2018年12月24日月曜日

降誕祭の御挨拶,ルカ小笠原晋也 LGBTCJ 共同代表

Charles Le Brun (1619-1690), Nativité (1689), Musée du Louvre

主の御降誕おめでとうございます!

神とわたしたちをつなぐ愛のしるしとして,神は,御自身のひとり子 Jesus をわたしたちのところに使わしてくださいました.そして,それによって,わたしたちひとりひとりを,神の子としてくださいました.神の愛の恵みに感謝しましょう!そして,その善き知らせに喜びましょう!

世界的に言って,カトリック教会は,この一年間,聖職者による青少年に対する性的虐待の事件によって大きく揺るがされました.多数の被害者のために改めて祈りたいと思います — 性的暴力による心的外傷の作用は,適切な治療を受ける機会がなければ,何十年間でも持続し得ます.

周知のように,カトリック聖職者の pedophilia の問題と,それに起因する性的虐待の事件とが大々的に表面化したのは,2002 年,The Boston Globe 紙が Boston 大司教区におけるスキャンダルを暴露したことによってでした.しかし,実際には,カトリック教会はその全歴史を通じてその問題を抱え続けてきたはずです.21世紀初頭に至るまで,事件はひたすら隠蔽されてきただけです.

聖職者の pedophilia の問題を隠蔽しながら,他方で,カトリック教会は何をしてきたか?一般信徒における homosexuality の断罪です — あたかも,そうしておきさえすれば聖職者の pedophilia の防止のために十分であるかのように.何という偽善と欺瞞に満ちた態度でしょう!

カトリック教義における homosexuality の断罪を条件づけているのは,実は,聖 Thomas Aquinas によってキリスト教に輸入された Aristoteles 形而上学です.それによって,形而上学的な目的論がカトリック教義に持ち込まれました.生殖を目的としない sexuality は許されないという思念は,それに根拠づけられています.詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』を参照してください.

LGBTQ がカトリック教会に対して提起している問題は,実は,単に sexuality にかかわることだけではありません.むしろ,カトリック神学に染みついた Aristoteles - Thomas Aquinas の形而上学を,我々は今やそこから一掃しなければならない — その非常に本質的に重要なことを,LGBTQ はカトリック教会に教えてくれました.わたしは,今年,そのことに明確に気がつくことができた,と思っています.

今月の始め,教皇 Francesco の新たなインタヴュー本『召命の力』が出版されました.出版に先立って,homosexuality に関する部分の抜粋がイタリアの新聞に掲載され,それにもとづいて,英語圏では「教皇は,カトリック教会から homosexuality を排除するよう方向転換した」とさえ報道されました.しかし,それは誤解です.そのことを検証したブログ記事「『召命の力』のおける教皇 Francesco の homosexuality に関する発言についてを別に書きました.是非お読みください.

わたしたちの月例 LGBTQ+ みんなのミサは,2016年07月の開始以来,二年半続いています.主に感謝!そして,今までに御協力くださった神父様がた,一般信徒の方々,会場を提供してくださっているカトリック施設の責任者の方々,そして,ミサ参加者の皆さんに,改めて感謝します.来年以降も継続して行くことができますように!そして,ほかの都市においても,同様の活動が広まって行きますように!

教皇 Francesco は,2018年03月,非常に注目さるべき使徒的勧告 Gaudete et exultate を発表しました.しかし,そこにこめられた彼のメッセージは,性的虐待スキャンダルのせいであたかもすっかり忘れ去られてしまったかのようです.あらためて,その最後の段落 (nº 177) を引用しておきたいと思います:

以上の文章が,全教会が聖性の欲望 [ il desiderio della santità ] を奨励することに専念するために有用であることを,わたしは望む.聖霊に求めよう:神の最大の栄光のために,聖なるものでありたいという強い欲望 [ un intenso desiderio di essere santo ] をわたしたちのうちに注ぎ込みたまえ,と.そして,聖なるものであろうとする努力において,わたしたちは互いを助け合おう.そうすれば,わたしたちは,世がわたしたちから取りあげ得ない幸福を,分かち合うことになるだろう.

新たな年2019年が,カトリック教会にとって,形而上学を超克するための新たな出発の年となりますように!そして,それによって,ますます,神の全包容的な愛に忠実になって行くことができますように!それこそ,第二ヴァチカン公会議において示唆されたカトリック教会の方向性です.

改めて,主の御降誕おめでとうございます ! Merry Christmas ! Joyeux Noël ! Buon Natale ! ¡Feliz Navidad!

ルカ小笠原晋也

降誕祭の御挨拶,ペトロ宮野亨 LGBTCJ 共同代表

Gerard van Honthorst (1592-1656), Anbetung der Hirten, Wallraf-Richartz-Museum, Köln

クリスマスメッセージ

主イエスの救いのメッセージをみなさんと共有する喜びに感謝!

12月16日の LGBTQ+ みんなのミサの後の集いで,私は,聖書翻訳の例を分かち合いました.

その言語を話す北方の民族の方々には,「喜ぶ」という単語がなかったそうです.「喜ぶ」という表現を調べ尽くしたところ,「シッポを振る」が誰にでも伝わる表現だという結論になったそうです.

喜びがない人達ではなくて,家畜を自分のようにして命を共有しているからだ,というのが私の直感です.

聖書学者,翻訳者たちは,呻吟苦悶したそうです.だって,「イエスはシッポを振った」っていう文章が聖書に書かれるのですから(と,わたしは,分かち合いの集いで言いました).

すると,学者の鈴木伸国神父様は,その日のうちにその話の出典を見つけてくださって,ご返事をくださいました.


