2015-10-28

フランチェスコ教皇のシノドス閉会の談話,2015年10月24日

家族のためのシノドス2015

14回世界代表司教会議通常総会終結会合

フランチェスコ教皇の談話

シノドス会場
20151024日,土曜日


親愛なる総主教,枢機卿,司教の皆さん,
親愛なる兄弟姉妹の皆さん,

わたしはまず,主に感謝したいと思います.主は,聖霊とともに,この数年間,わたしたちのシノドスの道を導いてくださいました.聖霊の支えが教会に欠けることは決してありません.

わたしは心から,このシノドスの総書記 Lorenzo Baldisseri 枢機卿と,副書記 Fabio Fabene 司教に感謝します.そして,彼らとともに,次の人々に感謝します 全体報告担当 Péter Erdő 枢機卿,特別書記 Bruno Forte 司教,ヨーロッパ,アジア,アメリカ,アフリカの四大陸それぞれの代表枢機卿,書記,顧問,翻訳者,聖歌隊員,および,教会のために倦むことなく献身的に働いてくれた人々すべて.心から感謝します!また,報告書を作成してくれた委員会に感謝します.なかには徹夜してくれた人々もいます.

シノドスに参加した神父,他教会の代表者,傍聴者,陪席者,教区司祭,家族,皆さんに感謝します.皆さんは,活発で実り多き協力を提供してくれました.

また,参加者リストに記名されていない人々,このシノドスの作業のために黙々と働き,惜しみなく貢献してくれた人々すべてに感謝します.

皆さん,わたしは本当にあなたたちのために祈ってます.主が皆さんに豊かな恵みの賜で報いてくださいますように!

シノドスの作業を見守りながら,わたしは自問していました:家族に献げられたこのシノドスの結論を出すということは,教会にとって何を意味するだろうか?

いかにも,それはこういう意味ではありません:つまり,家族に内在する問題すべてについて結論を出したわけではありません.そうではなく,それらの問題に光を当てようと努めました.福音の光と教会の二千年の歴史の伝統の光とでそれらの問題を照らそうと努めました.そして,異論の余地無きことや既に言われたことの安易な反復へ陥ることなく,それらの問題へ希望の喜びを注ぎ込もうと努めました.

また,それはこういう意味でもありません:つまり,網羅的な解決を見出したわけではありません.家族の前に立ちはだかり,家族を脅かす困難と疑念すべてを解消したわけではありません.そうではなく,それらの困難と疑念を信仰の光で照らし,注意深く検討し,恐れずにそれらと立ち向かいました ダチョウのように頭を砂のなかへ隠すことなく.

それは,こういう意味です:つまり,家族 および,[家族を形成する]一致と解消不可能性とに基づく男女の結婚 という制度の重要性を理解し,そして,家族および結婚という制度を,社会と人間の生との根本的な基礎として評価するよう,皆に促しました.

それは,こういう意味です:つまり,ローマにやって来た家族たちと教会の司牧者たちとの声を聴き,かつ聴かせました.彼ら彼女らは,世界のすべての地域の家族の重荷と希望,豊かさと試練を担ってローマにやって来たのです.

それは,こういう意味です:つまり,カトリック教会が生き生きとしていることを証明しました.カトリック教会は,家族の問題を活発かつ率直に議論することによって,麻痺していた良心を揺り動かすことを恐れず,また,きれい事で済まさないことを恐れません.

それは,こういう意味です:つまり,今日の現実 または,単数形で「現実」と言うのではなく,複数形の[多様な]現実 を,神の目でまなざし,読もうと努めました.それは,社会的,経済的,道徳的な危機のなかで,ネガティヴな傾向が優位となり,気力を失わせてしまう今の時代において,信仰の炎で人々の心にあかりをともし,人々の心を照らすためです.

それは,こういう意味です:つまり,教会にとって福音は永遠なる新しさの生ける源泉であり続けるということを皆に証言し,それに対して,福音を死んだ石へ「教義」化し,他者へ投げつけようとする者に対抗しました.

それは,さらにまた,こういう意味です:つまり,閉ざされた心たちの衣装を剥ぎ取りました.彼ら閉ざされた心たちは,しばしば,教会の教えや善良な意図の背後にさえ隠れており,モーゼの威光に輝く椅子に座り,ときとして優越感と浅はかさとを以て,難しい事例や傷つけられた家族を裁こうとします.そのような閉ざされた心たちの衣装を剥ぎ取りました.

それは,こういう意味です:つまり,教会は貧しい人と罪深い人との教会であることを肯定しました.教会は,義人と聖人だけの教会ではなく,こころの貧しい人と赦しを求める罪人との教会です.あるいは,むしろ,人間は自分が貧しく,罪深いと感ずるときにこそ義人であり,聖人であり得る限りにおいて,教会は義人と聖人の教会です.

