成派と反対派の双方が大規模なデモを繰り返しています.この対立のせいで,homophobia にもとづく殺人事件まで起きています.
 
メキシコのカトリック司教会議が同性婚法制化反対を表明しているなかで,教皇の「メキシコの司教たちと連帯する」という言葉は,LGBT activists からは,教皇が同性婚反対の意を表明した,と解釈され,非難を浴びています.
 
確かに,そう解釈されてもしかたありません.しかし,教皇の真意は,同性婚をめぐる社会対立のなかで憎悪による殺人までが起きていることを憂え,事態がすみやかに収拾されるよう祈ることにあるのではないでしょうか?

2016年9月26日月曜日

LGBT 特別ミサ第三回が行われました

2016年09月25日,予定どおり第三回 LGBT 特別ミサが行われました.その恵みを与えてくださった主に感謝します.そして,司式してくださった関谷義樹神父様 SDB に感謝します.

関谷神父様の説教は,直接に LGBT に関するものではありませんでした.しかし,そこには,LGBTIQ+ の人々の存在を無視しようとする聖職者と一般信徒,ならびに,さまざまな理由で他者へこころを開くことが困難な LGBTIQ+ の人々,双方への明確なメッセージが込められています: 神の愛へこころを開きましょう.そうすれば,おのづと隣人へこころを開くこともできるようになります.

以下は,関谷神父様の説教の要約です:

御ミサは,記念です.主イェス・キリストが,わたしたちを愛するがゆえに,わたしたちを死と無と罪から贖い出すために,御自身をいけにえとして捧げてくださったことへ感謝を以て思いをはせる記念です.
「金持ちとラザロの譬え」(ルカ福音書 16,19-31)は,贅沢を戒める単純な教訓ではありません.
死後,アブラハムの隣に運ばれたラザロと,冥府で苦しむ金持ちとの間は,大きな裂口で隔てられています.この隔絶は,しかし,彼らが生きているうちから既にありました.金持ちはラザロに目もくれず,ラザロの方も金持ちに何も言いませんでした.既に彼らは目に見えない壁で互いに隔てられていたかのようでした.
確かに,ラザロが何も言わなくても,神は彼を憐れんで,天の御国へ彼を迎え入れてくださいます.しかし,もし仮にラザロが思い切って金持ちに施しを求めていたなら,金持ちもラザロに気づき,彼の求めに応じたかもしれません.そして,その行為のおかげで冥府に行かずに済んだかもしれません.もし仮にラザロが生前にそう考えることができていたなら,彼は,隣人愛のゆえに,金持ちにむかって「食べものをください,あなたの救済のために」と言うことができたかもしれません.(この部分は関谷神父様がそのままの形でおっしゃったことではありませんが,神父様のお話にもとづいて小笠原が補足しました).
わたしたちは,自身の内に,あるいは,気の合う仲間どうしの内に,閉じこもってしまいがちです.その方が気楽だと感ずるからです.確かに,他者へ近づき,手を差し伸べても,ときには拒否され,ときには攻撃さえされるかもしれません.しかし,隣人愛は,壁を越えて橋を架けることに存します.
最大の架け橋は,神が御自身と人間との間に架けてくださった橋です.
愛は,身を低めることを可能にします.神は,わたしたちが神を識らなくても,わたしたちを愛してくださり,身を低め,人間との距離をどんどん小さくし,ついには御自身が人間となりました.イェス・キリストです.
神がそうしてくださったのは,人間たちを憐れんだからです.
神は人間を創造してくださいましたが,人間たちは神に背きました.神から目をそらせてしまいました.しかし神は,だからといって,「では勝手にしていなさい,わたしはもう知らない」とは言いませんでした.神は,人間たちを慈しみ,憐れんでくださいました.
隣人愛の実行にも,憐れみがかかわっています.「金持ちとラザロ」の譬えと同様にルカ福音書だけに伝えられているイェスの譬えのひとつが「良きサマリア人」の譬えです.
強盗に襲われて半死の状態で横たわる人を無視して,祭司とレビ人は通り過ぎました.しかし,当時イスラエルの民から差別され,社会の辺縁へ追いやられていたサマリア人のひとりは,その男のところに来て,その男を見て,憐れみを覚え,そして彼に近づき,救いの手を差し伸べます.
この「憐れみを覚える」という動詞は,ギリシャ語で σπλαγχνίζειν です.σπλήν は脾臓,σπλάγχνα は内臓,はらわたです.はらわたが締めつけられるように,胸が締めつけられるように,腹の底から,心の底から感ぜられる憐れみの気持ち.この σπλαγχνίζειν という動詞は,聖書のほかの箇所では,神が人間を憐れむときにだけ用いられています.
しかし,隣人愛も,神が人間を愛し,憐れんでくださるのと同じように,他者を愛し,憐れむことです.そして,それによって,他者との間に橋を架け,互いに愛し合うことです.
隣人愛にもとづいて,わたしたちも,互いに対して自身を開き,手を差し伸べ合いましょう.


