2017年3月26日日曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2017年3月19日,LGBT 特別ミサにて

2017年3月19日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教



Woman at the Well by Carl Heinrich Bloch


『使徒言行録』章のなかで「サマリアの回心」について述べられています.

その前の 章で「ステファノの殉教」について述べられており,次いで,章で,イェルサレムでの迫害,そして,それに続いて,サマリアが福音を受け入れたという「サマリアの回心」について述べられています.

イェルサレムで弾圧され,キリスト者たちは各地に散って行きました.そのキリスト者たちを受け入れてくれたサマリア.それは,初代教会にとって,どれほど大きな救いであり,喜びであったことか.

このサマリアの回心を描くかのように,ルカ福音書では,サマリア人に特別な位置と栄光が与えられています.まず,「善いサマリア人」の譬え話があります.それから,10人の重い皮膚病を患った者たちを Jesus は癒すのですが,彼らのうちひとりだけが,癒されたことを知って,Jesus のもとに戻ってきて,神に賛美と感謝を捧げる その人はサマリア人であった,と強調されています.

Jesus が種を蒔き,教会がその実りを刈り取った そのような出来事としてサマリアの回心を位置づけるのが,ヨハネ福音書のひとつの大きな狙いかと思います.サマリアの回心は,サマリアの女と Jesus との出会いと対話から始まって,実現していったのだ,というわけです.

サマリアの女の物語の大部分が読まれた今日の福音朗読では,ヨハネ福音書 章の 節から 42 節までが読まれましたが,実は,章の 節から読んでほしいと思います.

そこには,「Jesus は,サマリアを通り過ぎなければならなかった」[ ἔδει δὲ αὐτὸν διέρχεσθαι διὰ τῆς Σαμαρείας ] と描かれています.

δεῖν は,神の意志を表す動詞です.「ねばならない」と訳されています.

そして,διέρχεσθαι は,「通る」と新共同訳では訳されていますが,「通り過ぎる」です.この動詞 διέρχεσθαι は,旧約以来,神の権限が現れるとき,神が御自身を人間に顕すときに用いられる伝統的な言葉です.

ですから,節の「Jesus は,サマリアを通り過ぎなければならなかった」は,章の前書きです.これから物語られるサマリアの出来事のなかで,Jesus のなかに潜む神性がほとばしり出てくる,顕現してくるそのような出来事がこれから描かれて行く.そして,その出来事そのものが父なる神の意志の実現なのだ.そう予告されています.

Jesus は,旅に疲れて,シカルにあるヤコブの井戸のかたわらにへたり込むように座り込む.正午ごろのことであったとまず描かれます.

この「正午」という言葉はいろいろな意味を持っていると思います.

まず,Jesus の十字架の出来事.Jesus が十字架にかけられたのは,正午ごろです.それから 時間,Jesus が息絶えるときまで,地上は闇に覆われます.

実は,ユダヤの習慣では,真昼にはまったく仕事をしない.暑い太陽が真上から差し込んでくる.そのような時間帯には仕事をしません.

同時にそれは,Jesus の疲労のことも表しています.

神が餓え渇いている.常識的には考えられないことです.しかし,特にヨハネ福音書は,Jesus の餓えと渇き,神の餓えと渇きを描いています.

サマリアの女との対話の後,弟子たちが食べ物を持ってきて差し上げると,Jesus は既に満ち足りている,満腹している.Jesus にとっての真の食べ物は,飲み物は何なのか?Jesus の餓えや渇きは何なのか?そのことが暗に示されています.

Jesus のもとに,正午ごろ,サマリアの女はヤコブの井戸に水を汲みに来る.

ヤコブの井戸からサマリアの町まで,一坂越えます.700 - 800 m 先に,サマリアの町があります.

普通,一日に二回の水汲みをするのは,女たちの共同作業です.特に,若い女たちは,朝と夕方の水汲みに皆で集まって,共同作業をしながら井戸端会議をするわけです.ときに,若い娘たちの気を引こうと,若い男たちも集まってくる.そのような集まりの場でもあるわけです.

サマリアの町のなかに水場があるだろうのに,共同作業に加わらせてもらっていないひとりの女が,真昼,町から 800 m ぐらいも離れたヤコブの井戸まで水を汲みに来ている.ヤコブの井戸は 30 m ぐらいの深さがあります.大きな滑車にロープを巻き付けて,巻き上げ式で水を汲むのは,重労働です.それをひとりでやらなければならない.ということは,その女は,サマリアの町の人々から疎外されており,共同生活ができていない,ということです.

彼女との会話のなかで,Jesus は「あなたには 人の夫があったけれど,今,連れ添っているのは夫ではない」と言っています.

娼婦なのか,夜の仕事をしているのかだからこそ,たったひとりでいるときに Jesus に声を掛けられても,逃げずに応答しているのでしょう.男と会話することに慣れているのでしょう.

