2019年7月12日金曜日

James Martin 神父様 SJ の説教,World Pride NYC 2019 前晩のミサ,2019年06月29日


2019年06月30日に World Pride NYC 2019 のパレードが行われる前日,6月29日の晩,LGBTQ Catholic community のために,Church of St Francis of Assisi において,James Martin 神父様 SJ の司式によるミサが行われました.その説教の録画とテクストが公開されています.


説教の邦訳を以下に掲載します.

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年間第13主日
第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62




[Jesus Christ の]弟子である — それは,何を意味するでしょうか ? Christian である — それは,何を意味するでしょうか?自由である — それは,何を意味するでしょうか?カトリック信者として,LGBTQ カトリック信者として,あるいは,LGBTQ カトリック信者の家族,友人,同盟者として,[Jesus Christ の]弟子であり,Christian であり,自由であることは,何を意味するでしょうか?

今日の聖書朗読は,一見すると,わたしたちにはたいして関係が無い,と思われるかもしれません.つまるところ,列王記が書かれたのは紀元前550年ころ — ユダヤの民がバビロンで捕虜となっていた時代です.聖パウロの Galatia の信者たちへの手紙が書かれたのは,紀元55年ころです.ルカ福音書 — 今日,朗読されたもののうちでは最も新しいもの — が書かれたのは,紀元85年ころです.そのような昔のテクストが言っていることは,今のカトリック信者たちにとっては,たいした意味はないだろう,いわんや,LGBTQ の人々にとっては,なおさらたいした意味はないだろう,と思われるかもしれません.

いえ,とんでもない.とても意味があります.聖書は,生きている〈神の〉ことばです.朗読された箇所がどれほど昔に書かれたものであっても,わたしたちがそれらを読み,聞くとき,わたしたちの耳が神のことばに開かれるなら,神の声は常に明かされます.

福音朗読の箇所から始めましょう.Jesus は,牧者としての働きを求めてくる人々に,正面から,あい対します.

Jesus は,Jerusalem へ向かう途中です.Jerusalem には,彼の運命が彼を待ち受けています — 受難と,十字架上の死と,そして,復活です.Jerusalem に到着する前でさえ,彼は,敵意を持つ人々に直面します.そして,彼はそのことを知っています.彼がサマリアをとおるとき,人々は彼を拒絶します :「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」とルカは言っています.なぜか?宗教的な理由によって:サマリア人は,「よきイスラエル人は,いかなるものか?」について,とても異なる考えを持っており,Jerusalem の神殿を神がいます座とは認めてさえいません.サマリアの人々の拒絶に対して,Jesus の弟子たちは,彼れらを処罰したい,と思います.しかし,Jesus は「ダメだ」と言います.Jesus は,彼れらを罰しようとはしませんが,しかし,拒絶のせいで意気消沈したりもしません.

ついで,Jesus は,「弟子にしてください」という求めへ注意を向けます.彼は,とても無愛想に対応します.彼は,彼の弟子となることの代価をよくわかっており,弟子になりたいと言ってくる者たちにも,その代価を覚悟してほしい,と思っています.ある者が「あなたがおいでになるところなら,どこへでも従ってまいります」と言う.「本当かい?」と Jesus は言う — ルカはそうは書いていませんが —「もしわたしについてくるなら,あなたは,ねぐらすら持てないことになる」.Jesus の弟子のすべてが旅の途上の Jesus につきしたがっているわけではありません — Martha や Maria のように,家にとどまっている者もいます — が,弟子の多くは,実際,Jesus と同じく,旅回りを続けています.弟子になるということには,旅回りの生活を続けるということも含まれているのだぞ,と Jesus は言っています.

ほかの弟子たちのなかには,ふたり,家族に対する責任にもとづく言いわけをする者がいます.ひとりは,「父を葬りに行かせてください」と言い,もうひとりは,「家族にいとまごいをするために行かせてください」と言います.しかし,Jesus は,そのような言いわけを受けつけません.しかし,彼は,本当に,死者が死者を葬るだろうと思っているのでしょうか?そうではないでしょう.彼は,話しのポイントをわからせるために,誇張法を使っているだけです.

もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたはタフでなければならない.もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたは後ろを振り返ることはできない.

Jesus は,旧約聖書の預言者たちよりも徹底的です.第一朗読の列王記(上)では,Elijah は,Elisha を預言者とするために彼に油を注ぐよう神に命ぜられ,自分の外套を Elisha にかぶせます.Elisha は,しかし,「父と母に別れの接吻をさせてください」と言い,それをすませてから,Elijah につきしたがいます.

Jesus は,もっと徹底的です.彼は「ダメだ」と言います.家族を言いわけにするな.わたしにつきしたがうことより優先されるものは何も無い — 家族に対する義務でさえも.

