2019年12月25日水曜日

主の御降誕 おめでとうございます : LGBTQ みんなのミサ 世話役 ペドロ宮野亨

en la Catedral metropolitana de Buenos Aires


クリスマスの喜びに感謝!

すべての人が神の最高傑作だ と 私たちの「LGBTQ+ みんなのミサ」で,毎回感じます.ともに祈り,心から感謝します.神を愛する心も 全て神が私にくださっているから,私は神を愛し,友を愛せます.この事実をみなさんが教えてくださいます.心から感謝します.

私にとって大事な事実のひとつを,今日は書きます.それは,罪の三段階(① < ② < ③)の話です.

①「盗む」などの行いの罪;
②「イエスなどいない」と勘違いする罪;
③「わたしには神に愛される資格など無い」と思う罪.

一番重い罪は,「わたしには神に愛してもらえる資格など無い」と思いこむ罪です.「根源的な自己否定の罪」と言います.根源的自己否定の罪は,殺人の罪よりも重い,と考える神父もいます.「行いによる罪」も「神を否認する罪」も犯していなくても,「根源的な自己否定の罪」を犯していることに気づかなければ,重い罪を犯したままだ,ということになります.

わたしたちは,「行いによる罪」や「神を否認する罪」を犯さないようにすることに,日々,気を取られてしまいます.「わたしの行いが完璧ではないから,『カイシン』(後述参照)が難しいから,わたしは神に愛してもらえなくなっている」というような 心の固まりを,度々聞きます.

過去の私の場合も,「行いによる罪」や「神を否認する罪」に関しては改善できても,「根源的な自己否定の罪」を犯すことについては変われないままでした.つまり,「謙遜になれば 愛してもらえる」と思ってしまい,「愛されているから 謙遜になれる」という事実を 素直に生きていませんでした.「根源的な自己否定の罪」を反省できないのは,サタンの思う壺ですね.

その後,私は変わりました.「根源的な自己否定の罪」を振り返る習慣が身につき,それによって,「行いによる罪」や「神を否認する罪」に関しても変わって行くことができる というのが事実だ,と実感し始めました.つまり,毎日,神に愛されていると実感できれば,「根源的な自己否定の罪」から脱することができるので,「行いの罪」や「神を否認する罪」と向き合うことができるようになります.

皆さんは,「カイシン」という語を,何とおりに書くことができますか ? 改心」と「回心」と「悔心」と「開心」の四とおりです.

教会では,「改心」と「回心」と「悔心」の話ばかりです.でも,マザー テレサ は言います :「愛されるために 自分と違ったものになる必要は,ないのですよ。ありのままで愛されるためには、ただ,神に向かって心を開くだけでいいのです」.

私にとっては「開心」の祈りが日々の習慣です.

自分の真実を神に開示するのが怖くて,なかなかできず,癒やされもせず,苦しみを抱えて,自分の力で解決しようと四苦八苦して,結局,「行いによる罪」と「神を否認する罪」のことしか見えなくなってしまいます.「根源的な自己否定の罪」見えなくさせてしまう サタンの思う壺です.

実は,神は,私が開示しなくても,私のことを すべて御存じです.ですから,「もう御存じのことですが,実は,私はこんなふうに苦しんでいます」と,ちょっとだけでも言えればいいんですね.

「ありのままで神に愛されている」という実感 — 皆さんは どうですか?私は体感します.どんなふうに体感するか?祈った後に「...だと思う」というのは,考えているだけで,祈っていない,という知恵もいただきました.人の心のなかに自由に出入りできるのは神だけですから,「思う」のではなく,「感じる」のが,神に愛されている実感です.

神に触れられたと想像したときに,体が冷えたり固まったりはしないですね.神に愛されて,触れられて,心の頑なな傾きが解きほぐされて,自由で,リラックスして,何より,穏やかで,暖かい感覚になります.

「根源的な自己否定の罪」は,神の愛を実感するだけで,消えていきます.

毎日 15 分間だけ,祈ります.1 日は 1440 分ですから,15分は 1 日の 約 1 % です.1 日の 1 % だけでも,毎日,神に祈りを捧げます.私にとっては,何よりも大事な時間です.

さらに,恵みもあります.悩み苦しみがあるとき,どうしたらよいかわからないとき,教会や友や神父様に相談しても,十全な答えも得られませんし,話す機会もありません.そんなとき,自分で選んだ方向性を神に受け取ってもらって,その後,心が暖かくなったら,十全な答えに近づきます.幾度も繰り返して,方向性や選びが定まっていきます.そういうプロセスを経た選びは,神の望みだと感じます.神に話すことは,いつでも,どこでも,何でも,何度でも,できます.心がざわざわしたり,冷たくなったり,急にハイになったりするときは,神の真似をして,私を間違った方向に連れ去ろうとするサタンの動きです.私の場合は,「穏やかな暖かさ」の体感が,恵みの印です.人それぞれのようです.

誰一人 例外なく 全ての人が 神の最高傑作である,という恵みを生きることができるように,恵みの橋を 皆の間に 架けていきましょう.

LGBTQ+ みんなのミサ 世話役