彼女の Jesus との会話の最初の部分には,反感と怒りと反発に満ちたような響きがあります.「どうして,ユダヤ人のあなたが,サマリア人のわたしに,水を飲ませてほしいと頼むのか」.これは,怒りや反発のこもった言葉です.

彼女は,おそらく,ユダヤ人から蔑視され,そして,サマリアの町のなかでも,サマリア人たちからも,のけ者にされている.さまざまな関わりのなかで多くの傷を負っている.だから,常に怒りや反感や反発が表に現れている.言うなれば,関係障害を抱いている.彼女はそういう女なのだ,と言ってよいでしょう.

彼女の立場に立つならば,Jesus の言葉は反発せざるを得ないようなものでしよう:「もしあなたが神のたまものを知っており,また,水を飲ませてくださいと言ったのが誰であるかを知っていたならば,あなたの方からその人に頼み,その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」.

それに対して彼女は言い返します:「生きた水が湧き出る泉があるんだったら,何であなたは,そこから飲まずに,わたしに水を飲ませてくださいなどと頼むのですか」.そのように反発します.

「生きた水」[ ὕδωρ ζῶν ] という言葉には,「流れる水,湧き出る水」という意味と,「命の水」という意味があります.

ヤコブの井戸の水は,鉄分が多く,そしておそらく地下のたまり水なんでしょう 何か日向水っぽくて,まずくて飲めたものではない.

しかし,まずい水とはいえ,それでも「わたしたちの先祖ヤコブがこの井戸を掘って,わたしたちに与えてくれたんだ.あなたは,この水よりももっとおいしい水を出すと言うんだったら,ヤコブよりも偉いのかい.それなら上等だ.その水を出してごらん」.そう女は言い返します.

「その水をください」という言葉をきっかけに,女と Jesus との間に対話が成立して行く.

「では,あなたの夫をここに呼んできなさい」と Jesus は言葉を続けます.「この湧き出る水に対する権利に関して契約を結ぶには,男でなければならない.女であるあなたと契約をするわけにはいかない.だから,あなたの夫をここに呼んできなさい」.

すると,「わたしには夫はおりません」と女は答えます.

「あなたには5人の夫がいたが,今連れ添っているのは夫ではない.夫はいないと咄嗟に出たごまかしの言葉で,あなたは本当のことを言った」と Jesus は肯定的に受容します.

この女の あるいは,サマリア人一般の 心の奥深くの傷が,「人の夫がいた」という言葉に象徴されています.「人の夫」は,サマリアに入植してきたアッシリアの つの部族を指しています.

「あなたには 人の夫がいた」と言うことによって,Jesus は,この女の心の一番奥深い痛みをしっかりと救い上げて行く.Jesus は,そのような言葉を女に投げかけています.

すると,女は,「あなたは預言者に相違ない」と言って,初めて自分を開いて行きます.

そして,「わたしの根源的な餓えや渇きを癒してくださるのは,神様しかいない.でも,わたしたちはこの山で神を礼拝し,ユダヤ人たちはイェルサレムで礼拝すべきだと言っている.この神様との関わりを,わたしたちはいったいどこで持てばいいのでしょうか?人間の根源的な餓え渇きを癒してくださる神に,どこでわたしたちは出会うことができるのでしょうか?」と女は問います.

人間関係がまったく閉ざされていた状態から,対話ができる状態へ ここに,女の大きな変容があります.

さらに,「どこに行けばいいのですか?」と問う女に,Jesus は言います:「今がそのときだ」[ καὶ νῦν ἐστιν, ὅτε ... ]

そして,「キリストと呼ばれるメシアが来るはずです」と言う女に,Jesus はこう答えます:「それは,わたしである」[ γώ εἰμι ].

この « γώ εἰμι »[わたしは在る]は,神の名です.

出エジプト (3,14) で,神はモーセに「わたしは在る」と御自身を顕しました.その同じ言葉で,Jesus は,御自分の神性をこの女に示します.

この神体験をとおして,彼女は,水がめをそこに置いて 水を汲みにきたのに,その生活に必要な水がめをそこに放り出して Jesus のことをサマリアの人々に知らせに行く.自分を排除している人々に向かって,「この Jesus はメシアだ」,「わたしが会ったあの方こそメシアかもしれない」と,告げ知らせに行きます.

そして,サマリアの人々は,彼女の言葉を聞いて,Jesus のもとに来る.

彼女は,Jesus の言葉を受け入れ,水がめを置いて,「メシアと出会った」と告げ知らせに行く.そのさまを見て,Jesus 自身の渇きも餓えも癒されていく.それが,この「サマリアの女」の大切な箇所ではないかと思います. 

彼女は,Jesus との出会いをとおして,二回変容します.

関わりがまったく閉ざされた状態から,積極的な関わりを持つ状態へ.そして,自分の内面を語り出していく.自分の心の奥深くの飢え渇きや痛みを見つめていく.このまなざしを獲得していく.