御ミサの後は,分かち合いの集いが開かれました.

関谷義樹神父様は,ドン・ボスコ社発行の月間『カトリック生活』の編集長を務めています.その雑誌で LGBT をテーマとして取り上げるとすれば,どのような記事が望まれるか,と御質問したところ,LGBT を擁護する立場からの記事が欲しい,という御意見が述べられました.

カトリック教会が伝統的に同性愛行為を断罪してきたせいで,同性愛者たちはいまだに強い有罪感にさいなまれており,カトリック教会から拒絶されていると感じています.カトリック教会はそのことに責任を感じ,和解の態度を示すべきです.

LGBTIQ+ の人々を擁護する LGBT 神学の議論が,日本のカトリック教会のなかでも望まれます.

ルカ小笠原晋也

2016年9月23日金曜日

中村吉基牧師さんが主宰する新宿コミュニティ教会の礼拝に参列してきました

9月18日の主日,中村吉基牧師さんに会うために,彼が主宰する新宿コミュニティ教会の礼拝に参列してきました.




先ごろ,彼のインタヴュー記事も発表されています:前編後編

彼に直接会うのは,5月の Tokyo Rainbow Pride 2016 に続いて,二度目です.そのときも,野外礼拝に参列させてもらいました.

新宿コミュニティ教会の礼拝には,誰でも参列することができます.独力で LGBTIQ+ の人々に神の愛の福音を宣言し続ける中村吉基牧師さんを,今後も応援し続けて行きたいと思います.

彼は,説教上手です.毎回,mailing list で送ってもらっています.9月18日の説教を,以下に紹介しましょう:


人間のルールだけでは見えないもの

福音朗読:ルカによる福音書 16章1-13節

1 イエスは,弟子たちにも次のように言われた.「ある金持ちに一人の管理人がいた.この男が主人の財産を無駄使いしていると,告げ口をする者があった.
2 そこで,主人は彼を呼びつけて言った.『お前について聞いていることがあるが,どうなのか.会計の報告を出しなさい.もう管理を任せておくわけにはいかない.』
3 管理人は考えた.『どうしようか.主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている.土を掘る力もないし,物乞いをするのも恥ずかしい.
4 そうだ.こうしよう.管理の仕事をやめさせられても,自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ.』
5 そこで,管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで,まず最初の人に,『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った.
6 『油百バトス』と言うと,管理人は言った.『これがあなたの証文だ.急いで,腰を掛けて,五十バトスと書き直しなさい.』
7 また別の人には,『あなたは,いくら借りがあるのか』と言った.『小麦百コロス』と言うと,管理人は言った.『これがあなたの証文だ.八十コロスと書き直しなさい.』
8 主人は,この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた.この世の子らは,自分の仲間に対して,光の子らよりも賢くふるまっている.9 そこで,わたしは言っておくが,不正にまみれた富で友達を作りなさい.そうしておけば,金がなくなったとき,あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる.
10 ごく小さな事に忠実な者は,大きな事にも忠実である.ごく小さな事に不忠実な者は,大きな事にも不忠実である.
11 だから,不正にまみれた富について忠実でなければ,だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか.
12 また,他人のものについて忠実でなければ,だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか.
13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない.一方を憎んで他方を愛するか,一方に親しんで他方を軽んじるか,どちらかである.あなたがたは,神と富とに仕えることはできない.」


今,日本では,会社ぐるみで商品の欠陥や粉飾決算を隠すことを行った事件のニュースがあとをたちません.思えば私たちは「富に仕える」ために手段を選ばない社会と背中あわせに生きていると言えます.

