2019年5月7日火曜日

満川元一氏の conversion therapy 関連の発言に対して

少年時代にいわゆる conversion therapy を強いられた Garrard Conley の体験記をもとにして制作された映画 Boy Erased[邦題:ある少年の告白](2018) のポスター

2019年05月06日付の東京新聞の記事によると:茨城県医師会副会長の満川元一氏(産婦人科医,もと水戸赤十字病院長)は,茨城県の主催する LGBT 支援策検討会議において,「性的マイノリティー(少数派)の人にマジョリティー(多数派)に戻ってもらう治療はないのか」と発言しました.

性的指向と性同一性 (SOGI : sexual orientation and gender identity) に関して伝統的な社会規範を疑問に付する人々を「矯正」し得ると主張する「治療」は,俗に conversion therapy または reparative therapy と呼ばれています.

日本においては,いわゆる conversion therapy に関する専門的な研究はまったく行われていませんが,USA においては,医学および心理学の諸学会は明確な結論を既にくだしています:いわゆる conversion therapy は,科学的に無根拠であり,治療的に無効であるばかりか,欝や自殺を誘発し得ることにおいて,有害である.

明らかに,そのことを満川元一氏はまったく知らないわけです.

そこで,わたし(ルカ小笠原晋也)は,彼に,若干の資料を添えて,以下の書簡を送りました:


2019年05月07日

満川元一先生

Re : SOGI に関するいわゆる conversion therapy の無効性と有害性について

拝啓,

初めまして.わたしは,ラカン派精神分析家です.都内で精神分析の臨床を行っています.また,カトリック信仰を有する LGBTQ+ の人々の信仰共同体 LGBTCJ の共同代表を務めています.

今月 6 日付の東京新聞で 記事「LGBT 支援検討会合 茨城県医師会副会長発言:多数派に戻る治療ないのか」を読みました.

そこにおいて先生が「性的マイノリティの人に性的マジョリティに戻ってもらう治療」と呼んだと報ぜられているものは,英語では,俗に conversion therapy または reparative therapy と呼ばれています.

性的指向と性同一性 (SOGI : sexual orientation and gender identity) に関するいわゆる conversion therapy ないし reparative therapy の無効性と有害性に関しては,日本では科学的な研究はまだ行われていないものの,USA では既に結論がくだされています:そのような「治療」は,科学的に無根拠であり,臨床的に無効であり,それどころか,自殺や欝を誘発することにおいて有害でさえあります.

その問題に関して手短にまとめられた American Medical Association (AMA) と American Psychiatric Association (APA) の文書のコピーを同封にてお送りします.是非,参考になさってください.

敬具


以上の内容の書簡を,満川元一氏へ送りました.

冒頭に上げた画像は,映画 Boy Erased[邦題:ある少年の告白](2018) のポスターです.少年時代にいわゆる conversion therapy を強いられた Garrard Conley の体験記をもとにして制作されたものです.そのような「治療」がいかに有害であり,非人道的なものであるかを知るために,是非,御覧ください.現時点(2019年05月07日)では幾つもの映画館で上映されています.


2019年5月4日土曜日

聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方


上の風刺画では,いかにも保守的で頑迷そうに見える牧師が三人がかりで(つまり,多数派)ひとりの gay(つまり,少数派)を,聖書で殴り殺しています.俗に聖書の "clobber passages"("clobber" は「激しく殴打して,叩きのめす」)と呼ばれる箇所に準拠して homosexuality を断罪する人々(ユダヤ教徒にせよ,キリスト教徒にせよ)を揶揄するものです.

いわゆる clobber passages については,『LGBTQ と カトリック教義』の § 1.3.2. "homosexuality と聖書  聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない" で詳しく検討してありますので,参照してください.

ひとつだけ例を挙げるなら :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13).


Julius Veit Hans Schnorr von Carolsfeld (1794-1872), Steinigung des heiligen Stephanus

ここで改めてそのような clobber passages に言及するのは,最近,聖書の文面を楯にとって Pete Buttigieg の homosexuality を非難する福音派牧師 Franklin Graham(Billy Graham の息子のひとり)の tweet を James Martin 神父様が批判しかえしているのを見かけたからです.

その際,James Martin 神父様は,2010年に書いた記事 Dr. Laura and Leviticus を,改めて紹介しています.聖書の clobber passages を楯にとって homosexuality を断罪する人を見かけたら,その記事に紹介されている傑作な反撃のしかたを思いだして,苦笑してください.

その記事において James Martin 神父様が言及している Laura Schlessinger は,もともと生理学者(インシュリンに関する研究で博士号を取得しているので,Dr と呼ばれています)ですが,ラジオで家族カウンセリングに関連するおしゃべりをすることで全米で有名になりました.そして,保守的なユダヤ教徒の立場から,homosexuality を断罪していました.

そのような発言をラジオでする Laura Schlessinger に対する批判文書が,Internet 上に出回りました.その匿名著者は,旧約聖書を字面[じづら]どおりに了解するならどのようなとんでもないことを言うことができるかを,そこにおいて展開しています.

James Martin 神父様による短い導入を含めて,その文書の邦訳を以下に紹介します.

******

Dr. Laura とレヴィ記

James Martin, S.J.
2010年08月18日

Dr. Laura Schlessinger は,昨日,ラジオ番組から降りることを発表した[訳注:人種差別的な発言をしたことによって].そのことは,彼女がときおり披露する旧約聖書の原理主義的な読み方  特に,homosexuality が問題となるとき  に対するあの賢い反応を思い出させた.その匿名書簡は,2000年に最初に現れて以来,web 上に広く流通してきた(その出どころをつきとめることは困難であるにもかかわらず).それは,あらゆる種類の聖書直解主義に対する健全な解毒剤である.

[以下,匿名書簡]

Dear Dr. Laura :

神の律法に関して人々を教育するためにかくも多くのことをなさっているあなたに感謝します.わたしは,あなたのラジオ番組からとても多くを学びました.そして,そこで得た知識を,できるだけ多くの人々と共有しようと試みています.誰かが homosexual lifestyle を弁護しようとするときは,わたしは,単純に,たとえば,レビ記 18,22 :「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」の明確な断定を思い起こさせてやればよい.それを以て議論は終わり,というわけです.

しかしながら,わたしは,あなたからの若干の助言を必要としています — 神の律法の幾つかのほかの要素に関して;そして,如何にそれらに従うことができるかに関して.

1. レビ記 25,44[(前節で「イスラエルの同胞を奴隷としてはならない」と述べられたことに続いて,しかし)男性奴隷または女性奴隷が必要なら,まわりの国々から買いなさい]は,隣の国々から買った奴隷 — 男性奴隷も女性奴隷も — は所有してよい,と述べています.わたしの友人は,この律法は,メキシコ人には適用されるが,カナダ人には適用されない,と主張しています.説明していただけますか?なぜわたしはカナダ人奴隷を所有することはできないのでしょうか?