さらに,Jesus のなかに神を見ることをとおして,福音を人々に述べ伝える者として,変えられて行く.

見失われた子羊が,群れに引き戻される.それと同時に,その群れを養うために牧者として人々を集めに行く.宣教者として変えられて行く.

この大きな変容が,彼女のなかに起きています.

わたしたちも,同じような変容がわたしたち自身のうちに実現されて行くことを体験するのではないかと思います.

わたしの今の状態は,どのような状態なのか?さまざまな関係のなかで傷つけられ,怒りや憎しみや反発などの感情のなかで自分自身を閉ざしている そのような状態なのか?

あるいは,自分自身の奥深くにある痛みや悲しみや大きな傷を見つめながら,わたしたちの傷を癒し,根源的な飢え渇きを癒してくださる方を探している そのような状態なのか?

あるいは,癒しを与えてくださる神 Jesus と出会い,癒しを受け,その喜びを人々に表現しに行こうとしている そういう状態なのか?

いろいろな自分の状態を見つめ直していく大切なモデルとして,このサマリア女は描かれている,と思います.

わたしの心,わたしの魂の奥深くを見つめながら,神とわたしとの関係,Jesus とわたしとの関係,そして,周りの人々ひとりひとりとわたしとの関係を見つめ直していくこと.そして,その関係の障害を乗り越えていくこと.

喜びを味わったならば,神と共にある喜びを宣べ伝える者とされていくこと.

そこに,わたしたちの大きな変容の場があると思います.

Jesus のまなざしのなかに,わたしたちはしっかりと受けとめられている.そして,誰もが善い者として,命の尊厳を大切にされている.命が育まれていく.

Jesus のまなざしのなかで変容して行ったサマリア女の姿を見ながら,それをわたしたちの大切なモデルとして行くことができますように.

わたしたちもまた,Jesus の命につながれた者,わたしたちのうちに Jesus が住みとどまる者として,存在しています.そのようなわたしたち自身を受け入れて行くことができますように.

2017年3月16日木曜日

日本カトリック司教団メッセージ『いのちへのまなざし』増補改訂版の出版




日本カトリック司教団のメッセージ『いのちへのまなざし』増補改訂版が出版されました.

幸田和生司教様を始め,御尽力くださいました関係者すべての方々に,御礼を申し上げたいと思います.

LGBT については,27段でこう述べられています:

「イエスはどんな人をも排除しませんでした.教会もこのイエスの姿勢に倣って歩もうとしています.性的指向のいかんにかかわらず,すべての人の尊厳が大切にされ,敬意をもって受け入れられるよう望みます.同性愛やバイセクシャル,トランスジエンダーの人たちに対して,教会はこれまで厳しい目を向けてきました.しかし今では,そうした人たちも,尊敬と思いやりをもって迎えられるべきであり,差別や暴力を受けることのないよう細心の注意を払っていくべきだと考えます.例外なく,すべての人が人生における神の望みを理解し実現するための必要な助けを得られるよう,教会は敬意をもってその人たちに同伴しなければなりません.結婚についての従来の教えを保持しつつも,性的指向の多様性に配慮する努力を続けていきます.」

注において,『カトリック教会のカテキズム』2358段と Amoris laetitia no. 250 への言及が為されています.

日本カトリック司教団が,主の全包容的な愛にもとづいて,性的少数者に関して明確な包容的メッセージを発してくださったことに,感謝したいと思います.

カトリック信者のなかには,今もなお,『カテキズム』の教えに反して,LGBT 差別の言動を続けている人々がいます.すべてのカトリック教会からそのような差別をなくして行くことを今回の司教団メッセージが可能にするよう,期待したいと思います.

同性婚については,カトリック教会内に修復困難な分裂を生ぜしめるかもしれない敏感な問題であり,教皇 Francesco も慎重な態度を崩していないので,日本司教団にも教皇以上のことを期待することはできない,と承知しています.

しかし,神の御前にあらゆる人間は皆平等であるのですから,誰の結婚も,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,神の愛の徴としての真摯な愛にもとづくものであれば,秘跡であるはずです.わたしたちは今後も,カトリック教会が同性婚を異性婚と同等に扱うようになるよう,求め続けて行きたいと思います.

また,教皇 Francesco は,2016年6月,「カトリック教会は同性愛者に謝罪すべきだ」とおっしゃいました.しかし,日本司教団のメッセージからは,LGBT に対する差別の長い歴史に関する教会の謝罪の気持ちを読み取れません.何らかの機会に是非,明確な謝罪表明をお願いしたいと思います.

なお,用語の問題をひとつ指摘しておきたいと思います.「性的指向」のもとに transgender のことまでが語られていますが,現在,一般的には「性同一性」は「性的指向」とは区別されています.この点についても,若干の訂正または補足が必要だと思います.

ルカ小笠原晋也