2018年4月28日土曜日

Tokyo Rainbow Pride 2018 に参加しましょう

Tokyo Rainbow Pride 2017 のパレードにて
  
一昨年,昨年に続いて,今年も LGBTCJ は,代々木公園イベント広場で行われる Tokyo Rainbow Pride Festival に参加します.

いっしょに楽しみませんか?

出店を出すのは,5月06日(日曜日)のみです.LGBTCJ の booth は コ35 です.地図を参照してください:



出店では,冊子『LGBTQ とカトリック教義』の配布,虹色の十字架やロザリオの販売などを行います.

06日午後のパレードでは,Amnesty International のグループに加わりたいと思います.
いっしょにパレードに参加しようと思う方は,06日朝09時までに,LGBTCJ の booth(コ35)に来てください.

パレードに参加するために必要なチケットは,代表が複数枚受け取ることはできず,ひとり一枚しか受け取れません.グループは全部で 37 ありますが,各グループの参加人数は 200人までと限られています.早めに申し込んで,確実に Amnesty International のグループに参加できるようにしたいと思います.

では,06日に代々木公園の会場でお会いしましょう!

ルカ小笠原晋也

2018年4月27日金曜日

カトリック教義における「自然法」の神話と「男女両性の相互補完性」の神話

Carlo Crivelli (ca 1430 - 1495), Sanctus Thomas Aquinas
from the Demidoff Altarpiece, National Gallery


「自然法」(lex naturalis) の神話と,男女両性の「相互補完性」(complementaritas) の神話 

既に見たように,CCE (
Catechismus Catholicae Ecclesiae) nº 2357 には,こう述べられている:
同性どうしの性行為は,自然法 [ lex naturalis ] に反しており,性行為を生命の賜に対して閉ざしており,[男女両性の]真正な感情的かつ性的相互補完性 [ complementaritas ] から発しておらず,如何なる場合も是認され得ない.

また,CCE nº 372には,こう述べられている:

男と女は「互いのために」造られている.神は,男と女を「半人前」の「不完全」なものとして造ったわけではない.神は,男と女を personarum communio[人と人との交わり]のために創造した.その交わりにおいては,一方は他方の「助け」であり得る.なぜなら,男と女は,同時に,人として平等 [ aequales ] であり,かつ,男女として相互補完的である [ sese mutuo complent ] からである.結婚において,神は男と女を結び合わせる – 男と女が「ただひとつの肉」と成って (Gn 2,24), 人間生命を[子孫へ]伝え得るように : « Crescite et multiplicamini et replete terram » (Gn 1,28). 人間生命を子孫へ伝えることにおいて,男と女は,配偶者および親として,無類のしかたで創造主の御業に協力する.

さらに,1986年に Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)が教理省長官として世界中の司教全員へ宛てた書簡 Homosexualitatis problema の nº 6 には,こう述べられている:

創世記に包含されている創造の神学こそが,homosexuality が措定する諸問題の適切な理解のための根本的な観点を提供してくれる.神は,無限なる知恵と全能なる愛とにおいて,万物を,神の善意の反映として,現存へ呼び出す.神は,御自身の写しや似たものになるよう,人間を男と女として創造する.したがって,人間は,神の被造物のうちで,男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] をとおして創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映するよう呼ばれている被造物である.この任務を,人間は,夫婦が相互に自己贈与することによって生命を[子孫へ]伝えることにおいて神と協力するとき,無類のしかたで果たす.

察せられるように,自然法 (lex naturalis) と男女両性の相互補完性 (complementaritas) とは,密接に関連している.自然法によれば,当然,男女は相互補完的であらねばならないことになるからである.

ところで,カトリック教義において「自然法」と呼ばれるものは,如何なるものか?


それは,いわゆる道徳神学の領域の概念である.CCE nº 1952 において,こう述べられている:
道徳律 [ lex moralis ] の表現は多様であり,道徳律の多様な表現はすべて,相互に協調されている: 
もろもろの律法すべての神における源である永遠の律法 [ lex aeterna ] ; 
自然法 [ lex naturalis ] ; 
旧約の律法と新約の律法 ‒ または,福音の律法 ‒ とを含む啓示された律法 ; 
市民法および教会法 [ leges civiles et ecclesiasticae ].

カトリック教義における自然法の概念は,おもに,聖 Thomas Aquinas が Aristoteles に準拠しつつ作り上げたものである.現代のカトリック神学のなかでは,いわゆる modernisme に対抗する保守派の néo-thomisme または néo-scolastique が,自然法の概念を重要視する.

Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)は,自然法の概念を CCE のなかに取り入れたことにおいては,néo-thomiste な考え方をしていることになる ‒ 第二 Vatican 公会議のときには,現代社会におけるカトリック信仰の可能性について積極的に思考しようとする nouvelle théologie[新神学]の側の神学者のひとりと見なされていたにもかかわらず.

ともあれ,信仰と神学における悪しき相対主義を批判する Ratzinger 枢機卿は,自然法への準拠は道徳神学における相対主義を退けるために必要なことだ,と考えたのであろう.

自然法は,実定法のように成文化されたものではなく,而して,人間 ‒ Aristoteles が ζῷον λόγον ἔχον[理性を有する動物]と定義し,それにならって Thomas Aquinas が animal rationale[理性的な動物]と定義した人間 ‒ に本性的 [ natural ] に備わっていると想定される理性に由来するもの,または,理性そのもののことである,と考えられている.

