2015-08-18

LGBT カトリック・ジャパン(仮称)の設立

LGBT の人々がカトリック教会に抵抗感無く来ることができるようになることを目ざして,ふたりのカトリック信徒,ルカ小笠原晋也(本郷教会所属)とペトロ宮野亨(麹町教会所属)が LGBT カトリック・ジャパン(仮称)を設立します.

周知のように,LGBT は,Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender の頭文字です.すなわち,女性同性愛者,男性同性愛者,両性愛者(自分と同じ性別の者と異なる性別の者とのいずれをも性愛対象として選択し得る者),違性別者(解剖学的または生理学的な規定性における性別ではない sexuality を自身の本来的な sexuality として生きている者)です.

Transgender のなかで,医学的手段によって自身の身体的性別を変更する必要性を強く感ずる人々を,特に transsexual と呼ぶことがあります.

また,狭義の transgender 以外に,性別が解剖学的または生理学的に男女のいづれとも明確に分類され得ない intersex, 男女のいづれとも明確に規定され得ない sexuality を実存的に生きている queer ないし sexual fluidity [性的流動性], さらには,そもそも sexuality の規定性を欠く実存を生きている asexual などの人々もいます.広義における transgender は intersex, queer, asexual などをも含む,と定義されることもできます.

狭義の LGBT 以外のもろもろの sexual minority の人々をも含むという意味で,LGBT+ という表記が sexual minority の多様性を表現するために用いられることもあります.わたしたちは,用語の簡潔性のために,LGBT+ (すなわち,sexual minority 全般)という意味で LGBT という表現を用いたいと思います.

LGBT の定義に関して付言すると,いわゆる pedophilia[小児性愛]の範疇に属する同性愛者は,ここでは LGBT から除外します.なぜなら,pedophilia はまだ思春期に達していない年齢の男児ないし女児を性愛対象とする性倒錯の一種であり,そのような性行為は必然的に反人道的な強姦とならざるを得ないからです.

さて,「カトリック教会のカテキズム」(以下,「カテキズム」と表記)は homosexuality については論じていますが,それ以外の sexual minority には言及していません.特に,自身の身体の性別を変更する必要性を感ずる transsexual の人々の問題はなおざりにされています.

ともあれ,「カテキズム」 2357項は,homosexuality を「重大な堕落」と呼び,「どのような場合も homosexual な行為は容認されない」と断罪しています.

しかし,「カテキズム」が根拠として挙げている聖書の箇所 (Rm 1,24-27 ; 1Co 6,9-10 ; 1 Tm 1,10) をよく読んでみると,聖パウロの議論はこうであることがわかります.まず前提は,ὁ δὲ δίκαιος ἐκ πίστεως ζήσεται [信仰によって義なる者は,永遠の命において生きることになる].それに対して,神を信ぜずに [ ἀσέβεια ] 偶像を崇拝することにおいて義ならざる者たち [ ἀδικία ] は神の怒りを受け,神は彼らを不浄 [ ἀκαθαρσία ] へ引き渡します.それによって彼らは,性倒錯を含むさまざまな悪へ陥ることになります.

したがって,聖パウロが断罪しているのは,我々が現在「同性愛」と呼ぶふたりの同性どうしの人間の相互的な愛情関係ではありません.聖パウロが断罪しているのは,あくまで,ἀσέβεια ἀδικία の帰結であるような或る種の性倒錯的行為です.

そして,homosexuality そのもは,医学的にも心理学的にも,もはや性倒錯とは見なされていません.

いかにも,性倒錯は精神疾患に属し,また,性倒錯行為の多くは刑罰の対象となります.しかし,現在の医学の標準的な疾病分類においては同性愛そのものはもはや疾患とは見なされておらず,また,世界196ヶ国のうちおもにイスラム教国から成る約80ヶ国を除けば同性愛行為は刑罰の対象でもありません.

我々が現在「同性愛者」と呼ぶ人々は,聖パウロが ἀσέβεια ἀδικία として断罪するものとは無関係です.

であればこそ,以下に詳しく紹介するように,教皇 Francesco はこうおっしゃいました:「或る homosexual の人が神を求めているなら,わたしはその人を断罪する者ではない」.

ところで,同性愛は如何に生ずるのか?当然ながら,「同性愛者たちは,自分が同性愛者であるという事情をみづから選んだわけではない」(「カテキズム」 2358項.ちなみに,手元の1997年フランス語版にある « Ils ne choisissent pas leur condition homosexuelle » という一文は,1992年フランス語版には無く,現在 Vatican Internet site で公開されているラテン語版,フランス語版,英語版,イタリア語版のテクストにもありません.また,手元の2008年第3刷日本語版にもありません.1997年版で新たに付け加えられた文であるのに,書籍として出版されたフランス語版以外のものへは挿入され落とされてしまっているのではないかと思われます).同性愛を非難する「カテキズム」 2357項でさえ,「その心因は大部分,未解明なままである」と認めています.

しかるに,「カテキズム」 2361項は,こう述べています:「性本能 [ sexualitas ] (...) 単純に生物学的なものではなく,而して,人間存在の最も内奥なる中核 [ nucleus intimus ] において人間存在に関わっている」.つまり,或る人が存在論的に「男性である」か「女性である」か,また,性愛において男性に惹かれるか女性に惹かれるかは,単純に性染色体によって規定されることではなく,而して,人間存在の最も内奥なる中核としての性本能がかかわってくる事態です.ところで,性本能を有するものとして人間を創造なさったのは,神です.したがって,性本能は,神の被造物としての人間の神秘に属することです.