2. 出エジプト記 21,07[ある男が自身の娘を奴隷として売るなら,彼女は,男性奴隷と同じ条件のもとに奴隷の身分から解放されることはできない]が許しているように,わたしは,わたしの娘を奴隷として売りたいと思います.今の時代,彼女にいかほどの値段をつけるのが妥当でしょうか?

3. レビ記 15,19-24[女に月のものが訪れ,彼女の胎から血が流れ出ているときは,彼女は七日間,障りとなる.彼女に触れる者は,誰でも,その日のうちは不浄である.障りである女が寝たところは不浄となり,彼女が座ったところも不浄となる.彼女の寝床に触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.その上に彼女が座ったところのものに触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.彼女の寝床の上にあるもの,または,その上に彼女が座ったところのものの上にあるものに触れた者は,その日のうちは不浄である.もし,ある男が女と寝ているときに,彼女の障りの血が流れ出て,彼に付いたならば,その男は七日間,不浄であり,彼が寝た寝床はすべて,不浄である]によって,わたしは知っています:月のものの不浄の期間にある女に触れることは許されない,と.問題は,どうすればある女性が生理中であることがわかるか,です.もしわたしが「あなたは生理中ですか?」とたずねれば,大多数の女性は気を悪くするでしょう.


焼き尽くしの祭壇

4. レビ記 1,09[(主にいけにえとして献げる家畜を屠り,四つに切り分けたあと)内臓と脚を水で洗い,祭司は祭壇で全部を焼いて煙にする.それが,焼き尽くしの献げものであり,主にとって慰めの香りである]によって,わたしは知っています:わたしが祭壇で雄牛をいけにえとして焼くとき,それは主にとって快い香りを発する,と.問題は,わたしの隣人たちです.彼れらは,その臭いは彼れらにとっては快くない,と苦情を言います.わたしは彼れらを打ちすえるべきでしょうか?

5. わたしの隣人たちのひとりは,安息日に働くと言い張っています.出エジプト記 35,02[(週のうち)六日間,仕事をするが,七日目には,あなたたちにとって聖なるなにごとかがある.それは,安息日 — 主の休み — である.安息日に仕事をする者は,誰でも,死刑に処せられる]の述べるところによれば,その隣人は死刑に処せられねばなりません.わたしは,みづから彼を殺すよう道徳的に義務づけられているのでしょうか?それとも,わたしは警察にそうするよう頼むべきでしょうか?

6. レビ記 11,09-12[海のものであれ,河のものであれ,水に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいものは,ひれとうろこを持つものである.しかし,ひれとうろこを持たないものは,食べてはならない.それは禁ぜられている]によって,甲殻類を食べることは忌まわしいことであるのですが,わたしの友人は,それは homosexuality より忌まわしくはない,と感じています.わたしは賛同できません.あなたはこの問題に決着をつけることができますか?忌まわしさには程度の違いがあるのでしょうか?

7. レビ記 21,16-24 は「身体障碍者は神の祭壇に近づいてはならない」と規定しており,そのなかには「視力に欠陥のある者」も含まれています.告白するなら,わたしは,読書の際,眼鏡をかけます.神の祭壇に近づくためには,わたしの視力は完璧でなければならないのでしょうか?それとも,そこには解釈の余地があるのでしょうか?


payot と呼ばれる長いもみあげのユダヤ人男性

8. レビ記 19,27 は頭髪や髭に関して「あなたたちは,頭髪の縁[ふち]を,それが円を描くように切ってはならず,ヒゲの両側を切って,その形を変えてもならない」と禁止していますが,わたしの男友だちの大多数は,その禁を犯して,側頭部やもみあげを散髪してもらっています.彼らをどう処刑すべきでしょうか?

9. レビ記 11,02-08[陸に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいのは,分かれた蹄を有しており,かつ,反芻するものである.(それに対して)以下のものを食べてはならない — ラクダ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.イワダヌキ(訳注 : hyrax または rock hyrax — カワイイので,とても食べる気にはなれません): 反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ノウサギ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ブタ:分かれた蹄を有しているが,反芻しないから;あなたたちにとって,それは不浄である.それらの肉を食べてはならず,それらの死骸に触れてもならない.あなたたちにとって,それらは不浄である]によって,わたしは知っています:死んだブタの皮に触れると不浄になる.では,手袋をしていれば,ブタ皮でできたボールでフットボールをしてもよいのでしょうか?

10. レビ記 19,19 は「あなたの家畜のうち相異なるふたつの種[しゅ]どうしをつがわせてはならない;あなたの畑に相異なるふたつの種[しゅ]のタネを播いてはならない;相異なる二種類の糸で織られた混紡の布地の服を着てはならない」と禁止していますが,わたしの伯父[叔父]夫婦はその律法に違反しています.彼は,農場を所有していますが,同一の畑でふたつの異なる穀物を栽培していますし,彼の妻は,相異なる二種類の糸でできた布(綿とポリエステルの混紡)の服を着ています.彼は,また,たくさん,呪ったり,冒瀆的なことを言ったりします.いったい,本当に,わたしたちは,町じゅうをあげて,彼を石打刑にするという面倒なことをする必要があるのでしょうか?(レビ記 24,10-16 : 主の名を冒瀆する者は,石打刑に処せられる).もっと手軽に,プライベートな家族パーティーの場で,彼らを火刑に処することはできないのでしょうか — レビ記 20,14 に「ひとりの男がひとりの女とその母親の両方と寝たならば,それは淫らなことであり,彼れらは三人とも火刑に処せられる」と規定されているように.

Dr. Laura, わたしは,あなたがそれらのことがらを詳細に研究しており,それらのことがらについて専門的な知識をお持ちである,と知っています.ですので,あなたは助言することができる,とわたしは確信しています.

神のことばは永遠かつ不変であることをわたしたちに思い起こさせてくださったことに,改めて感謝します.

あなたを崇拝するファンより.

(もし本当にカナダ人奴隷を所有することができないのなら,ひどく残念なことです).

******
以上が,USA のイェズス会の週刊誌 America の Internet 版に2010年08月18日付で掲載された記事 Dr. Laura and Leviticus の邦訳です.

以上のような揶揄が可能であるということは,このことを示唆しています:わたしたちは,聖書を読むとき,その文面を,その「意味」において「了解」しつつ読むだけで済ますことはできません.

そのような読み方にとどまるなら,Laura Schlessinger のようになります.先に引用したレビ記 20,13 :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」をそのように読むなら,「男どうしで性行為をする gay たちを処刑しろ」 と神は命じていることになります.ところが,本気にそう信ずるのは,今は,ごく一部のイスラム教原理主義者たちだけです.

そのような読み方を聖書に適用することはできません.では,どう読むのか?

わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ろうとします.ただし,ただ,やみくもに聴こうとすればよいのではありません.神がわたしたちに何を欲しているのかを前提する必要があります.

神はわたしたちに何を欲しているのか?わたしたちのために何を欲しているのか?それは,わたしたちの救済です.誰をも排除せず,あらゆる者を包容する愛を以て,神は,わたしたち皆を愛してくださっており,わたしたち皆を神のみもとへ救い出したい,と欲してくださっています.