Carl Heinrich Bloch (1834-1890), Christus Consolator, Brigham Young University Museum of Art


原著は:

Mark Stibbe 著,Every Day with the Father : 366 Devotional Readings in John’s Gospel[毎日,御父とともに — 信仰を以てヨハネ福音書を読む366日]

第346日 :「弟子たちは,[復活した]主を見て,大喜びした」(ヨハネ 20:20)
わたしは憶えている,牧師になるトレーニングを受けているとき,学校で必ず出席せねばならない礼拝にあまり行きたくなかったことを.わたしは非常に多忙で,せねばならないことがたくさんあったので,本当は礼拝に行きたくはなかった.しかし,あるとき,聖書をイヌイットの言語に翻訳する仕事に携わっている牧師が説教に来た.そのとき彼が言ったことは,今でもわたしの記憶に残っている.彼は,次のような話を我々にした:
ヨハネ福音書 20 章 20 節に来たとき,翻訳者たちは途方に暮れた.イヌイットの言語には抽象的な概念を表す言葉が無く,いかに「大喜びする」という観念を伝達する動詞を見つけるかは,難問だった.ヨハネはこう言っている:復活した主を見て,弟子たちは大喜びした.「大喜びする」は,ギリシャ語原文では χαίρειν であり,それは「喜ぶ,うれしい」である.イヌイットの言語にはそのような動詞は無い.そのとき,翻訳者たちはどうしたか?彼れらは,まず,祈った.すると,彼れらのうちひとりが,完璧な解決を思いついた.彼は,イヌイットの男たちとハスキー犬とのきづながどれほど分かちがたいものであるかに気づいていた.男たちは,朝起きると,犬たちのところに行く — 犬たちを外に出してやり,そして,犬たちにそりを引かせるために.犬たちは,飼い主を見ると,大喜びして,シッポを振る.そこで,彼は,ヨハネ 20:20 のイヌイット語訳のためのそのアィディアを使うよう,提案した.ほかの翻訳者たちも同意した.かくして,イヌイット語聖書ではこう言われている :「主を見たとき,弟子たちはシッポを振った」. 
読者諸氏が犬を好きかどうかはわからないが,わたしは犬が大好きだ.わたしは,いつも犬といっしょに生きてきた.結婚以来,わたしたちは三匹の黒いラブラドールを飼ってきた.彼れらは皆,とても忠実な友だった.今飼っている犬は,モリーという名だ.わたしが帰宅するとき,必ず彼女はわたしを待っており,わたしを見て,喜びのダンスを踊る — シッポを激しく振って. 
復活した主イェスを見たとき,弟子たちはそのように大喜びしたのだ.彼らは,大喜びでシッポを振ったのだ! 

実は,この後が私の分かち合いたい気持ちです.

教会共同体は,「人間が喜ぶ」という言葉をイヌイットに押し付けず,「今 & ここ」で使われている気持ちや言葉を大切にして,人々に伝わるように聖書の表現を変えました.

私の言い方ですと:神に愛されるために,私は何も変わらなくて良い.全能の神が自在に,私に合わせて変わってくださる.神が変わったときの気持ちすら,私は知るすべがない.だけど,私は「喜ぶ」という気持ちがよく分かる.

これを,私達 LGBTCJ で思い直してみます.きっと,神様は,私達にフィットする表現で福音宣教を可能にしてくださいます.

私達には「シッポを振る」という汎用言語はありませんけれど.

この先,私達一人ひとりの気持ちや言葉を紡いでいけば,長い撚り糸ができて,それで布ができます.縦糸横糸の役割があっても,90度合わせば,縦横の役割も変わります.そして,誰をも包み込めるほどの肌触りの良い布になるでしょう.その後は,必要な方に合わせて,自在に断裁されて,縫い合わせられるでしょう.私達の布は,世界中で使われる布になっていきます.

皆さん,クリスマスは,みんなでシッポを振りましょう!

ペトロ宮野亨

『召命の力』における教皇 Francesco の homosexuality に関する発言について


2018年12月,クラレチアン宣教会 (Congregatio Missionariorum Filiorum Immaculati Cordis Beatae Mariae Virginis : CMF) のメンバーであるスペイン人司祭,教皇庁立サラマンカ大学の神学教授,Fernando Prado による教皇 Francesco のインタヴューが,一冊の本として出版されました.その表題は,La forza della vocazione — La vita consacrata oggi[召命の力  今日の奉献生活]です.

「奉献生活」は,一般には耳慣れない語かもしれません.おおざっぱに言えば,自身の生を神に奉じた修道士や修道女の生き方のことです.

Fernando Prado 神父は,奉献生活にテーマをしぼって,2018年08月09日の午後,数時間にわたって,教皇 Francesco にインタヴューしました.そのなかでは,当然,修道士や修道女の養成の問題が取り上げられています.そして,奉献生活に入ろうとする候補者が homosexual である場合についても論ぜられています.

このインタヴューがどのようなタイミングで行われたのかを,想い起こしましょう:その12日前,教皇は,青少年に対する性的虐待のゆえに Theodore McCarrik 氏を枢機卿の地位から事実上,解任したばかりです.

2018年,聖職者による青少年に対する性的虐待の事件が改めて大々的に報道され,世界的にカトリック教会に対する不信感が高まりました.

そのような文脈において,12月始め,出版に数日先だって,La forza della vocazione の homosexuality に関連するくだりの抜粋が,イタリアの新聞で紹介されました.その記事は,英語圏でも広く紹介され,日本語でも報道されました:教皇 Francesco は homosexuality を単なる「最新流行」(fashionable) と見なし,カトリック教会には受け容れ難いと発言した,というような印象を与えるしかたで.

12月16日に行われた LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いにおいても,教皇の言葉にショックを受けた,と言った人がいました.

わたしは,La forza della vocazioneスペイン語版イタリア語版フランス語版をさっそく注文しました.フランス語版はすぐに届きましたが,このブログ記事を書いている時点で,スペイン語版とイタリア語版はまだ来ていません.ともあれ,フランス語版にもとづいて,および,イタリア語の新聞で紹介されているイタリア語版の抜粋にもとづいて,教皇 Francesco が homosexuality について語っている一節を含む部分(フランス語版で pp.76-85)の私訳を,以下に掲載します.

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神の聖なる忠実な民に仕えるための養成

フランシスコ教皇,あなたは,あるとき,奉献生活[神に奉ぜられた生:修道士や修道女などのこと]のための養成について語ったとき,それは「警察的な仕事」というよりは「職人的な仕事」である,と言いました.何をおっしゃりたいのか,もう少し説明していただけますか?

