藤本 満 著『LGBTQ — 聖書はそう言っているのか?』(2024) を読んで
同書は,プロテスタント福音派の「どまんなかにいる」と自認する 藤本 満 氏(インマヌエル高津教会 牧師,青山学院大学 兼任講師,東京神学大学 非常勤講師)による〈聖書を楯にとって LGBTQ を断罪し,排除する アメリカの保守的福音派による 聖書解釈に対する〉批判の書である(その簡潔な要約を 新井健二氏[友愛キリスト教会 牧師]が 提供してくれている).
性的マイノリティを排除するとき,教会で頻繁に使われる表現は「聖書がそう言っている」というものです.もし聖書を神のことばであると厳粛に受けとめているのなら,何かの決めゼリフのように神のことばを使うのでは無く,「そう言っているのか?」と自問することは 大切です (p.299).
その彼の考え方に わたしは 全面的に賛同する.なぜなら,聖書に書かれてあることは,神のことばであるとしても,神の意志を完全に言い表したものではありえないからである.神の意志は,その全体においては,我々人間には測り知れないものである.それゆえ,我々は,常に,聖書を通して(聖書を媒介として)こう問い続ける必要がある:神の意志は何に存するのか? 神は我々に何を欲しているのか? 我々が そう問いつつ 祈るとき,神は,我々に,彼の息吹
(Spiritus Sanctus) を送ってくれるだろう — 我々に inspiration を与えるために.
そして,藤本氏は,gay であることを公にしている アメリカの新約学者,もと イェール大学教授 Dale B. Martin
(1954-2023) の この指摘を 引用する:
聖書解釈は,たとえそれが伝統的,歴史的,釈義的に重用されてきたものであったとしても,その解釈が人々を傷つけ,抑圧し,滅ぼすようなものなら,それが正しい聖書解釈であるはずがない (p.222).
その 彼ら —
Dale Martin および 藤本氏 — の考え方にも,わたしは 全面的に賛同する.もし聖書がキリストによる全人類の救済という善き知らせ(福音)を我々に伝える文書であるならば,それを〈誰かを傷つける凶器として〉用いることを許すような聖書解釈が神の意志に適っているとは考え難い.
そこから出発して,藤本氏は,保守的福音派が
LGBTQ を断罪するためにしばしば準拠する聖書箇所 — 特に Gn 19,01-11 ; Lv 18,22 ; Lv
20,13 ; Rm 1,24-27 ; 1 Co 6,09-11 —
を,改めて読解してゆく — 先行研究を網羅的に挙げつつ.これほどに入念に かつ 総合的に その作業を遂行した著者は,英語圏の論者たちも含めて,藤本氏以外に存在しないだろう.それゆえ,彼のこの著書は,LGBTQ
とキリスト教について考えるための このうえなく有用な — そして,今や必要不可欠の — 参考書である.
そして,彼の読解は,わたしが素人ながらに試みた読解とほぼ一致しているので,わたしは 今 専門家から「あなたの答案は なかなか好い線を行っている」と褒めてもらった喜びを 味わっている.
異性愛は基本であるか?
ただ,藤本氏の或る表現 — キリスト新聞の書評記事の終りに近いところで部分的に引用されている表現 — に疑念を呈した人々が何人かいることを,ここで彼に伝えておきたい.それは これである (p.91)
:
創世記以来,そこ[モーセ五書 つまり Torah]にあり得る性的行動は,現代で言う「異性愛者」の男性と女性による 結婚の枠組みのなかにおける 性的行動です.わたしは,「異性愛の前提」と記すことで,ふたつのことを念頭においています.ひとつは,神の創造において 異性愛が基本であることです.しかし,その「基本」を「規範」という表現に置き換え,さらに 規範を厳格に捉えすぎると,男女二元論・異性愛の枠にはまらない人を断罪し 排除します.これが異性愛主義です.[…]「神が人を男と女に造られた」という異性愛の前提は,社会通念的前提である以上に,創世記 1 – 2 章を見る限りにおいても,神はそのように人類を作られ,そのようにデザインされた と言ってよいでしょう.
著者によれば,聖書における「異性愛」は「基本」であるが「規範」ではない.