CCE nº 1954 では,こう述べられている:

[理性を有する動物として]人間は,創造主の知恵と善意に与っており,創造主は,人間に,自身の行動の制御と,真理と善とにしたがって自身を支配する能力とを,与えている.自然法は,本源的な道徳感覚 ‒ それは,何が善であり悪であるか,何が真理であり虚偽であるかを,理性によって識別することを,人間に可能にする ‒ を表現している.

自然法は,善を為すよう命じ,罪を犯すことを禁止する〈人間の〉理性であるのだから,人間すべての ‒ かつ,各人の ‒ 魂のなかに書き込まれ,刻み込まれている.(...) しかし,人間の理性が定めることは,より高位の理性[すなわち,神の意志]‒ それへ我々の精神と我々の自由は服従せねばならない ‒ の声かつ通訳であるのでなければ,律法の効力を持ち得ないだろう.

理性を有する動物としての人間に本性的に備わっているものであるので,自然法は,普遍的であり,決して変わることはなく,永遠に保たれるものである,と思念されている.

また,CCE nº 1955 が「神により与えられた自然法 [ lex divina et naturalis ] は,善を為し,目的に到達するために取るべき方途を,人間に示す」と述べていることに示唆されているように,自然法は aristotélico-thomiste な目的論 [ téléologie ] を包含しており,そこにおいては,すべては,causa prima[第一原因]としての神から発し,そして,究極的な目的である summum bonum[最高善]としての神へ向かう.自然法が命ずる倫理的な選択は,そのような目的論に適っている,と思念されている.

カトリック教義において「自然法」と呼ばれるものが以上のようなものであるなら,確かに,「ひとつの肉となる」よう創造された男と女の関係は,相互補完的であり,かつ,「多産であれ,繁殖せよ,地を満たせ」との祝福のもとで,生殖を目的とする,と考えるのが当然である,と思念されることになる.

しかし,Martin Heidegger が「存在の歴史」(Geschichte des Seyns) として展開した形而上学批判を学んだ我々にとっては,自然法の基礎を成す Aristoteles と Thomas Aquinas の形而上学は,そもそも,現代においてはもはや無効である.

人間の本質は,λόγος[理性]を有する動物であることに存するのではない.人間は,Λόγος[神の御ことば,言語]のなかに住まう存在としての現場存在 (Dasein) である.

神は,causa prima ないし causa sui と呼ばれる存在事象にも,summum bonum と呼ばれる存在事象にも,還元され得ない.それらのようなものとしての神は,「哲学者と神学者の神」であって,「Abraham と Isaac と Jacob の神」ではない.

Heidegger (GA 11, p.77) は,暗に Pascal に準拠しつつ,こう述べている:

Causa sui としての原因 ‒ 哲学における神にふさわしい名は,それである.そのような神に,人間は,祈ることも,献げものをすることもできない.Causa sui の前で,人間は,畏怖から跪くこのもできなければ,そのような神の前で音楽を奏でたり踊ったりすることもできない.それゆえ,神無き思考 ‒ 其れは,哲学の神,Causa sui としての神を放棄せねばならない ‒ の方が,おそらく,神的な神により近しいだろう.それは,ここでは,ただ,この謂である:神無き思考の方が,Onto-Theo-Logik が自認しているよりも,神に対してより開かれている.

では,「哲学者や神学者の神」を神と取り違えることをやめるためには,どうすればよいか?

Heidegger の「存在の歴史」,および,彼が我々に示唆する否定存在論 (apophatische Ontologie) に準拠すればよい.


のみならず,形而上学,および,その歴史必然的な帰結である Nihilismus の超克のためには,否定存在論に準拠するしかない.

否定存在論は,次の四つの場所から成るトポロジックな構造として展開される: 

存在事象そのもの全体 [ das Seiende als solches im Ganzen ] の場処 [ Ort ] ;

存在事象そのもの全体の場処に対して「解脱実存的」[ ek-sistent ] である Sein[抹消された存在 : 存在]の在処 [ Ortschaft ] ;

存在事象の場処と Sein の在処とを分離する存在論的差異の切れ目,ないし穴;

存在事象の場処と Sein の在処とを分離しつつ結合する Austrag[解和]の結合縁 (le bord nodal). 


Heidegger が「存在の歴史」として展開した形而上学批判によれば,Platon が ἰδέα[イデア]を τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]として措定したことに始まる形而上学は,それによって,存在事象そのもの全体の場処と Sein の解脱実存的な在処とを分離する存在論的差異の穴を塞いでしまい,Sein をそのものとして思考することできなくしてしまった.τὸ ὄντως ὄν は,ἰδέα 以降,Aristoteles においては ἐνέργεια や ἐντελέχεια と呼ばれ,スコラ哲学においては essentia, causa prima, summum bonum などと呼ばれ,近現代哲学においては Subjekt[主体,主観]や Wille[意志]や Wert[価値]などと呼ばれてきた.しかし,今や,形而上学が Sein をそのものとして思考し得なかったがゆえに必然的に行き着いた Nihilismus[虚無主義]において,形而上学が τὸ ὄντως ὄν と見なしてきたものは何ものでもないことがあらわとなった. 

では,どうするか?まずは,新たな τὸ ὄντως ὄν として持ち出して来られるかもしれない何かを探し求めるのをやめ,Sein の Ek-sistenz の在処をそれとして支える否定存在論的なトポロジー構造をわきまえることである.

もはや神は causa prima や summum bonum と呼ばれる存在事象ではなく,理性においてあらゆる真理がすべて書かれ得るわけでもなく,そのような理性に準拠する自然法が普遍的かつ不変的な律法として可能なわけでもない. 

神の Sein は,神秘である.それは,書かれないことをやめないものである.