「驕れるもの久しからず」とは平家物語の一節ですが,イエスさまの弟子たちも,すべてを捨てて従ってきていましたが,そのためどことなく自慢げな,誇らしげなところがありました.しかし,一方でイエスさまの眼から見ればこの弟子たちには,何かが物足りない,何かが抜け落ちている,そのような気持ちでおられました.

その一つは,危機管理の欠如でした.とは言っても設備やハード面のことではなくて,弟子たちの人間性そのものが,イエスさまにそう問われていました.

イエスさまはこの時すでに,ご自分が十字架において亡くなられることを悟っておられました.しかし,そのことはすぐそばで生活をしていた弟子たちにはまったくといっていいほど感じることができませんでした.切羽詰まって危機的な状況にあることを認識していない弟子たちにイエスさまは歯がゆい思いをなさっておられました.そこで,そのような弟子たちに目を覚ましてほしい,そのような思いでこのたとえ話を語ったのです.

さて,このたとえ話の主人公は「管理人」です.大金持ちの主人の大切な財産を管理する仕事をしていた人です.

あるとき,自分の財産が無駄に使われている(あるいは,彼が主人の財産を使いこんでいたかもしれません)ことを知った主人は,突然管理人の解雇を言い渡します.

予期もしないで職を失い,路頭に放り出されたりすることは誰にとっても辛いことです.若い時であればともかく,年を重ねてからの解雇やそれからの職探しは想像を絶するものがあります.

今,日本でも多くの人が職を失っていますが,ピンチに追いこまれた彼の場合はどうだったかというと,なりふり構わずに考えあぐねます.生き残るために考えて考えて,彼が考えたことはとても汚い手口のやり方でした.

「管理人は考えた.『どうしようか.主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている.土を掘る力もないし,物乞いをするのも恥ずかしい. そうだ.こうしよう.管理の仕事をやめさせられても,自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』」.

そう思って,主人に借りのある者たちをひとりひとり自分のところに呼んで,彼は,主人名義になっている借用書を主人にも相談せずに,借りている人がその借財から楽になるように書き換えてしまうのです.たとえば6節の「油100バトス」は半分の「50バトスに」,7節の「小麦100コロス」は「80コロス」という具合です.この場合の単位は地域や時代によって異なりますので,日本風に言えば,「油を100樽」「小麦を100袋」と考えてくださって結構です.

こうして,自分と顔見知りであっただろう主人から借財している人に,この男は恩義を売り,失業したあともこの人たちに助けてもらいながら生き延びていくことをあてこんで,ちゃっかりと手を打つのです.

ところが意外や意外です.主人は彼の不正を怒るどころか,「抜け目ないやり方」だと言ってほめたのです.その大胆さや巧妙さに対してです.

最初にこのたとえ話は不可解だと言いました.誰もがこの主人の態度をすぐには理解できないのじゃないかと思うのです.

イエスさまはこの話を終えてから,この世の子らの賢いふるまいをほめられます.そして弟子たちにも「不正にまみれた富」で友達を作りなさいと言われます.

ここではイエスさまが不正を大目に見ていると思ってしまいがちですが,しかし,そうではなく,この管理人が危機的な状況の中でとった機敏な対応をほめているのであり,私たちが神の国の一員となるために賢くふるまわなければならないと教えられているのです.

イエスさまは,弟子たちやすべての人々がこの世の中で危機的な状況に立たされているということを自覚したならば,一日一日の歩みがもっと真剣になり,その生き方も緊張感を持ったものになるだろうと期待したのです.

では,イエスさまが仰せになった「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とはどういうことでしょうか.

富自体は不正なものではありません.私たちはお金がなければ生活することができないからです.

イエスさまはこう言われました.「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」 (13).

私たち光の子は富に仕えてはなりません.富の奴隷になってはいけないことをイエスさまは言われたのです.そうではなく,私たちは神さまに仕えなければならない.そして,私たちは富を用いて他者と自分たちの生きている社会に奉仕し,貧しく弱くされている人々の友となり,イエスさまが示してくださった愛を実践するように,と今日の福音は招いています.