それは,こういう意味です:策謀的な教義解釈 または,視野の閉塞 をすべて乗り越えるために,地平線を切り開きました.それは,神の子どもたちの自由を守り,広げるためであり,キリスト教の新しさの美を伝達するためです.その美は,ときとして,古めかしい言葉 または,単純に言えば,理解不能な言葉 の錆に覆い隠されてしまっています.

このシノドスの最中,さまざまな意見が自由に また,不幸なことに,ときとして全く好意的でないしかたで 表明されました.それらの意見は,確かに,対話を豊かにし,活発にしました.そして,教会の生き生きとしたイメージを見せてくれました.教会は,「あらかじめ用意された文言」を用いたのではありません.そうではなく,教会は,渇いた心をうるおすために,信仰という尽きぬ源泉から生きている水を汲みます[1].

そして 教会の教導権によりはっきり定められた諸問題の彼方で わたしたちはまた,このことを経験しました:つまり,ある大陸の司教にとっては当然だと思われることが,ほかの大陸の司教の目には異様なこと,ほとんどスキャンダル [「完全に」とまでは言わずとも]ほとんどスキャンダル だと映り得る;ある社会においては人権侵害と見なされることが,ほかの社会においては自明にして不可侵なる掟であり得る;ある者たちにとっては良心の自由であることが,ほかの者たちにとっては単なる勘違いであり得る.現実に,相異なる文化は非常に多様です.そして,普遍的原理 先ほど言ったように,教会の教導権によりはっきり定められた諸問題 はおのおの,遵守され適用されようとするなら,文化適応 [ inculturation ] する必要があります[2]. 第二ヴァチカン公会議終結の20周年を記念した1985年のシノドスは,文化適応についてこう語っています:文化適応とは「[一方で,ある社会の]本当の文化的諸価値が,それらがキリスト教のなかへ統合されることによって,内奥において変化し,かつ,[他方で],多様な人間文化のなかへキリスト教が根づくことである」[3]. 文化適応は,[キリスト教の]まことの諸価値を弱めるのではなく,それらの本当の力とそれらの真正性を証明します.なぜなら,[キリスト教の]まことの諸価値は,変形されることなく[さまざまな文化へ]適応するのであり,しかして逆に,[キリスト教の]まことの諸価値は,さまざまな文化を平和的に徐々に変形するからです[4].

同じくわたしたちの多様性の豊かさをとおして,わたしたちはこのことを見ました わたしたちが為すべき挑戦は,常に同じものである:すなわち,今日の人間に福音を告げ知らせること イデオロギーや個人主義による攻撃すべてから家族を守りつつ.

そして,相対主義の危険に決して陥ることなく,また,他者を悪魔呼ばわりする危険に決して陥ることなく,わたしたちは,勇気を以て全面的に神の善意と慈しみを抱きしめようと努めました.神は,わたしたち人間がする計算を凌駕しています.神が欲することはこれだけです:「人間すべてが救済される」こと (1 Tm 2,4). わたしたちが勇気を以て全面的に神の善意と慈しみを抱きしめようと努めたのは,慈しみの特別聖年の文脈へこのシノドスを位置づけ,その文脈においてこのシノドスを生きるためです.教会は,神の慈しみを生きるよう呼ばれています.

親愛なる皆さん,

シノドスの経験は,わたしたちにこのことをよりよくわからせてくれました:すなわち,教義の本当の擁護者は,その lettera, lettre [字面]を擁護する者ではなく,その spirito, esprit [精神,霊気,霊]を擁護する者である;観念ではなく人間を擁護する者である;文言ではなく,神の愛と赦しの無償性を擁護する者である.それは,定められた文言の重要性を減らすという意味では決してありません.定められた文言は必要です.また,神の律法と命令の重要性を減らすという意味でも決してありません.そうではなく,本当の神の偉大さをたたえるという意味です.神がわたしたちをどう扱うかは,わたしたちの功徳によるのでも業績によるのでもなく,しかして,ひたすら,神の慈しみの限りない寛大さによります (cf. Rm 3,21-30 ; Ps 129 ; Lc 11,47-54). それは,「放蕩息子」の譬えの兄 (cf. Lc 15,25-32) や「午後5時の労働者」の譬え (cf. Mt 20,1-16) で朝から働いていた者が陥った妬み そのような試みは常に待ち受けています を乗り越えることを意味します.それは,神は律法と命令を人間のためにお創りになったのであり,その逆ではない (cf. Mc 2,27) ということを尊重することを意味します.

