Frederic Leighton (1830-1896), Jonathan's Token to David (ca 1868), in the Minneapolis Institute of Art
我々の友人 Stephen Lovatt 氏は,彼の著作 Faithful to the Truth : How to be an orthodox gay Catholic において,福音書のなかの少年愛について 興味深い 指摘を している.
彼が注目したのは,マタイ福音書 8,05-13 に物語られている Jesus の奇跡である.その一節は,手元にあるフランチェスコ会訳においても 共同訳においても ほぼ同様に訳されているので,フランチェスコ会訳から引用すると:
(...) 百人隊長が近づいてきて,イェスに懇願した.「主よ,わたしの僕が中風でひどく苦しみ,家で寝込んでいます」.イェスが「わたしが行って,癒してあげよう」と仰せになると,百人隊長は答えて言った.「主よ,わたしはあなたをわたしの屋根の下にお迎えできるような者ではありません.ただお言葉をください.そうすれば,わたしの僕は癒されます (...)」.(...) イェスは百人隊長に仰せになった.「帰りなさい.あなたが信じたとおりになるように」.すると,ちょうどそのとき僕は癒された.
邦訳を読むだけでは,この一節が有する意義は 把握し得ない.ギリシャ語原文を提示すると:
(...) προσῆλθεν αὐτῷ ἑκατόνταρχος παρακαλῶν αὐτὸν καὶ λέγων· Κύριε, ὁ παῖς μου βέβληται ἐν τῇ οἰκίᾳ παραλυτικός, δεινῶς βασανιζόμενος. καὶ λέγει αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς· Ἐγὼ ἐλθὼν θεραπεύσω αὐτόν. καὶ ἀποκριθεὶς ὁ ἑκατόνταρχος ἔφη· Κύριε, οὐκ εἰμὶ ἱκανὸς ἵνα μου ὑπὸ τὴν στέγην εἰσέλθῃς· ἀλλὰ μόνον εἰπὲ λόγῳ, καὶ ἰαθήσεται ὁ παῖς μου. (...) καὶ εἶπεν ὁ Ἰησοῦς τῷ ἑκατοντάρχῷ· Ὕπαγε, καὶ ὡς ἐπίστευσας γενηθήτω σοι. καὶ ἰάθη ὁ παῖς αὐτοῦ ἐν τῇ ὥρᾳ ἐκείνῃ.
百人隊長は ローマ帝国の軍隊の士官である.当時,ユダヤの地は ローマ帝国の属州であり,その統治は ヘロデ王朝に任されていたが,政情を監視するために ローマ軍の部隊も 常時 駐在していた.Jesus のもとを訪れた百人隊長は,聖書の文脈から判断するに,明らかに ユダヤ教徒ではない.
マタイ福音書 8,05-13 は,いわゆる Q 文書に基づく一節であろうと思われる.共観福音書内のその平行箇所は,ルカ福音書 7,01-10 に見出されるが,マルコ福音書には 無い.しかるに,ヨハネ福音書 4,46-54 に この物語は 若干の変奏のもとに 語られている.
さて,Jesus が奇跡的に癒やす百人隊長の「僕」は,原文では παῖς である.この語は確かに「召使い」という意味をも有しているが,本来は「子ども」である.例えば「小児科」は フランス語で pédiatrie であるが,この語は παῖς と ἰατρεία [癒し,治療]に 由来する.ちなみに,ἰατρεία と関連する動詞 ἰάθη [(彼は)癒された]と ἰαθήσεται [(彼は)癒されるだろう]が,マタイ福音書 8,08 et 13 において 用いられている.
マタイ福音書において παῖς が「子ども」の意味において用いられていることは,ヨハネ福音書の平行箇所において Jesus が奇跡的に癒やすのは ある βασιλικός [ヘロデ アンティパス 王に仕える 官吏]の息子 [ υἱός ] であると言われていることからも 推測される.