そのことを前提にして,初めて,わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ることができます.

では,たとえば,レビ記 20,13 をわたしたちはどう読むことができるのか?まず「処刑」に関しては,神は,人間がほかの人間の生命を奪うことを許してはいません — たとえ,ある国の刑法に死刑が規定されいても,それは神の欲するところに適ってはいません.

聖書の律法書において「処刑」への言及があるとき,それは,人間が人間に対して為すことではなく,しかして,神が人間に対して為すかもしれないことです.

昔,今村昌平により映画化された佐木隆三の小説『復讐するは我にあり(1976) のおかげで日本でも有名になった聖 Paulus のローマ書簡の一節 (12,19) と,彼が引用した申命記の一節 (32,35) を思い出してもよいでしょう :「復讐と報復は,わたし[主]のものである」.あるいは,その少し後に見出される一節を思い起こしてもよいでしょう :「死なせ,生かすのは,わたし[主]である」(Dt 32,39).

しかし,それは,何か恐ろしげな「神罰」がくだされるというようなことではありません.そうではなく,このことです:神は,ある種の人間には永遠の命を与えてくださらない — より正確に言えば,ある種の人間には,「人間は誰しも,今,永遠の命を生きることができるのだ」ということに気づくことを許さない — ということです.

教皇 Francesco は,ある少女から地獄に関する質問を受けたとき,彼女にこう答えました:もしあなたが神に向かって「わたしには,あなたの愛は必要ありません」と言うなら,もしあなたが神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲するなら,そのとき,あなたは現に地獄にいるのだ.

神による報復は,そのようなものです.それが,神による処刑です.

しかるに,もし仮にあなたが今,地獄での死を生きていても(あるいは,地獄での生を死んでいても),あるとき,ふと,あなたが神の愛を欲するなら,神はあなたを赦し,死から永遠の命へ復活させてくださいます.

神による処刑は,常に,神による赦しと復活の可能性を包含しています.

では,「男が,女と寝るように,男と寝る」とは,如何なる事態を言っているのか?それは,単純に同性どうしの性行為のことを言っているわけではありません.それは,神による処刑 — 地獄での死を生きること  を招くような重大な行為です.それは,如何なる行為か?先ほど見たとおり,それは,神の愛を拒む行為,神の愛にもとる行為です.つまり,わたしが,神に愛されているひとりの人間を,神がその人を愛しているように,愛さないままに,単に欲望を束の間,満たすためだけに消費するとき,わたしは神の愛に背いています.

レビ記 20,01-16 においては幾つかのケースに関して死刑が規定されていますが,それらはいずれも,神の愛に背くことにかかわっています.たとえば,隣人の妻と姦淫を犯した男は処刑される,と規定されています.その場合,姦淫とは,愛の無い性行為,欲望を満たすためだけの性行為のことです.

ですから,単純に「男が男と寝れば,処刑される」ということではありません.姦淫の場合と同様,神の愛に背いて,単に欲望を満たすためだけにそうするなら,それは,地獄での死を生きる事態を招くことになる,ということです.同性どうしであれ,異性どうしであれ,愛を以て相手を尊重しない性行為は,そのような報いを受けます.

それに対して,同性どうしが,互いを神の愛し子として尊重し合い,互いに愛し合うなら,彼れらの性行為は神の愛に背くものではありません.ですから,忌まわしいものとして死罪に値するものではありません.

むしろ,冒頭の風刺画が示しているように聖書の文面を楯にとって gay を傷つけるような者たちこそは,神の愛に背いたことによって,地獄での死を生きるよう定められています  あるいは,たぶん,もう既に,今,現に,地獄での死を生きており,地獄での生を死んでいることでしょう.

ただし,そのような者たちも,何らかの機会にふと神の愛を少しでも欲することがあるならば,神による救済に与る可能性が無いわけではありません.

わたしたちは,聖書の文面をとおして,神の愛のことばを聴き取ろうと努めます.聖書の文面が神の愛を覆い隠してしまうような事態を招いてはなりません.

ルカ小笠原晋也

2019年5月3日金曜日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加して


予定どおり 4月28-29日に行われた Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加してきました.LGBTCJ は,両日ともブースを出展し,虹色十字架,虹色ロザリオ,冊子『LGBTQ と カトリック教義』などを販売しました.28日は,パレードにも参加しました.29日は,Juan Masiá 神父様 SJ が来てくださいました.

参加してくださった方々,御協力くださった方々,ブースを訪れてくださった方々,TRP の主催者,協賛者,皆さんに,改めて感謝します.

特に,Juan Masiá 神父様に感謝します.神父様は,ひと組の同性カップルに,彼女たちの求めに応じて,祝福を授けてくださいました.多分,日本では,カトリック司祭が同性カップルを公然と祝福してくださった初のケースだろうと思います.Muchas Gracias, Padre Juan Masiá !



28日のパレードの際に撮った動画としては,特にこれを選びました:



動画を加工してくれた Alicia に感謝します.

そのほかの写真は,LGBTCJ の Facebook ページのアルバムに収められています.よろしければ御覧ください.

今年の Tokyo Rainbow Pride は,パレード参加者の数が一万人を超え,二日間の来場者数は約20万人だったそうです. これだけ大規模になったこの行事が,日本においても LGBTQ+ の存在尊厳と人権が差別なく尊重されるようになる社会的な効果を生むよう,願っています.

今年は,LGBTCJ のような非営利団体のブース出展料金は五万円に設定され,昨年までよりも出展しやすくなりました.ブースの設営場所は,ステージからは若干離れたケヤキ並木道沿いでしたが,それでも,前を通り過ぎる人の数も,ブースに立ち寄ってくれる人の数も,とても多かったと思います.

キリスト教に多少とも関心のある人々は,過去においても現在においてもキリスト教の教義が homosexuality を断罪していることを知っており,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体が出展していることに驚きます.『LGBTQ と カトリック教義』は,まさにそのような人々のために書きました.実際,紙媒体に印刷して,製本したものを,LGBTCJ のブースで購入してくださった人々も,少なくありませんでした.

カトリック教会も,『カトリック教会のカテキズム』にこう書かれてあることを,もっと積極的に宣べ伝えるべきです:「彼れら[ homosexual の人々]は,敬意と共感と気遣いとを以て,[教会共同体に]受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」.この一節は,カトリック信者の間でもほとんど知られていないと思います.

カトリック教義は,一方で homosexuality を断罪しておきながら,他方で homosexual の人々を受容するよう言っています.それは,明瞭な矛盾です.それは,「homosexual な性行為は断罪されるべきであるが,そのような性行為を控える homosexual の人々なら受け入れてもよい」というような方便によってごまかされ得るものではありません.

その矛盾は,何に由来しているのか?それは,キリスト教の教義を合理的に基礎づけるために Thomas Aquinas (1225-1274) が導入した形而上学的な「自然法」(lex naturalis) と,キリスト教の本来的な基礎であり,よりどころである「神の愛」との矛盾に由来しています.