LGBT の人々が,性愛において自分の生物学的性別と同じ性別の人に惹かれたり,自分の生物学的性別とは相違する性別を自身の本来的な性別として生きるとき,それは,神がそのように創造なさったのだ,ということにほかなりません.

「カテキズム」 2358項もこう述べています:「同性愛者の人々は,彼ら・彼女らの人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼ら・彼女らがキリスト教徒であるなら,同性愛者という事情のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている」.

しかし,人生において神の意志を実現するよう呼びかけられており,また,人生の諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられているのは,LGBT の人々だけでなく,すべての人間です.

さて,20138月,イエズス会の雑誌 La Civilità Cattolica よるインタヴューのなかで教皇 Francesco はこうおっしゃいました : « se una persona omosessuale è di buona volontà ed è in cerca di Dio, io non sono nessuno per giudicarla. (...) Una volta una persona, in maniera provocatoria, mi chiese se approvavo l’omosessualità. Io allora le risposi con un’altra domanda : “Dimmi : Dio, quando guarda a una persona omosessuale, ne approva l’esistenza con affetto o la respinge condannandola ?”. Bisogna sempre considerare la persona. Qui entriamo nel mistero dell’uomo. Nella vita Dio accompagna le persone, e noi dobbiamo accompagnarle a partire dalla loro condizione. Bisogna accompagnare con misericordia »[もしここに同性愛の人がいて,彼・彼女が誠意ある人であり,神を探し求めているなら,わたしはその人を断罪する者では全然ない.(...) 或る日,わたしに挑発的にこう質問してきた人がいた:「あなたは同性愛を容認するのですか?」 それに対する答えとして,わたしは彼にこう問い返した:「ねえ,君,神は,ひとりの同性愛の人を見て,その存在を愛情深く是認なさるだろうか,それとも,その人を断罪しつつ退けるだろうか?」 常に人間をその存在において考えねばならない.ここでかかわっているのは,人間の神秘である.我々の人生において,神は我々人間に寄り添ってくださっている.そのように我々も,人々に寄り添わねばならない 彼ら・彼女らの事情にもとづいて.慈しみ深く寄り添わねばならない].

「カテキズム」 2358項もこう述べています:「同性愛者たちは,敬意と共感と気遣いを以て受け容れられねばならない.彼らに対して不当な差別のしるしをつけるようなことは避けるべきである」.

しかしながら,今の日本のカトリック教会のなかには,LGBT に関する無理解と不当な差別がなおも存続しています.司祭や修道士,修道女のなかにも,一般信徒のなかにも,単純に「同性愛は悪だ」と決めつけたり,世界的に容認されている性別適合手術の必要性を否認したり,「同性愛を治療する」ことを押しつけようとして,LGBT に対して教会の門戸を閉ざしてしまう人々がいます.

神が人間を性本能を有するものとして創造なさった以上,ある人が性的多数派の異性愛者になるか,それとも,性的少数派の LGBT になるかは,その人がみづから選択し得ることではなく,神がお決めになることです.そのような性本能の規定性は,如何なる努力によっても如何なる「治療」によっても,後から人為的に変えることはできません.

LGBT の人々のなかには,自分の性的な問題に悩み,神に救いを求めたいと思っている人が少なくありません.にもかかわらず,カトリック教会内の無理解と拒絶的な雰囲気のせいで,せっかく神に関心を持ち,あるいは既に信仰を持っていても,教会に近づくことができないままでいる そのような LGBT の人々が少なくありません.

日本でも,プロテスタントにおいては,自分が LGBT であることを公表している牧師が幾人かいます.彼らが主催する礼拝には,LGBT カトリック信徒も参加しています.そのような人々にとっては,肩身の狭い思いをせねばならない一般の小教区の御ミサより,自分が素のままでいられる同性愛牧師の礼拝の方が来やすい,しかし,それではカトリックの聖体拝領に与ることができない それが彼ら・彼女らの悩みです.

以上のような現状に鑑み,我々は「LGBT カトリック・ジャパン」の名称のもとに,LGBT の人々が気がねなくカトリック教会に来ることができるようになるよう,活動したいと思います.そのためには,ふたつの課題があります:

ひとつは,LGBT でない聖職者と信徒に対する啓蒙です.LGBT に対する拒絶は,LGBT の問題に関する無理解に基づいていることが少なくありません.ですから,問題の正しい理解を促すことが必要です.また,上に論じたように,一見すると同性愛を断罪しているように読める聖書の言葉を如何に理解すべきか,そして,フランチェスコ教皇も「カテキズム」も,LGBT の人々をカトリック教会に受け容れるよう命じているということ,そのようなことについても広く知らせて行かねばなりません.もし各地の教会から LGBT の問題に関する講演や勉強会などの要請があれば,お引き受けしたいと思います.

もうひとつは,LGBT の人々に対する宣教活動です.カトリック教会は LGBT の人々を拒絶してはいない,カトリック教会において LGBT の人々も神の愛と出会うことができる,ということをもっと知ってもらわねばなりません.また,彼ら・彼女らが性的な問題に関する悩みを相談することができるカトリック教会の窓口,「東京カリタスの家」がある,ということも広報して行きたいと思います.

神の愛は,誰をも排除せず,而して,あらゆる人を包容します.すべての人々が神の愛に気がつき,神の愛に包まれて生きてゆくことができますように! Amen !