その意味において,人間が為す正しい悔悛,業績,努力は,より深い意義を持つことになります.それらは,救済のために支払うべき代価ではありません.そのようにして救済を手に入れることはできません.救済は,十字架上のキリストが無償で成就したのです.しかして,わたしたちが悔悛し,業を為し,努力するのは,神に答えることなのです.わたしたちがまだ罪人であったときに,先に神がわたしたちを愛してくださり,罪無き血を代価としてわたしたちを救済してくださいました (cf. Rm 5,6). そうしてくださった神に答えるために,わたしたちは悔悛し,業を為し,努力するのです.

教会の第一の義務は,断罪や非難をばらまくことではありません.そうではなく,神の慈しみを宣べ伝えること,人間すべてを回心へ呼び招くこと,人間すべてを主による救済へ導くことです (cf. Jn 12,44-50).

福者パウロ六世は,すばらしい言葉でこう言いました:「したがって,我々はこう考えることができる:我々が罪を犯し,神から逃げるときはいつも,神のなかにはより強い愛の炎がともされる.我々を取り戻し,我々を救済の計画のなかへ組み込み直したいという欲望が,神のなかに生ずる [...]. 神は,キリストにおいて,無限に善い方として己れを啓かしている [...]. 神は善き方である.それは,即自的にというだけではない;神は 我々は泣きながら言おう 我々に対して善き方である.神は,我々を愛してくださり,我々を探してくださり,我々のことを考えてくださり,我々のことを知っておられ,我々に霊を与えてくださり,我々を待っていてくださる:言うなれば,神が幸福となる日は,我々が神のもとに戻ってきて,“主よ,御厚意によって,わたしをお赦しください”と言う日である.そのとき,我々の悔悛は神の喜びと成る」[5].

聖ヨハネパウロ二世は同様に断言しています:「教会がまことの生を生きるのは,慈しみを公言し公告するときであり [...], 人々を救い主の慈しみの源泉へ導くときである.教会は,主の慈しみの受託者であり,分配者である」[6].

同様に,教皇ベネディクト十六世も言っています:「実際,慈しみは,福音のメッセージの中核であり,神の名そのものである [...]. 教会が言うこと,為すことはすべて,神が我々人間のために育んでくださっている慈しみを顕すものである.見失われた真理や裏切られた善を教会が思い起こさねばならないとき,教会がそうするのは常に,慈しみ深い愛に駆られてである 人間が命を得るために,しかも,命を豊かに得るために (cf. Jn 10,10)[7].

そのような光のもとに,また,教会が家族について語り,論じつつ体験した恵みの時間のおかげで,わたしたちは豊かになったと互いに感じています;わたしたちのうち多くの者が,聖霊の働きを経験しました.聖霊こそ,シノドスの本当の主役であり,匠です.わたしたち皆にとって,famiglia [家族]という語は,シノドス以前と同じ響きをもはや持っていません シノドスの使命の要約とシノドスの全行程の意義とが既にその語に見出されるほどに[8].

実際,教会にとって,シノドスの結論を出すということは,本当に「共に歩む」ことへ立ち返るという意味です 世界の至るところへ,あらゆる教区へ,あらゆる共同体へ,あらゆる状況へ,福音の光と教会の抱擁と神の慈しみの支えとをもたらすために!

ありがとう!


[1] Cf. Lettre au Grand Chancelier de l’Université pontificale catholique argentine pour le centième anniversaire de la faculté de théologie, 3 mars 2015.

[2] Cf. Commission biblique pontificale Foi et culture à la lumière de la Bible. Actes de la Session plénière 1979 de la Commission biblique pontificale, LDC, Leumann 1981, Conc. Oecum. Vat. II, Const. Gaudium et spes, n. 44.

[3] Relation finale (7 décembre 1985) : L’Osservatore Romano (10 décembre 1985), p. 7 ; Documentation catholique no1909 (5 janvier 1986), p. 41.

[4] 「教会は,その司牧使命のゆえに,歴史の変動と心性の変化とに常に注意深くあり続けねばならない いかにも,それらに服従するためではなく,しかして,教会の助言と指導の受容を妨げ得る障害を克服するために」(Georges Cottier 枢機卿のインタヴュー,La Civiltà Cattolicà, 3963-3964, 201588日,p.272).

[5] 1968623日の説教,Insegnamenti VI (1968), 1176-1178.

[6] 回勅『慈しみ豊かな神』 n.13. ヨハネパウロ二世はこうも言っている:「復活祭の神秘において [...] 神は在るがままに我々に現れる:御父は心優しく,子らの恩知らずな態度を見ても屈せず,常に赦しを与えようとしている」(ヨハネパウロ二世,Regina caeli, 1995423日,Insegnamenti XVIII, 1 [1995], 1035). また,ヨハネパウロ二世は,慈しみに対する抵抗をこう記述している:「おそらく,昔の人間の心性よりも,現代人の心性はよりいっそう,慈しみの神に逆らっているように見える.現代人の心性は,慈しみという概念そのものを人生から排除し,人間の心から除去しようとする.慈しみという語とその観念は,現代人を居心地悪くするように見える」(回勅『慈しみ豊かな神』 n.2).