その矛盾のうえに建てられたカトリック教会は,今,とても動揺しています.教皇 Francesco は,カトリック教会を純粋に神の愛のうえに立て直そうとしています.しかし,自然法に執着する保守的な論者たちは,彼をあからさまに「異端」呼ばわりしています.

周知のように,菊地功東京大司教様の司牧標語は,「多様性における一致」(varietate unitas) です.diversitate unitas と言い換えてもよいでしょう.すばらしい標語だと思います.

「多様性」とは「複数の人間の間にはさまざまな差異や相違がある」ということですが,では,そこに「一致」をもたらすことは如何にして可能なのか?議会制民主主義において「多数決」の名のもとにしばしば行われるように,多数者が自身の律法を少数者に押しつけ,それによって少数者を抑圧し,排除すればよいのでしょうか?カトリック教会に関して言うなら,自然法という「絶対的」なものと思われる律法をあらゆる信者に押しつけ,それにそぐわない少数者を断罪し,排除すればよいのでしょうか?

当然ながら,答えは否です.そのようにしてもたらされる「一致」は,ただの全体主義にすぎません.

「多様性における一致」が本当に実現されるなら,それはこういう事態です:さまざまな差異や相違を有する複数の人々が,相互に異なるがままに,互いに尊重しあいつつ,相互に対立したり,無関心であったり,バラバラになったりしないようになる.

それは,如何にして可能なのか?まさに,神の愛によってです.神の愛こそが,相互に異なるわたしたちに,わたしたちが相互に異なるがままに,一致をもたらしてくれます — 神の愛が,わたしたちひとりひとりに宿り,隣人愛として作用することによって.

愛は,聖霊の賜です.神は愛であり,神は,あらかじめ,わたしたちひとりひとりを愛してくださっています.それに気がつき,それに感謝するとき,わたしたちは,主 Jesus Christ がわたしたちを愛してくださるように,わたしたちも隣人を愛することができるようになります.

神の愛によって隣人を愛することは,死から永遠の命への復活を今,生きることであり,原罪からの解放としての罪の赦しを今,生きることです.(死から永遠の命への復活は「死後の生」のことではありません.)

カトリック教会がまことに神の愛に立脚することができるよう,主 Jesus Christ および主の使徒の頭の後継者である教皇 Francesco とともに,わたしたちも神の愛を生きましょう.

カトリック教会は,LGBTQ+ の人々をただ単に「敬意と共感と気遣いとを以て受け容れる」だけでは不十分です.むしろ,わたしたちは,多様性における一致のもとに,LGBTQ+ の人々とともに,カトリック教会を立て直して行きたいと思います.

それが可能となるのは,包容的な神の愛によってのみ (Solo Amore Dei Inclusivo) です.

ルカ小笠原晋也

2019年4月23日火曜日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加しましょう


わたしたち LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 LGBTCJ は,今年も Tokyo Rainbow Pride に参加します.

4月28日,29日の両日,出展します.ブース番号は 186 です(けやき並木道の NHK ホール入口に近いところです).ブースでは,虹色十字架,虹色ロザリオ,パンフレット『LGBTQ とカトリック教義』などの販売,配布をおこないます.



28日は,パレードにも参加します.事前登録の必要ない I Have Pride のフロートに参加する予定です.

わたしたちといっしょに TRP に参加しましょう!

LGBTCJ のブース (186) に是非,お立ち寄りください.

ブースを手伝ってくださる方も,歓迎です.部分的でかまいません.御協力くださる方は,lgbtcj@gmail.com へ御連絡くださるか,または,当日,直接わたしたちのブースへおいでください.

なお,全面的に come out しているわけではない方は,当日,大きめのサングラスや帽子などを着用し,服装も普段とは異なるものになさるよう,お勧めします.

2019年4月21日日曜日

主の御復活おめでとうございます

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata

なぜ主の復活のお祝いのメッセージに Maria Magdalena の肖像を添えるのか — しかも,復活した Jesus に近寄ろうとする彼女に対して発せられた彼の言葉 "Noli me tangere"(わたしに触れるな)の主題のもとに描かれた数々の名作のひとつではなく,神秘的な恍惚の状態にある彼女を描いた Caravaggio の作品を?

その理由は,Jesus は決して Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と禁止したりはしなかった,ということだけではありません.

話はちょっと横道にそれますが,説明しておきましょう.そうです,復活した Jesus は Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と冷たく禁止したりはしませんでした.

ヨハネ福音書 20 章 17 節で,何と言われているか?ギリシャ語の原文では,彼は彼女にこう言っています : μή μου ἅπτου.

文法的に説明すると,ἅπτου は動詞 ἅπτεσθαι[自身を ...へ固定する,つかむ,とらえる,しがみつく,触れる]の二人称単数の命令形です.μή は否定辞です.ですから,その文は確かに一種の否定命令 — つまり,禁止 — を表してはいます.しかし,それは単なる「触れるな」ではありません.

もし単純に「わたしに触れるな」という禁止を言うのであれば,古代ギリシャ語では,動詞を接続法アオリストに活用して,μή μου ἅψῃ と言うはずです.それに対して,Jesus が Maria Magdalena に発した言葉 — 直説法現在の否定命令 μή μου ἅπτου — が示唆しているのは,こんな光景です:復活した主を見て,彼女は,喜びのあまり,彼に抱きついた(あるいは,もし彼女は地面にひざまづくか,ひれ伏していると想像するなら,彼女は彼の下半身に抱きついたか,彼の足を手で握りしめた); そして,彼女がいつまでもそうしているので,Jesus は彼女に優しく言った :「わたしにしがみつき続けるな — いつまでもそうしていないで,いいかげんに放してくれよ」.

Vatican の web site に提示されている ラテン語聖書 では,当該箇所は,"noli me tangere" ではなく,"noli me tenere" と訳されています.つまり,「わたしをいつまでも[地上に]とどめておかないでくれ」.その方が,それに続く言葉 :「なぜなら,わたしはまだ御父のところへ昇っていないのだから」ともよりよくつながります.

最新の聖書協会共同訳では,いまだに「わたしに触れてはいけない」と訳されています.もはや,それは誤訳であると言わざるを得ません.

話をもとに戻すと,この記事の挿絵として "Noli me tangere" ではなく,恍惚の Maria Magdalena の肖像を選んだのは,単に Jesus は彼女に「わたしに触れるな」とは言わなかったからだけでなく,しかして,そもそも,死者たちのうちから復活した主は,40日間,幽霊のような地上的な「存在事象」として,彼女や弟子たちとともに「存在」したはずはないからです.

わたしは,むしろ,こう思います:福音書に物語られていること — 復活した Jesus は最初に女たちに(特に Maria Magdalena に)現れた — が真理を表しているとするなら,それは,このことである:つまり,十字架上で処刑された Jesus は,今,我々が Maria Magdalena と呼んでいるひとりの女性(または,女性たちの一団)において(「の『こころ』のなかで」とは言いません),死から永遠の命へ「復活」したのだ.そして,そのことは,同時に,彼女が Jesus によって永遠の命へ「復活」させられた,ということでもある.

