2016年12月27日火曜日

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

今日,12月18日は,待降節第四主日です.

今日のミサの中心点は,「この子をイエスと名づけなさい,エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです.

クリスマスの季節にわたしたちがお祝いのカードに見るマリア,ヨセフ,幼子イエスの聖家族の姿は,なじみ深いものです.でも,聖家族と呼ばれるこの家族から学び得るこれらのことがら ‒ 命の誕生,母性,父性,名づけ ‒ の深い意味を,わたしたちは十分に把握しているでしょうか?

わたしたちは,当り前のように教会用語を使って,「マリアは処女,ヨセフは名づけ親,イエスは聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれませんが,処女性とは何か,名づけ親とは何か,聖霊とは何か,と訊かれたら,何と答えましょうか?

実は,こう言うことができます:

1) ある意味で,どの親も,名づけ親であり,養父母のような面を持っている;

2) そして,どの親についても,親になって初めて,母親の処女性は深い意味を帯びてくる;

3) さらに,生まれてくる子どもは,どの子も,聖霊によって生まれる;

4) また,first name を与えられ,その名前で呼ばれるどの人間も,かけがえのない尊厳を持っており,「人間である」とか「何々人である」とか「何々の特徴を持っている」とか言うより先に,「誰々という個人だ」と言わなければならない.どの人間も,排除されたり差別されたりされるべきではない.

ヨハネパウロ 世が述べたように,「イェスの御降誕において,あらゆる人間の誕生の全的な意味もが啓示される」(『命の福音』1).

では,その意味を深めるために,マタイとルカの両福音書を合わせて読みましょう.マタイ 1,20-21 からはヨセフへのお告げを,ルカ 1,31 からはマリアへのお告げを,聴きましょう

ルカ福音書 1,31 では,お告げの物語が述べられています.マリアは目が覚めていたでしょうか,うたたねしながら夢を見たのでしょうか?夢だとしても,それは,真実を見つめさせる夢です.近いうちに結婚することになるマリアには,それに対する望みもあり,不安もあるかもしれません.マリアに,安心させる御使いが現われます.御使いは言います:「マリアよ,恐れることはない.あなたは,命をめぐまれる.あなたは,身ごもって,男の子を生む.その子をイエス(人を解放する方)と名づけなさい」.

マタイ福音書 1,20-21 では,ヨセフへのお告げが物語られています.夢ですが,彼を目覚めさせる夢です.ヨセフは近いうちにマリアを妻として迎える予定ですが,それに対する望みも不安もあります.御使いは彼を安心させます:「恐れずに,マリアをあなたの妻として迎え入れなさい.彼女の胎内に生じたものは,神の聖なる息吹によるものだ.彼女は,息子を生む.その子をイエスと名づけなさい.その子こそ,民を罪から救うであろうから」.

このようにルカとマタイを合わせて読むと気がつくのですが,マリアにもヨセフにも,ふたつのことが告げられます:ひとつは,あなたたちは子どもを授かる;もうひとつは,生まれる子どもは聖霊によって生まれる.

そして,マリアにもヨセフにも,子どもに名前をつける役割と使命が与えられます.

イエスという名前を選んだのは,神様です.その名は,御使いを通して伝えられます.そして,名前をつけるのは,父親と母親の役割と使命だ,と言われています.(当時は,父親が名前をつけるのが普通でした).

父親も母親も,新しい命である子どもを恵まれたら,まず名前をつけるでしょう.名前をつけるということは,つまり,その命を受け入れて育てることを約束する,ということです.

その意味で,どの父親も母親も,名づけ親であり,養父母だ,と言えるでしょう.

また,どの新しい命も,聖霊の息吹を受けて生まれます.どの子どもも,聖霊によって母親がみごもった結果,聖霊によって生まれる,と言えます.

その意味で,どの親も神とともに協働創造者である,と言えます.

生まれてくる子どもは,親から生まれると同時に,聖霊によって生まれるのです.

その子どもに,親は,名前を付ける.すなわち,その存在を受け入れる.そして,これからもそのように育て続けることを約束します.その子に,社会に,神に,約束します.

子どもがどんな状況のなかで生まれたにしても,どんな事情で親がその子に名前をつけ,その子を受け入れたにしても,そう言えます.親が正式な夫婦でも,そうでない同棲カップルや LGBT のカップルでも,子どもが体外受精や代理出産などで生まれた場合であっても,同じことが言えます.