わたしが言いたいのは,奉献生活のための養成のスタイルのことです.それは,養成される者のあるがままの在り方を奉献生活にもっとふさわしいものにせねばなりません.カリスマの原理に則って,奉献生活の候補者たち つまり,そのために養成される者たち を,男性であれ女性であれ,彼れらのあるがままの在り方において,少しずつ奉献生活にもっとふさわしいものにすること 彼れらに寄り添いながら.それは,職人的な作業です.彼れらを見つめ,一歩一歩,彼れらに寄り添う.我々は,彼れらに教義を伝えます.彼れらの言葉に耳を傾けます とくに,彼れらが内的に感じていることがらについて彼れらが語る言葉に.彼れらが語り出してくることと,彼れらがどのような人間であるかとにもとづいて,我々は,彼れらに分別[見分けること,判断すること]を教えます.逆に,警察の比喩を改めて用いるなら,警察スタイルは,人間を規制し,制御しようとするスタイルです そうするよう,そうであるよう要請されていることと規則とに候補者が従うように.規則を尊重しない候補者は,排除されます.規則を尊重するなら,それで良し.候補者たちに〈彼れらの成長の過程において〉寄り添うことは,ありません.若者たちは,そうするよう,そうであるよう要請されていることに,単純に適応すればよい.そのようなやり方は,長期的には,彼れらが抱えている問題を隠してしまいます.そして,隠された問題は,後になって現れてきます.

家族においてと同様,ひとりの人間の成長を助けるということは,常に,職人的な作業です.もし親が子どもに寄り添わず,放っておくなら,悪い結果になります.子どもはよく成長することができません.親がそこにいて,よい環境を作り,言うべきときにしっかり「否」と言い,そして,「否」ないし「然り」と言う理由を子どもに説明する.親は,子どもたちに付き添い,寄り添います.

今日,ひとりひとりに寄り添うことのない[奉献生活候補者の]養成は,考えられません.今日,養成者[奉献生活候補者を養成する者]であることは,まったく容易なことではありません 親であることが容易でないのと同様に.養成者は,霊気的[スピリチュアル]な親であらねばならず,その能力を有していなければなりません.分別と憐れみと忍耐を有していなければなりません.本当に,今日,養成者であることは複雑な任務です.とても複雑です.できあいの行動モデルはありません.しかし,あなたは,組織のカリスマを持っており,奉献生活の概念も経験も持っており,福音も手にしている.神があなたを助けに来てくださるように!

あなたは,また,人を「全的」に養成し得るよう注意を払うことの重要性,および,神の忠実な民を養成することを究極的な目標とすることの重要性を,強調なさっています.また,「怪物」を作らないよう注意せねばならない,とまで言っています.何をおっしゃりたいのですか?

まず最後の質問 悪しき養成がどのような帰結をもたらすか から答えましょう.候補者の選別の重要性は,既に話題にしました.今度は,既に養成を始めて,あるいは終えて,まもなく司祭や修道者になる者たちの養成のことを話題にしましょう.わたしが最も懸念している悪しき養成の帰結のひとつは,聖職者至上主義 (cléricalisme)です.それは,疑い無く,奉献生活の最も重大な倒錯のひとつです.より一般的に言って,聖職者至上主義は,カトリック教会の生命を損なう倒錯です.ですから,奉献生活においても,司教区の神学校における司祭養成においても,この問題領域に関して非常に注意深くあらねばなりません.聖職者至上主義は倒錯です なぜなら,それは,第二ヴァチカン公会議の憲章 Lumen gentium が述べているように,教会 神の聖なる忠実な民 の性質を倒錯させてしまうからです.それは,とても肝腎なことです.なぜなら,奉献生活のために,あるいは司祭となるために養成を受けている者たちは,神の民に仕える者となるからです.

どのような意味において,修道士生活における聖職者至上主義について問題にすることができるでしょうか?

聖職者至上主義者であるために司祭や司教である必要はありません.上の方を向いて,差別的な態度 悪い意味での「差別」 を以て生きている者たちにおいて顕わになってくる聖職者至上主義があります.他者に対して貴族のような態度を以て生きている人々です.聖職者至上主義は,貴族主義です.修道士や修道女でも,聖職者至上主義者であり得ます.聖職者至上主義者になるのは,ミサを司式するからではなく,貴族階級に属していると思い込むからです.一般的に言って,貴族的な生活態度にともなうことです.それは,自分は,自分以外の〈神の聖なる忠実な〉民よりも上位に位置している,と人々に信じさせようとする態度に表れてきます.聖職者至上主義,貴族主義,エリート主義のあるところには,神の民はいません 神の民こそがあなたに聖職者の地位を与えるにもかかわらず.

あなたに教会のなかの地位を与えるのは,神の聖なる忠実な民です.あなたに教会のなかの地位を与えるのは,小教区においては人々との近しさであり,学校では子どもたちや子どもたちの親,病院では患者たちです.聖職者至上主義者であるような修道者は,人々のなかに入って行けません.それが鍵です.「人々のなかへ入る」こと (insertion), それがキーワードです.正当にも第二ヴァチカン公会議後に用いられるようになった表現のひとつです.ときとして,多分,それは正しく用いられず,過小評価されたかもしれませんが,しかし,わたしは,それは聖霊の息吹によって与えられた表現だと心から思います.それは,この Marko Rupnik のモザイク壁画に描かれていることに沿うものです.それは,民のなかへ入るために身を低くしたイェスσυγκατάβασις (condescendence)[身分の高い者が身分の低い者と同じ水準へ身を低めること]です.

聖職者至上主義は,人々なかへ入ることとは逆のことです.聖職者至上主義者は,エリートに属しており,民のなかに居場所を見いだせません.そこから,多くの帰結が生じ得ます 特に,権力の行使が良くないしかたで行われている場合には.後ほど見るように,聖職者至上主義は多くの問題の根源です.青少年に対する性的虐待のケースの背後にも,聖職者至上主義が見いだせます ほかの未熟さや神経症に加えて.聖職者至上主義に関しては,養成の過程において非常に注意深くあらねばなりません.未熟さを見分け,明らかにする手助けをし,健全な成長の過程において寄り添う そうせねばなりません.

全的な養成 (formation intégrale) の必要性については,どうでしょうか?

いかにも,養成は,人間の本質的な諸次元をカバーせねばなりません.それは,奉献生活の候補者についても,司教区の神学生についても,言えることです.養成は,四本の柱をよりどころとすべきです:霊気的生 (la vie spirituelle), 共同体的生,勉学的生,そして,使徒的生.それらはすべて,相互作用を及ぼしあうべきです.養成される人間を状況のなかに置かねばなりません.共同体における生は非常に重要です なぜなら,そのような状況において,反応として,限界が現れてくるからです.共同体的生において,各人は互いに識り合い,わたしたちはほかの者たちによって識られます.とても明白に現れてきます.ある被養成者が自身の限界に対処し得ない,ということに養成者が気づいたなら,注意が必要です.なぜなら,神経症や或る種の未熟さの徴があるなら,どう導くか,どう対処するか,ほかの者たちとは別にするか,等々を考えねばならないからです.しかし,どうかお願いだから,限界を 自分自身の限界にせよ,他者の限界にせよ 無慈悲に扱わないようにしましょう.限界にうまく対処するようにしましょう 四つの次元(霊気的生,共同体的生,勉学的生,使徒的生)において.