まさに,Maria Magdalena における「復活」の成起を以て,キリスト教と呼ばれる信仰は誕生しました.それがいつのことなのか — Jesus の処刑(推定,紀元30年)から三日めのことなのか,何週間ないし何ヶ月か後のことなのか,あるいは何年も後のことなのか — は,定かではありません.勿論,最初のパウロ書簡(第一テサロニケ書簡)が書かれたと推定される紀元51年より前であることは確かですが.

Caravaggio が描いた恍惚における Maria Magdalena の肖像は,彼女における Jesus の「復活」の瞬間と,それと同時的な彼女自身の「復活」の瞬間 — すなわち,キリスト教の誕生の瞬間 — の図像化である,と言うことができます.

使徒 Paulus は,ユダヤ教聖典の解釈によってキリスト教神学を形成して行く作業のなかで,Jesus の「復活」がひとりの女性において成起したという事実を無視しました.しかし,口承の伝統においては Maria Magdalena は忘れ去られることはなく,彼女の名は福音書のなかにしっかりと書きとめられました.そして,彼女は,主の復活を使徒たちに告げ知らせた第一証言者として,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]の称号のもとに崇められています.彼女における「復活」の成起がなければ,キリスト教は誕生し得なかったのです.

もうお気づきのことと思いますが,「復活」は,「よみがえり」でも「死後の世界」のことでもありません.それは,わたしたちに,生物学的な意味における「死」の後に起こる何ごとかではありません.

もし仮にそう考えるなら,それは仏教の浄土信仰と本質的に何ら変わらないことになってしまいます.死後に天国ないし浄土に行くことが,今,生きていることよりもより重要なことになってしまいます.そして,それは,「我々は,今,生きており,今,実存している」ということの「かけがえのなさ」を,相対化し,むしろ,「死後の生」よりもより軽いもの,より非本質的なものと見なすことになってしまいます.そして,そのような思念は,キリスト教をも,仏教と同様に,単なる葬式のための儀式へ変質させてしまうことでしょう.また,さらには,自殺のみならず,「生きて存在していることは四苦八苦にほかならず,諸行無常であるのだから,人間たちをすべて,できるだけ早く涅槃に至らしむることこそが,彼れらを救済することになる」という邪悪な他殺の思想をさえ正当化することになるでしょう.

キリスト教は,そのような仏教と同じではあり得ません.なぜなら,「死から永遠の命への復活」は,死後に起きる何ごとかではなく,しかして,今,生きている我々において成起することであり,かつ,我々が今,生きているからこそ,我々において成起し得ることであるからです.

キリスト教の教義において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている事態は,単なる神話ではありません.そうではなく,人間が今,神の命(存在)を生きる,ということです.そして,それが可能なのは,神は,御自身の命(存在)を以て,人間を生かせて(存在させて)くださっているからです.

人間の生は,単なる生物学的な生に還元され得るものではありません.人間が生きている生は神御自身の生であり,人間の存在は神御自身の存在です.

先ほど,「主は Maria Magdalena の『こころ』のなかで復活した」と言うのは適当ではない,と言いました.その理由は,こうです:かかわっているのは,「こころ」ではなく,存在である;主は,Maria Magdalena の存在そのものにおいて復活したのであり,彼女のみならず,あらゆる人間の存在において復活する;そして,ひとりの人間の存在において主が復活するということは,同時に,その人間が復活するということである.

無からすべてを創造する神は,我々ひとりひとりを創造するとき,我々ひとりひとりの存在を神御自身の存在によって可能にしてくださいました.そのことに気がつき,そのことに感謝しましょう.そのとき,我々は,死から永遠の命への復活を自覚することができ,その喜びを生きることができるからです.

そして,その喜びは,原罪からの解放としての罪の赦しの喜びでもあります.

死から永遠の命への復活と,無からの創造と,罪の赦し — それら三つの教義が如何に密接に関連しあっているかが,示唆されます.

ところで,今年の聖週間は,本当に悲しい週でした — 我々が愛する Notre Dame de Paris の火災のゆえに.それは,まるで乙女マリアの火刑を目の当たりにするような苦痛でした.

今日,復活の主日,ある意味で,我々が感ずる主の復活の喜びは,復活した主と出会った Maria Magdalena が感じたであろう喜びと同じです — かけがえのないものの喪失を経験した後の喜びである限りにおいて.

もうひとつ,重大な喪失を,我々は最近,味わいました.カトリック聖職者による青少年および女性に対する性的虐待の構造的な蔓延による〈カトリック教会そのものへの信頼の〉喪失です.

一方は偶発的な喪失であり,他方は必然的な喪失です.しかし,それらふたつの喪失をほぼ同時に経験した我々は,そこから新たな創造が成起し得ることを予感します — 聖職者中心主義によらないカトリック教会と律法中心主義によらないカトリック信仰の可能性が,改めて我々に与えられたのです.

ある意味で聖職者中心主義を象徴する Notre Dame de Paris の建設は,12世紀に始まりました.今 thomisme と呼ばれている律法中心主義を象徴する聖トマス・アクィナスが生きたのは,13世紀でした.両者は,homosexuality と transgender を断罪し,排除するカトリック教会の象徴でもあります.

Maria Magdalena の経験がキリスト教信仰の出発点であったとすれば,聖職者中心主義も律法中心主義も,我々の信仰には異質なものであり,不要なものです.

今日,復活の主日,わたしたちは,改めて,キリスト教の原点である Maria Magdalena の経験を経験しなおしましょう.

主の御復活,おめでとうございます!

ルカ小笠原晋也

2019年4月18日木曜日

Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?



Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?


(USA のイェズス会の週刊誌 America のインターネット版に2019年04月16日付で発表された James Martin 神父 SJ の記事 — 動画つき — を翻訳して紹介します.)

昨日の痛ましい Notre Dame de Paris の火災は,世界を驚きと悲しみのうちにひとつにしたように思える.Jesus Christ の受難と死と復活を世界中のクリスチャンが記念する聖週間の始まりに起きたこの象徴的な出来事は,ほとんど耐え難いものだ.告白すると,わたしは,あのすばらしい古い教会が燃えるのを見ながら,泣いた.


中世の石のカテドラルから煙が吹き出し,木の屋根から炎が跳ね上がり,そして — たぶん,最も悲惨な瞬間 — 屋根を飾る金属製の尖塔が燃えかすのように焼け落ちたとき,わたしたちの多くは,Jesus の受難と死を思わずにはいられなかった.彼が十字架上で公開処刑される間,ちょうど昨日のように,群衆は,恐れおののきながら見つめていた — 自身を無力なものと感じ,悲しみに打ちのめされ,「いったいわたしに何ができるというのか」と自問しながら.