名づけの重要さについて,もうひとつの観点から考えることができます.世に生まれてくるあらゆる被造物は,その誕生の状況が如何なるものであれ,侵すことのできない人間存在の尊厳を持っており,いかなる差別の対象にもなり得ない.

差別するということは,尊厳をないがしろにすることです.個人の名前のかわりに,レッテルを貼ることです.たとえば,あなたはスペイン人だから,こういうことはわからないでしょう;あなたは独身だから,この問題について語る資格はありません;あなたは LGBT だから,しかじかの権利はありません... そのように,レッテルを貼られ,差別されます.

しかし,その人は,単にスペイン人でしょうか? 単に独身者でしょうか? 単に LGBT でしょうか? いいえ,その人は,しかじかという固有名を持つ人です.その固有名で呼ばれるべき人です.次いで,その人はスペインで生まれ,独身であり,LGBT であり,さらにほかの多くの属性を有しています.

そのような属性以前に,人は,固有名と,固有の尊厳とを持っています.

今日の福音によって,わたしたちは支えられ,励まされます.親に感謝しましょう.どの人間にも,等しくかけがえのない尊厳がそなわっていることを自覚しましょう.そして生まれてくるすべての子どものために祈りましょう.

わたしたちは皆,聖霊によって親から生まれてきました.クリスマスの夜には,親に感謝,神に感謝,命の為に感謝して,グロリアを唱えましょう:天のいとたかきところに神に栄光!

わたしたちは,あらゆる妊娠において命を大切にし,誰も排除されない,誰も差別されない世の中を作って行きたいものです.地上に平和があるように,平和を作るように,努めたいものです.

2016年12月24日土曜日

降誕祭おめでとうございます ‒ ルカ小笠原晋也より

降誕祭おめでとうございます!

Λόγος [ Logos ] の受肉,主 Jesus Christ のお誕生を祝いましょう!神の子 Jesus の御降誕は,存在の真理の自己示現です.

そして,わたしたちは皆,男も,女も,性的少数者の人々も,誰もが,神の子です.神により創造されたものとしての人間は,誰もが,ひとりの χριστός christus : 聖別のために塗油された者]です.ですから,人間は,誰もが,存在の尊厳を有しています.

そのことを,わたしたちの主 Jesus Christ は,御自身の誕生を以て,証明してくださっています.神に感謝しましょう!

さて,sexual minority の人々とともに歩むわたしたち有志カトリック信者の活動 LGBTCJ にとって,2016年はとても実り多き年でした.Deo gratias !

まず,何よりも,LGBT 特別ミサ.社会的に差別されてきた人々の司牧に御理解のある神父様たちにより,今年7月から毎月一回,性的少数者限定の御ミサを立てていただけるようになりました.日本のカトリックの歴史のなかで初めてのできごとです.主の恵みに感謝します.そして,御協力くださる神父様がたに感謝します.LGBT 特別ミサは,来月からも継続されて行きます.LGBTIQ+ の人々が各人の所属する小教区の御ミサに何の気がねもなく参加することができるようになるときまで.

世界的には,先月までの12ヶ月間は慈しみの特別聖年でした.それによって教皇 Francesco は,このことを強調しました:キリスト教の根本は,律法に存するのではなく,愛に存する.誰をも排除せず,あらゆる人を包容する神の愛です.

神の律法に準拠する司牧が,律法の普遍性にこだわるあまり,例外的少数者を排斥し,差別することになるのに対して,神の愛を実践する司牧は,わたしたちひとりひとりに寄り添い,各人を個別的に導いてくれます.神の愛へ心を開く人は,誰もが救済されます.

聖パウロが強調しているとおりです : πλήρωμα οὖν νόμου ἡ ἀγάπη [すなわち,愛は,律法の完成である](Rm 13,10).

いまだに聖書の文言の断片を以て性的少数者を断罪する者たちは,このことがわかっていないのです:「イェス・キリストにおいて命を与える霊気の律法は,罪と死をもたらす律法からわたしを解放してくれた」(Rm 8,2) ; 「キリストは,わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった」(Ga 3,13).

また,4月には教皇 Francesco は,使徒的勧告 Amoris laetitia [愛の喜び]を発表し,インタヴューにおいてだけでなく,公式文書において初めて,性的少数者を積極的に包容する司牧的配慮を明確に打ち出しました.