Jesus は,福音書のほかの箇所で,そのことを明示しています.彼の家族が,ナザレトからガリラヤ湖へやってきて,彼と会おうとします.このエピソードのことを,わたしたちはあまり話題にしません — その話にショックを受ける Christian が少なくないからです.しかし,マルコ福音書は語っています — Jesus が牧者として公に働き始めたとき,彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思う.そこで,親戚を含む〈彼の〉拡大家族は,ナザレトから,Jesus が住んでいるガリラヤ湖畔のカファルナウムにまでやってきて,彼を拘束しようとする.しかし,Jesus は,「あなたの家族が外で待っています」と告げられると,こう言う:「誰がわたしの家族か?それは,神の意志を行う者たちだ」.神とのつながりが,家族とのつながりよりも,より重要なのです.

最後に,話しの要点を理解させるために,Jesus は,大多数が農民である社会の人々がよくわかる比喩を用います:いったん鋤に手をかけたなら,後ろを振り返るな.なぜなら — 牛たちから目をそらすと,どうなるか?牛たちは,へんな方向へ進んでしまう.注意をそらすな.

さて,今日の聖書朗読箇所は,いずれも,昔に書かれたものではありますが,今日,わたしたち皆にとって — 特に,LGBTQ カトリック信者にとって —,とても有意義です.三つのことを示唆しておきましょう.

1) タフであれ [ be tough ]. この数年間,LGBTQ カトリック信者にとって,多くのポジティヴな歩みが為されました.ふたつの大きな潮流があります.最初のものは,ふたつの単語に要約されます : Pope Francis [ Papa Francesco ]. 五つの単語から成る彼の最も有名な文は,あいかわらず,これです : Who am I to judge ?[わたしは,断罪する権限を有する誰であろうか?]それは,最初は,gay である司祭に関する質問に対する答えでしたが,ついで,LGBTQ の人々すべてに関する文へ拡大されました.Papa Francesco は,gay という単語を使った史上初の教皇です.彼には,LGBTQ である友人たちがいます.そして,彼は,LGBTQ の人々をサポートする枢機卿や大司教や司教を,たくさん任命しています.もうひとつの潮流は,このことです:自身が LGBTQ であることを come out し,そのことについて open であるカトリック信者がふえるにつれて,彼れら自身と,彼れらの家族とが,彼れらの希望と願望を小教区のなかに持ち込むようになり,教会の文化が少しずつ変わってきています.

しかし,LGBTQ カトリック信者であることが辛いときもあります.カトリックの学校が〈同性婚をした〉職員を解雇する事例が,今だに起きています — straight である職員は,さまざまな教会の教えに従っていない場合でも,仕事を続けることに何ら問題が無いにもかかわらず.また,教会の指導者たちがメディアに発表する文書や声明や引用によって,このことが明らかになることもあります:彼らが LGBTQ の人々やその家族の経験に耳を傾けたことがあるという証拠は,いささかも無い,ということ.さらに,勿論,地方のレベルでは,homophobic な司牧者や教会職員や小教区信者たちがいるところが,いまだにあります.

であればこそ,Jesus のようでありましょう:つまり,タフでありましょう.そして,なによりも,あなたは教会のなかで正当な居場所を有していることを主張しましょう.御覧なさい:あなたが,自身,LGBTQ であり — あるいは,LGBTQ である人の家族であり —,かつ,洗礼を受けたカトリック信者であるならば,あなたは,教皇や司教や司牧者やわたしと同様に,教会の一員です.あなたが受けた洗礼を根拠にして,教会のなかであなたの居場所を主張しましょう.

しかし,カン違いしないでおきましょう.Jesus は,わたしたちにこう告げています:ときには辛いこともある.ときには,あなたの家族があなたを理解しないこともある — まさに Jesus の家族が Jesus を理解しなかったように.ときには,あなたはほかの人々に受け入れられていないと感ずることもある — まさに Jesus がサマリアでそうだったように.ときには,ホームレスになったように感ずることもある — まさに Jesus が野宿しなければならなかったときに感じたように.ときには,友人たちと意見が一致しないと感ずることもある — まさに Jesus が「しかえしはわたしのやり方ではない」と弟子たちに告げたときに感じたように.しかし,そのようなことはすべて,旅につきもののことです.Jesus とともにいれば,ほかの人々に理解されなかったり,受け入れられなかったり,等々のことは起こり得ます.

そのようなことすべてを通じて,Jesus は,「タフでありなさい」とわたしたちを招いています.教会のなかで居場所を主張しなさい.あなたが授かった洗礼のなかに根拠を持ちなさい.あなたは全的にカトリックである,と自覚しなさい.

カトリック教会は,歓迎し,肯定し,包容するだけでは十分ではない,という声を,わたしは最近,聞きました.わたしは賛成します.それらは,最小限のことです.それだけでなく,LGBTQ の人々は,「わたしたちは教会のなかの司牧活動すべてに参与することができるはずだ」と完全に思えるべきです.単に歓迎され,肯定され,包容されるだけでなく,みづからリーダーシップを取ることができる.しかし,そうし得るためには,あなたたちは,鋤をしっかり握り続けねばなりません.そして,タフであらねばなりません.

