2018年3月26日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年02月25日


Raffaello (1483-1520), La Trasfigurazione (1518-1520), nella Pinacoteca vaticana

2018年02月25日(四旬節第二主日)の LGBT 特別ミサにおける鈴木伸国神父様の説教


鉢の花を活け替える

福音朗読:マルコ 9, 2-10

「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、 高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

これは「ご変容」と呼ばれる個所です。

ある人の表情や姿が輝いて見える,
ということはないでしょうか。恥ずかしくなってしまうくらいに素直に見つめられて、その印象が心に焼き付いて離れないということはあるかもしれません。弟子たちにはそんな経験だったのではないでしょうか。

今日,わたしには,イエスの眩しいほどに清々しい表情、怖いくらいに吹っ切れた姿が,思い浮かんでいます。

四旬節は「心を新しくしていただく季節」という気がします。四旬節をベランダのプランターの花を植え替えることに喩えた話を,読んだことがあります。四旬節は、春を待つこの季節に、まだ少し残っているかもしれないプランターの中身を、土を出して、掃除をして、新しい土と新しい苗に入れかえて春を準備することに,確かに似ている気がします。新しい命をいただくために、古くなりかけていた自分を脱ぎ捨てて、もう一度新しく自分を始めようとするようなものでしょうか。

ところで,わたしは以前,スマートフォンというものを持っていませんでした.ですから,ゲームをするということを知りませんでした.ある日,知り合いの神父さんがコンピューターでゲームをしているのを見て,「ええ,ゲームなんかするの,この人は」と,思ったことがあります.でも,すごく良い神父さんだったので,「ああそうかなあ」と思い直して,自分もしてみました.たしかに,少しいいものでした。イライラするとき,何をしたらいいか,わからないときには,その隙間を埋めてくれるものです。

でもしばらく,後になって気づいたんですけれど、私は,一つの作業と次の作業の間に考え事をしなくなっていました。ゲームを始める前には「さあ何をしようかな,少し時間があいちゃった,どうしようかな... う~ん... 午前中こんなことがあったな,ああ明日から,今日から...」と,いろんなことを考えていました.空いた時間,わたしはいろんなことを考えていました.午前中あったこと,午後あること,会った人,これから会う人,神様のこと,雑誌に載っていたこと...。それがゲームをするようになってから,その隙間が全部,ゲームに変わってしまった気がしました。

回心というものは,別に,「ああ!悪いことをしました!」と大きな悔い改めをすることばかりではないように思います。もしろん,そういう回心の呼びかけを感じる人は,すぐにしたほうがいいに決まってはいますが.でももっと小さなものでも、自分の心と生活のなかにある余計なもの、もっと自分の命と心が活き活きと動き出すためにすこしじゃまになっているようなものを、心と生活の中から除けるだけのことも、すばらしい回心(別の考え方をすること)だと思います。「これがあれば助けになっているかな」と思って自分のところに残しておいたものでも、もしかしたら「いらないもの」かもしれません。いつか振り返って「ああ本当に良かったな,あのときこれを選んで」って思えるものじゃないものは、捨ててしまっていいと思います.必要なものならきっとまた手に入れようとするはずですから。

私は,今日のイエスの「眩しいほどに清々しい表情」の背後に、イエス様が自分の本当に欲しいものを選び取って、それ以外のものを置いてゆくことに何の未練もなく心を決めることができた出来事があるのを,思います。

今日の福音の直前にあるのは、「わたしは,祭司たちに,人々に,引き渡されて,三日めに死者のうちから復活する」(マルコ 8,31-33)というイェス様の宣言です。ペトロが「そんなことを言ってはいけません」とイエス様を引きとめると,イエスはペトロを「下がれ,サタン」と叫んで、彼を叱り、退けます。

恐れ,ひるみ、また不安へと誘われる心に打ち勝って,イエス様はご自分の道を選び取られます。

自分の進みたい道がはっきりと分かり、それを自分ではっきりと選ぶことができたときの緊張と高揚感、清々しさ、そして神々しさを、わたしは今日の福音のイエスさまの姿のうちに感じているのだと思います。

四旬節は,とても気持ちの良い季節です.ちょっと寂しい季節ですけれども,気持ちの良い季節です.ぜひ,恵みのある四旬節になりますように.