残念ながら,教皇 Francesco は,同性カップルに結婚の秘跡を授けることを容認するところまでは踏み込みませんでした.しかし,それを以て彼が十分に liberal でないと非難することはできません.彼は,教会の分裂を招かないよう慎重であるだけです.実際,同性婚法制化をめぐっては,幾つもの国々で世論は賛否に二分され,激しい対立が起きています.ですから,律法にこだわらないでおきましょう.異性カップルであれ同性カップルであれ,ふたりの人間が誠実に互いを愛し合うとき,それは神の愛の徴です.神は,慈しみ深く,ふたりを祝福してくださいます.それこそが,本当の結婚の秘跡です.

いわゆる gender theory に対する教皇 Francesco の批判は,LGBT 活動家たちから,性的少数者の問題に関する無理解として非難されました.しかし,それも当たっていません.教皇が言いたいのは,このことです : sexuality は,神による創造の賜であって,社会学的な人為産物ではない.

議論の混乱を避けるためには,わたしたちは性別について三つの概念を区別しなければなりません.ひとつは,生物学的な sex ; ふたつめに,社会学的な gender ; そして第三に,ontological sexuation [存在論的な性別化].この第三の性別こそが,神による創造の賜です.それは,生物学にも社会学にも還元され得ません.性的少数者に関して性別を論ずるとき,とりわけ transgender の問題を論ずるときは,わたしたちは,ontological sexuation の概念に準拠しなければなりません.それは,性に関して心身二元論を超克するための唯一の道です.

先日 80 歳のお誕生日を迎えたパパ様が,これからも笑顔で元気にカトリック教会を全包容的な神の愛の完成へ導き続けることができますように!

最後に,sexuality の問題は,女性や性的少数者の人権の問題であるにとどまりません.女性と性的少数者に対する差別を克服するための社会活動と性理論によって,このことが明らかになってきました:人間が神の愛に対して心を閉ざす悪へ陥ってしまう理由は,男性中心主義 [ androcentrism, male chauvinism ] に存する.そして,男性中心主義を動機づけているのは,家父長主義 [ patriarchalism ] であり,さらにそれを動機づけているのは,phallofascism です.

性的少数者を擁護する活動は,フェミニズムとの連帯において,男性中心的な日本社会の構造を変革する可能性を追求して行きます.そして,その際,わたしたちを導いてくれるのは,神の愛です.

また,資本主義と科学技術による支配のもとで,日本社会も世界も,人間の尊厳がますますないがしろにされる方向へ向かって行きつつあります.そのような動向に対する最も有効な批判を可能にしてくれるのも,神の愛です.

喜ばしき御降誕祭と幸多き新年を皆様とともにお祈りいたします.

神の愛の恵みがますます豊かに皆様とともにありますように!

LGBTCJ 共同代表
ルカ小笠原晋也

主の御降誕おめでとうございます ‒ ペトロ宮野亨より

主の御降誕に心からの感謝を捧げ,皆様と一緒にお祝いします!

わたしはこの数年,聖体拝領で,ひとつの「気持ちと心」を味わえるように,神に願い続けています.それは,御聖体の形にまでなって,わたしの中に入ってきてくださる主イエスの「気持ちと心」です.

これだけを噛みしめて味わいます.

これにより深まるわたしの中身は,「神を愛する気持ちや心もすべて神からいただいているから,神を愛せる.自分の力ではない.わたしはただの器」という実感です.

わたしは神に愛されているから,神を愛する「愛」や人を愛する「愛」を神はすべて常に下さっている,と実感しています.

では,クリスマスでは,どうでしょうか.赤ちゃんにまでなって,わたしたちに現れてくださった主イエスの「気持ちと心」は,例えばどんなでしょうか?

非暴力,無抵抗,堕胎拒否,LGBT 賛美,命そのもの... この他にも沢山あるでしょう.

わたしが最も感謝しているのは,「親が赤ちゃんに捧げる無償の愛を,三位一体の御交りは天国から見ていて,羨ましくなって,赤ちゃんになってその愛を実感したかった」という恵みです.人に愛される実感を神が感じたがっているという恵みです.

この他には,聖マリアは,わたしたちと同じ質素なありふれた女性です.特別ではない普通の人間に,神は御計画を打ち明けています.それも,聖堂の中ではなくて,マリアが家でくつろいでいるときに,神は,その日常生活のなかに来て,愛を打ち明けます.