2) 自由であれ.今日の福音朗読箇所からのふたつめの教えは,Jesus の至高なる自由です.福音がサマリアについて何と言っているかを,もう一度見てみましょう:「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」.しかし,Jesus は,サマリアに拒絶されても,気にしません.確かに,Jesus は,サマリアの人々が彼のことばを聴くことを欲していたでしょう.そうだったことを,わたしたちは知っています — ヨハネ福音書のなかで,Jesus は,サマリアの女と長い会話をかわしているからです.あの有名な「井戸端の女」の話です.彼女は,Jesus との出会いを,サマリアの人々と分かち合います.しかし,サマリアの人々が歓迎しようとしないなら,それで結構.Jesus は自由です.彼は,歩み続けます.

Jesus は,愛されたい,好かれたい,認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,サマリアの人々から愛されたい,という欲求からは,自由です.彼は,弟子たちから好かれたい,という欲求からは,自由です — ヤコブとヨハネを戒めたときのように.彼は,家族 — 彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思っています — から認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,このうえなく自由です.では,何のために自由なのか?— 御父の意志に忠実であるために.

LGBTQ カトリック信者たちの多くが,「わたしは歓迎されていない」と感ずる — Jesus がそう感じたように;排除され,拒絶され,ときには迫害されていると感ずる — Jesus が排除され,拒絶され,迫害されたように.それは,苦痛なことであり,腹立たしいことです.そう感じても,当然です.それは,人間的なことであり,自然なことです.そして,ときには,そのような感情が,あなたを行動へ — 迫害されている人々のために行動することへ — 駆り立てることもあるでしょう.しかし,究極的には,Jesus は,わたしたちに,こう求めています:愛され,好かれ,認められたいという欲求からは,自由でありなさい.そして,本来的なあなた自身に信頼を持ちなさい.

もうひとつ指摘しておくと,Jesus は,罰したいという欲求からも自由です.ヤコブとヨハネは,Jesus を拒んだサマリアの人々を滅ぼすために「天から火を降らせる」ことを欲しました.しかし,そのような彼らを,Jesus は戒めます.それは,彼のやり方ではない.彼は,しかえししたいという欲求からは自由です.ですから,Jesus のようでありましょう.自由でありましょう.

3) 最後に,希望を生きろ.Jesus Christ の弟子である人生は,単なる苦行ではありません.単にタフなだけではありません.単なる苦労ではありません.今日の第二朗読で,聖パウロはこう言っています:「キリストは,わたしたちを,自由のために自由にしてくださった」(τῇ ἐλευθερίᾳ ἡμᾶς Χριστὸς ἠλευθέρωσεν). すばらしい言葉ではありませんか ?Christian の生は,単なる辛い重荷や軛(くびき)ではありません — 聖パウロが用いている「軛」という語は,Jesus の「鋤」の比喩と呼応しています.Christian の生は,奴隷の軛につながれて生きることではなく,自由を生きることへの招きです.ちょうど Elijah が Elisha に外套を被せたように,わたしたちは皆,LGBTQ であろうと straight であろうと,Jesus の招きを受けたなら,神学者 Barbara Reid の表現で言えば,「Jesus の息吹 [ spirit ] という〈守ってくれる〉コート」に包まれています.わたしたちは,自由を生きています.喜びを生きています.そして,希望を生きています.

LGBTQ カトリック信者やその家族は,教会の現状を見て,こう言いたくなる誘惑にかられるかもしれません:「教会は,決して変わらないだろう」,「わたしは歓迎されていない」,「ここには,わたしの居場所は無い」.しかし,Jesus がわたしたちに住んでほしいと思っている場所は,そこだけではありません.将来は,現在よりも,もっと充実しているでしょう.そのことを,Jesus は知っています.わたしたちは,鋤をしっかり握り続けましょう — 単に道からそれてしまわないためだけでなく,地平線から目をそらさないために.

ときには,LGBTQ カトリック信者が,こう言うことがあります:わたしは,教会とも,信仰とも,神とも,縁を切った.そう言う人々は,教会のなかに Christ を探し求めるときに,しばしば,現在をしか見ていないのです.しかし,Jesus が Jerusalem で経験することは,受難と死だけではありません.最も重要なのは,受難と死ではありません.最も重要なのは,復活です.復活の善き知らせは,これです:希望は絶望より強い;苦しみは最後の言葉ではない;愛は,つねに,憎しみに対して勝利する.愛は,つねに勝ちます.ですから,希望を生きましょう.

今日,朗読された聖書のことばは,とても古く,とても異質で,とても遠くにあるもののように見えるかもしれません.しかし,実は,今のわたしたちのためにあつらえられてあることばです.神と出会うよう呼ばれたわたしたち皆のために書かれてあることばです.そこにおいて,わたしたちは,神がわたしたちにこう言うのを聴きます:タフであれ,自由であれ,希望を生きろ.カトリック信者であることに誇りを持て.そして,LGBTQ であるわが同胞たちよ,LGBTQ カトリック信者であれ — あなたたちは,そうであるよう,Jesus Christ 御自身によって,呼ばれているのです.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)