群衆のなかには,Jesus の母 — Our Lady, Notre Dame — がいた.聖母マリアは,まさに知っている — 愛する者が苦しみ,死んで行くのを見ながら,何もできずに,そのかたわらにたたずむということが,どういうことであるかを.

しかし,聖母マリアは,また,ある意味で,あの悲しみのときに神は彼女とともにいることも,知っている.

だが,わたしたちは,こう問うこともできるだろう:昨日,パリで,神はどこにいたのか?

その答えは:神は,いたるところにいた.ひざまづき,祈り,Ave Maria や Lourdes の聖歌を歌う群衆のなかに,神はいた.人々は,祈り,歌いながら,聖母マリアの助けを求めていた — 彼女の教会が燃えるのを目の当たりにしながら.そのような人々の姿は,深い信仰の表現だった.そして,神はそこにいた.

神は,消防士たちのなかにいた.フランスの霊気的な心を象徴する建物が燃えるなかへ,彼らは,自身の危険を顧みず,飛び込んで行った.それは,まさに,神の愛の喩えだ.神は,どれほどわたしたちを愛しているか? — 燃え上がる建物のなかに救助のために飛び込んで行く消防士ほどに.

そして,神は,消防隊付の司祭[Jean-Marc Fournier 神父]とともにいた.彼は,カテドラルの最も貴重な聖遺物 — イェスに被せられた「いばらの冠」と信ぜられているもの — を救い出すために,自身の生命を危険にさらした.その聖遺物は,Notre Dame de Paris の建物の物語が主の受難と死とに密接に結びついていることを,生き生きと想い起こさせてくれる.

昨夜遅く,火が消し止められた後,わたしたちは,劇的な光景を目の当たりにした:十字架である.それは,煙が立ちこめるカテドラルのなかで,祭壇の上に高々と輝いていた — クリスチャンの希望の力強い象徴として.


希望こそ,究極のメッセージだ.そして,そのことを最もよく知っているのは,Notre Dame[聖母マリア]にほかならない.彼女は知っている:苦しみが最後の言葉なのではない,と.

聖週間の物語は,単純に死と破壊の物語であるわけではない.それは,より重要なことに,希望と新たな命の物語だ.聖金曜日は,復活の主日なしには意味をなさない.聖母マリアは知っている:希望は絶望よりも強く,愛は憎しみよりも強く,命は死よりも強い,と.そして,彼女は知っている:神がともにいてくだされば,不可能なことは何も無い,と.クリスチャンとは,悲しみを知りつつも,希望のうちに生きる人々である.

この動画に映し出されるイメージを見つめながら,そして,来る年月のうちに再建されて行くだろう Notre Dame de Paris とともに,Notre Dame[聖母マリア]の祈りを請い願おう — 彼女は,苦しむ者とともにいるということが何を意味するかを知っており,かつ,新たな命の約束に希望を持つということが何を意味するかをも知っている人である.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019年4月8日月曜日

カトリック聖職者による性的虐待の児童被害者として名のり出た人に高見三明大司教様が直接謝罪

竹中勝美さんと高見三明長崎大司教様
  
高見三明大司教様と竹中勝美さんとが握手している写真を,毎日新聞で御覧ください.

カトリック聖職者による性的虐待の児童被害者として日本で唯一みづから名のり出た 竹中勝美 さんが実質的に主催した 会合 が,2019年04月07日,都内で行われました.竹中さん御自身に加えて,文藝春秋に記事を書いたジャーナリスト 広野真嗣 さんと,性的虐待の被害者の診療を多数行っている精神科医 白川美也子 さんが,発表を行いました.百人弱の参加者を集めました.カトリック信者も,たくさん来ていました.

驚くべきことに,そのなかには,高見三明長崎大司教様(日本カトリック司教協議会長)の姿がありました.彼は,竹中さんの招きに応えて,この会合に出席しました.

大司教様は,プログラムに予定されていた三人の発表の後に,即席で短いスピーチを行いました.彼は,御自身も参加した 2 月の Vatican sexual abuse summit での見聞について語り,社会中に蔓延する性的虐待の問題にカトリック教会が積極的に取り組んで行く決意を改めて述べるとともに,竹中勝美さんに対して直接,謝罪しました.

竹中勝美さんは,感きわまって,大司教のところに駆け寄り,ふたりは握手しました.

竹中勝美さんの肉声は,改めて,いかに性的虐待が被害者の生に深刻な傷を与えるかを,なまなましく証言してくれました.

日本のサレジオ会の誠意ある対応が待たれます.

******
以下,この件に関してわたしが以前にカトリック教会関係者に宛てたメールの文面を再録しておきます:

1) 2019年02月17日付メール:

文藝春秋2019年03月号の記事で,故 Thomas Manhard 神父 SDB (1914-1986) による性的虐待について,被害者,竹中勝美さん(当時9-10歳)による証言が取り上げられています.日本で被害者が名のりでた初のケースだと思います.是非,御一読ください.その記事と,関連記事は,以下のとおりです:

i) 文藝春秋2019年03月号の記事

ii) 2018年04月26日付の朝日新聞「ひと」欄における竹中勝美さんの紹介記事

iii) 竹中勝美さんが「エドワード」名義で公表している2001年06月19日付のサレジオ学園宛の書簡

iv) 同じく「エドワード」名義で公表している竹中勝美さんの「想い出日記」.

彼の証言の真実性については疑う余地はないと思います.

文藝春秋の記事のなかでもうひとつびっくりさせられたのは「A 司教」のことです.カトリック信者なら誰でも,これが谷大二司教様のことであるとすぐにわかります.この疑惑に関しても,日本カトリック司教協議会の迅速な対応が待たれます.

もうひとつ初めて知ったのは,1959年に起きたある殺人事件について,故 Louis-Charles Vermeersch 神父 SDB (1920-2017) がその容疑者とされていたことです.彼は,1959年に離日した後,殺人事件の容疑に関してはまったく取り調べを受けることはなかったようです.

Vermeersch 神父のことはさておき,竹中勝美さんに関しては,加害者は既に死去しているとはいえ,今は,事件が起きた教区の司教または大司教が被害者の声を直接聴く,というのが,世界的には当然の対応になっています.例えば :

Catholic Primate meeting abuse survivors prior to Rome gathering

Only a listening church can address the sex abuse crisis

USA では,十分な根拠を以て加害者と疑われる司祭の名前が,故人も含めて,次々に公表されています.

今週,21日から Vatican sex abuse summit が始まるのに合わせて,聖職者の homosexuality に関する社会学者の調査が出版されます.それに関しては,わたしのブログ記事をお読みください.

2) 2019年02月20日付メール

文藝春秋は,サレジオ学園における児童に対する性的虐待に関して,2019年02月19日付で続報を web に発表しました.そこには,記事を書いたジャーナリスト広野真嗣氏が東京サレジオ学園に2019年01月に送った質問状に対する東京サレジオ学園からの回答書(広野氏は02月15日にそれを受け取った)の内容が紹介されています.それによると,東京サレジオ学園は「事実を確認することはできなかった」と述べるにとどまっています.そして,最後に「司教協議会の指示に従います」と述べて,責任を司教協議会に丸投げするかのような態度を取っています.この件は,日本社会のなかでカトリックに対する印象をとても悪くする危険性をはらんでいます.