自宅のなかに神がドアを開けて入ってくる情景は,わたしの心の扉を神が開けて,わたしの部屋に入ってきてくださる情景と一致します.

ある神父様は,「神を,生活の場や日常の些細な出来事のなかに感じないならば、それは単に神を理性で捉えているだけで、まだ命の神と出逢い触れ合っていない」と言っています.

アビラの聖テレサは「神は台所の鍋のなかにもおられる」とわたしたちに諭しています.「罪に較べて無限に偉大な神の愛を,いつも感じて,頼りましょう」と言っています.

わたしがスゴイなと感じるマリア様は,「何故,そのご計画がわたしなんですか?」と素直に本質的な質問を神にしています.神にいつも尋ねて答えや恵みをいただく信徒の姿を,わたしたちに教えてくれます.

神は,わたしが常に問いかける存在です.「何故わたしは○○○なんですか?」と問いかけます.

御復活祭前後に過越の神秘を祈るとき,わたしの問いに答えて,主はいつもメッセージをくださいます:「わたしはあなたのために死んだ.わたしに従いないなさい」と.

クリスマスのときのわたしへの答えは,「わたしはあなたのために生まれた.わたしに従いなさい」です.

三位一体の御交りとの交りを感じるクリスマスでありますよう,皆様のため,心から祈ります.

皆様に感謝をこめて,

LGBTCJ 共同代表

ペトロ宮野亨

2016年12月21日水曜日

12月18日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

昨日,12月17日は,教皇 Francesco の80歳のお誕生日でした.パパ様は,2013年3月の就任以来,同性愛を断罪してきた従来のカトリック教会の態度を改めて,性的少数者に対しても包容的な司牧をするよう,機会あるごとに強調してくださっています.神の愛は,誰も排除せず,あらゆる人を包容します.神の愛に忠実であることができるために,これからもパパ様が笑顔で元気にカトリック教会を導き続けることができますように.

今年,性的少数者の司牧のために御理解のある神父様がたのおかげで,わたしたちは毎月,LGBT 特別ミサを立てていただくことができるようになりました.主の恵みに感謝いたします.また,御協力くださる神父様がたに感謝いたします.来年も,より多くの性的少数者の人々が,「あなたは神に愛されている」という福音の喜びのうちに救われることができますように.

東京以外のところで,性的少数者のために司牧してくださっている神父様たちと,その御ミサに与っている人々のために祈ります.また,わたしたちの友人,平良愛香さん,中村吉基さん,上野玲奈さんを始めとする LGBT プロテスタント牧師さんたちと,その礼拝に与っている人々のために祈ります.彼ら彼女らの上に主の恵みがますます豊かにありますように.彼ら彼女らのひたむきな努力によって,日本じゅうの性的少数者の人々へ神の愛のメッセージが伝わりますように.

12月01日は,世界 AIDS Day でした.今までに AIDS で亡くなった兄弟姉妹たちのために祈ります.彼ら彼女らは,神の愛につつまれて,天の御国で安らいでいます.また,現在治療を受けている兄弟姉妹たちのために祈ります.病状ができるだけ安定し,日常生活を平穏に送り続けることができますように.今後,AIDS の治療方法がさらに進歩して行きますように.新たな HIV 感染者の数が減って行きますように.

さまざまな事情から今日の御ミサに与ることができない兄弟姉妹たちのために祈ります.主は,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,あらゆる人を包容する神の愛の恵みが,今日これなかった兄弟姉妹たちに豊かに注がれますように.また,主によって今日ここに集う幸せを恵み与えられたわたしたちが,ひとりでも多くの兄弟姉妹たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができますように.

ルカ小笠原晋也

2016年12月20日火曜日

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

アジアで最も LGBT friendly な国のひとつと言われている台湾で,同性婚法制化法案が議論され,世論は賛否半々に二分されています.

Tsai Ingwen(蔡英文)総統は,同性婚法制化に賛成する若い世代の支持を受けて2016年 1 月に選出され,5月に就任しましたが,保守派の反発を恐れて,この問題に関する態度を明確にしていません.

台湾で同性婚法制化が急に政治課題となったきっかけは,或る自殺でした.国立台湾大学のフランス文学教授 Jacques Picoux は,約40年間連れ添った同性パートナー Tseng Chingchao が癌で亡くなる際に,医療に関する意志決定にも死後の遺産相続にも関与することができず,今年10月,自殺しました.この痛ましい事件が,同性婚法制化の動きを急加速させることになりました.しかし,それに対する反発も引き起こすことになりました.

