2017年2月23日木曜日

LGBT 特別ミサ共同祈願,2017年02月19日

2017年02月19日の LGBT 特別ミサにおける共同祈願



今月11日は,Lourdes の聖母の祝日であるとともに,世界病者の日でした.かつて精神病理のひとつに数えられていた同性愛は,もはや病気とは見なされていません.また,いまだに精神疾患のリストに上げられている性同一性障害も,まもなくそこから外されようとしています.しかし,わたしたちは,主のこの言葉も忘れることはできません:「医者を必要としているのは,健常者ではなく,病人である.わたしが呼びに来たのは,義人ではなく,罪人である」.主がわたしたちの罪を赦してくださるのは,わたしたちが自身を罪人と認めるときです.同様に,主がわたしたちを癒してくださるのは,自分が病んでいることをわたしたちが認めるときです.LGBT を差別するための病理学化は退けられるべきです.しかし,こう祈る謙虚さを忘れないようにしましょう:主よ,わたしたちは傷ついています.病んでいます.苦しんでいます.どうか,わたしたちをあなたの愛によって癒してください.

世界民衆運動の集いが,昨日まで三日間にわたり California で行われていました.教皇 Francesco は,その集いに寄せたメッセージのなかでこう呼びかけました:「誰が隣人で,誰が隣人でないかを分類するのはやめましょう.排除と無関心と差別と不寛容の壁を克服しましょう.恐れの壁ではなく,愛の橋を作りましょう」.教皇とともに,アシジの聖フランチェスコにならって祈りましょう:主よ,わたしを,あなたの平和の道具にしてください.憎しみの代わりに愛を,罪の代わりに赦しを,不和の代わりに一致を,誤謬の代わりに真理を,疑念の代わりに信仰を,絶望の代わりに希望を,闇の代わりに光を,悲しみの代わりに喜びを,わたしたちがもたらすことができますように.

わたしたちの兄弟が傷つけられました.カトリック信者と名のりながらも,同性愛者を嘲る言葉を tweet する或る人によって,とても傷つけられた兄弟がいます.彼のために祈りましょう:主よ,あなたの愛は,誰も排除せず,誰をも包容してくださいます.こころないカトリック信者によって傷つけられたひとりの兄弟を,あなたの愛によって癒してください.差別と憎しみの壁のなかに閉じこもる人々の心を,あなたの愛によって開いてください.


さまざまな事情で今日,わたしたちの御ミサに与ることができない同胞たちのために祈ります.主は,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,誰をも包容する神の愛の恵みが,今日これなかった人々にも豊かに注がれますように.また,主によって今日ここに集う幸せを恵み与えられたわたしたちが,ひとりでも多くの同胞たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができますように.

小宇佐敬二神父様の説教,2017年02月19日,LGBT 特別ミサにて

2017219日,LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教



The Sermon on the Mount by Carl Heinrich Bloch



今,毎主日の福音朗読で,「山上の説教」があわただしい感じで読まれています.今日の箇所は,「山上の説教」(Mt 5,1 - 7,29) を前半,中半,後半に分けるなら,前半のしめくくりの箇所であり,そして,そのひとつ前の「盗んではならない」ということに関するイェス様の釈義と言ってよいかと思います.それが描かれています.

この「盗んではならない」に対して,イェス様の教えは,「盗まれる前に与えよ」です.「与える」ということに大きなポイントがあると思います.

さて,「“隣人を愛し,敵を憎め”と教えられ,命じられている.しかし,わたしは言っておく.敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい」.ここに,ひとつの大きな,イェス様独特の意味合いが含まれています.

「隣人を愛し,敵を憎め」.

『聖書と典礼』には,「敵を憎め」という言葉は旧約聖書のなかには見られない,という注釈が置かれています.確かに,「敵を憎め」という表現そのものは出てきませんが,しかし,詩編 139 の 19-22 節で,こう言われています:

「どうか神よ,逆らう者を打ち滅ぼしてください.わたしを離れよ,流血をはかる者,たくらみをもって御名を唱え,あなたの町々をむなしくしてしまう者.主よ,あなたを憎む者を,わたしは憎み,あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし,激しい憎しみを以て彼らを憎み,彼らをわたしの敵とします」.

詩編 139 は,「山上の説教」のなかで実は三回取り上げられると言ってもよい重要な詩編で,この前半の部分は主の祈りの導入でも用いられています.18 節までは,神様の創造の業,全知,全能,遍在,さまざまな神様の素晴らしさを歌っている素晴らしい歌です.