ついでながら,もし παῖς が「子ども」であるとすると,παραλυτικός を「中風」と訳すのは 誤訳であろう.なぜなら,「中風」は 脳血管障害による麻痺である.それは,一般的に言って 高齢者によく見られる病理であり,もし 子どもに出現するとすれば 先天性脳動静脈奇形などの 比較的 限られた条件においてのみ である.むしろ,マタイ福音書 8,06 で用いられている動詞 βέβληται に注目するなら,それは βάλλειν [投げる]の受動態完了形である.つまり,患者は 投げ出されるように 急に倒れて,麻痺に陥っているのである.それは,むしろ 癲癇発作を示唆している.実際,明らかに癲癇発作の現象が記述されているマルコ福音書 9,17-27 の一節において,καὶ πολλάκις αὐτὸν καὶ εἰς πῦρ ἔβαλε καὶ εἰς ὕδατα, ἵνα ἀπολέσῃ αὐτόν [そして,発作を起こす霊気は,わたしの息子を殺すために,彼を 火のなかへも 水のなかへも しばしば投げ込んだ](Mc 9,22) と言われている.「投げ込んだ」と訳した動詞 ἔβαλε は,βάλλειν のアオリスト形である.
さて,百人隊長と 彼の παῖς とは 如何なる関係にあるのだろうか ? ルカ福音書の平行箇所においては,τινος δοῦλος ὃς ἦν αὐτῷ ἔντιμος [百人隊長にとって価値のある奴隷]と言われている.そこで用いられている形容詞 ἔντιμος の語源である名詞 τιμή は「栄誉,尊敬,尊厳,価値」であり,関連する動詞 τιμᾶν は「崇める,敬う,価値あるものと見なす」である.ということは,百人隊長にとって この παῖς は かけがえのない愛情の対象である,ということが 推定される.実際,もしそうでなかったなら,異教徒である百人隊長は わざわざ Jesus にその子を癒してくれるよう 懇願しに来なかったであろう.当時,単なる召使いや奴隷であったなら,死んでも その代用は いくらでも 入手可能である.
かくして,百人隊長と 彼の παῖς との関係は παιδεραστεία [少年愛]のそれである,と推定することができる.
παιδεραστεία という語は,παῖς と ἔρως[エロス,愛]に由来する.少年愛が社会風習であったのは,古代ギリシャにおいてである.たとえば,プラトンの対話篇のひとつ,『饗宴』において論ぜられている愛は,παιδεραστεία の愛である.
くちづけをかわす少年愛者と少年(壺絵,紀元前 480年ころ)
Jesus の時代のローマ帝国において,そのような少年愛の風習は 残っていたのであろうか?然り.皇帝ハドリアヌス (76 - 138) は,130年に およそ 18歳で死んだ 愛児 アンティノウスを悼み,彼を神格化して 崇めた.
Dionysus-Osiris として描かれた Antinous (西暦 2 世紀,Musei Vaticani 所蔵)
また,西暦 1 世紀に作られたと推定されている ある酒杯(元の所有者の名にちなんで Warren Cup と呼ばれている)には,少年愛をテーマとする浮き彫りが 施されている.
こうして 我々は,マタイ福音書 8, 5-13 と その平行箇所の意義を,こう把握することができる : Jesus は,たとえ百人隊長が異教徒であり,かつ gay であっても,彼の Jesus に対する信仰のゆえに 彼を義としたのである.
主よ,わたしは,あなたに わが屋根の下へ入っていただくに ふさわしい者ではありません.しかして,ただ 言葉で言ってください.されば,わが児は 癒されるでしょう.
主よ,わたしは,あなたを わたしの屋根の下にお迎えできるような者では ありません.ただ お言葉をください.そうすれば,わたしの僕は 癒されます.(フランチェスコ会訳)
マタイ福音書 8,08 における 百人隊長の Jesus に対する この懇願にならって,ローマ典礼においては,聖体拝領の直前に,「主の食卓に招かれた者は 幸い.見よ,世の罪を取り除く 神の子羊」という司祭の言葉に続いて,会衆はこう唱える : Domine, non sum dignus ut intres sub tectum meum, sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea [主よ,わたしは,あなたが わが屋根の下へ(つまり,御聖体として わたしのからだのなかに,わたしのうちに)入ってくださるに ふさわしい者ではありません.しかして,ただ 言葉で 言ってください.されば,わが魂は 癒されるでしょう](日本の典礼では例外的に,ヨハネ福音書 6,35 et 68 にもとづいて「主よ,あなたは 神の子 キリスト,永遠の命の糧,あなたをおいて 誰のところへ行きましょう」と唱えているが).
つまり,カトリック信徒は,全世界で,ミサのたびに,gay である百人隊長の懇願の言葉にならって,主に魂の癒やしを願っている,というわけだ.
にもかかわらず LGBTQ+ を断罪しようとする者たちが カトリック教会のなかにいるとは !
主が彼れらの目を主の御ことばの真理へ開いてくださいますように !