台湾でキリスト教徒の数は総人口の約 4.5 % であり,カトリックとプロテスタントが半々です.キリスト教は,少数派ではありながら,クリスチャンである政治家や知識人の存在のため,社会的影響力を持っていると言われています.

台湾のカトリック司教たちは同性婚法制化に反対の意見を表明していますが,若いカトリック信徒のなかには賛成する人々が多いようです.

わたしたちも,亡くなった Tseng Chingchao と Jacques Picoux のために祈りましょう.また,台湾の人々が神の愛のもとに対立を乗り越え,少数者の権利を尊重する全包容的な社会を築いて行けるよう祈りましょう.

ところで,同性婚法制化をめぐる社会対立の激化のなかで,我々の友人 Frank Wang さんは,12月04日付の Taipei Times にすばらしい意見記事を発表しています.是非日本の皆さんにも読んでほしいと思い,邦訳しました.翻訳を快く承諾してくれた Frank Wang さんに感謝します.




なお,Taipei Times は表題を "Catholics must accept gay marriage"[カトリック信者たちは同性婚を容認せねばならない]としていますが,これは執筆者の意図どおりではありません.Frank Wang さんが付けた原題は "In Love We Have No Fear"[愛において我々は何も恐れない]です.

Taipei Times, 2016年12月04日付記事

愛において我々は何も恐れない


執筆者 : Frank Wang(王增勇,国立政治大学ソーシャルワーク研究所副教授)


同性婚は,カトリック教会内で賛否が両極端に分かれる問題である.わたしは,この論戦に巻き込まれたカトリック教会の一世俗信徒として,「怒りのせいで愛を忘れたカトリック信者」にはなるまいと努めている.

神は,我々を皆,愛しており,誰をも遠ざけようと思ってはおられない.各人の人生は,ちょうど聖書のようである: 我々は皆,神から霊気を受けている.

それは,「我々は,聖書を武器にして,真理と理性を独占しており,我々だけが人々すべてに対して審判をくだすことができる」という意味ではない.もし心が愛に満ちていないなら,言葉は虚ろに響くだけだ.したがって,重要なのは,神の命令:「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」に従って,同性婚問題を再検討することである.

神は,わたしを同性愛者として創造なさった.しかしそれは,神がわたしを他の人々より愛していないという意味ではない.それどころか,わたしが同性愛者であるということは,わたしに与えられた最大の祝福である.

わたしは,カトリック信仰のせいで同性愛者である自分を嫌悪する,ということにはならなかった;むしろ,神の無条件な愛によって,わたしは,あるがままの自分を受け入れる勇気を与えられた.

わたしも最初は自分を受け入れることができなかった.同性愛者であるせいで,大切に思っているものすべてを失ってしまうことになるのではないかと恐れていたからだ.しかし,神の愛は,恐れることはない,とわたしに教えてくださった.

同性婚問題を論ずるとき,カトリック信者は,「愛するとき,怖いものは何も無い」という根本的な論点に準拠すべきである.

多数のカトリック信者が同性婚に反対する潜在的な理由は,内在的な不安感である.社会秩序が失われてしまうのではないか,子どもたちに悪影響があるのではないか,今まで慣れ親しんできた世界がなくなってしまうのではないか,という恐れである.

しかし,信仰は我々にこう教えている:他者の苦しみに目をつぶることはできない,なぜなら,十字架上でイェスはたいへん苦しまれたから.今日,同性愛者たちが苦しんでいるのを見るとき,我々は,イェスの苦しみを思い出すべきである.少数者たちが犠牲にされるのは,「彼らは我々とは違う」という思いが不安にさせるからだ.この不安感が自身の内にあることを認めることによってのみ,我々は,神の愛を実践することができる.

教皇フランシスコは既に,同性愛者たちに対するカトリック教会の従来のふるまいについて謝罪した.

同性愛についてわたし自身が以前に感じていた不安を,ここで分かち合いたい.わたしは常々こう懸念していた:もしわたしが同性愛者なら,両親はとても悲しむだろう,特にわたしは一人息子だから.