限界にうまく対処する

「限界にうまく対処する」という表現によって何を考えていらっしゃるのか,もう少し説明していただけますか?

わたしが言いたいのは,こういうことです 限界を恐れてはなりません.限界に寄り添い,そして,可能なら,限界を乗り越えることができるよう工夫しましょう.ひとつの逸話をお話しましょう.ある司祭が恋に落ちた.彼はそのことを司教に言いに行った.どうすればよいのか,彼は自分ではわからなかった.多分,今までしてきたことをすべてやめるべきかもしれない,と彼は考えた.彼は,自分が恋をしており,恋愛対象の女性の姿を常に追い求めている,と感じることにひどく恐怖を覚え,問題が次第にますます大きくなって行くのを感じた.実際には彼は何もしてはおらず,事はすべて,多分,若干思春期的な強迫観念だった.しかし,彼は怖くなり,どうするべきかと思案して最初に浮かんだ考えが,司教に相談しに行くことだった,というわけです.彼は正しいことをしました.父の愛を求めに行くことは,何と大きな救いであることか.危機や問題は,常にあります.それを恐れてはなりません.

わたしは常々,司祭たちに言っています:「どうか,人々の限界を無慈悲に扱わないように」.誰かが告解しに来たら,その人がしたいように告解させなさい.あのこと,このことに関して根掘り葉掘り問いただしたりしないように.その人の限界を,その人の傷を,無慈悲に扱わないように.あなたがわかったことに応じて,その人に助言を与えなさい あなたがその人に与えたいと思い,かつ,その人が受け取ることのできるだろう助言を.その人に合った助言,良い助言を,ひとつだけ.そして,その人がまた戻って来れるよう,あなたのドアを常に開けておきなさい その人がこう言い得るように:「あの神父は良い人だ.また会いに行こう」.

実例をもうひとつお話しましょう.Aurelio Luis Calori 神父のことです.彼はブエノスアイレスにいた司祭で,わたしが幼い子どもだったとき,そして,もう少し後,わたしが少年だったとき,わたしは彼のことをよく知っていました.後に彼は,大きな小教区の主任司祭になりました.わたしは,彼から多くを学びました.わたしの目には,彼は神の人であり,また,詩人でした.乙女マリアに献げられたとても美しい詩を,わたしは憶えています.彼はこう歌っています:「わたしは,さか巻く水を行く海賊だ...」.とても美しい詩です.そして,最後,自身の過ちを悔いて,彼は乙女マリアにこう言います:「マリア様,今宵,わたしは心から約束します.が,念のため,ドアに鍵をつけたままにしておくことをお忘れにならないよう,お願いします」.

常に,扉を開けたままにし,人々が入ってこれる空間を空けておかねばなりません 限界を責めたりせずに.養成を受けている若者たちが悔いるとき,彼れらが耐えることができる限りにおいて,彼れらを支え,彼れらを助けねばなりません.それが養成において必要なことだと思います 限界の克服を強制することなく,若者たちを養成することです.養成する側として選ばれた者たちにも注意を払う必要があります.養成する側の者たちのなかにも,神経症的な者がおり,若者たちの限界を無慈悲に扱ったり,若者たちが成長するのを助ける代わりに,彼れらを潰してしまったりします.

養成の過程において看過することのできない限界もあるでしょうか?

勿論です.たとえば,非常に神経症的で,精神の安定を欠いており,治療的な助けによっても導くことが難しい候補者は,受け入れてはなりません 司祭職にも奉献生活にも.そのような者たちについては,見棄てることなく,しかし,司祭職や奉献生活以外の道を歩むよう,彼れらを助けねばなりません.彼れらのために歩む道を方向づけてやらねばなりません.しかし,司祭職や奉献生活に受け入れてはなりません.教会 キリスト教共同体,神の民 に奉仕するために生きる者たちを養成するのだ,ということを,常に念頭に置いておきましょう.その目標が地平線上にあるのだ,ということを忘れないでおきましょう.彼れらが心理的にも情緒的にも健全であるよう,見守るべきです.

奉献生活や司祭職のなかに homosexual の傾向を有する者がいることは,もはや誰の目にも秘密ではありません.そのことについては,どうお考えですか?

そのことは,懸念材料です.なぜなら,その問題にしかるべく対処しなかった時代があったからです.今しがた分かち合ったことがらの続きにおいて言うなら,我々は,候補者を,彼れらが人間的かつ情緒的に成熟し得るよう,養成することに,多大な注意を払うべきです.我々は,真剣に見分けるべきであり,教会自身が有する経験の声を考慮に入れるべきです.それらすべてに関して見分けることに十分な注意を払わないとき,問題は大きくなります.先ほども言ったように,問題はとりあえずは顕在化してこないが,後になって初めて現れてくることがあります.

homosexuality の問題は,養成過程の開始時から,候補者たち自身とともに もし彼れらが homosexual であるなら 正しく見分けて行かねばならないとても重大な問題です.我々は,要求水準を高くせねばなりません.社会では今,homosexuality は「はやり」(di moda) であるようにさえ思われており,その心性は,多少なりとも,教会の生にも同様に影響を与えています.

ある司教が憤慨していました.彼は,わたしにこう語りました:彼の司教区 とても大きな司教区 に,homosexual 司祭が複数いることがわかり,そのことに対処せねばならなくなった.彼は,まず,ほかの司祭職を養成するするために,司祭養成の過程に介入した.そのような現実を,我々は否定することはできません.奉献生活においても同様に,homosexual の修道士や修道女が必ずいます.ある修道会の長がわたしに語ってくれました:彼の修道会の管区のひとつに公式訪問した際,優秀な若い神学生たち,および,既に修道立願を済ませた修道士たちのなかに,gay が幾人かいる,とわかって,彼は驚きました.彼自身は,この問題について疑念を持っていたので,彼はわたしに「何か問題があると思われますか」と質問してきました.そして,彼はこう言いました:「結局のところ,homosexuality はさほど重大なことではありません.単に,ひとつの愛情表現です」.しかし,その考えは間違っています.単なる愛情表現 (espressione di affetto) の問題ではありません.奉献生活のなかにも司祭生活のなかにも,そのような種類の愛情表現には居場所はありません.であればこそ,教会はこう勧めています:ある人々のなかにその性向が根づいているなら (le persone con questa tendenza radicata), 司牧職務にも奉献生活にも彼れらを受け入れないように.司牧職務も奉献生活も,彼れらの居場所ではありません.homosexual である司祭や修道士や修道女に対しては,我々は,彼れらが完全に貞節を守って生きるよう,勧告せねばなりません.特に,二重生活[つまり,貞節を守らないままに修道士ないし修道女であり続けること]を送ることによって彼れらの修道会や神の聖なる忠実な民を憤慨させることが決してないように,彼れらが重大な責任感を持つよう,勧告せねばなりません.二重生活を送るくらいなら,むしろ,司牧職務や奉献生活から離れるがよいのです.