神の存在の真理にもとづいて「理性」が道徳的な善と義のすべてを,潜在的にであれ,既に書きあげてある,という自然法の形而上学的な想定は,神の 存在 の神秘に対する冒瀆でさえある.

我々が立ち返るべき神は,「哲学者や神学者の神」ではなく,而して,「神は愛である」の神である.誰をも裁かず,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を迎え入れ,包容する神の愛である.

Heidegger が Austrag[解和]と呼んだものも,存在事象の場処と Sein の在処との間の差異を差異として保ちつつ,両者を結合し,和解させることを可能にするものとしての神の愛にほかならない.

もはや,形而上学において「理性を有する動物」と定義された人間に「本性的」に備わっているはずの理性や自然法が,道徳神学の基礎を成すのではない.

そうではなく,今や道徳神学の基礎となるのは,Jesus Christ が「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛し合いなさい」と言って我々に与えた愛の命令であるはずである.

では,そのとき,「男女両性の相互補完性」については如何?

上に見たように,Homosexualitatis problema において,Ratzinger 枢機卿は,「男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] は創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映する」と論じていた.

つまり,「ただひとつの肉と成る」ことを可能にする「男女両性の相互補完性」は,申命記 6,4 において「聴け,イスラエル!」の呼びかけに続いて「我れらの神,主は,一なる主である」と公式化される神の単一性を反映するもの,と思念されている.

ところで,「男女両性の相互補完性」とは,より正確に考察してみるなら,如何なるものか? 

男女それぞれの性器の解剖学と生理学が,男女が「ただひとつの肉と成る」ことを保証しているのか? そのような男女の「性器的」相互補完性の思念は,「ただひとつの肉と成る」ことの神学的な理解としては,あまりに素朴であり,粗雑であろう. 

この「男女両性の性器的な相互補完性」という「常識」的で「普遍」的な思念が実は単なる神話にすぎない – Sigmund Freud が著書 Totem und Tabu[トーテムとタブー]で提示した Urvater[源初の父]の神話と同様に,まったくの作り話にすぎない – ということは,ラカン派精神分析家である筆者にとっては,一目瞭然である ‒ Lacan の一見逆説的な公式 :「性関係は無い」[ il n’y a pas de rapport sexuel ] にもとづくなら. 

医学や心理学を含む世の臆見においては,こう思念されている:性本能 [ sexualité, Sexualität または pulsion sexuelle, Sexualtrieb ] の発達がその完成段階としての性器的成熟に至ると,異性間の性器的な性交の行為において,性本能の十全な満足が成就される.それ以前の未成熟な段階においては,性本能は,前性器的な部分客体(たとえば,口唇にとっての乳房とその等価物,肛門にとっての糞便とその等価物,等々)において,あるいは,自慰行為において,不完全で不十分な満足をしか得ることができない.

性本能の満足のことを,Lacan は jouissance[悦]と呼んでいる.その用語によれば,未成熟な前性器的段階における満足は plus-de-jouir[剰余悦]と呼ばれ,成熟した性器段階における満足は「性器的悦,性器悦」[ jouissance génitale ] ないし「性的な悦,性悦」[ jouissance sexuelle ] と呼ばれる.

Lacan の命題 :「性関係は無い」は,「性器悦は不可能である」ということである.

なぜ性器悦は不可能であるのか?それは,それを可能にするかもしれない性器 phallus は,実際には,不可能であり,存在事象の領域には欠如しているからである.

常識的な思念において「性的」な満足と見なされているものは,不可能な性悦の代わりに,さまざまな前性器的ないし非性器的な客体において得られる剰余悦にすぎない.

男が持ち得る関繋は,悦が固着した諸客体との関繋のみである.それら客体は,本質的に fetish であり,女の存在との直接的に統一的な交わりに入ることを妨げる.

他方,女は,自身をそのような fetish にし,本来的な自己ではない fetish としてのみ男の欲望と関繋し得る.もし女が fetish としての自身を廃することを敢行するなら,彼女は,アビラの聖テレサのごとく神秘的な解脱状態に陥るが,しかし,そのような場合,彼女のパートナーは,もはや人間としての男ではなく,神そのものである.

精神分析の臨床的な作業は,悦の非性器的な固着を解消することに存する.しかし,そのような作業の結果として,男女両性の間の性器的な交わりが可能になるわけではない.

精神分析の経験においては,古代にエジプトやギリシャで広く行われていたかもしれない秘儀におけるように phallus の仮象が啓示されるのではなく,むしろ,phallus の欠如 – Freud が「去勢」と呼んでいた欠如 – の穴こそが顕わとなる.それが,Lacan が公式「性関係は無い」を以て指し示す穴である.

その穴は,不安 – Freud が「去勢不安」と呼んでいたもの – を惹起する.症状は,その不安をごまかすために穴を剰余悦で埋め合わせることに存する.精神分析治療は,逆に,穴を新たな剰余悦で埋め合わせるのではなく,口を開いた穴が惹起する不安に耐えることを可能にする.

「性関係は無い」の穴のゆえに「男女両性の性器的な相互補完性」は不可能であるのだから,男と女との関繋を特権化することは正当化され得ない.ふたりの人間の性器的な相互補完性は,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,同じように不可能である.

我々は,むしろ,こう指摘することができるだろう:神の「内的な単一性を反映」し得るのは,男女の「性器的」相互補完性ではなく,而して,Gaudium et spes nº 49 で説かれているような愛の絆である.

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に,誠実に,情熱的に愛し合うとき,「その愛を,主は,主の恵みと主の愛を特別に賜ることによって,癒し,完成し,高めてくださる.そのような愛は,人間的な愛と神的な愛とを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く」(Gaudium et Spes, nº 49).