しかし,19 節から大きくトーンが変わってきます:

「主よ,あなたを憎む者を,わたしは憎み,あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし,激しい憎しみをもって彼らを憎み,彼らをわたしの敵とします」.

神を憎む者らをわたしは憎み,わたしは彼らをわたしの敵とする.これは,実は,いわゆる聖戦 (jihad) の原理と言ってもよいかもしれません.神を敵とする者を,わたしたちは打ち滅ぼすのだ そういう論理です.

イェス様は,この論理を退けます.

「神を憎む者を,わたしは憎む」ということは,わたしはこの「神を憎む人」に反応している.神様に反応しているのではない.人に反応している.反応の仕方が間違っています.人にではなく,神様に反応しなさい.

あなた方の天の父は,善人の上にも悪人の上にも等しく雨を降らせ,太陽を昇らせているではないか.自分を憎む者に対して恵みで応える,愛で応える それがあなた方の天の父である神なのだ.この父である方に反応しなさい.

「わたしたちの父」と呼ばれる天の父のもとでは,わたしたち誰もが父の愛する子である.父の愛する子であるということにおいて,敵も,わたしたちを憎む者も,同じく父の愛する子,兄弟,隣人ではないか.

天の父は,憎しみに対して愛で応える.この父の心に反応して行くとき,わたしたちは,父の似姿として成長して行くことができる.そのことがイェス様の大事な教えであろうと思います.

あなた方の天の父が完全であられるように,あなた方も完全なものとなりなさい.

天の父の完全さ 「清い」,「聖である」,「義である」,「慈しみ深い」など,さまざまな形で天の父の完全さが示されています.イェス様は,そのなかから,無条件の愛を注がれる方,際限の無い赦しを行われる方,そして,深い共感と憐みをわたしたちに注がれる方,それら三つを特に取り上げながら,天の父の完全さを示しています.

では,わたしたち人間の完全さは,いったい何なのか.その問いが,教えのなかの大きなポイントとして,マタイ福音書全体のなかで展開されているのではないかと思います.

イェス様が教える「子であるわたしたちの完全さ」とは,天の父の無条件の愛に対して無条件の信頼を以て応えて行こうとすること;天の父の思いをわたしたちのうちにしっかりと受けとめて行くこと;そして,その恵みのなかで成長させていただくこと それらが,子であるわたしたちの完全さ,確かさである,と言ってよいでしょう.

この完全さ,確かさを生きていくために,まず,小さなもの,貧しい者,打ちひしがれた者である自分自身をしっかりと受けとめ直して行く.そして,小さな者であるわたしたちは,同時に,神様の愛する赤ちゃんである,神様の愛する子である,ということそのことをしっかりと受けとめて行く.まず,そこから出発する.それが,イェス様の教えです.イェス様をとおして与えられる導きです.そして,聖霊の注ぎをとおして,さらに,秘跡をとおして,わたしたちは養われて行きます.

「貧しいものは幸いである」.

この「貧しい」は,ヘブライ語で ani と言います:


ギリシア語にも日本語にも翻訳することのできないこのヘブライ語独特の言葉にもとづいてイェス様は教えておられただろう,と思います.

それは,自分の力で自分の頭を持ち上げることのできない弱さを指す形容詞です.それは,赤ちゃんの姿であり,あるいは,大金持ちから莫大な借金をして頭を持ち上げることのできない貧乏人の姿であり,あるいは,強大な敵に侵略されて,その敵の前で頭を持ち上げることのできない被支配者のことであり,あるいは,年を取り,病に倒れ,自分の頭を自分の力で持ち上げることのできない人のことであり,あるいは,悲しみに打ちひしがれ,うなだれてしか歩くことのできない人のことです.

そのような弱さを身に負っているわたしたち,この小さな者たちこそが,幸いなんだ.そのように弱いあなた方の首を,天の父はしっかりと持ち上げてくださる.天の父は,あなた方を立ち上がらせてくださる.天の父は,あなた方を御自分の子と呼んでくださる.

自分の弱さや未熟さや至らなさ,さまざまな欠点や欠落,それらを受けとめ直しながら,神様の創造の業のなかで,わたしたちは,天の父の子として完成されて行く.そのような神様の再創造の業に与ることによって,わたしたちは,神の似姿として成長して行き,実現されて行く そうなって行くことができる確かな道があるのだ,とイェス様は招いておられます.

その招きは,『創世記』の冒頭に描かれている天の父の招き,神の招きです.互いの命を育み育てて行くこと.地を治め,すべての生き物の世話をすること.それらのことをとおして,わたしたちは,命を愛する者として,神の似姿として,実現されて行くことができるのだ そうイェス様はわたしたちを招き,そして,御自分の命をとおしてわたしたちを浄め,聖霊の注ぎをとおしてわたしたちを新しい人として立ち上がらせてくださったのです.

