2019年5月3日金曜日

Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加して


予定どおり 4月28-29日に行われた Tokyo Rainbow Pride 2019 に参加してきました.LGBTCJ は,両日ともブースを出展し,虹色十字架,虹色ロザリオ,冊子『LGBTQ と カトリック教義』などを販売しました.28日は,パレードにも参加しました.29日は,Juan Masiá 神父様 SJ が来てくださいました.

参加してくださった方々,御協力くださった方々,ブースを訪れてくださった方々,TRP の主催者,協賛者,皆さんに,改めて感謝します.

特に,Juan Masiá 神父様に感謝します.神父様は,ひと組の同性カップルに,彼女たちの求めに応じて,祝福を授けてくださいました.多分,日本では,カトリック司祭が同性カップルを公然と祝福してくださった初のケースだろうと思います.Muchas Gracias, Padre Juan Masiá !



28日のパレードの際に撮った動画としては,特にこれを選びました:



動画を加工してくれた Alicia に感謝します.

そのほかの写真は,LGBTCJ の Facebook ページのアルバムに収められています.よろしければ御覧ください.

今年の Tokyo Rainbow Pride は,パレード参加者の数が一万人を超え,二日間の来場者数は約20万人だったそうです. これだけ大規模になったこの行事が,日本においても LGBTQ+ の存在尊厳と人権が差別なく尊重されるようになる社会的な効果を生むよう,願っています.

今年は,LGBTCJ のような非営利団体のブース出展料金は五万円に設定され,昨年までよりも出展しやすくなりました.ブースの設営場所は,ステージからは若干離れたケヤキ並木道沿いでしたが,それでも,前を通り過ぎる人の数も,ブースに立ち寄ってくれる人の数も,とても多かったと思います.

キリスト教に多少とも関心のある人々は,過去においても現在においてもキリスト教の教義が homosexuality を断罪していることを知っており,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体が出展していることに驚きます.『LGBTQ と カトリック教義』は,まさにそのような人々のために書きました.実際,紙媒体に印刷して,製本したものを,LGBTCJ のブースで購入してくださった人々も,少なくありませんでした.

カトリック教会も,『カトリック教会のカテキズム』にこう書かれてあることを,もっと積極的に宣べ伝えるべきです:「彼れら[ homosexual の人々]は,敬意と共感と気遣いとを以て,[教会共同体に]受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」.この一節は,カトリック信者の間でもほとんど知られていないと思います.

カトリック教義は,一方で homosexuality を断罪しておきながら,他方で homosexual の人々を受容するよう言っています.それは,明瞭な矛盾です.それは,「homosexual な性行為は断罪されるべきであるが,そのような性行為を控える homosexual の人々なら受け入れてもよい」というような方便によってごまかされ得るものではありません.

その矛盾は,何に由来しているのか?それは,キリスト教の教義を合理的に基礎づけるために Thomas Aquinas (1225-1274) が導入した形而上学的な「自然法」(lex naturalis) と,キリスト教の本来的な基礎であり,よりどころである「神の愛」との矛盾に由来しています.

その矛盾のうえに建てられたカトリック教会は,今,とても動揺しています.教皇 Francesco は,カトリック教会を純粋に神の愛のうえに立て直そうとしています.しかし,自然法に執着する保守的な論者たちは,彼をあからさまに「異端」呼ばわりしています.

周知のように,菊地功東京大司教様の司牧標語は,「多様性における一致」(varietate unitas) です.diversitate unitas と言い換えてもよいでしょう.すばらしい標語だと思います.

「多様性」とは「複数の人間の間にはさまざまな差異や相違がある」ということですが,では,そこに「一致」をもたらすことは如何にして可能なのか?議会制民主主義において「多数決」の名のもとにしばしば行われるように,多数者が自身の律法を少数者に押しつけ,それによって少数者を抑圧し,排除すればよいのでしょうか?カトリック教会に関して言うなら,自然法という「絶対的」なものと思われる律法をあらゆる信者に押しつけ,それにそぐわない少数者を断罪し,排除すればよいのでしょうか?

当然ながら,答えは否です.そのようにしてもたらされる「一致」は,ただの全体主義にすぎません.

「多様性における一致」が本当に実現されるなら,それはこういう事態です:さまざまな差異や相違を有する複数の人々が,相互に異なるがままに,互いに尊重しあいつつ,相互に対立したり,無関心であったり,バラバラになったりしないようになる.

それは,如何にして可能なのか?まさに,神の愛によってです.神の愛こそが,相互に異なるわたしたちに,わたしたちが相互に異なるがままに,一致をもたらしてくれます — 神の愛が,わたしたちひとりひとりに宿り,隣人愛として作用することによって.

愛は,聖霊の賜です.神は愛であり,神は,あらかじめ,わたしたちひとりひとりを愛してくださっています.それに気がつき,それに感謝するとき,わたしたちは,主 Jesus Christ がわたしたちを愛してくださるように,わたしたちも隣人を愛することができるようになります.

神の愛によって隣人を愛することは,死から永遠の命への復活を今,生きることであり,原罪からの解放としての罪の赦しを今,生きることです.(死から永遠の命への復活は「死後の生」のことではありません.)

カトリック教会がまことに神の愛に立脚することができるよう,主 Jesus Christ および主の使徒の頭の後継者である教皇 Francesco とともに,わたしたちも神の愛を生きましょう.

カトリック教会は,LGBTQ+ の人々をただ単に「敬意と共感と気遣いとを以て受け容れる」だけでは不十分です.むしろ,わたしたちは,多様性における一致のもとに,LGBTQ+ の人々とともに,カトリック教会を立て直して行きたいと思います.

それが可能となるのは,包容的な神の愛によってのみ (Solo Amore Dei Inclusivo) です.

ルカ小笠原晋也