私たちに与えられている富はどのように用いるのでしょうか.

私たちが富を正しく用いるところに,一人の人間が人間らしく生きる場を回復することでしょう.

「お金は貯めるものではありません.使うものです.」

親にこう言われて育った子どもたちがいました.しかし,これに続く言葉がありました.

「お金は貯めるものではありません.使うものです.世のため,人のために.」

それから子どもたちはお小遣いをもらう度に「お金は貯めるものではありません.使うものです.世のため,人のために」と声を揃えて言いました.

この子どもたちはそれを教えた親の「世のため,人のために」という姿勢が伝わって,何をするにしてもまず世のため人のためにと考えるおとなへと成長していきました.

この家庭の話は実話で,かつて日立教会を牧会されていた藤崎信牧師の言葉です.

この家庭の三番目の子どもは女の子で,「るつ記」さんと言いました.旧約のルツ記から取られたお名前です.

このるつ記さんの祖父も牧師をされていた方で,そのおじいさまの教会と関係があった老人ホームと養護施設で一生涯を日本人のために捧げたドイツ人の女性宣教師であるキュクリッヒ宣教師を,るつ記さんは心から尊敬し,小学生のころから彼女のように外国人のために働きたいと夢を持っていました.特にアジアの人々のためにという祈りを持って日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)でキリスト教社会福祉を学び,休みになるとフィリピン,インド,バングラディッシュなどで奉仕活動をしていました.彼女は大学を卒業し,さらに福祉の学びをするためにフィリピンへ留学をしました.

そのフィリピンで 1983年の春のこと,彼女がボランティアとしてルソン島ボトランの海岸に少女たちを伴って行ったときに,浅瀬で水浴びをしていた数人が急に起こった底流に巻き込まれました.その時に「私をひとりにしないで... 」という悲鳴に,るつ記さんは 2人の少女を助けに海に引き返して,そこで少女にしがみつかれて,3人ともおぼれてしまいました.しばらくして漁師たちに助けられましたが,2人のフィリピン人の少女は命を取りとめることができましたが,るつ記さんは息を吹き返しませんでした.藤崎るつ記さんの 24歳の生涯でした.

当時,一人の日本人の女性がフィリピン人を救うためにいのちを落としたという話は世界中に報道されました.

葬儀を司式したフィリピン聖公会の神学校の学長は次のように式辞を述べました:

「一人のフィリピン人として,私はるつ記さんが多くの日本人とは違った印象を与えてくれたことを指摘したいと思います.年配のフィリピン人は,(日本といえば)日本人兵士とか,『カミカゼ』の印象を持っています.そして今は,たいていのフィリピン人は日本人観光客について思い浮かべるでしょう.これらの日本人に関するイメージは,るつ記さんが示してくれた印象とは異なっています.なぜなら彼女は奉仕をしようとしてここにやって来ましたし,そしてフィリピン人を愛し,フィリピン人の間に多くの友人を得たのですから.私たちは,彼女が自分自身を神への奉仕と同胞のために捧げ,また,彼女の短かった生涯は日本の国民と我々の間の橋渡しと関係を深めるために費やされた,と確信して言うことができましょう.」

その後,彼女の意志を受け継いで「るつ記記念基金」が設けられ,経済的に困難な学生を三十数年間に何人も支援してきました.彼女の足跡はまさに神さまから与えられた富を世のため,人のために使い果たした生涯ではなかったでしょうか.

自分を忘れ,他者に向かう時に,そこには愛の力が働きます.富を自分のために,自分で独り占めにする人は必ず破綻するでしょう.

私たちは,しがらみや身体に取り付いたものに足下をとらわれてなかなか動きだすことが困難になっていないでしょうか.執着心や欲望の数々,なかなかそれを捨てることができません.

そこでイエスさまは言われます:「二人の主人に仕えることはできない」と.

私たちは,目先の利益や欲望のために魂を売り渡してしまってはならないのです.そして,真実に重要なものを軽んじてはいけないでしょう.