わたしたちは,父である方の完全さのなかで,子として,父の恵みのなかを歩いて行く.父の手のなかで育まれて行く.この確かさを,完全さを,身に負って行きたいと願います.そこにわたしたちの信仰の原点がある,と言ってよいでしょう.

小さなものであるわたしたち しかし,小さいままでとどまっているわけではない.わたしたちは,神様の赤ちゃんとして,今は小さなものでありながらも,大きく育てられて行く.天の父の手のなかで育てられて行く.天の父に抱かれて育まれて行く.この道が,そして,そこへの招きが,わたしたちにもたらされています.

小さなもの 神様の赤ちゃん であることをしっかりと受けとめ,そして,天の父の愛のなかで,あわれみのなかで,赦しのなかで,育まれて行く.御ことばに導かれ,秘跡に養われ,新しい人として育まれて行く.この道をわたしたちが日々歩んで行くことができますように.

2017年2月21日火曜日

同性婚法制化は若者の自殺を減らす

すばらしい統計学的研究が発表されました.それによると,同性婚の法制化は若者の自殺を減らす効果を明確に有しています.公衆衛生の観点からは大変評価される結果です.さっそく一般誌でも報道されています.

アメリカの小児科の学会誌に昨日付で発表されたその研究においては,アメリカ合衆国の1999年から2015年までの Youth Risk Behavior Surveillance System(若者の危険行動の監視システム)の統計にもとづき,同性婚法制化が若者の自殺未遂ケースの数にどう影響したかが統計学的に分析されました.

周知のとおり,全米で同性婚が認められたのは,2015年6月26日に連邦最高裁が「同性婚を禁止する州法は合衆国憲法に違反している」と判断したことによってです.それまでは,同性婚を認める州と認めない州とが合衆国のなかで混在していました.同性婚が domestic partnership の形で最初に認められたのは,1992年,Washington DC においてでした.同性婚が異性婚と同等の婚姻として初めて法制化されたのは,2009年,Vermont 州においてでした.

論文のなかで表に示されているように,調査対象となった全学生の自殺未遂率は,同性婚法制化前は 8.6 % であったのに対し,同性婚法制化後は 8.0 % へ有意に低下しました.sexual minority の学生に関しては,自殺未遂率は 28.5 % から 24.5 % へ有意に低下しました.

人間の命の尊重を教えるカトリック教会が同性婚を認めないことによって若者の自殺の減少を妨げているのだとすれば,どうでしょうか?2018年の若者を主題とするシノドスに向けて,すべてのカトリック信者に真剣に受けとめていただきたい事実です.

ルカ小笠原晋也

2017年2月10日金曜日

Robert Barron 司教:「キリスト教には,下腹部の問題よりももっと多くのことがある」

Los Angeles 大司教区の Robert Barron 補佐司教が出演した Dave Rubin のインタヴュー番組 The Rubin Report が,先月30日に Internet で放送されました.



Robert Barron 司教 (1959 - ) は,出版,テレビ,ラジオ,Internet などのさまざまなメディアを積極的に利用する福音宣教に取り組んでいます.神学教授として大学で教鞭を取っていましたが,2015年に教皇 Francesco により Los Angeles 大司教区補佐司教に任命されました.

Dave Rubin (1976 - ) は,USA の stand-up comedian(ひとり漫才師)です.2006年に gay であることを come out し,2015年に同性パートナーと市民法的にも結婚しました.無神論者を自認しています.Internet で毎週放送される政治的話題を扱うインタヴュー番組 The Rubin Report を担当しています.

Jeannine Gramick シスターと故 Robert Nugent 神父とにより1977年に創設された LGBT 擁護カトリック活動 New Ways Ministry02月07日付の blog で,そのインタヴューにおける Barron 司教の発言とインタヴュー後に発表された彼の blog 記事の言葉は,おおむね肯定的に評価されています – 今のところ司教は,教皇 Francesco にならって,同性カップルに婚姻の秘跡を授けるところまでは踏み込んでいないのですが.

Barron 司教はこう言っています:

もし gay[この語で LGBT 全体を指しています]の人がカトリック教会から聞く唯一のことが「おまえは内在的に乱れている」でしかないなら,我々の側こそ非常に深刻な問題を抱えていることになります.もし我々のメッセージの受け取られ方がそのようであるなら,乱れているのは我々の方です.メッセージの伝わり方に関して,我々に問題があります.
gay の人が教会から受け取るメッセージ nº 1 は,これであるべきです:あなたは,神の愛し子です;イェス・キリストの慈しみによって抱きしめられています;神の命をたっぷり分かち合うよう招かれています.あなたは神の子であり,永遠の命に与るよう呼ばれています.