永続的な養成に関してですが,ヴァチカンの Congregazione per gli Istituti di Vita Consacrata e le Società di Vita Apostolica (CIVCSVA)[奉献生活の養成所と使徒的生活の会のための聖省]は,修道立願した後に奉献生活や司牧職務から離れてしまう修道士や修道女のケースについて,ある種の不安を感じているようです.いかにして永続的な養成を確かなものにすることができるでしょうか?危機や困難に陥ったときに召命において辛抱強く生き続けて行くことができるために,いかに手助けすることができるでしょうか?

先ほど言った四つの柱に戻りましょう:祈りの生,共同体的生,勉学の生,使徒的生.それら四つの方向性を支えねばなりません しかも,常に寄り添いによって.修道士や修道女は,より年長の,より経験のある兄弟姉妹とともに道を歩むようにすべきです.そのような寄り添いは必要です.寄り添うことができ,聴くことができるための恵みを求めることも必要です.しばしば,奉献生活において,修道会の管区長が直面する最大の問題のひとつは,ある兄弟姉妹がひとりで道を歩んでいる事態です.どうなるか?誰も寄り添わないのか?つまるところ,寄り添ってくれる人が誰もいなければ,我々は,奉献生活のなかで,成長することもできなければ,養成されることもできません.

修道士や修道女がひとりで道を歩むことのないように,我々は気をつけねばなりません.そして,そのことは,自明なように,即席でできることではありません.誓願前の修練の時期から,寄り添ってもらう習慣をつけねばなりません.その習慣を持つのは,良いことです.なぜなら,もし良い寄り添い者がいなければ,悪い寄り添い者を探すことになってしまうかもしれないからです.ひとりでは,道を歩むことはできません.奉献生活者は皆,良い寄り添い者を探し,その寄り添いを受け入れるべきです コントラストとなってくれることができ,相手の話を聴くことのできる寄り添い者です.理想的な者を見つけるのは,多分,容易ではないかもしれません.しかし,多少とも兄貴の役を果たしてくれることのできる誰か 対話することができ,信頼することのできる誰か は,必ずいます.

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改めて強調しますが,このインタヴューにおいて,教皇 Francesco は,もっぱら奉献生活 — つまり,修道士や修道女 — について論じているのであって,修道士でも修道女でも司祭でもない一般信徒のことを問題にしているのではありません. 

LGBTQ+ であろうとなかろうと,また,離婚と再婚の経歴があろうとなかろうと(2016年の使徒的勧告 Amoris laetitia においても取り上げられていたように,家族の問題について考えるとき,homosexuality と並んで,結婚と離婚と再婚も,カトリック教会においては大問題のひとつです:あるカップルが結婚したとき,もしそれが本当に結婚の秘跡によるものであるなら,人間がそのきづなを解くことは決してできず,民法上は離婚が成立しても,教会法上は婚姻関係は解消され得ませんから,したがって,民法上は認められる再婚も,教会法上は重婚と見なされてしまいます — 最初の結婚が実は無効であったと認められない限り),一般信徒に関しては,教皇の姿勢は一貫しています:絶対的と見なされるような律法にもとづいて一般的な観点から断罪するのではなく,しかして,目の前にいるひとりの人を,神の被造物である同胞として,神の愛と慈しみを以て歓迎し [ accogliere ], その人に寄り添い [ accompagnare ], その人が語ることに耳を傾け,その人が有する苦悩,困難,問題を分析し [ discernere ], さまざまな条件を考慮にいれつつ,その人を教会共同体の一員にする [ integrare ] ために包容する [ includere ] — それが,教皇 Francesco が日ごろから奨励しているやり方です.

つまり,LGBTQ+ の人々について,同性どうしの性行為をしているか否か,性別適合のための医学的処置を受けているか否か,等々,そのようなことを教皇 Francesco は問いません.ある人が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,その人はカトリック教会に歓迎されます.

それに対して,基本的に修道会のなかで男どうし — または女どうし — の共同生活を営む修道士や修道女の場合は,条件が異なります.彼れらは,自身の生を神に奉ずるため,貞節の誓願を立てます — 清貧と従順の誓願とともに.

もし homosexual である者が修道士や修道女となった場合,どうなるか?もし貞節の誓いが性的な欲望の昇華のもとに立てられたのではなく,単に性的欲望が抑えつけられただけの状態である場合,homosexual の者にとっては貞節の誓いを守ることが heterosexual の者よりも困難になるだろう,ということは,容易に察せられます — なぜなら,欲望の昇華が達成されていない場合,homosexual の者は,同性どうしの共同生活のなかで,性的な欲望の対象となり得る他者と出会う可能性が,heterosexual の場合よりも高いからです(欲望の昇華に関しては後述します).

そもそも,カトリック教義が homosexuality を断罪するようになった歴史的な出発点は,修道会共同体のなかで修道士や修道女が同性どうしで性的行為に及ぶことの防止と禁止に存していたはずです.そのことは,6 世紀に聖ベネディクトが修道院を設立し始めた当初から問題となっていただろう,と容易に察せられます.そして,当初は修道会共同体のなかでだけ遵守さるべきものとされていた同性どうしの性的行為の禁止は,カトリック教会の歴史のなかで,いつのまにか一般信徒にまで拡大適用されるに至ったのでしょう(その歴史的経緯を調べた研究があるかどうかは,まだ確認していません).

その限りにおいて,教皇 Francesco も,カトリック教会の規定方針を追認しています:すなわち,奉献生活に入るために養成を受けている者が homosexual であるか否かを吟味し,そうであることが確認されれば,その者を奉献生活には受け入れないように.