大きな神さまの恵みや深いみこころを信じて生きるために,視野の狭い,自己中心的な判断をしてしまいがちな自分に本当に目覚めた心で抵抗していくことが求められています.

しかし,そのことを成し遂げるには私たち自身の力だけではあまりにも無力です.管理人が他人の力を借りて救いの道を切り開いていったように,私たちも,私たちに手を差し伸べてくださる方の力を借りなければならないでしょう.

そのお方がイエス・キリストです.私たちが今日という一日を生きていくための力の源はイエス・キリストから来ます.

十字架にかかり,死に打ち勝ち,復活をされたキリストに私たちが信頼を寄せる時に,おのずと救いの道が開かれてきます.

「神よ/変えることのできるものについて,/それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ.
/変えることのできないものについては,/それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ.
/そして,変えることのできるものと,変えることのできないものとを,/識別する知恵を与えたまえ.」
(ラインホールド・ニーバー)

God, grant me the serenity to accept the things I cannot change,
Courage to change the things I can,
And wisdom to know the difference.
(Reinhold Niebuhr, 1892 - 1971)

祝福がありますように


藤崎るつ記さんのことは,中村吉基牧師さんに初めて教えてもらいました.日本では,カトリック教会のあちらこちらの小教区の御ミサにフィリピン人信徒の方々がたくさん参列し,小教区の生活を活気づけてくれています.これからも,神の愛において彼ら・彼女らとの連帯を大切にして行きたいと思います.

フィリピンの人々はあれだけ大勢日本にいるのですから,なかには LGBTIQ+ の人々もいるはずです.彼ら・彼女らへ LGBT カトリック・ジャパンとしても手を差し伸べて行きたいと思います.

最後に,9月18日はルカ福音書 6,1-13 を二度聴き,ふたつの説教を聴いたので,わたし自身もその一節について考え,解釈を試みました.

ルカ小笠原晋也

2016年9月15日木曜日

2016年9月14日朝,Casa Santa Marta で行われた Jacques Hamel 神父の追悼ミサにおける教皇 Francesco の説教

2016年07月26日,Rouen で,ミサの最中にテロリストたちに殺害された Jacques Hamel 神父の追悼のために,9月14日朝,Casa Santa Marta 内で行われたミサにおける教皇 Francesco 説教

今日(9月14日),教会は,イェス・キリストの十字架の記念日を祝います.イェス・キリストの十字架において,わたしたちは,キリストの神秘を十全に理解します.あの無化の神秘を,キリストがわたしたちに近い者でいてくださることの神秘を.

「彼(イェス・キリスト)は,神の形相において在りながら,神と同等であることに固執しなかった.而して,彼は自身を無化し,しもべの形相を取って,人間と同類の者となり,その姿において人間と認められた.彼は,自身を低くし,死に至るまで – 十字架上の死に至るまで – 従順となった」(Ph 2,6-8).

これが,キリストの神秘です.人間の救済のために殉教者となる神秘です.イェス・キリスト,最初の殉教者,わたしたちのために命を捧げてくださった最初の者.そして,このキリストの神秘から,キリスト者の殉教の全歴史 – 最初の世紀から今日に至るまで – は始まります.
 
最初のキリスト者たちは,自身の命を代価に払って,イェス・キリストを信ずると告白しました.最初のキリスト者たちには,棄教が提案されました:「本当の神は我々の神であり,君たちの神ではない.我々の神 – ないし,神々 – にこそいけにえを捧げよ」.そうせず,棄教を拒むとき,最初のキリスト者たちは殺されました.
 
その歴史は,今日に至るまで繰り返されています.さらに,今日,教会のなかには,最初の時代よりもより多くのキリスト教殉教者がいます.今日,殺害され,拷問され,投獄され,喉をかき切られるキリスト者たちがいます – イェス・キリストを否まないがゆえに.
 
そのような歴史のなかに,わたしたちの Jacques 神父はいます.彼は,連綿と続く殉教者の列に属しています.
 
今,苦しんでいるキリスト者たち – 投獄され,殺され,あるいは拷問されて – イェス・キリストを否まないがゆえに – は,まさに,そのような迫害の残酷さを目に見えるものにしています.棄教を要求するこの残酷さは – こう言いましょう – 悪魔的である.そして,どの宗教であれ,すべての信仰はこう言うのが良いでしょう:「神の名において殺すことは,悪魔的である」.
 