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間がそのように愛し合うとき,それこそは優れて,一なる神の愛の徴である.

ふたりの人間の愛の関係と愛の行為は生殖を目的とせねばならない,という思念は,現代においてはもはや有効とは認められ得ない téléologie aristotélico-thomiste のものにすぎない. 

『LGBTQ とカトリック教義』(2018年05月増補改訂版)よりの抜粋

ルカ小笠原晋也


カトリック教会による homosexuality の断罪の真理は pedophilia の断罪である



Gebhard Fugel (1863-1939), Lasset die Kindlein zu mir kommen (ca 1910), 

人々は Jesus のところに子どもたちを連れてきた ‒ 彼がその子らに触れてくださるように.しかし,弟子たちは人々を咎めた.それを見て,Jesus は,怒り,弟子たちに言った: 「子どもたちをわたしのもとに来させなさい.妨げてはならない.神の御国は,この子らのような者たちのものである.まことに,わたしはあなたたちに言う:子どものように神の御国を受け入れない者は,そこに入ることはない」.そして,彼は子どもたちを抱擁し,彼れらを按手で祝福した (Mc 10,13-16)


今,カトリック教会が直面している最大の試練のひとつは,疑いなく,世界各国における聖職者による児童の性的虐待の問題であろう.

2002年に USA 大々的に報道され始めて以来,Vatican も無視し続けることができなくなり,この問題にようやく真剣に取り組み始めた.

カトリック教会の長い歴史のなかで,それまでも問題が散発的に公になることはあったが,対応は,事件が起きた教区の司教にまかされていた.表沙汰になる前に司教によって事件はもみ消されるのが通例であった.スキャンダルによって教会の威信が傷つくことを恐れたからである.加害者である司祭は,処罰されることなく,ほかの役職へ異動させられるだけだった.被害者への対応はおざなりだった.

しかし,Vatican は,2001年以降,聖職者による児童の性的虐待が疑われるケースはすべて,歴史的なものも含めて,教理省 (Congregatio pro doctrina fidei) へ報告させるようにし,Vatican が世界中の情報を一元的に把握し得るようにした.

Vatican が問題に真摯に取り組むようになって,被害者たちも,何十年も前に受けた虐待について語り始めた.

Vatican 201456日に発表したところによると,過去10年間に全世界で3,400件以上のケース(何十年か前に起きたものも含む)が報告され,848人の司祭が職を解かれた.時効が成立していない場合は,当然,刑事罰の対象となった.

聖職者による児童の性的虐待の問題が大々的に公になって以来,世界中でカトリック教会の権威は揺らいだ.特に,伝統的にカトリック信者が多数派であった国々で,信者の教会離れが進んだ.

カトリック教会は過去も現在も同性婚を認めていないが,今や約30ヶ国で同性婚は法制化ないし合法化されている.それは,少なくとも部分的には,そして,特に Ireland のように伝統的にカトリックであった国々では,聖職者による児童の性的虐待の事件によるカトリック教会の権威の失墜の効果である,と言われている.

pedophilia の性向を有する聖職者の存在とその問題の致命的な重大性に,Vatican は,カトリック教会の長い歴史において,まったく気がついていなかったはずはない.しかし,抜本的な対策が取られることは,2001年以前にはなかった.

では,その間,カトリック教会は何をしていたのか?聖職者の pedophila について真剣に問う代わりに,homosexual の人々全体を異様に厳しく断罪してきただけである.

そのような Vatican の欺瞞性のただなかを高位聖職者として生きてきたのが,Joseph Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)である.

1927年生まれの彼は,1959年から1977年まで神学教授として大学で教えていた.第二 Vatican 公会議には,進歩派の神学者として参加していた.しかし,Karl Rahner Hans Küng らのより進歩的な神学者たちに比しては,より保守的な方向性を保った.1977年に München und Freising 大司教に叙階され,同年,枢機卿に任命された.そして,1981年,教皇 Joannes Paulus II によって教理省長官に登用され,20054月に教皇に選出されるまでその職を続けた.1992年に発表された『カトリック教会のカテキズム』は,彼の指揮のもとに作成された.Joannes Paulus II が病気のために執務困難となった2000年以降は,彼は,実質的に Vatican の長の機能を果たした.2005年に教皇に選出され,20132月末に高齢を理由に隠退した.

このように,第二 Vatican 公会議以降,現在に至るまで,カトリック教会のなかで Benedictus XVI の影響力は,さまざまな面において絶大である.

homosexuality に関する『カトリック教会のカテキズム』(CCE) nºs 2357-2359 の文言は,ほぼ完全に,教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿の名において1986年に世界中の司教全員へ送られた書簡 Homosexualitatis problema にもとづいている.そこには,homosexual の人々の司牧に関する彼の考えと指示が公式化されている.

CCE nºs 2357-2359 において homosexuality がどのように論ぜられているかを,改めて見てみよう:「聖書は,同性どうしの性行為を,重大な堕落として提示している」;「同性どうしの性行為は内在的に乱れたものである,とカトリック教会の伝統は常に表明してきた」;「同性どうしの性行為は,如何なる場合も是認され得ない」;「homosexuality の性向は,そのものとして乱れたものである」.


そこには,非常に厳しい断罪が執拗に繰り返されている.「CCE homosexuality に関するくだりを見ると,自殺したくなってくる」と述べる gay の人々もいるほどである.