しかし,教皇は,homosexual である修道士や修道女(既に誓願を立てている者たち)を修道会共同体から排除しろ,とは言っていません.単に,貞節の誓願を厳格に遵守するよう命じているだけです.そして,もしそうすることができないなら,奉献生活から離れるよう,命じています.

それは,当然のことです.そして,貞節の誓願の遵守は,homosexual であるか heterosexual であるかにかかわらず,あらゆる奉献生活者が自身に課したことです.もし仮に貞節であることができないのなら,homosexual であるか heterosexual であるかにかかわらず,修道会共同体から離脱すべきです.

インタヴューにおいて用いられている「愛情表現」(espressione di affetto) という語は,同性どうしの者たちの性的な行動のことを指している,と理解されます.「表現」ですから,「行動に表されたもの,行動化」(acting out) です.修道会共同体の内部での homosexuality の行動化は容認されない — まったく当然です.

そして,奉献生活者の貞節の誓願に関して言われていることは,修道会に所属していない聖職者(司祭や司教)の独身の約束にも,そのまま当てはまります.聖職者には,異性どうしであれ同性どうしであれ,性的な acting out は容認されません.pedophilia の acting out は,なおさら容認されません.

この『召命の力』のインタヴューに関して,「教皇はカトリック教会全体から homosexual の者を排除するよう命じた」というような意味合いの報道が為されましたが,それは単純に誤読であるか,あるいは,メディアが好むセンセーショナルな誇張です.そのようなことを教皇 Francesco はまったく言っていません.

我々としては,むしろ注目したいのは,教皇 Francesco が二度にわたって指摘しているこのことです:養成課程の始めにおいて,あるいは,養成の全期間をとおして,隠されていた問題が,後になってから顕在化して来ることがある.そのような好ましからざる事態を防止せねばならない.

どうしてそのような事態が生じ得るか?教皇自身の表現によれば,それは「警察的」な養成のスタイルによってです.つまり,律法や規則の遵守を強制するだけで,被養成者に寄り添う姿勢を欠いている場合です.

そう述べたとき,教皇 Francesco の念頭には,当然,枢機卿から解任したばかりの Theodore McCarrick 氏のことがあったはずです.彼は,おそらく,典型例です.

精神分析の観点から,見てみましょう.もっとも,この記事においてはあまり詳細に論ずることはできませんが.

sexuality について論ずる際,sexual orientation[性的指向]の問題と gender identity[性同一性]の問題とが区別されます.今は,sexual orientation についてのみ論じます.一般的に「性欲」と言いますが,欲望は,実は,本源的には「死的」(thanatic) なものです.つまり,死と破壊をもたらすものです.それを「性的」(sexual, erotic) なものにするのが,精神分析で言う「オィディプス複合」(Oedipus complex) です.そのメカニズムによって,欲望の客体(対象)の選択が基本的に規定されます.「選択」と言っても,我々が意図的ないし意識的に選択するのではありません.言うなれば,選択するのは「無意識的な欲望」自身です.欲望がいかなる対象を「選択」するかを基本的に規定するのが,オィディプス複合のメカニズムです.欲望の対象が homosexual であるか heterosexual であるかも,そこにおいて規定されます.

欲望の対象が homosexual であるか heterosexual であるか(あるいは,いずれでもあり得るか,いずれでもないか)は,たいてい,思春期にあらわになってきます.そして,特に妨げが無ければ,同性ないし異性の対象へ性的な関心が向かいます.

ところが,そのとき,カトリック教義などの影響のもとに homosexuality の断罪や禁止が作用すると,同性の対象を選択しようとしていた欲望は,その対象選択を断念せざるを得なくなります.今,日本で一般的に知られている用語では「抑圧」と言います.精神分析の創始者 Sigmund Freud (1856-1939) が用いたドイツ語原語は,Verdrängung です.より適切には「排斥」と訳します.

homosexual な対象選択が排斥されると,我々は,みづから自身が homosexual であることに明確に気づくことができなくなります.うすうす感づくことがあっても,「いや,そんなはずはない」と否認してしまいます.

教皇 Francesco が「警察スタイル」と呼んでいる養成のしかたは,排斥を助長し,強化します.養成を受ける者は,自身の性的指向に気がつくことができず,homosexuality は隠蔽されてしまいます.

そのような排斥と隠蔽の状態においては,たとえば gay である被養成者は,こう思うことになります:イェス様は「女性をひたすら性的欲望の対象としてのみ見る者は,それだけで姦淫の罪を犯している」と言っているが,わたしはそのようなことは一度もない.わたしは,ほかの人々が悩んでいるような性欲の問題から自由だ.貞節を守ることは,わたしにとっては容易なことだ...

それはまったく勘違いなのですが,被養成者自身も,彼を指導する者も,そのことに気づくことはできません.そして,そのまま,奉献生活の誓願を立て,あるいは,司祭として叙階される.Theodore McCarrick 氏の場合,優れた模範的な聖職者として,さらに,司教に叙階され,高位聖職者として出世して行く.

そのようにして,教会のヒエラルキーのなかで権威と権力を与えられたとき,McCarrick 氏に何が起きたか?それまで排斥されていた homosexuality が,強迫的な症状行動として回帰してきたのです.聖職者至上主義の環境のなかで,司教としての権威と権力を利用すれば,身近な神学生たちのなかから好みの homosexual な対象を入手することは比較的容易となったからです.homosexual な性的行動をしてはならない,と彼は百も承知していたはずです.しかし,彼はみづからその衝動を抑えることができなかった.それは,強迫的に彼に実行を迫り来て,それに対して彼は抗うことができなかった.そして,してはならないとわかってはいても,その行動化は際限無く反復された.

精神分析の用語においては「反復強迫」(Wiederholungszwang) と言います.Theodore McCarrick 氏に限らず,青少年に対する性的虐待を犯した聖職者たちの大多数において見出されるであろう現象です.

そのような反復強迫は,排斥によって条件づけられます.ですから,聖職者による青少年に対する性的虐待を根本的に防止するためには,homosexuality の排斥が生じないようにしなければなりません.

homosexuality が排斥されていれば,それは,奉献生活のための養成の過程において,見逃されてしまいます.そうではなく,まず,被養成者が自身の homosexuality に気づくことができなければなりません.homosexual な対象選択をしてしまう欲望が自身のなかに潜んでいることを認めることができなければなりません.そして,養成において寄り添ってくれる指導者とともに,欲望の行動化が生じなくなるよう,取り組んで行くことができなければなりません.