この「異性愛は基本である」という命題に疑念を呈した人々が幾人かいることを,わたしは
SNS 等を通じて 知っている.わたしにも,上に引用した一節における藤本氏の論じ方はあまり適切でないように思われる.
なぜなら このゆえに:聖書の文面にもとづいて,「神はしかじかのことを成した」のであり,それゆえ それは「基本的」な真理である,と断定することは 適切ではない.そうではなく,むしろ,こう言うべきであろう
: Torah の主体 — その者の思考と行動を Torah が規定しているところの者 — は cisgender かつ heterosexual
の 男である という 前提 — 当時 聖書のテクストを作成した者たちにとっては,あまりに当然であったがゆえに,概念化することも公式化することも不必要かつ不可能であった 前提 — にもとづいて,聖書は — 創造神話も含めて — 書かれた.
また,しばしば heterosexism ないし heteronormativity を正当化するものとして引き合いに出される聖書箇所は,「神は人間を男と女に造った」(Gn
1,27) だけではなく,しかして,また,藤本氏も 彼の著書の
pp.236-238 において吟味している Gn
2,24 である.創世記 2 章において,神は,Ha Adam[人間]を 地の塵から形造り,その鼻へ 神のいのちの息を吹き込み,人間を Nephesh
Hayyah[神のいのちを生きている 地上的な生命]にした (v.07) ; そして,彼を エデンの園へ 置いた (v.15) ; そして,彼が孤独でいることはよくないと思い (v.18), 彼の肋骨から Ishshah[女 または 妻]を造り,彼女を彼のところへ連れていった (v.22) ; すると,彼は「彼女こそ,わが骨のうちの最高の骨 (Etsem MeAtsamay) かつ わが肉のうちの最高の肉
(Basar MiBasari) !」と言った[そう言って,感激した](v.23)
;
それがゆえに,Ish[男 または 夫]は,彼自身の父および母から 離れ,そして,彼自身の Ishshah[女 または 妻]に 付く;そして,彼らは ひとつの肉 (Basar Ehad) と成る (v.24).
その一節が異性間の生殖行為のことを言っているのではない,ということは,藤本氏が解説しているとおりである (cf. p.238). ともあれ,その一節においても,聖書全体におけるのと同様に,heteronormativity
が無批判的に前提されている.
そして,gender
binarism を正当化するために必ず引用される「神は人を男と女に造った」(Gn
1,27) も,読み直されるべきである:
そして,Elohim[神]は 創造した — Ha Adam[人間]を — 彼[神]の似姿において — ;Elohim の似姿において[神は]創造した — 彼[Ha Adam : 人間]を — ;Zakar[男 または オス]と Neqebah[女 または メス]—[神は]創造した — 彼らを.
以上のように原文により忠実に翻訳するならば,その節の三つめの文は,単純に「神は 男と女を創造した」— 各種の動物においてオスとメスを創造したのと同様に — と言っているだけである.そして,そのこと — 人間を含む各種の動物においては オスとメスが存在する ということ — は,古代においては あまりに自明であったがゆえに 疑い得ない前提であった.しかし,そのことを以て「人間は 男または女のいずれかであらねばならない」という gender binarism を規範として正当化することはできない.