それに比べて,ほかの罪に関しては,どう論ぜられているか?例えば peccatum mortale については如何?

peccatum mortale は,「大罪」と訳されるが,文字どおりには「致命的な罪,致死的な罪」である.それと対を成すのが,peccatum veniale である.「小罪」と訳されるが,正確には「赦される罪」である.それに比すなら,peccatum mortale は「赦され得ない罪」である.

peccatum mortale 一般について,例えば CCE nº 1861 はこう述べている:「愛 [ amor ] そのものと同様に,致命的な罪 [ peccatum mortale ] は,人間の自由のひとつの根本的な可能性である.致命的な罪は,愛 [ caritas ] の喪失と,我々を聖なるものにしてくれる恵み [ gratia sanctificans ] ‒ すなわち,恵みの状態 [ status gratiae ] ‒ の剥奪とを,もたらす.もし悔悟と神による赦しとによって贖われなければ,致命的な罪は,キリストの御国からの排除と地獄での永遠の死とを惹き起こす 我々の自由は,とりかえしのつかない永続的な結果をともなう選択を為す能力を有している.しかしながら,我々は,或る行為について,それはそのものにおいて重大な過ちである,と判断し得るとしても,その行為をおかした人物についての裁きは,神の正義と慈しみに委ねるべきである」.

このように,peccatum mortale 一般については,「地獄での永遠の死」という脅しが提示されているとはいえ,贖いと赦しの可能性が十分に強調されている.

他方,妊娠中絶に関しては:「紀元一世紀以来,教会は,誘発された妊娠中絶はすべて道徳的に悪であることを断言してきた.この教えは,変わっておらず,今後も変わらぬままである.直接的な妊娠中絶 すなわち,目的または手段として欲せられた妊娠中絶 は,道徳律に重大に反している」(nº 2271) ;「妊娠中絶への正式な協力は,重大な過ちである.人間生命に対して犯されるこの罪を,教会は,破門という教会法上の刑を以て罰する.妊娠中絶を得んとする者は,その効果が実現するなら,その罪を犯したという事実そのものにより,かつ,教会法により定められた条件のもとで,破門の判決を受けることになっている」(nº 2272).

妊娠中絶に関しては,いかにも,非常に厳しい断罪が為されているが,胎児の人命が損なわれる事態の重大性に鑑みれば,理解できないではない.

ついでながら述べておくと,教皇 Francesco は,妊娠中絶の処置を受けた女性の罪を赦す権限を,司祭に与えている.

では,pedophilia と児童の性的虐待については,如何 ?

CCE のなかで homosexuality という語は用いられているのに対して,pedophilia という語は用いられていない.そして,児童の性的虐待に関する記述は,わずか二箇所において,しかも付け足しとして,見出されるのみである.

ひとつは,強姦に関する段落において:「強姦とは,或る人の性的な内密部へ暴力を以て侵入することである.それは,正義と愛に対する侵犯である.強姦は,あらゆる人が有する尊重される権利,自由の権利,身体的および精神的な不可侵性の権利を深く損なう.強姦は,被害者に一生残る傷跡をつけ得る重大な損害を生ぜしめる.強姦は,常に,内在的に悪しき行為である.さらに重大なのは,親によって為される強姦(近親相姦を参照),または,委ねられた子どもに対して教育者が為す強姦である」(nº 2356).

もうひとつは,上に参照が示唆されているように,近親相姦に関する段落において:「近親相姦とは,結婚の禁じられた親等の親族または姻族どうしの[性的に]親密な関係のことである.聖パウロは,特に重大なこの過ちを非難している:『あなたたちの間では,不品行のことしか話題になりません.(...) あなたたちのひとりが自分の父親の妻と同棲している,というほどに ! (...) Jesus の名において,その者を肉の滅びのためにサタンへ引き渡さねばなりません』(1 Co 5,3-5). 近親相姦は,家族どうしの関係を損ない,獣性への退行を画する.また,子どもの性的虐待 成人が,自身の保護下に委ねられた児童または青少年に対して為す性的虐待 を,近親相姦に付け加えることができる.そのような性的虐待の場合,過ちは,子どもたちの身体的および精神的な不可侵性に対するスキャンダラスな侵害 彼れらは,それによって一生残る傷跡をつけられる と,教育的責任の義務違反とによって,二重化される」(s 2388-2389).

homosexual の人々どうしの性行為は,強姦の場合を除けば(そして,強姦は,大多数の場合,heterosexual 男性が女性に対して為す犯罪である),双方が合意のうえで行われるものであり,それによって傷つく者はいない.「被害者」は誰もいない.むしろ,それは,ふたりの愛し合う者どうしの愛の確認と強化の効果を有するだけである.

それに対して,子どもの性的虐待は,非常に大きな,かつ,ほとんど消すことのできない傷跡を被害者に残し得る重大な犯罪である.いくら強く非難しても,いくら厳しく断罪しても,足りないほどである.

かくして,CCE において,児童の性的虐待の問題は,homosexuality の問題に比して,事態の重大性に鑑みるなら,明らかに,不適切に軽い扱いをしか受けていない,と言わざるを得ない.

この事態が示唆していることは,何か?それは,このことにほかならない:教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)を始めとするカトリック教会の中枢は,聖職者たちの一部に内在的な pedophilia の問題の重大性をしかるべく認識し,それに適切に対処する勇気を持つことができず 事が公になって,教会の威信が失墜することを恐れるあまり ,その代わりに,homosexuality 全体を不必要に厳しく断罪したのだ.

精神分析家として,わたしは,そこに,カトリック聖職者全体が自身に内在的な pedophilia を否認するために強固な homophobia を反動形成 (Reaktionsbildung, reaction formation) により作り上げた強迫神経症を見て取る.