しかし,それは,homosexuality に限られたことではなく,heterosexual な性欲に関してもまったく同様です.自身の欲望から目をそらすことなく,欲望の行動化が起こらなくなるよう,問題に取り組んで行く.しかも,孤独にではなく,寄り添ってくれる養成者とともに.

それが,教皇 Francesco の勧めていることです.

heterosexual にせよ homosexual にせよ,欲望の行動化が起こらなくなる — それは,単に欲望を抑えつけることによって可能にはなりません.そのためには,精神分析において「昇華」(sublimation) と呼ばれている状態が達成されねばなりません.つまり,欲望が客体への隷属から解放されることです.精神分析が目ざしているのは,まさにそのことです.

欲望の昇華は,奉献生活のためにも司祭職のためにも,本当は,必要条件であるはずです.しかし,今までのところ,カトリック神学のなかで欲望の昇華について主題的に論ぜられたことは,多分,皆無でしょう.貞節ないし貞潔は奨励されてはいますが,いかにしてその状態が達成され得るのかが昇華の観点から論ぜられたことは一度もなかったのではないか,と思います.精神分析家であるわたしから見ると,大きな欠陥です.

ともあれ,教皇 Francesco が指摘しているように,奉献生活と司祭職のための養成は,律法と規則で規制し,取りしまり,抑えつける「警察スタイル」のものではなく,師匠や先輩が弟子や後輩に寄り添い,ともに歩み,若者の成長を助ける「職人スタイル」のものであるべきならば,それを可能にするためには,まず,カトリック教義から homosexuality 断罪を取り除かねばなりません.なぜなら,それこそ「警察スタイル」の象徴なのですから.

カトリック教義のなかで homosexuality が断罪されているからこそ,homosexuality の排斥と隠蔽が生じ,さらにそこから homosexual な症状行動の反復強迫が生じてきます.

自身の性的な欲望に対して,寄り添ってくれる指導者や先輩とともに,自覚的に取り組み,欲望を客体への隷属から解放する昇華へと至ること  それが望ましいことです.そして,それを達成するためにこそ,homosexuality が排斥されないよう,「警察的」な教義は削除されるべきです.

今回出版された『召命の力』において,わたしたちは改めて,教皇 Francesco がわたしたち信者を霊気的に指導するスタイルを確認することができると思います:律法を振りかざして断罪することは控えなさい.愛を以て寄り添いなさい.既定の規則やしきたりを押しつけるのではなく,ひとりの兄弟姉妹が語る言葉に耳を傾け,聖霊の知恵を以て見分け,分析しなさい.そして,その人を教会共同体のなかへ包容し,神の愛によって支えなさい.

わたしたちのカトリック教会がまことにそのような神の愛の共同体となって行くことができますように.

ルカ小笠原晋也

2018年12月1日土曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年11月25日

 Philippe de Champaigne (1602-1674), Le Christ aux outrages (ca 1655), au Musée national de Port-Royal des Champs

王たるキリスト の祝日

「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ 18.33b-37)

“King” と聞いて,皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。マーティン・ルーサー・キング牧師を思いうかべる人から「バーガー・キング」を思いうかべる人まで,いろいろかもしれません。わたしは,短距離走者の Ben Johnson や、ボクシングの井上尚弥、あるいは矢沢永吉をイメージしてしまいます。とはいっても,私の中で King of
 Rock 'n' Roll 忌野清志郎は別格です。

或るパパ様は「王」を「他のどんな者よりも秀でていて」、すべてのもの、とくに人のこころを見とおして語りかけて、またその語りかけがこころの真実にまでたっする力をもっていることで「人のこころを統べる者」だと言われたよう
です (cf. Annum Sacrum, Leo XIII, 1899, n.7). もちろんパパ様が言われる王はイエス・キリストただ一人のはずですが、人のこころに語りかけ、その言葉によって人の意志を何か大切なものに向けさせるのが王なら、それは部分的にはミュージシャンたちの役目でもある気がします。また少なくとも福音のなかのピラトには、権力と恐怖による「支配」は理解できても、この意味での「王」には思いいたれなかったようです。 

もうすこし政治的な意味で現代で「王」とは誰でしょうか。EU が求心力を失いかけている状態では、どんな人物であるかを別にすれば、合衆国大統領と中国共産党総書記は
現代の「この世の王」たちであるように見えます。この二つの国の統治制度は,日本のそれよりも、聖書が語る「国」の理論に近いように見える部分があります。どちらの国でもトップが変わると、それに合わせてたくさんの職員か制度が変わり、社会とそこに住んでいる人たちの生活も一変するからです。「統治者 / 王 (basileus)」が変わればその「統治 / 国 (basileia)」が変わるのは当然です。「統治」はその統治にあらわされた「統治者」の姿でもあります。 

ともかく,わたしたちの「王」、わたしたちのこころと社会を統べる「王」が大統領でも、総書記でも内閣総理大臣でもなく、人のこころの痛みと願い、苦痛とよろこびを知り、そのすべてを自分の身に負いながら、人を癒し、なぐさめ、弟子たちを導いた方であるのはありがたいことです。 

ところで,この祭日の制定を思うとき、わたしはそれをただありがたい祝いだと片づけることができません。教皇がこの祭日を宣言したのは、第一次世界大戦後、急ぎ設立された国際連盟が早々に無力化され、各国がふたたび自国の権益拡大にむけてわれ先に駆けだしたころです。王はただ一人、すべての存在を愛し、支える王だけであることを,教皇は何としてでも訴えたかったことでしょう (cf. Quas primas, Pius XI, 1925).