Freud は homosexuality を 精神疾患と見なしてはいない
次に,精神分析家としては,わたしは,藤本氏の
Freud への短い言及 (pp.28-29) における不正確さを 指摘せざるを得ない.というのも,Freud は,homosexuality を 精神疾患と見なしてはいないからである.彼は,彼の 1905年の著作 Drei Abhandlungen zur
Sexualtheorie[性理論に関する三論文]において,「同性の対象に性的に惹かれる状態」— つまり Homosexualität
(homosexuality) — を Inversion というカテゴリーに分類し,それを Perversion[性倒錯]とは 区別した.そして,実際,彼は,ある(おそらくアメリカ人である)女性 — 彼女は homosexual である息子を持っていた — からの homosexuality
の治療可能性に関する問合せの手紙に対して,1935年04月09日付の彼女への返信において,こう断言している:
[…] Homosexuality は,確かに[社会的には]利点ではありません;だが,それは 恥ずべきものでもありません;悪徳でも 変質でもありません;それは[精神]疾患としては分類され得ません;我々は それを〈ある種の《性的発達の》停止によって作り出される 性機能のヴァリエーションのひとつ と〉見ています.古代の または 現代の 多数の非常に尊敬さるべき人物たちは homosexual でした;彼らのうちには 最も偉大な男たちが 幾人も います (Platon, Michelangelo, Leonardo da Vinci, etc.). Homosexuality を犯罪として迫害することは,大きな[社会的]不正義であり,[非人道的な]残虐行為ですらあります.[...]あなたは,わたしに「あなたは助けることができますか」と問うことによって,こう問うているのだろう と わたしは思います:わたしが[あなたの息子において]homosexuality を廃し,正常な heterosexuality がその代わりとなるようにすることができるか ? 答えは,一般的に言って,こうです:我々はそれを達成することを約束することはできない.[確かに]いくつかの症例においては,我々は,heterosexual の性向 — それは,あらゆる homosexual の人において 存在しています — の〈枯れてしまっていた〉芽を発達させることに 成功します ;[しかし]大多数の症例においては,それは もはや可能ではありません.個々人の気質や年齢の[相違の]問題です.治療の結果は 予測不可能です.精神分析があなたの息子のために成し得ることは,[homosexual を heterosexual へ変えることとは]異なる路線を 走行します.もし彼が不幸であり,神経症的であり,葛藤に引き裂かれており,社会生活において制止されているならば,精神分析は 彼に 調和と 心の平和と 十全な能率を もたらすでしょう — 彼が homosexual であり続けようと あるいは 変化しようと.[…]
Freud の返信を受け取った女性は,後年,それを
Alfred Kinsey へ寄贈した — それは,当然,彼女が 彼の 1948年の著作 Sexual Behavior in the
Human Male[いわゆる Kinsey
Reports の 男性編]を読んだからであろう — この言葉を添えて:
Dear Dr. Kinsey,ひとりの 偉大な かつ 善良な 男性からの 手紙を わたしは ここに同封します.返していただくには及びません.感謝に満ちた母親より
つまり,察するに,彼女は 彼女の息子を 彼のあるがままに 愛し続けることができたのだろう — homosexuality
について 聖書に何と書かれてあろうと,彼女が通う教会の牧師が 何と言おうと,彼女の夫がどう考えていようと —
Freud の「あなたの息子は 病気ではありません」の ひとことのおかげで —.そして,実際,精神分析家たちの大多数は,精神分析の創始者の homosexuality に関する見解に,賛同し続けている.
Sexuality の目標は 生殖ではなく 愛である
さて,この機会に,わたしは,神は あらゆる人間を その SOGI にかかわりなく 救済することを 欲している (cf. CCC #2822) と信ずる カトリックとして,かつてカトリック教会が豪語していたのとは逆のこと — 教会のなかに救いはない — を LGBTQ の人々に感じさせてしまう 幾つかの要素 — 特に,「homosexuality は 自然法 (lex naturalis) に反している」という教え および「同性カップルには結婚の秘跡は授けられない」という定め — に関して,改めて検討してみたい.