Thomas Manhard 神父 SDB は,わたしが Internet で確認することができた 資料 によると,1986年04月15日に享年71歳で死去しています.なお,彼はドイツ人ですので,彼の氏名のカタカナ表記は「トーマス・マンハルト」の方が適当です.記事中の写真(サレジオ学園の書簡)からは,生年は1914年であることが読み取れます.1955年から 6 年間,東京サレジオ学園の校長を務めていました.

被害者,竹中勝美さんが「エドワード」名義で公開している彼の 書簡 や 回想 にもとづいて精神医学的に判断するなら,彼が性的虐待を受けたことが真実であることには疑う余地はありません.サレジオ学園の「事実を確認することはできない」という釈明は,あまりにおそまつです.東京大司教区として,また,司教協議会として,この件に対して対応することが要請されていると思います.

谷大二司教様に関しても,彼の突然の埼玉教区司教辞任の理由について疑問をいまだに抱き続けているカトリック信者は少なくありません.疑問が疑惑としてわだかまることのないよう,この件に関する説明責任と透明性が日本カトリック司教協議会に求められていると思います.

******
ルカ小笠原晋也

2019年3月25日月曜日

教皇フランチェスコの天国と地獄に関する教え

ダンテの『地獄』の最終歌 (Canto XXXIV) のための Gustave Doré (1832-1883) による挿絵

以前にも紹介したことがありますが,教皇 Francesco は,2015年03月08日にローマ市内のある小教区を訪問した際,ガールスカウトの少女の質問 :「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言いました:

******
あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です.

では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています.

しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました :「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」.

神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから.

地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です.

そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです — 神との関係を全然欲しがらずに.

他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う :「主よ!...」.

その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く.

イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う :「主よ,わたしを憐れんでください!」.

すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43). 

なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです.

地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです :「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」— 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます.

わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

******
死後,わたしたちはどうなるのか?それは,死の穴に直面するわたしたちが,不安におののきながら,自問する問いです.歴史上,さまざまな想像力がさまざまに答えてきました.

しかし,実は,本質的に重要なのは,「死後どうなるか?」に関する空想的な答えではなく,しかして,死の穴に直面する不安から逃げない,という態度です.そして,死の穴に直面しつつ,今,どう生きるべきか,今,どう在るべきか,について問うことです.

教皇 Francesco は,こう答えています:もしあなたが「我々人間は自律的に自立しており,自身に起こることは,単なる偶然を除けば,すべて,自業自得,自己責任であって,神の愛による救済や赦しはあり得ないこと,無用なことだ」と思っているなら,あなたの世界は地獄です.あなたは死後,神罰によって地獄へ突き落とされるのではありません.神の愛の福音に対して耳を塞ぎ,神へ背を向けたままでいるあなたは,今,地獄を生きているのです.

なぜ今の日本社会が地獄のようであるのか,よくわかります.

神は律法をふりかざして処罰したりはしません.神は愛し,赦し,救ってくださいます.神に愛されたいと欲する者は,今,もうすでに,神のみもとにいます.神とともにいます.イェスとともに天国にいます.

以上が,教皇 Francesco の天国と地獄に関する教えです.

ルカ小笠原晋也

2019年3月10日日曜日

homosexuality に関する日本カトリック司教協議会の見解について

Deus caritas est[神は愛である]
a stained glass work by Christopher Whall (1849-1924)
in the Church of the Holy Cross, Sarratt, England

昨日,Twitter で,我々の友人,細川隆好さんが,日本カトリック司教協議会が2015年05月06日付で発表した文書のなかで homosexuality に言及していることを紹介してくれているのを,見かけました.わたしは,この文書に今まで全然気がついていなかったので,ここで取り上げておきたいと思います.教えてくださった細川隆好さんに感謝します.

皆さん憶えていらっしゃるように,2014年と2015年に家族を主題とするシノドス (Synodus Episcoporum) が行われ,それを受けて,2016年,教皇 Francesco は使徒的勧告 Amoris laetitia を発表しました.

2014年のシノドスの報告書は,2015年のシノドスを準備するための文書 Lineamenta として発表されました.そして,その際,報告書の内容に関連する 46 の問いが,さらにそこに付加されました.

以下に紹介する文章は,Lineamenta として発表された2014年のシノドスの報告書のうち homosexuality に関連する部分の邦訳,ならびに,付加された 46 の問いのうち homosexuality に関連する部分の邦訳,および,それら 46 の問いに対する日本カトリック司教協議会の回答のうち,homosexuality に関連する部分です.

******
[2014年のシノドスの報告書から]

homosexual な性的指向を有する人々に対する司牧的注意

55. homosexual な性的指向を有する人々をメンバーとして擁する家族がある.そのことに関して,我々は,そのような状況に対して為すべき司牧的注意について,問いあった — 教会の教えに準拠しつつ :「homosexual なつながりと,結婚および家族に関する神の計画とを,同列に置くこと,あるいは,両者の間に類似性を認めること — たとえ遠く離れた類似性であれ — には,如何なる根拠も無い」.とはいえ,homosexual な性向を有する人々は,敬意と心遣いを持って迎え入れられねばならない.「彼れらに対しては,不当な差別の刻印は,如何なるものも,避けるべきである」(教理省,「homosexual な者どうしのつながりを合法的なものと認める計画に関する考察」(Considerazioni circa i progetti di riconoscimento legale delle unioni tra persone omosessuali, 4) (2003).

56. この領域において,教会の司牧者たちが圧力を受けることは,まったく容認しがたい.また,国際機関が,貧しい国々に対する財政援助を行うに際し,同性の者どうしの「結婚」の法制化の導入をその条件とすることも,まったく容認しがたい.

[55 および 56 に関する問い]

homosexual な性向を有する人々に対する司牧的注意は,今日,新たな課題を措定している — 特に,社会的水準において彼れらの権利[の問題]が提起されているしかたによって.

40. homosexual な性向を有する者をメンバーとして擁する家族に対して,キリスト教共同体は,如何に司牧的注意を向けるか?あらゆる不当な差別を回避しつつ,如何なるしかたで,homosexual であるという状況にある人々にかかわることができるか — 福音の光のもとで?彼れらの状況に対する神の意志の要請を,如何に彼れらに提示するか?