しかし,それ以上に,わたしにとっては「王たるキリスト」という言葉は、それにつづく期間にたくさんの人の口から叫ばれた "Viva Christo Rey !" という声と結ばれています。わたしの所属する修道会はスペインに一つの起源をもち、またそのためたくさんの会員が中米、南米などで働いています。たくさんのスペイン人の神父様がたにとってスペイン内戦 (1936-39) の記憶はあまりに苛烈なものです。たくさんの司祭は夜、連行されて,平原のなかの谷の底で射殺されました(或る神父さんは,その数は 6,000人くらいだろうと話していました)。そしてその何十倍の人たちが、戦場で、あるいは対立側の人間と見なされることでただ、逮捕され殺されてゆきました。そのなかで教会の人間はこの言葉 "Viva Christo Rey !" を叫んで銃殺されてゆきました。 

もちろんこの内戦はフランコ派と共和派の戦いであり、またその後ろにいた独伊連合とソビエト・社会主義派の戦いであって,その一方に肩入れすることもできませんが、そこで射殺されようとするとき、"Viva Christo Rey !" — たとえば「王はキリスト(ただ一人)!」あるいは「キリストよ、永遠に!」とでも訳したらいいのでしょうか — と叫んだ人たちのこころには、その対立をこえて,愛によるキリストの統治、キリストの国への希求があったに違いないと思いたい気持ちを抑えられません。 

「わたしの国はこの世には属していない」とイエスは言います。わたしたちにとっても同じだと思います。私たちの祖国は神の国一つ、私たちの法はイエスの言葉、私たちの王はキリストただ一人、それがいちばんしあわせな生き方だと思います。

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

Nicolas POUSSIN (1594-1665), Les Aveugles de Jéricho (1650), au Musée du Louvre

「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ 10.46-52)

今日の福音は目の見えない人の話です.

インターネットのニュースで色覚異常(以前は「色盲」と呼ばれていた症状です)の方が、はじめて補正眼鏡を着ける体験が紹介されることがあります。色覚というのは不思議なもので,本当は波長の高低しかない電子線を、波長を分けてバランスをとることで、よく知られた光の三原色というダイアグラムを形成します。ですからたとえ波長上の色覚に欠けるところがあっても、そのバランスさえ補正すればほぼ色覚を再構成することができます。そう言えば簡単ですが... 一度,動画サイトで "color-blind"(英語ではこの用語はまだ使われているようです)を検索してみてくだされば、その方たちが眼鏡を着けたとたん動きが止まり、そのまましばらくしてから涙を流し、そして身の回りのものを一つ一つ自分の色覚に刻印してゆく様子がご覧になれます。見えない人が急に見えるようになるという治療がいまだ多くないのに対して、色覚異常の方は補正眼鏡を着けたときに一挙に、本当にドラマチックに新しい世界を体験します。

でも今日はこの福音を別の角度から読みで見たいと思います。というのも二つあるマルコの「盲人の癒し」の一つは、たしかにゆっくりと「見えるようになる」体験を描いていますが (8.22-26), 今日の個所は別のことを描いているように思うからです。

情景となるエリコは,いわば街道町です。山の上の街エルサレムから東に山をくだると、ヨルダン川沿いの街道にぶつかります。そこがエリコです。たくさんの人と家畜、車と荷物が土ぼこりをあげなら通りすぎてゆきます。その「路のはたに」一人の男がすわっています。しかし彼には人も家畜も目にうつりません。砂まじりの風と物音と人々の話し声が聞こえるだけです。地面の上にすわっているのでしょうから、たくさんの足音、砂利を踏む音、荷車の輪が路を踏む音を聞くでしょう。頭のうえを人の話し声がとおってゆきます。

しかし見えない人が、道を急ぐ人に普通に対等に声をかけることは難しいでしょう。この人はずっとそこにすわって過ごし、人々はどこかから来て、どこかへと向かって遠ざかってゆきます。路を急ぐ人たちは、この人とは関係のない別の世界に生きています。この人が路上にすわっているときに聞く人々の声は、どこかこの人とはまったく関係のない話し、ただのざわめきのようなものにしか聞こえないでしょう。この人は、ただずっとそこに座っていることしかない世界に住んでいるわけですから、自分とは関係のないことを話しながら通り過ぎてゆく声を、ずっとずっとずっと,砂ぼこりと風に吹かれながら,聞いていたのだろうと思います。

一日、一日がそうして過ぎてゆくなか、この人にそれまでとは違う、意味のある音が入ってくるようになります。通り過ぎてゆく声のなかで「イエス」という言葉がくり返されるのに気づきます。

願いは人のなかで気づかれることなく眠っています。それはその人が死ぬまでそのままであったかもしれません。しかし路上の、光なくすわっていたこの人のなかに、ある人の名がくり返されることで、この願いはめざめ、ついには「叱りつけて黙らせようと」してもおさえられないものになります.

いくつかの心象がわたしのこころに残ります。一つは「主がお呼びだ」という返事をもらったときのこの男の「飛び上がる」姿です。「上着を脱ぎすてて」とありますが、乞食をしている人ですからりっぱな「上着」は合わない気がします。「上に被っていたもの」ぐらいでしょうか。路上生活をしている人はよく何枚も重ね着をします。タンスはありませんから。その汚れて黒ずんでしまった厚い被りものを、まるで殻が割れてひなが飛び出してくるように、自分の両脇に置き去りにして、そこから飛び出してくる人の姿をわたしは思いうかべます。わたしはそこに長い苦痛な生活のなかで押さえつけられてきていた、彼のこころの裂け目から湧き出している、切実な願いと希求を感じます。

もう一つは「何をしてほしいか」という問いの力です。イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と聞きます。この問いに応えてこの男は、もしかしたら生涯思いつづけていて、しかし一度も言葉にしたことがなかったかもしれない、自分の願いを形にします。「目が見えるようになりたいのです。」誰かが何か狂おしいまでに全身でねがっていることがあって、しかもそれは決して実現しないだろうと思っていれば、人は普通、それを人に気取られないように注意し、また自分の思いなかでもその思いに蓋をして、自分でも気づかないようにして過ごすでしょう。願っていることが切実であるほどそれを意識し、なおさら口に出すのは怖いものです。しかしそのときこの男は自分の思いのすべてを、自分の前に立っているはずの「何をしてほしいのか」という声の主にゆだねて、それを口にします。「目が見えるようになりたいのです。」

最後はこの男のすすんでいった「道」です。今日の福音の始めと終わりには,「道」という言葉が,とても印象的に使われています。はじめこの男は「道の端」にすわって、自分はそこにとどまったまま、右から左へ、また左から右へ近づいては遠ざかってゆく人と荷車の音を聞いているばかりでした。癒されたときは彼は、自分のねぐらに帰ることなく、その道を自分の願いをもって進んでゆくことを選びました。彼はもう目が見えるのです。同時に自分がついて行きたいをものを見つけ、もう誰かに助けてもらうことなく自分の目で見て望みに導かれて進んでゆくことができるようになったのです。彼にとって「なお道を進まれるイエスについてゆく」ことはきっとほかにたとえようもないよろこびだったと思います。