Homosexuality に関して,『カトリック教会のカテキズム』(Catechism
of the Catholic Church : CCC) は,その
2357段から 2359段において,こう述べている(1997年に出版された改訂フランス語版にもとづく邦訳):
2357 : Homosexuality とは〈もっぱら または おもに 同性の人々に性的な魅力を感ずる 男どうしの または 女どうしの 関係を〉指す.それは,さまざまな時代や文化をとおして 非常に多様な形態を 取る.それが如何に心的に発生するかは,大部分,未解明のままである.Homosexuality の 行為[複数]を重大な堕落として提示する聖書に基づいて,伝統は 常に こう表明してきた:「homosexuality の 行為[複数]は,内在的に 秩序逸脱的である」.それらは,自然法 [ lex naturalis ] に反している.それらは,いのちの賜に対して 性行為を 閉ざす.それらは,[男女の]真正なる感情的および性的な相互補完性から 発していない.それらは,如何なる場合も 是認を受け得ない.2358 : 無視し得ない数の男女が,根本的な homosexual 傾向を 呈している.その性向は,そのものとして 秩序逸脱的であり,彼らの大多数にとって 試練となっている.彼らは,自身の homosexual という存在様態を みづから選んではいない.彼らは,敬意と共感と気遣いとを以て 受け容れられねばならない.彼らに対して,あらゆる不当な差別の刻印は 避けるべきである.彼らは,自身の人生において 神の意志を実現するよう 呼びかけられている;そして,もし彼らがクリスチャンであるなら,彼らが彼らの存在様態のゆえに遭遇し得る諸困難を 主の十字架の犠牲と 結合するよう,呼びかけられている.2359 : Homosexual の人々は,貞潔さ [ castitas ] へ 呼ばれている.内的自由を教える自制の徳によって,ときには,私欲無き友情の支えによって,祈りと秘跡の恵みによって,彼らは,クリスチャンとしての完璧さへ,徐々に かつ 決然と 近づいて行くことができ,かつ,そうすべきである.
2357段において述べられていること — 同性どうしの性行為は 自然法の秩序から逸脱している — は,神学の理論の次元のことである.それに対して,2358段において述べられていること — homosexual の人々は,敬意と共感と気遣いとを以て 教会に受け容れられるべきであり,不当に差別されてはならない — は,司牧の実践の次元のことである.我々は,そこに,神学理論と司牧実践との間の ひとつの乖離を 見出す.
そのような乖離は,transgender
の人々に関しても 見出される — たとえば このことにおいて : 2024年04月02日に発表された 教理省の〈人間の尊厳に関する〉布告 Dignitas infinita[無限の尊厳]においては,transgender
の人々のための 性別適合手術 (sex reassignment
surgery, gender-affirming surgery) は,その医学的処置を受ける者が「母胎に宿ったとき以来[神から]受けている 唯一的な尊厳[の 身体的な側面]を 損なう 危険性を 有している」と 神学的観点からは 非難されている(もっとも,その布告において非難されている ほかの尊厳侵害 — 貧困,戦争,移民労働,人身売買,性的虐待,女性に対する暴力,人為的妊娠中絶,代理出産,安楽死と幇助自殺,障碍者に対する差別,インターネット上の暴力 — に対する厳しい非難に比べれば,「性別適合手術は 尊厳を損なう危険性を有している」という表現の非難の程度は かなり弱められたものではある — というのも,性別適合手術は本人の求めに応じて行われるものであるから — ただし,その求めは つまるところ 多かれ少なかれ 社会の gender
binarism の固定観念によって 強いられたものであるが)のに対して,司牧実践の次元においては
Papa Francesco は 性別適合手術を既に受けている
transgender の人々を ためらいなく Vatican に 迎え入れている.
そして,Papa
Francesco は,そのような神学理論と司牧実践との乖離を 敢えて みづから top-down
なしかたで 解消しようとはしない;しかして,彼は,2023年 11月の 自発教令 Ad theologiam promovendam[神学を奨励するために]において,理論と実践との関係を こう規定する:「神学[の 理論]は,教会の福音宣教と 信仰の伝達[の 実践]に,奉仕するものである」.つまり,当然ながら,神学理論は 司牧実践を妨げてはならない — 1986年 10月に発表された 教理省長官 Joseph Ratzinger 枢機卿(当時;のちに 教皇 Benedictus XVI)の〈全世界のカトリック司教および大司教たちに宛てられた〉書簡
Homosexualitatis problema が 当時 カトリック慈善事業の〈AIDS
患者たちのための〉援助活動を 著しく妨げたようには —.それゆえ,我々は,Papa Francesco の〈彼の自発教令による〉メッセージを こう捉えてよいだろう:神学理論と司牧実践とが乖離している場合,このことは あなたたちの課題である:新たな理論的構築によって その乖離を解消すること — 理論が実践を妨害することなく,しかして 実践に奉仕し得るようになるために.そこで,我々は その課題に取り組んでみよう.
