2015年9月15日火曜日

映画「カミングアウト」上映会を終えて

9月13日日曜日,映画「カミングアウト」の自主上映会を予定どおり行いました.参加してくださった方々,ならびに,会場を貸してくださったカトリック本郷教会に感謝します.

この映画のテーマは,gay である或る大学生が家族や友人に自分の sexuality を告白する過程における心理的葛藤です.

誰もが或る年齢に達すると,家族や友人や社会一般から,結婚や就職などに関して「普通」に為されるさまざまな期待や要請を受け取ります.しかし,LGBT の人々にとっては,そのような事態は非常に大きな重荷になります.なぜなら,自分の sexuality にそぐわないからです.

では,わたしが LGBT であることを告白するか?しかし,それまでわたしを「普通」の人間と見なしてきた身近な人々が,「普通」でないわたしを受け容れてくれるか拒絶することになるか,愛してくれるか憎むことになるか? LGBT の人々が coming out しようと思えば,この非常に恐ろしい実存的な問いを自問せねばなりません.

映画「カミングアウト」をひとつの芸術作品と見なすとき,そこにおいてこの重大な問題性が十分に描き出されていたか?残念ながら,その閾に達していたとは言えません.

まず,sexuality の問題を扱った作品でありながら,直接に性的な光景は描かれておらず,教会の施設のなかで上映するには無難と言えば無難でしたが,「きれいごと」で終わってしまっています.また,主人公の家族構造は日本でももはや神話的ないし伝説的とでも言うべき中流階級家族構造として設定されており,家族内力動も全く描かれていませんでした.要するに,映画的な reality には乏しい作品でした.

さらに,spiritual な要素の欠如が指摘されます.LGBT の人々が家族を含む対人関係のなかで持つ悩みだけでなく,神との関係において持つだろう疑問,葛藤,信頼,和解などをも取り上げれば,そのような作品は,映画であれ小説であれ,より感動的なものになるでしょう.キリスト教が主流宗教である国々でなら,そのような作品は既に作られているだろうと思います.調べてみます.

上映会後の議論のなかで,日本社会では transgender の人々は「病気」として受け容れられやすいが,cisgender の同性愛者はより受容困難であり,逆に,日本以外の国々では cisgender の同性愛者の方がより社会に受け容れられやすい,という指摘がありました.興味深い事実です.

日本ではカルーセル麻紀氏を始めとする transgender 芸能人たちの活躍があり,他方,たとえば USA では Tim Cook を始めとする多くの gay 有名人が come out しています.もしそのような事実が社会の LGBT 包容性に影響を与えているとすれば,やはり,既に或る程度の社会的地位を持っている LGBT の人々が勇気をもって率先して come out することが,より若い世代の LGBT の人々にとって大きな助けになる,ということができるでしょう.

そのようなことが可能になるよう願いつつ,LGBT カトリック・ジャパンも,日本のカトリック教会と日本の社会が LGBT の人々に対してより包容的になってゆくよう,活動して行きたいと思います.

(小笠原晋也 記)

2015年9月9日水曜日

小宇佐敬二神父様と東京カリタスの家

「カリタス」は,ラテン語で caritas と表記します.その意味は「愛」です.

amor がギリシャ語の ἔρως に対応して「人間どうしの性愛」であるのに対して,caritas はギリシャ語の ἀγάπη に対応して「神と人間との愛」ならびに「隣人愛」を指します.

英訳や仏訳の聖書においては ἀγάπη も love や amour と翻訳されますが,特に ἔρως としての愛との違いを強調するときには charity, charité といいう語が用いられます.それらは,ラテン語の caritas からの派生語です. 

東京カリタスの家は,ひとつの公益財団法人として,形式的にはカトリック教会とは別の組織ですが,その理事長は岡田武夫大司教であり,事務所も東京カテドラルの敷地内にあります.小宇佐敬二神父様は,東京カリタスの家の常勤常務理事として,実質的な責任者です.

東京カリタスの家のホームページにはこう述べられています:

「カリタスは愛を意味します.神の愛のまえでは,すべての人が同等の尊厳を持っています」.ですから,「ひとりひとりを大切にしたい:それがわたしたちの思いです」.

「健康で幸せな生活には身体的,精神的,社会的,霊的な健全さが満たされることが必要です」.ですから,東京カリタスの家は,「生きづらさや苦しみを負っている人々を兄弟姉妹として迎え,その困難や苦しみを共に担い,寄り添うことを目指し」ており,そして「その人が本来持っている生きるための力が回復され,自分らしく生きることが出来るよう,ともに歩む」ことを目的としています.

「生きづらさや苦しみ」の理由のなかには,勿論,LGBT の問題も含まれます.どうぞ遠慮無く相談してみてください.