我々は,こう断言し得る:カトリック教会による homosexuality に対する異様に厳しい断罪の真理は,カトリック聖職者の一部に内在的な pedophilia に対して為されるべき断罪(為されるべきであったが,実際には怠られてきた断罪)である.

実際,先ほども引用した CCE nºs 2357-2359 の文言において,homosexuality pedophilia と読み替えてみれば良い:「pedophilia の行為は,重大な堕落である」;「pedophilia の行為は,内在的に乱れたものである」;「pedophilia の行為は,如何なる場合も是認され得ない」;「pedophilia の性向は,そのものとして乱れたものである」.まったくそのとおり.異論を唱える者は誰もいないだろう.

Vatican は,カトリック聖職者において禁止さるべき pedophilia homosexuality の一種であり,それゆえ,homosexuality 全体を厳しく断罪しておけば,それによって pedophilia にも厳しく対処したことになるはずだ,と暗に思い込んでいたのかもしれない.

確かに,pedophile 司祭の多くが性的対象として男児を選ぶ.しかし,序章において確認したように,homosexuality はもはや精神疾患とは見なされないのに対して,pedophilia は精神疾患としての性倒錯のひとつに分類され続けている.

Vatican が pedophilia と homosexuality とを混同しているとすれば,あるいは,前者を後者の一亜型と見なしているとすれば,それは不適切なことである.

そもそも,カトリック教会が homosexuality を忌避するようになったのは,修道院共同体の内部で男どうしが性的行為におよぶことを禁止するためであった.当初,禁止の対象は,修道士や司祭たちの homosexuality 行為に限られていた.そのような禁止が,教会の制度化の過程で,いつのまにか一般化され,信者全体に及ぶようになり,homosexuality そのものが罪悪と見なされるようになった.そして,その聖書的な根拠が,いわゆる clobber passages に求められた.歴史的な経緯はそのようなものであっただろう,と推察される.

1986年に Homosexualitatis problema を世界中の司教全員へ書き送り,1992年に CCE を完成させた Joseph Ratzinger 枢機卿は,2001年に USA において聖職者による児童の性的虐待の事件が大々的にあばかれ始めたとき,自身が犯してきた判断の誤りの重大性に気づかされ,愕然としたに違いない.

しかし,それをきっかけに,彼は,pedophilia の問題を否認したり回避したりすることをやめ,自身の判断の誤りの責任をみづから負った.2001年当時,彼は既に Vatican の実質的な長であり,その後,2005年から2013年まで教皇座にあった.その間,カトリック聖職者の児童性的虐待問題の処理に,彼は敢然と取り組んだ.そのことは,彼の神学的業績とならべて,評価されてよいだろう.

調査が過去何十年もさかのぼって為されるべきケースも少なくなく,加害者も被害者も非常に多いので,この問題は完全な解決を見るにはいまだに至っていない.教皇 Francesco も,後処理に追われている.

しかし,この問題が明るみに出て,もはや否認し続けようもなくなったことは,カトリック教会がより健全なものになって行くためには当然,必要なことである.

残るは,CCE s 2357-2359 に記された homosexuality 断罪の文言の不適切性を教理省が認め,当該部分を削除するか,あるいは,書き改めるかすることである.

それが実現するのはいつのことになるか見当もつかないが,いずれにせよ,教皇 Francesco は,それらの段落にもとづいて homosexuality を断罪しないよう,みずから手本を示している.

最後に,問うてみよう:カトリック聖職者であることと pedophile であることとの間には,何か本質的な連関があるのだろうか?

そのような問いを措定することが適切であるか否かを判断するには,一般男性人口に対する男性 pedophile の人数の比と,カトリック聖職者の総数に対する pedophile 聖職者の人数の比とを比較することが必要であるが,いずれに関しても正確な統計を得ることは非常に困難である.

アメリカ合衆国カトリック司教協議会の依頼により New York 市立大学の John Jay College of Criminal Justice 2004年に作成した報告書 : The Nature and Scope of Sexual Abuse of Minors by Catholic Priests and Deacons in the United States 1950-2002(合衆国において1950-2002年の間に起きたと申し立てられたカトリック司祭および助祭による未成年者の性的虐待の性質と展望:通称 John Jay Report)においては,USA において1950年から2002年の間に児童に対する性的虐待の疑惑を申し立てられた司祭の数の司祭総数に対する比は約 4 % である,と述べているが,この数字の意義は定かではない.

児童に対して性的虐待を為す者たちも,精神病理学的に均質なグループを成すわけではない.

しかし,もっぱら男児を性欲対象とする男性 pedophile については,次のような精神病理学的構造が推定されている:すなわち,対象男児との彼の関繋は,彼の母親と子供時代の彼自身との関繋の再現である.そこにおいて,彼は,欲望 特に,Freud Penisneid[ペニス妬み]と名づけたもの において,自身の母親と同一化している.そして,彼の子供時代に彼の母親が彼において phallus を欲していたように,今,彼は,彼の母親との同一化において,対象男児において phallus を欲している.

敬虔なカトリック信者である女性が自身の息子を Penisneid の対象とした場合,彼女はこう欲するかもしれない:彼女の息子が,彼女にとって最も理想的な phallus を有する男性としての神父になって欲しい.

息子がそのような母親の欲望にしたがって神父になった場合,Penisneid における母親との同一化において,彼は,身近にいる男児のなかから性欲対象を選ぶことになる.

少なくとも,カトリック聖職者による児童の性的虐待のケースの一部においては,以上のような構造がかかわっていることが推定される.