以前にも論じたように,問われるべきは「自然法」(lex
naturalis) である.それは,Thomas
Aquinas が キリスト教を Aristoteles の形而上学によって基礎づけようとした際,神学のなかに持ち込まれたものである;それは,形而上学的な「目的論」(téléologie) を包含している;そして,その目的論にしたがって,こう公式化される:性的欲望は 生殖を 目的とする;言い換えれば:性的欲望の満足は 生殖を目的とする場合にのみ 道徳的に正当化され得る(勿論,結婚している異性カップルにおいてのみ).それゆえ,生殖を目的としない性欲満足の行為は,道徳的に正当化され得ない — たとえば,自慰行為,性倒錯的な性欲満足,性行為の際の避妊措置,そして,同性どうしの性行為.
18世紀の前半までは,それでよかっただろう;なぜなら,当時はスコラ的な形而上学はまだ失効していなかったから.しかし,18世紀の後半以降は,自然法に準拠することは もはや できない;なぜなら,スコラ的な形而上学は もはや有効ではなくなったから.その変化を 当時 最も雄弁に証言しているのが,Kant
の『純粋理性批判』(1781, 1787) である.彼の批判書は,もはやスコラ的な形而上学を自明かつ当然の前提とすることができないという事態を受けて,それに対処するために 書かれた.Kant に続く ドイツ観念論の諸著作も,同様である.そして,彼らの努力は,Heidegger
によれば,Nietzsche の「力への意志」と「同じものの永遠なる回帰」において 満了
(Vollendung) を見る;すなわち,Nietzsche
以降,形而上学の延命の努力は もはや維持され得ない.もし形而上学的な思考が続けられるならば,それは 多かれ少なかれパラノイア的なイデオロギーとならざるをえない(そのことは,現在,さまざまな形で ますますあらわになってきている;パラノイア的イデオロギーの最も顕著な例としては,たとえば Trumpism と 日本会議イデオロギーを挙げることができるだろう).カトリック神学が今も準拠する「自然法」も,もはや ひとつのイデオロギーにすぎない.
しかも,このことを改めて指摘せねばならない
: lex naturalis にしたがって「性的欲望は生殖を目的とする」と規定するとき,そこには 倫理的な次元と 生物学的な次元とが 混ぜあわされている — 如何にそれが自明なものに見えようと.たとえば,誰でも容易に想像できるように — そして,精神分析の臨床においては そのような女性症例は 珍しくない —,たとえ或る夫婦が子宝に恵まれていても,性行為のたびに妻が夫から強姦されているように感じている場合には(そのような場合は,たいてい,夫は 妻に たとえ物理的な暴力をふるわずとも,常に精神的な暴力を以て妻を支配している),そのような夫婦における性行為は,教会法と lex naturalis の観点からは合法的であっても,欲望の倫理の観点からは性倒錯的である.使徒パウロのことばを引用しつつ,結論を先取りするなら,「だが,わたしが愛を有していなければ」(ἀγάπην δὲ μὴ ἔχω) わたしが わたしの合法的な配偶者と行う性行為は 欲望の倫理の次元においては 許容され得ないものである.したがって,ある性的な行為が倫理に適うものであるか否かは,生物学的な次元に依拠することなく,欲望の倫理そのものの次元において規定され得なければならない.
さて,如何に 理論のなかの形而上学の残渣が 実践において障害物となり得るか の 一例は,実は,精神分析家にとっては 哲学や神学よりも より身近な Freud の思考のなかに 見出される;そして,そのことをそれとして指摘したのは,Lacan
である.それは 何か ? それは,性本能の発達過程の最終的な成熟段階としての
Genitalorganisation[性器体制]という思念である.