Jacques Hamel 神父は,十字架上で喉をかき切られました.ちょうど彼がキリストの十字架のいけにえを記念しているときでした.善良で,優しく,兄弟愛に満ち,平和を実現しようと常に努めていた彼は,あたかも犯罪者のように殺害されました.連綿と続く悪魔的な迫害です.
 
祭壇でキリストの殉教とともに自身の殉教を引き受けた彼のなかに,わたしの思いを強く引きとめるものがあります.彼が生きたあの困難な瞬間,あの悲劇のただなかで,彼は,優しく,善良で,兄弟愛を為す彼は,清明な意識を失わず,殺害者の名を明瞭に言って告発しました:「退け,サタン!」
 
彼は,わたしたちのために命を捧げました.彼は,イェスを否まないために命を捧げました.彼は,祭壇上で,イェスのいけにえそのものにおいて,命を捧げました.そして,彼は,祭壇から,迫害を為す者を告発しました:「退け,サタン!」
 
ほかの人々を助けるためにみづから自身を無化し,人々の間に兄弟愛を実現する勇気のこの実例,自身の命を捧げる殉教のこの実例が,わたしたち皆にとって,恐れることなく前進する手助けとなってくれますように.彼が天から – というのも,わたしたちは彼に祈るべきだからです.彼は殉教者です.そして,殉教者たちは福者です.わたしたちは彼に祈るべきです.彼が天からわたしたちに優しさと,兄弟愛と,平和と,真理を言う勇気を与えてくれますように.「神の名において殺すことは悪魔的である」という真理を断言する勇気を.

2016年9月13日火曜日

Facebook group 「カトリック LGBT の交わり」の開設

或る友人が意図せずに「LGBT カトリック・ジャパンにいいねをした人々のグループ」を Facebook 上に作ってくださいました.LGBT カトリック・ジャパンはそれを引き取って,その名称を「カトリック LGBT の交わり」 [ Communion of Catholic LGBTs ] に改め,プライバシー設定を「秘密グループ」にしました.

「カトリック LGBT の交わり」は,カトリック信徒である LGBTIQ+ の人々,カトリックに関心を持つ LGBTIQ+ の人々,および,カトリック信徒である LGBT allies とカトリックに関心を持つ LGBT allies のための communion [交わり,分かち合い]のグループです.

プライバシー設定は「秘密グループ」にしてありますので,メンバーの方々は気がねなく投稿してください.ただし,どなたの発言も口外しないようお願いします.



メンバーとして参加を御希望の方は,LGBT カトリック・ジャパンに御連絡ください.

2016年9月9日金曜日

同性愛とは,ある人が在るがままに在るということだ

フランスでは,公の場で聖書の homophobic な一節を引用すると,有罪となる.

フランスの保守派政治家,もと下院議員,Sarkozy 政権下で「住居と都市」問題担当大臣を務めたことのある Christine Boutin[クリスティーヌ・ブタン]は,2014年4月,或る季刊雑誌のインタヴューで,「同性愛者を断罪したことは一度もない」[ je n’ai jamais condamné un homosexuel ] とことわりつつも,旧約聖書レビ記の「男が女と寝るように男と寝るのは,忌まわしいことだ」にならって,「同性愛は忌まわしいことだ」[ l’homosexualité est une abomination ] と述べた.

この発言のゆえに彼女は,2015年12月,「性的指向を理由に憎悪をあおった」罪で,5000ユーロ(約60万円)の罰金を科せられた.

今月7日,控訴審の法廷には,彼女自身は姿を見せず,弁護士のみが出廷した.

三つの LGBT 団体で構成された原告側の弁護士のひとりは,法廷でこう述べた:「同性愛は忌まわしいことだという言葉を元共和国大臣の口から聞くのは,ショッキングなことです.なぜなら,同性愛とは行動でも選択でもありません.同性愛は,ある人が在るがままに在るということです.[被告の発言は]想像を絶する暴力です.そのような発言は,同性愛を嫌悪し,断罪せねばならないという確信を人々の心のなかに強めることになります」.