東京カリタスの家相談室:
電話 : 03-3943-1726
受付時間 : 月曜から土曜まで(祝日を除く) 10:00 - 16:00.

小宇佐神父様と直接話してみたい方も,まずは上記へ電話してください.


「東京教区ニュース」第 317号(2014年)に紹介された小宇佐神父様のプロフィールを以下に転記します:





使徒ヨハネ 小宇佐 敬二 (こうさ・けいじ) 神父様

1948年3月 20日生まれ.
1981年2月 11日司祭叙階.

洗礼まで:

“宮崎県北郷村(現在の美郷町)で育ちました.田舎で,キリスト教のキの字も見当たらない所です.町の中学に行くことになって日向学院というサレジオ会の学校に入り,キリスト教と出会いました.

“その前に小学2年生の頃,母の友人が表紙に十字架とドクロがついた本を母に持ってきて,その不気味さに強い印象を受けました.中学に行ったら,その十字架があり興味を持ちました.また宮崎の中でも山の僻地から出てきて文化的な先進性に触れたのも理由のひとつだと思います.キリスト教に惹かれてゆき,DSC (Domenico Savio Club) という日曜日にキリスト教的な活動をするクラブに入り,それとは別に洗礼のための勉強を行い,中学2年生の復活祭に洗礼を受けました.洗礼名は自分で決めました.「イエスに一番愛された弟子」だから. ”

その後も教会活動を?:

“それが,高校生になると,中学の時に習った公教要理に理論として疑問を持つようになりました.卒業し,京都で一年浪人生活を送りましたが,何学部を受けていいのかわかりませんでした.何になりたいのかわからなかったのです.


“小さい頃は実家が医院なので医者になるのが夢でした.でも私には色覚の障がいがあって,当時医者になることはできませんでした.

“その頃,東大紛争も起こり,「学校なんてどうでもいいや」という気持ちになって,東京の山谷に行き,暮らしました.毎日地下鉄工事をしました.

“三ヶ月後,ある日ひとつのイメージのようなものを見ました.酒場のカウンターでみんなが飲んでいる中,イエスが後ろに立っている.何かを言いたそうだが言葉がない.それ以来,「彼らに語る言葉を探す」というのが私のテーマになりました.そして慌てて大学受験をして哲学科に行き,本郷教会にも通うようになりました. ”

大学生活から神学校へ:

“大学ではカトリック研究会(以下「カト研」)に入っていました.まだ大学紛争は続いており,マルクス主義的な言葉で話されていることをキリスト教的な表現で表現していくことができる.それがカト研の使命ではないかと思っていました.

“3年生のころ,カト研に江部ちゃん(江部純一神父)が入ってきて,一年後には洗礼の代父になりました.

“本郷教会では青年会として関口教会との交流も活発に行いました.私は神父になりたいという望みをもっていたので,主任司祭の平田忠雄神父に伝えたところ,「あなたは家がカトリックではないからカトリックのご家庭にも行きなさい」と言われ,遊びに行ったりもしていました.

“神学校に入り,哲学は大学で学んでいたので「特神」という四年で卒業するコースになりましたが,途中で六年間の共同生活が義務づけられたので,神学部 4年生を三年間続けるような形で六年間を過ごしました.最後の一年は町田教会に住みながら週一日だけ神学校に通いました.

“助祭叙階は町田教会でした.直前に新垣壬敏さんの聖歌指導に付き合い,青年たちと雪の聖母修道院(ドミニコ会,福島県磐梯町)に行き,休憩時間にスキーをして膝の靭帯を断絶し,車椅子で叙階を受けました.その姿を見て「障碍者でもがんばって司祭になろうとしている」と涙を流した人もいました.勘違いをさせてしまいました(笑). ”

司祭叙階の恵み:

“司祭叙階後,本郷教会で初ミサをしたときに,ある人に頼まれ,病床訪問に伺いました.80代のおばあちゃんで,ものすごく喜んで延々と話し始めました.戦争の最中から始まる人生の様々な痛みや苦しみのことを.それを聞いているうちに,病院の入り口にイエス様がきたイメージを感じました.そして一歩ずつ病室に近づいてきて,ドアを開け,おばあちゃんの傍らに立ち,手を握りました.本当に赦されて受け入れられているという感じを受けました.一週間後にご聖体を持ってもう一度行ったら,あの三日後に亡くなったと聞きました.ご自分の生涯を清算し,赦しを受けて安心してやっと死ぬことができたのでしょう.そこに立ち会えたことは司祭叙階の一番大きな恵みに思いました.