そのようなケースは,精神分析によって治療が可能であるかもしれない.わたし自身は,そのような司祭を治療したことはないし,そもそも pedophile の患者を扱ったこともない(性倒錯者が,性倒錯そのものを理由にして治療を求めてくることは,まず無い)が,理論的には以上のように考えることができるだろう.

もしカトリック聖職者のなかに pedophile である人々がいまだに残っているとするなら,彼らは,CCE s 2358-2359 の文言は,homosexual の人々にではなく,彼らに向けられたものであることを自覚すべきである.そこにおいて,homosexual を pedophile と読みかえれば,こうなるのだから:

pedophile の者たちは,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼らがキリスト教徒であるなら,pedophile であるという条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう,呼びかけられている. 
pedophile の者たちは,貞潔であるよう呼びかけられている.内的自由を教える自制の徳によって,ときには,私欲無き友情の支えによって,祈りと秘跡の恵みによって,彼らは,キリスト者としての完璧さへ,徐々に,かつ,決然と,近づいて行くことができ,かつ,そうすべきである.

『LGBTQ とカトリック教義』(2018年05月増補改訂版)よりの抜粋


2018年4月16日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年03月25日(枝の主日)

十字架を担うキリスト,作者不明,1520年ころの作
Museum voor Schone Kunsten (Gent)

しあわせの形と心のつよさ

枝の主日(マルコ 14.1 - 15.47)

枝の主日の朗読は聖金曜日の朗読に似ています。でも,その中心となるモチーフは違うように感じています。

聖金曜日がイエスの苦しみと、その苦しみのうちに顕される神の愛を核とするなら、枝の主日のモチーフはむしろ、この神の愛に向かう人間の様々な態度にあるように思います。

この態度は今日の朗読の中で、また私たちの生活の中で,鮮明にコントラストをなしています。

過越祭をまえにエルサレムは緊張に包まれています。群衆の待望と、為政者たちの奸計と殺意、そしてイエスに従う者たちの不安と恐怖が,渾然とその都市を覆っていました。

群衆の待望は、ユダヤ人をローマの支配から開放してくれる政治的指導者に向けられています。だから入祭の朗読(マルコ 11.1-11)では彼らは棕櫚の枝を振って「新しい王」のエルサレム入城を祝います。

でも,もちろん,この待望ははかないもので、彼らの心は為政者たちにそそのかされて変わります。入場のを祝う歓声は、すぐに福音朗読にある、この新しい王を「十字架につけろ」という叫びに変わってしまします。

枝の主日は,わたしたちに踏み絵を迫るようなコントラストを見せます。

一方では,憎しみと嘲り、恐怖と不安が渦めいています。ペトロとヤコブとヨハネは、血と涙を流して祈るイエスを残して,眠ってしまいます。ユダはイエスを売って、銀を手にします。祭司長たちと最高法院は,偽証をならべ、奸計の枠を狭めてゆきます。そのなかで,兵士たちは、いち早く力あるものの側につき、無実の人にあざけりを向けます。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」それを見た祭司長たちは,それをあおるようにあざけります。「他人は救ったのに、自分は救えない。... 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」

他方で,イエスはその間、沈黙のうちに留まります。福音には「何もお答えにならなかった」と記されていますが、その姿は他の朗読箇所がもっと詳しく描いています。イザヤは「主はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった」;「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と語り、パウロは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に」したと語ります。イエスは、父なる神の語りに忠実に、自分の道を歩もうとします。

わたしたちは,ユダのようにイエスを売ることはしないでしょうが、苦しみを身に受けようとするイエスに本当に付き従うほどの愛があるのかどうかわかりません。

ピラトはこの二つの力のあいだを漂っています。彼は,かならずしも祭司長たちの言うままに受け取りはせず、イエスにその真偽を確かめようとしています。また,理不尽に見える決定を迂回しようと、囚人の解放を提案してもいます。しかし結局、自分からは何も決めず、促されるままにイエスを兵士たちに差し出します。彼は、人はだれでも死を恐れ、権力に屈するはずだと思っていたのでしょうか。彼は突き動かされ、流され、世の波にのって自分の地位を守ろうとします。


ところで,わたしたちは、毎日の日常のなかで何をもとめているのでしょうか。今日、この聖堂の外には、桜が満開となった最初の日曜日で、お花見の祝祭の雰囲気があふれています。それと対比すれば、この聖堂のなかで祝われている枝の主日は、どこかおどろおどろしいもののようにも見えるでしょう。

人は,誰しもつらさを逃れ、楽しさに惹かれるものですが、そのなかに自分への呼びかけに応える実感と、かみしめるような深い充実が宿っているとは限りません。

Facebook で、Twitter で、Instagram で、人々は「自分は幸せを感じている側の人間だ」と互いに喧伝し、自分にもそう信じ込ませようとしているように見えます。また,ソーシャルメディアの外で顔と顔を合わせて出会う人でさえ、その持ち物で、姿勢で、表情で「わたしは社会的に惨めな者ではない」と語りあってるように見えることもあります。

ひとりひとりがその写真と笑顔の裏に抱えているはずの悩みや辛さ、憧れや希望を、人は誰にも見せないまま、この世を渡り、人生を過ごしてゆくのでしょうか。

わたしには,そんな世の在り方が、自身のうちに不安と妬みを宿しながら、イエスをいけにえに見立てようとして「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と、イエスを責めた祭司長たちの姿に重なって見えます。

確かに,人が自分を見下さず、幸せなものとして見てくれることは,私たちの心を軽くしてくれます。しかし,人の目が、わたしたちが自分のこころの奥に感じるはずの、深い安心や感謝や幸福感を作り与えてくれるわけではありません。