Freud は,人間において,性本能
(Sexualtrieb) を 広義における性的な活動の原動力として 措定し,そして,それは 未成熟な段階から出発して 次のような発達過程を経て 成熟段階へ至る と 想定した:まず,乳児期は 口の部分本能の段階である;そこにおいては 乳を吸うときに 口唇の粘膜において 悦が経験される;次いで,排泄訓練
(toilet training) の時期は 肛門の部分本能の段階である;そこにおいては 排便の際に 肛門粘膜において 悦が経験される;そして,3 歳ころから 6 歳ころまでの時期は ファロス (Phallus) の段階である;そこにおいては,性器における自慰行為によって 悦が経験され,同時に オィディプス複合が活発となる;しかし,生殖器官の未発達のゆえに 性本能の発達過程は 一旦 潜伏期に入る;そして,思春期において,生殖器官の成熟にともない,性本能も 成熟段階に至る;それを Freud は「性器体制」(Genitalorganisation)
と名づける;そこにおいては,前性器的な部分本能[複数]は「ファロスの優位」(Primat
des Phallus) のもとに ひとつの性器的な性本能へ統合される;そして,それによって,性本能は,性交を可能にし,かくして 生殖に役立つものとなる.
以上のような Freud の発達段階論は,一見,実際に観察される事実に即しているように思われる;しかし,それは,性本能は生殖を目的とすると想定することにおいて,形而上学的な目的論を包含しており,かつ,倫理的な次元と生物学的な次元とを混ぜあわせている;そして,そのことにおいて 自然法と同様である.
Freud が想定した〈性本能の発達の成熟段階としての〉性器体制は 虚構にすぎない —
Lacan は そう喝破した.つまり,Freud が「性器体制において 前性器的な部分本能[複数]は ファロスの優位のもとに ひとつの性本能へ統合される」と言うとき,そのファロスは架空のものにすぎない.そして,Lacan
は そのことを センセーショナルに こう公式化した :「性関係は無い」(il n’y a pas
de rapport sexuel). さらに,それがゆえに 彼は こう断言する:「性行為は,男の多形性倒錯
(perversion polymorphe) である」.その「多形性倒錯的」(polymorph
pervers) という形容は,Freud が 前性器段階における小児の性的活動について用いた表現である.つまり,性行為は,たとえ生殖を可能にする性交の形において行われた場合でも「内在的に秩序逸脱的」である(CCC
#2357 において homosexuality について用いられている表現)— なぜなら,性行為は,たとえそれが生物学的な次元においては生殖の可能性に開かれたものであっても,欲望の倫理の観点からは,前性器的な悦[複数]— それらは性倒錯的である — をもたらすものでしかないから.
如何に Freud の「性器体制」の理論 — いいかえれば ファロス中心主義 (phallocentrisme) のイデオロギー — が 精神分析の実践にとって有害であるかを見るためには,如何に Freud が精神分析治療の終結について考えていたかを見るのがよい.彼は,最晩年の論文のひとつにおいて,精神分析治療の終結の問題を論じつつ,最後にこう結論する:精神分析のなかで,女性患者において Penisneid[ファロス羨望]に突き当たったとき および 男性患者において Penisangst[去勢不安]に突き当たったとき,治療は 行き詰まりに陥ったことを以て 終わらざるを得ない.なぜか
? それは,精神分析は 患者が欲している ファロス — 性器体制の可能性の条件としてのファロス — を 与えることも 確かなものにすることも できないからである;いいかえれば,性本能の真の満足としてのファロス悦
(jouissance phallique) を 患者に 与えることも 保証することも できないからである;なぜなら,そのようなファロスは架空のものにすぎないから.つまり,Freud
にとっては,真の意味での精神分析の終結は不可能なものであった — 彼がファロスにこだわったがゆえに.
そのようなフロィト的な行き詰まりを打開したのが
Lacan である.彼は こう公式化する:精神分析の終結を条件づけるのは,ファロス悦ではなく,しかして,欲望の昇華の悦である.そして,欲望の昇華とは 愛 — ἔρως
としての愛ではなく,しかして,ἀγάπη としての愛 — である.
愛は 欲望の昇華である.その愛の概念を以て,欲望の倫理は,lex naturalis の桎梏から解放されて,こう公式化することができる:性的欲望が倫理に適うものであり得るのは,生殖を可能にすることを以てではなく,しかして,欲望の昇華としての愛に至ることを以てである — 異性カップルにおいてであれ,同性カップルにおいてであれ.
もし その考え方が カトリック神学において 公認されるならば,教会は,同性カップルにも,異性カップルに対してと同様に,結婚の秘跡を授けることができるだろう — ふたりが愛しあうカップルを構成している限りにおいて.