“神学生の頃から多摩ブロックとの関わりがあり,叙階後,立川教会に助任として赴任しました.そこでも病床訪問で「ああ司祭はミサを運ぶことも出来るんだ」という体験をしました. ”

好きな聖書の箇所は ? :

“たくさんあるよ ! 例えば「姦通の女」(Jn 8,1-11) と言われているところ.あれは「姦通の嫌疑(冤罪)で捕らえられた女」だと思うのです.彼女が罪を犯していないことをイエスは証明した.すると,偽証の罪は同罪だから,実は救われたのはファリサイ派や律法学者の長老たちなのです.冤罪証明が公の場所でなされたのに死罪を免れました.こう読んでいるのは,私しかいないと思うな. ”

伝えたいことをどうぞ ! :

“おもしろく聖書を読もう ! 聖書は面白い !”


今月 6日に,LGBT カトリック・ジャパンの共同代表,小笠原晋也(向かって左)と宮野亨(右)が小宇佐神父様(中央)とお会いしたときに撮った写真です:



2015年9月4日金曜日

百人隊長の少年愛

Frederic Leighton (1830-1896), Jonathan's Token to David (ca 1868), in the Minneapolis Institute of Art


我々の友人 Stephen Lovatt 氏は,彼の著作 Faithful to the Truth : How to be an orthodox gay Catholic において,福音書のなかの少年愛について 興味深い 指摘を している.

彼が注目したのは,マタイ福音書 8,05-13 に物語られている Jesus の奇跡である.その一節は,手元にあるフランチェスコ会訳においても 共同訳においても ほぼ同様に訳されているので,フランチェスコ会訳から引用すると:

(...) 百人隊長が近づいてきて,イェスに懇願した.「主よ,わたしの僕が中風でひどく苦しみ,家で寝込んでいます」.イェスが「わたしが行って,癒してあげよう」と仰せになると,百人隊長は答えて言った.「主よ,わたしはあなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ただお言葉をください.そうすれば,わたしの僕は癒されます (...)」.(...) イェスは百人隊長に仰せになった.「帰りなさい.あなたが信じたとおりになるように」.すると,ちょうどそのとき僕は癒された.

邦訳を読むだけでは,この一節が有する意義は 把握し得ない.ギリシャ語原文を提示すると:

(...) προσῆλθεν αὐτῷ ἑκατόνταρχος παρακαλῶν αὐτὸν καὶ λέγων· Κύριε, ὁ παῖς μου βέβληται ἐν τῇ οἰκίᾳ παραλυτικός, δεινῶς βασανιζόμενος. καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· Ἐγὼ ἐλθὼν θεραπεύσω αὐτόν. καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη· Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς· ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου. (...) καὶ εἶπεν ὁ Ἰησοῦς τῷ ἑκατοντάρχῷ· Ὕπαγε, καὶ ὡς ἐπίστευσας γενηθήτω σοι. καὶ ἰάθη ὁ παῖς αὐτοῦ ἐν τῇ ὥρᾳ ἐκείνῃ.

百人隊長は ローマ帝国の軍隊の士官である.当時,ユダヤの地は ローマ帝国の属州であり,その統治は ヘロデ王朝に任されていたが,政情を監視するために ローマ軍の部隊も 常時 駐在していた.Jesus のもとを訪れた百人隊長は,聖書の文脈から判断するに,明らかに ユダヤ教徒ではない.

マタイ福音書 8,05-13 は,いわゆる Q 文書に基づく一節であろうと思われる.共観福音書内のその平行箇所は,ルカ福音書 7,01-10 に見出されるが,マルコ福音書には 無い.しかるに,ヨハネ福音書 4,46-54 に この物語は 若干の変奏のもとに 語られている.

さて,Jesus が奇跡的に癒やす百人隊長の「僕」は,原文では παῖς である.この語は確かに「召使い」という意味をも有しているが,本来は「子ども」である.例えば「小児科」は フランス語で pédiatrie であるが,この語は παῖςἰατρεία [癒し,治療]に 由来する.ちなみに,ἰατρεία と関連する動詞 ἰάθη [(彼は)癒された]と ἰαθήσεται [(彼は)癒されるだろう]が,マタイ福音書 8,08 et 13 において 用いられている.

マタイ福音書において παῖς が「子ども」の意味において用いられていることは,ヨハネ福音書の平行箇所において Jesus が奇跡的に癒やすのは ある βασιλικός [ヘロデ アンティパス 王に仕える 官吏]の息子 [ υἱός ] であると言われていることからも 推測される.