原告側のもうひとりの弁護士は,こう述べた:「キリスト教徒は自身の同性愛を自由に生きることができます.同性愛者は,自身の信仰を自由に生きることができます.それはまったく忌まわしいことではありません」.

控訴審判決は11月2日に下される.

2016年9月6日火曜日

Fruits in Suits : What and who ?

今月03日付の朝日新聞記事でこう報道されている : Fruits in Suits Tokyo (FinS Tokyo) という LGBT 人権擁護団体が,稲田朋美防衛大臣に,「LGBT をめぐる政府と与党の政策を推進した」との理由で,Japan Pride Award なる賞を贈呈した.

black joke かと思ったが,賞を贈った側は至って本気であるらしい.

ともあれ,Fruits in Suits Tokyo とは如何なる活動なのか?同名の Facebook group のページの記事によると:
フルーツ・イン・スーツ東京 (FINS Tokyo) は、ビジネスや教育、芸術、またそれ以外の分野の専門職に就いている LGBTIA の男女のためのソーシャル・ネットワーク組織です。当グループのメンバーと、LGBTIA の日本人や日本に定住する人たちの平等と人権を確保して実現するために活動している他の LGBTIA 組織とをつなぐ役目を果たしています。わたしたちの目的は、講演者を招いてのイベントや交流会の定期開催を通して国内のこのような取り組みについてコミュニティーのみんなに知ってもらい、いろいろな資金・戦略イニシアティブを通して LGBTIA 組織と力を合わせて、LGBTIA コミュニティーや社会に変革をもたらす支援をすることです。主として親睦を深めるためのグループである一方、自分たちの立場を通して、日本における LGBTIA のための活動を支援し、またグループのメンバーには、個人としても集団としてもこのような取り組みを支援するために何ができるのかを知ってもらう責任があることを認識しています。
Fruits in Suits Tokyo (FINS Tokyo) is a social networking organization for LGBTIA professional men and women in business, education, the arts and other fields. Our group serves as a nexus between our own members and other LGBTIA organizations working to realize and secure the equality and civil liberties of both Japanese and resident LGBTIA individuals in Japan. Our mission is to inform our community of these domestic efforts through regularly scheduled speaker events and communications; unite with LGBTIA organizations through a variety of financial and strategic initiatives; and support them to effect change in our communities and society. While primarily a social group, we recognize the obligation through our position to support the LGBTIA cause in Japan and make our membership aware of how they can assist in these efforts both individually and collectively.

Google 検索で見つかった情報によると,Fruits in Suits は元来,Sidney の LGBT+ business people の団体 the Sydney Gay & Lesbian Business Association (SGLBA) が催すパーティー行事の名称であるようだ.Australia でほかに Melbourne と Brisbane でも同じ名称で同様の行事が行われている.さらに香港にも同名の活動団体があるようだ.

日本で現在 Fruits in Suits Tokyo の名称のもとに活動している団体については,本年01月17日付The Japan Times の記事参考になる.それによると,FinS Tokyo の運営に携わっている中心人物は,Loren Fykes 氏である.Facebook で友人となり,若干 chat した.なかなかの nice guy, très sympa ! 好印象を受けた.彼は生まれ育ちは USA だが,日本語の読み書きは堪能である.

特に共鳴できるのは,coming out 無くして権利の主張無しという彼の考えである.

勿論,coming out を強制することは誰に対してもできない.しかし,Loren Fykes 氏のように勇気を以て行動しないままに,同性婚の法制化を棚ぼたのように(ないし,空から焼き鳥が降ってくるように)待っていても無効である.その点に関しては,彼を称賛したい.

家父長主義的な日本会議有力メンバーの稲田朋美防衛大臣をくすぐることに如何なる意義があるかの議論はさておき,勇敢な Loren Fykes 氏,ならびに,上に言及した The Japan Times の記事において彼とともに取り上げられている Darien Alexander Williams 氏,および,その記事を書いた Baye McNeil 氏,彼らとの連帯は,日本における本当の同性婚法制化の実現のために有意義となるだろう.

ルカ小笠原晋也

2016年9月5日月曜日

LGBT カトリック・ジャパンのホームページを試作しました

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