また,こうも懸念していた: 友人たちはわたしから離れて行くだろう,わたしが「不道徳」で「ふしだら」なことをしているという理由で.わたしは,そうしたいと思っても,隣人を助ける仕事に身が入らなかった.同性愛者から助けてもらいたいと思うような人は誰もいないだろうから.

そのような自己否定をしている間,わたしは,異性愛の関係を持とうと試みた.しかし,自分自身に誠実ではなかったので,当時のガールフレンドに与えることができた感動もニセモノにすぎなかった.彼女に近しくあろうとしても,わたしは躊躇してしまい,彼女にわたしのすべてを与えることができなかった.ふたりの関係は,わたしたち双方を傷つけて終わった.今に至るまでなおも,わたしはそのことを恥ずかしく感じている.

わたしは,神によって同性愛を「直して」もらおうとした.しかし,祈りにおいて,わたしは,神がわたしを受け入れてくださり,愛してくださっていると感ずることができた.ついに,わたしは,不安のうちに生き続けることをやめた.自身と他者を欺く生活は二度としない,と誓った.

もし仮に「神は異性愛夫婦の愛にしか祝福を与えない」と信じていたなら,わたしは多分,もう既に異性と結婚していただろう.しかし,わたしも妻も,性的な欲望を満たすことができず,きっと後悔と自責の念を抱き,その苦痛の重荷を相手に背負わせることで終わっていただろう.そのような不幸な結婚生活のなかで育つ子どもが,どうして健康なおとなになり得るだろうか?

教皇は最近,人々に警告した:「敵意の伝染病」に毒されることのないように,そして,憎悪をあおるレッテル貼りをしないように,と.同性婚に関する論争によって,多くのカトリック信者がやるせない気持ちになっている.分裂によって不安が撒き散らされ,対立が生み出されたからだ.互いに愛し合うかわりに,キリスト教徒たちは,憎しみにより分裂してしまっている.

わたしは,カトリックの兄弟姉妹たちに言いたい:あなたたちが今感じている不安を,わたしもかつて感じていた.しかし,同性婚を許容することによって,あなたたちは,次世代がより良く互いに愛し合うのを学ぶことを可能にするだろう.同性婚を認めても,次世代が同性愛の世代になるわけではない.

同性愛者たちは,異性愛者の世界のなかで,自分は人間だと感ずる資格が認められるだろうという希望を持つことができない:それが,同性愛者の感ずる最大の苦痛である.どうか,わたしたちが神の愛へ立ち戻れるようにしてほしい.どうか,神を手本にして,学んでほしい,誰をも遠ざけず,他者に希望を与え,同性愛者に愛を与えることを.そして,同性愛者に知らせてほしい,彼ら・彼女らの愛も神に祝福されている,ということを.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2016年12月13日火曜日

『いのちへのまなざし』改訂版に LGBT について書いてくださる Masiá 神父様へ,性的少数者の気持ちを伝えましょう

2001年に司教団メッセージ:『いのちへのまなざし』が出版されました.



その内容は:

第一章: 聖書からのメッセージ

第二章: 揺らぐ家族
  夫婦について
  性と生殖,そして家庭
  親子について
  高齢化社会を迎えて

第三章: 生と死をめぐる諸問題
  出生前診断と障害者
  自殺について
  安楽死について
  死刑について
  生命科学の進歩と限界
  脳死と臓器移植
  ヒト胚の研究利用,人間のクローン,遺伝子治療
  環境問題

つまり,21世紀における生命倫理の諸問題に関するカトリック教会の考え方が述べられています.この本は,カトリック系の学校で副読本としても用いられていました.

しかし,今年で出版から15年が過ぎ,内容が部分的に社会の現状から遅れたものになってしまったので,現在,改訂版の準備が進められています.

特に,初版ではまったく扱われなかった性的少数者の問題が,今度は取り上げられることになっています.その執筆は,Juan Masiá 神父様 SJ が担当なさる予定です.

Masiá 神父様が司式してくださる12月18日の LGBT 特別ミサの後の集いでは,新たな『いのちへのまなざし』に性的少数者についてどのような内容を盛り込んで欲しいかに関する皆さんの御意見や御要望を,神父様に聴いていただきたいと思っています.

御ミサにいらっしゃる方は,その場で直接,神父様にお話ください.

いらっしゃれない方は,LGBTCJ 宛ての e-mail で,お考えをお知らせください.わたしたちが神父様へお伝えします.

ルカ小笠原晋也