ついでながら,もし παῖς が「子ども」であるとすると,παραλυτικός を「中風」と訳すのは 誤訳であろう.なぜなら,「中風」は 脳血管障害による麻痺である.それは,一般的に言って 高齢者によく見られる病理であり,もし 子どもに出現するとすれば 先天性脳動静脈奇形などの 比較的 限られた条件においてのみ である.むしろ,マタイ福音書 8,06 で用いられている動詞 βέβληται に注目するなら,それは βάλλειν [投げる]の受動態完了形である.つまり,患者は 投げ出されるように 急に倒れて,麻痺に陥っているのである.それは,むしろ 癲癇発作を示唆している.実際,明らかに癲癇発作の現象が記述されているマルコ福音書 9,17-27 の一節において,καὶ πολλάκις αὐτὸν καὶ εἰς πῦρ ἔβαλε καὶ εἰς ὕδατα, ἵνα ἀπολέσῃ αὐτόν [そして,発作を起こす霊気は,わたしの息子を殺すために,彼を 火のなかへも 水のなかへも しばしば投げ込んだ](Mc 9,22) と言われている.「投げ込んだ」と訳した動詞 ἔβαλε は,βάλλειν のアオリスト形である.

さて,百人隊長と 彼の παῖς とは 如何なる関係にあるのだろうか ? ルカ福音書の平行箇所においては,τινος δοῦλος ὃς ἦν αὐτῷ ἔντιμος [百人隊長にとって価値のある奴隷]と言われている.そこで用いられている形容詞 ἔντιμος の語源である名詞 τιμή は「栄誉,尊敬,尊厳,価値」であり,関連する動詞 τιμᾶν は「崇める,敬う,価値あるものと見なす」である.ということは,百人隊長にとって この παῖς は かけがえのない愛情の対象である,ということが 推定される.実際,もしそうでなかったなら,異教徒である百人隊長は わざわざ Jesus にその子を癒してくれるよう 懇願しに来なかったであろう.当時,単なる召使いや奴隷であったなら,死んでも その代用は いくらでも 入手可能である.

かくして,百人隊長と 彼の παῖς との関係は παιδεραστεία [少年愛]のそれである,と推定することができる.

παιδεραστεία という語は,παῖςἔρως[エロス,愛]に由来する.少年愛が社会風習であったのは,古代ギリシャにおいてである.たとえば,プラトンの対話篇のひとつ,『饗宴』において論ぜられている愛は,παιδεραστεία の愛である.

くちづけをかわす少年愛者と少年(壺絵,紀元前 480年ころ)

Jesus の時代のローマ帝国において,そのような少年愛の風習は 残っていたのであろうか?然り.皇帝ハドリアヌス (76 - 138) は,130年に およそ 18歳で死んだ 愛児 アンティノウスを悼み,彼を神格化して 崇めた.

Dionysus-Osiris として描かれた Antinous (西暦 2 世紀,Musei Vaticani 所蔵)

また,西暦 1 世紀に作られたと推定されている ある酒杯(元の所有者の名にちなんで Warren Cup と呼ばれている)には,少年愛をテーマとする浮き彫りが 施されている.



こうして 我々は,マタイ福音書 8, 5-13 と その平行箇所の意義を,こう把握することができる : Jesus は,たとえ百人隊長が異教徒であり,かつ gay であっても,彼の Jesus に対する信仰のゆえに 彼を義としたのである.

主よ,わたしは,あなたに わが屋根の下へ入っていただくに ふさわしい者ではありません.しかして,ただ 言葉で言ってください.されば,わが児は 癒されるでしょう. 
主よ,わたしは,あなたを わたしの屋根の下にお迎えできるような者では ありません.ただ お言葉をください.そうすれば,わたしの僕は 癒されます.(フランチェスコ会訳)

マタイ福音書 8,08 における 百人隊長の Jesus に対する この懇願にならって,ローマ典礼においては,聖体拝領の直前に,「主の食卓に招かれた者は 幸い.見よ,世の罪を取り除く 神の子羊」という司祭の言葉に続いて,会衆はこう唱える : Domine, non sum dignus ut intres sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea [主よ,わたしは,あなたが わが屋根の下へ(つまり,御聖体として わたしのからだのなかに,わたしのうちに)入ってくださるに ふさわしい者ではありません.しかして,ただ 言葉で 言ってください.されば,わが魂は 癒されるでしょう](日本の典礼では例外的に,ヨハネ福音書 6,35 et 68 にもとづいて「主よ,あなたは 神の子 キリスト,永遠の命の糧,あなたをおいて 誰のところへ行きましょう」と唱えているが).

つまり,カトリック信徒は,全世界で,ミサのたびに,gay である百人隊長の懇願の言葉にならって,主に魂の癒やしを願っている,というわけだ.

にもかかわらず LGBTQ+ を断罪しようとする者たちが カトリック教会のなかにいるとは ! 

主が彼れらの目を主の御ことばの真理へ開いてくださいますように !