人が受け入れようと、さげすもうとも、イエスのうちに変わらずに響いているのは,「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる」(イザヤ)という実感でしょう。

そこを離れては、目に見える幸せも、偽りを映しこんでしまうような素地が、そこにはある気がします。世の人の声に従い、世の人の目に美しく見せようとしても、こころに深く呼びかける神の声をおいては、こころが嘘なしに満たされることもないでしょう。

イエスは、広い門、恐れの唆しに迷わされることなく、人が本当に祝福を抱きしめることのできる道を示してくれています。

怖いからと言って、恐れに聞き従う人の耳には、その声が小さくなるとは言っても、結局,恐れのささやきが残るでしょう。先を進まれるイエスとともに、こころを強くして、祝福の呼びかけに耳を傾け、その方へ進めば、祝福の感覚は,はじめには小さく、人の目にも留まらないにしても、かならずこころの底にゆるがない明るさと暖かさを伝えてくれるものだと思います。

2018年4月2日月曜日

主の御復活おめでとうございます

Anastasis : Jesus raising Adam and Eve by their hands. Behind them stand other biblical characters (John the Baptist, David and Solomon) and righteous kings. Fresco in the Chora Museum, Istanbul.


ご復活に感謝


もしわたしが苦しまなかったら
どうしてイエスさまの苦しみがわかっただろうか
もしイエスさまが苦しまなかったらば
どうして神様の愛がわかっただろうか

二週間ほど前から,この祈りを祈り続けています.

神に感謝.

私の友人の弟が,リマで爆弾テロで負傷して,失明の暗黒状態から多少の明かりを感じるようになりました.

快復を祈り,明後日から九回目のノベナです.朝食の断食と,主の祈り六回を毎日捧げています.

九日間のノベナをいつまで続けるか,主イエスのお言葉を待ちます.

ゲッセマネでの祈りからご復活までが,私の人生の全てです.

ひとつだけ分かち合います.

ペトロが三回イエスを拒んだ後,主は振り向いてペトロを見つめられました[注:ギリシャ語原文では : καὶ στραφεὶς ὁ Κύριος ἐνέβλεψε τῷ Πέτρῳ (Lc 22,61). 動詞 ἐμβλέπειν が「見つめる」です].

NJBNew Jerusalem Bible : ニューエルサレムバイブル)では,

and the Lord turned and looked straight at Peter

と訳されています.

そして,主は,振り返って,ペトロを真っ直ぐ見た.

「真っ直ぐ」という言葉が書かれています.主は,ペトロだけを見つめました.

私は,この straight という言葉だけを黙想して,主に出会いました.私は,その瞳と逢って,「私を創った人の眼だ」と直感しました.

私達一人ひとりを,主イエスは「真っ直ぐ」に見つめています.

ご受難のときの言葉は,七つしかなくて,イエスのお気持ちを私達は想像するしかありません.

「真っ直ぐ」私を見つめたとき,主が何とおっしゃったかを,私は直感しています.それは:

「わたしは,あなたの苦難や貧しさを知っている.だが,本当はあなたは豊かなのだ」(黙示録 29節).

ペトロ宮野亨

2018年4月1日日曜日

主の御復活おめでとうございます!


Resurrexit sicut dixit, alleluia !

主の御復活おめでとうございます!

改めて強調するまでもありませんが,Jesus の復活は,地上的な生に「生き返る」ことではなく,永遠の命への復活です.かつ,「地獄」からの復活です.

ニケア・コンスタンチノープル信条にはそのくだりはありませんが,使徒信条では,「三日目に死者たちのうちから復活し」の前に,Jesus Christ は「地獄に降りた」と言われています.勿論,公式な日本語訳では「冥府(よみ)にくだり」です.しかし,ラテン語では « descendit ad inferos » です.「地獄」(inferi) という語が確かに使われています.

地獄に関して,数日前にこんなニュースがありました.イタリアの全国紙 La Repubblica の創立者であるジャーナリスト Eugenio Scalfari による Papa Francesco の「インタヴュー」が,0328日付の同紙に掲載されました.そのなかで,教皇は「地獄は存在しない」と言ったことにされていました.それに対して,Vatican の広報室は,翌日すぐさま,そのことを否定する声明を発表しました:教皇は Scalfari を個人的に接見したが,インタヴューを受けたわけではなく,しかも,教皇の言葉として記事に書かれてある文章は,教皇の実際の発言を忠実に再現しておらず,Scalfari 自身の作文にすぎない.

この件を,USA のイエズス会の週刊誌 America も,0329日付で報道しています.

それによると,教皇は,20143月,マフィアに向かって警告して言っています:「犯罪行為をやめて,回心しなさい.さもなければ,あなたたちを待っているのは地獄だ」.

また,20150308日にローマ市内の或る小教区を訪問した際,教皇は,ガールスカウトの少女の質問:「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言っています

あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です. 
では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています. 
しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました:「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」. 
神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから. 
地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です. 
そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです 神との関係を全然欲しがらずに. 
他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う:「主よ!...」. 
その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く. 
イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う:「主よ,わたしを憐れんでください!」. 
すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43). 
なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです. 
地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです:「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます. 
わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

さすが Papa 様!わかりやすいお話しです.神の愛を信ずる者は,かならず救われ,イェス様といっしょに永遠の命へ復活させていただけます.神の愛は,うらぎりません.

改めて,主の御復活おめでとうございます!よい復活節をおすごしください!

ルカ小笠原晋也