つまり,Barron 司教はこう考えています:カトリック教会の性的少数者とのかかわりの出発点は,包容 [ inclusion ] であるべきだ.それは,教皇 Francesco が手本を示しているアプローチだ.

2月01日付の blog で,Barron 司教はこう書いています:

人々が "pelvic issues"[下腹部の問題]にばかり気を取られているせいで,福音宣教の仕事が根元において掘り崩されてしまっている.あなたが新約聖書の偉大なテクストを読むなら,それらの著者たちが第一にあなたにわかってもらいたいと思っていることは性道徳のことだという印象を,あなたは決して受けないだろう.彼らがあなたに知ってもらいたいと思っているのは,このことだ:イスラエルの歴史が頂点に達したとき,神は,十字架上で処刑されて復活したメシアのペルソナにおいて,世の王として君臨しに来た.神,贖い,十字架,復活,主イェス,福音宣教 – それらのことこそが新約聖書の主要テーマである.(...) 確かに,我々の性生活を主イェスの支配のもとに置くことは重要である.しかし,今日,世俗界のかくも多くの人々にとって,宗教は,性行動の取り締まりでしかなくなっているのではなかろうか.だとすれば,おおいに不幸なことだ.(...) The Rubin Report の視聴者たちが,キリスト教には "pelvic issues" よりももっと多くのことがあると認識してくれるよう,わたしは望んでいる.

"pelvic issues" の pelvis は,骨盤のことです.かつて,腰を振りながら歌う Elvis Presley に女性たちが熱狂したとき,人々は彼を "Pelvis" Presley と揶揄しました.今の Beyoncé や Lady Gaga のステージを見たら,それこそ腰を抜かすでしょう. 

同性婚に関しては,Barron 司教は,USA におけるその法制化を今さらくつがえそうとするは賢明ではない;そんなことに教会の資源を無駄に費やすべきではない,と考えています.きわめて良識的な判断です.

日本において,司教様たちが個々に,あるいは司教団として,「下腹部の問題」に関して何か公式に意見表明をしたことがあるのかどうか,不勉強のわたしは知りません.日常的に接する機会のある神父様たちが sexuality にかかわることについて何かおっしゃるのを聞いたこともありません.

しかし,キリスト教は,特にカトリックは,性道徳に関して厳しい,という印象は,一般の人々に共有されています.聖職者の独身制も影響しているでしょう.

教皇様は,ことあるごとに,性的少数者の司牧に関して包容性を強調しています.わたしたちがいつも唱えているように,神の愛は誰も排除せず,誰をも包容します.

2020年の東京オリンピックを控えて,LGBT の話題が取り上げられる機会が社会的に多くなってきている今,日本の司教様たち,神父様たちも,sexual minority の人々に関するカトリック教会の包容的な姿勢を積極的にアピールしていただきたいと思います.

最後に付け加えると,pelvic issues というような表現を以て sexuality の問題を矮小化するのも,好ましいことではない,とわたしは思います.sexuality は,人間存在の根本にかかわることです.

また,一般的に言って,人生において,愛が如何なるものであるかを識るために,性的な関心は必要条件です.特に男にとっては.

旧約聖書において神の愛について語られるとき,「嫉妬」とか「熱情」という意味の語が – つまり,性愛について用いられる語が – 用いられており,また,雅歌において男女間の性愛が神と人間との間の愛の比喩として歌われていることは,周知のとおりです.

2018年に若者をテーマとするシノドスが予定されています.若者について考えるとき,sexuality のことを抜きにするわけには行きません.

sexuality を無視し,抑圧したままで,神の愛を語ることはできません – 如何に新約聖書で ἔρως や ἐπιθυμία との区別において ἀγάπη という語が用いられてはいても. 

欲望を満たすことは,対象として如何なる存在者を以てしても如何なる存在事象を以てしても不可能である – この不可能性を通してしか,神の愛を識ることはできません.そして,神の愛を識らずして隣人愛を実践することもできません.

教会の教えは pelvic issues へ還元され得ないと強調するのは正当なことですが,さりとて,sexuality の問題を矮小化してもならない... 最良の解決は,愛し合うカップルが多数,御ミサに与るようになることではありませんか – 異性カップルであれ,同性カップルであれ?

教会がそのような場になり得るよう,皆さんとともに主にお願いしたいと思います.

ルカ小笠原晋也