[7] Regina coeli, 2008330日,Insegnamenti IV, 1 (2008), 489-490. また,ベネディクト十六世は,慈しみの力について語りつつ,こう断言している:「悪に対して限界を設けるのは,慈しみである.慈しみにおいて,神のまったく特殊な性質 神の聖性,真理の力,愛の力 が表現されている」(神の慈しみの主日の説教,2007415日,Insegnamenti III, 1 [2007], 667).

[8] famiglia [家族]という語をアクロスティキスを成すように分解してみると,教会の使命を要約する手助けになる.教会は,次のことを目ざす:

F : 愛を真摯に生きるよう,新たな世代を養成 [ formare ] すること.愛を真摯に生きる 単に快楽や「使い捨て」に基づく個人主義的目的でではなく,本当の愛,実り豊かで永続的な愛を改めて信ずるために.そのような愛は,これらのことを可能にする唯一の道である:自我から脱すること;他者へ己れを開くこと;孤独から抜け出すこと;神の意志を生きること;全的に自己を実現すること;結婚は神の愛が顕現する空間であるということを理解すること;生命の神聖性 あらゆる生命の神聖性 を擁護すること;神の恵みの徴としての,ならびに,人間の真摯に愛する能力の徴としての結婚のきづなの唯一性と解消不可能性を擁護すること (cf. シノドス開会のミサの説教,2015104) ; そして,結婚準備講座を,結婚の秘跡のキリスト教的意味を深く理解する機会として価値づけること.

A : 他者へ歩み寄る [ andare ] こと.なぜなら,自己閉鎖的な教会は死んだ教会である.あらゆる人を迎えに行き,迎え入れ,キリストへ導くという目的のために自分自身の囲いから外へ出ることをしない教会は,本来の使命と召命を裏切る教会である.

M : 神の慈しみを明らかにし [ manifestare ], 広げること 困難な情況にある家族へ;見捨てられた人々へ;孤独な老人たちへ;両親の離婚に傷ついた子どもたちへ;生きるために戦っている貧しい家族へ;我々の扉,または遠くの扉をノックしている罪人たちへ;さまざまなハンディキャップを持つ人々へ;自分の心や体が傷ついていると感じている人々すべてへ;苦しみや病気や死別や迫害によって引き裂かれたカップルへ.

I : 良心の明かりをともす [ illuminare ] こと.良心はしばしば,有害にして巧妙な幾つもの力に取り囲まれている.それらの力は,創造主たる神の座にみづから就こうとさえする.そのような力を暴き出し,それらと戦わねばならない 人間の尊厳を完全に尊重するために.

G : 教会への信頼を獲得する [ guadagnare ] こと,また,教会自身の子らの行動と罪のせいで深刻に損なわれた教会への信頼を謙虚に再建すること.不幸にも,教会の内部で幾人かの聖職者が犯した逆証言[本来の信仰の証言に対して逆効果であるような証言]とスキャンダルは,教会の信用を傷つけ,教会が発する救済のメッセージの輝きを曇らせてしまったのだから.

L : 健全な家族,信仰に忠実な家族,子だくさんの家族 日々の苦労にもかかわらず,教会の教えと主の命令への忠実さをすばらしく証言し続けている家族 を支え,励ますために,おおいに働く [ lavorare ] こと.

I : 福音に基づき,かつ文化の多様性を尊重する新たな家族司牧神学 [ pastorale famigliare, pastorale familiale ] を構想する [ ideare ] こと.そのような司牧神学は,喜びに満ちた魅力的な言葉で良き知らせ[福音]を伝えることができ,解消不可能な結婚生活を引き受けることの恐怖を若者の心から取り除くことができねばならない.引き裂かれた家族の真の犠牲者である子どもたちへ特別な注意を払わねばならない.さらに,そのような革新的な司牧神学は,結婚の秘跡にふさわしい準備を提供することができねばならない.しばしば形式の外見の方を気にかけ,生涯続く結婚生活のための教育をおろそかにしている現行の結婚準備のやり方をやめることができねばならない.

A : すべての家族を無条件に愛する [ amare ] こと.特に,困難の期間を経験している家族を愛すること.孤立していると感じたり,教会の愛と抱擁から排除されていると感ずる家族はひとつもあってはならない.本当のスキャンダルは,愛するのを恐れること,そして,愛を具現化するのを恐れることである.