******
日本カトリック司教協議会の〈問い 40 への〉答え

1.

i. 当事者が一番苦しんでいる。医学的治療に結びつけ、まず,人間として生きていくことができるように支援が必要。長い検査と治療の結果、性別が確定され、それによって生きる道が選択されていくのではないか。
ii. 教会は、同性婚の結婚を認めることができなくても、同性愛は本人の選択によるのではないし、神が拒絶しているとは考えられない。せめて,同性愛の傾向を持つ男女が作る家庭も神に祝福された家庭だというメッセージを発信することが必要だと思う。最近、東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例を可決した(賛成派が過半数をやや上回っている)。
iii. 彼らがさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない。むしろ、社会的な少数者として受け入れる必要がある。
iv. 結婚の目的についての教会の教えを、絶えず信者たちに教える必要がある。

2. 
同性愛者が家庭の中にいると分かれば、イエス・キリストのように愛と憐みの心をもって,「罪人と罪」を区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡の時に真実を告げられると、助言する他に方法はない。

3.
i. 裁くことなく、同性愛者とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない。
ii. 教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよい方法であろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について,専門家に話をしてもらう。
iii.「結婚の本質は夫婦愛から生まれるいのちの継承にある」という、神によって示された方向性は決して変えるべきではないが、その在り方については,母なる教会の心をもって対応されるべき。宗教学・医学・科学的見地に立ち、可能な限りの解決策を試み、それでも根本的解決に繋がり得ない場合は、その人の目から涙をすべて拭い去る救いへの努力が求められる。本人たちのせいではなく、神さまから頂いた傾向だと思われるので、秘跡に与る権利があることを本人にはもちろん,家族にも話すことは大事。

******
若干のコメントを述べておきたいと思います.

まず,すぐに気づくことができるように,どうやら,日本カトリック司教協議会は,sexual orientation[性的指向]と gender identity[性同一性]とを区別し得ていないようです.というのも,Lineamenta においては homosexuality — つまり性的指向にかかわること — についてしか問われていないのに,日本カトリック司教協議会の回答においては「性別の確定」 つまり性同一性にかかわること  への言及が為されているからです.まずは日本のカトリック教会のなかで LGBTQ+ および SOGI (sexual orientation and gender identity) に関する初歩的な学習が必要であることが,示唆されます.

「当事者が苦しんでいる」 それは確かです.しかし,その苦しみを惹き起こしているのは何か?それは,LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別であり,homosexuality を断罪するカトリック教会の教義であり,そして,性別男女二元論 (gender binarism) に固執する一般的な固定観念です.今,Vatican では,教皇 Francesco も含めて,gender という単語を聞くと "gender ideology" が自動的に連想されるようですが,むしろ,性別男女二元論こそがひとつの形而上学的なイデオロギーです.教皇 Francesco が強調する「男と女の差異」は,性的なものではなく,Heidegger が「存在論的差異」と呼んだものに還元されます(詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』第 2 部「教皇 Francesco の生と性の神学」を参照).

「医学的治療に結びつけ」 もはや,homosexuality も transgenderism も,そのものとしては,精神疾患とは見なされていません.

「人間として生きてゆくこと」 LGBTQ+ の人々は人間です.各人が,今,あるがままに,人間として生きています.彼れらが「人間的に」生きてゆくことができるようになるためには,先ほども指摘したように,1) LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別 ; 2) homosexuality を断罪するカトリック教会の教義 ; 3) 性別男女二元論に固執する一般的な固定観念,それら三つのものを取り除く必要があります.

「homosexual であることは本人の選択の問題ではなく,LGBTQ+ の人々を神が拒絶しているとは考えられない」— そう断言していることは,評価できます.

「homosexual の人々がつくる家族も神に祝福されている,というメッセージを発信することが必要だ」— 大賛成!是非,早急に実行しましょう.また,地方自治体による同性パートナーシップの認定に言及していることも,評価できます.

「LGBTQ+ の人々がさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない.むしろ,社会的な少数者として,彼れらを受け入れる必要がある」— そのとおりです.ただし,LGBTQ+ に対する偏見と差別にカトリック教会が加担していることを,自覚し,反省する必要があります.特に,homosexuality に対する断罪の教義と,性別男女二元論への固執が,問題です.

「結婚の目的に関する教会の教え」— 本質的に言って,それは何でしょうか?後段ではこう述べられています :「結婚の本質は,夫婦愛から生まれる命の継承にある」.そこで言う「命の継承」とは,如何なることでしょうか?まず,形而上学的な lex naturalis[自然法]の先入観を捨てましょう.そして,性別男女二元論も,生物学的な生殖を前提とする固定観念も,捨てましょう.結婚は,愛し合うカップルの愛のきづなに存します.「結婚を創造するのは,神自身である」(カテキズム 1603)— なぜなら,神は愛であるからです.ですから,教会は,異性カップルであれ,同性カップルであれ.愛し合うカップルの愛のきづなを祝福し,それを秘跡と認めるべきです.そこに差別があってはなりません.また,「命の継承」は生物学的な生殖によるものに限られる必要はなく,親子関係は adoption[養子縁組]によるものであってもよいはずです.同性カップルは,養子を迎え,その子を新たな命としてはぐくみ,信仰を伝えてゆくことができます.その側面を,教会は無視してはなりません.

「homosexual である者が家族のなかにいるとわかれば,イエスキリストのように愛と憐みの心をもって,罪人と罪とを区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡のときに真実を告げられたなら,助言するほかに方法はない」— この言説は,もはや容認しがたいものです.カトリック教会は,homosexuality を断罪することをただちにやめるべきです.homosexuality は,神のみわざです.神は,homosexual である人々を,そうであるがままに創造しました.homosexuality を断罪することは,homosexual の人々を創造した神を断罪することにほかなりません.そして,homosexual である人々と,彼れらの愛の行為とを区別することも,許されません.ふたりの人間が愛しあうことも,神のみわざです — 異性どうしであれ,同性どうしであれ.また,今や,カトリック教会による homosexuality に対する断罪がカトリック聖職者の pedophilia の原因のひとつであることから目をそむけ続けることはできません.

「裁くことなく、homosexual の人々とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない」— 賛成です.そして,聖霊は我々をどう導いているでしょうか? homosexuality を断罪することをやめなさい,と我々に告げていないでしょうか?神の愛の福音を聴くよう,耳を開くときです.

「教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよいだろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について専門家に話をしてもらう」— まず,大司教様,司教様,神父様たちが,LGBTQ+ と SOGI に関する初歩的なことがらを勉強してください.勿論,一般信徒へ教えることも有意義です : LGBTQ+ の人々を,神の全包容的な愛にしたがって,如何なる差別もなしに,教会へ迎え入れましょう ; homosexuality を断罪するカトリック教会の教義が,如何に形而上学に毒されており,神の愛に反しており,しかも,それは司祭の pedophilia 問題の原因にすらなっている,ということを,カトリック信者皆に知ってもらいましょう.

homosexual であることは「本人たちの選択によるのなく、神さまからいただいたものだと思われるので,[homosexual の人々も]秘跡に与る権利があることを,本人にはもちろん,家族にも話すことはだいじ」— そのとおりです.LGBTQ+ であることは,神から与えられたことです.LGBTQ+ の人々は,あらゆる人間と同じく,神の被造物です.そして,そのようなものとして,あるがままに,存在尊厳を与えられています.結婚に関することも含めて,如何なる差別もカトリック教会のなかでは容認され得ません.

ルカ小笠原晋也