2016年12月27日火曜日

2016年12月18日,第 6 回 LGBT 特別ミサでの Juan Masiá 神父様の説教

今日,12月18日は,待降節第四主日です.

今日のミサの中心点は,「この子をイエスと名づけなさい,エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです.

クリスマスの季節にわたしたちがお祝いのカードに見るマリア,ヨセフ,幼子イエスの聖家族の姿は,なじみ深いものです.でも,聖家族と呼ばれるこの家族から学び得るこれらのことがら ‒ 命の誕生,母性,父性,名づけ ‒ の深い意味を,わたしたちは十分に把握しているでしょうか?

わたしたちは,当り前のように教会用語を使って,「マリアは処女,ヨセフは名づけ親,イエスは聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれませんが,処女性とは何か,名づけ親とは何か,聖霊とは何か,と訊かれたら,何と答えましょうか?

実は,こう言うことができます:

1) ある意味で,どの親も,名づけ親であり,養父母のような面を持っている;

2) そして,どの親についても,親になって初めて,母親の処女性は深い意味を帯びてくる;

3) さらに,生まれてくる子どもは,どの子も,聖霊によって生まれる;

4) また,first name を与えられ,その名前で呼ばれるどの人間も,かけがえのない尊厳を持っており,「人間である」とか「何々人である」とか「何々の特徴を持っている」とか言うより先に,「誰々という個人だ」と言わなければならない.どの人間も,排除されたり差別されたりされるべきではない.

ヨハネパウロ 世が述べたように,「イェスの御降誕において,あらゆる人間の誕生の全的な意味もが啓示される」(『命の福音』1).

では,その意味を深めるために,マタイとルカの両福音書を合わせて読みましょう.マタイ 1,20-21 からはヨセフへのお告げを,ルカ 1,31 からはマリアへのお告げを,聴きましょう

ルカ福音書 1,31 では,お告げの物語が述べられています.マリアは目が覚めていたでしょうか,うたたねしながら夢を見たのでしょうか?夢だとしても,それは,真実を見つめさせる夢です.近いうちに結婚することになるマリアには,それに対する望みもあり,不安もあるかもしれません.マリアに,安心させる御使いが現われます.御使いは言います:「マリアよ,恐れることはない.あなたは,命をめぐまれる.あなたは,身ごもって,男の子を生む.その子をイエス(人を解放する方)と名づけなさい」.

マタイ福音書 1,20-21 では,ヨセフへのお告げが物語られています.夢ですが,彼を目覚めさせる夢です.ヨセフは近いうちにマリアを妻として迎える予定ですが,それに対する望みも不安もあります.御使いは彼を安心させます:「恐れずに,マリアをあなたの妻として迎え入れなさい.彼女の胎内に生じたものは,神の聖なる息吹によるものだ.彼女は,息子を生む.その子をイエスと名づけなさい.その子こそ,民を罪から救うであろうから」.

このようにルカとマタイを合わせて読むと気がつくのですが,マリアにもヨセフにも,ふたつのことが告げられます:ひとつは,あなたたちは子どもを授かる;もうひとつは,生まれる子どもは聖霊によって生まれる.

そして,マリアにもヨセフにも,子どもに名前をつける役割と使命が与えられます.

イエスという名前を選んだのは,神様です.その名は,御使いを通して伝えられます.そして,名前をつけるのは,父親と母親の役割と使命だ,と言われています.(当時は,父親が名前をつけるのが普通でした).

父親も母親も,新しい命である子どもを恵まれたら,まず名前をつけるでしょう.名前をつけるということは,つまり,その命を受け入れて育てることを約束する,ということです.

その意味で,どの父親も母親も,名づけ親であり,養父母だ,と言えるでしょう.

また,どの新しい命も,聖霊の息吹を受けて生まれます.どの子どもも,聖霊によって母親がみごもった結果,聖霊によって生まれる,と言えます.

その意味で,どの親も神とともに協働創造者である,と言えます.

生まれてくる子どもは,親から生まれると同時に,聖霊によって生まれるのです.

その子どもに,親は,名前を付ける.すなわち,その存在を受け入れる.そして,これからもそのように育て続けることを約束します.その子に,社会に,神に,約束します.

子どもがどんな状況のなかで生まれたにしても,どんな事情で親がその子に名前をつけ,その子を受け入れたにしても,そう言えます.親が正式な夫婦でも,そうでない同棲カップルや LGBT のカップルでも,子どもが体外受精や代理出産などで生まれた場合であっても,同じことが言えます.

名づけの重要さについて,もうひとつの観点から考えることができます.世に生まれてくるあらゆる被造物は,その誕生の状況が如何なるものであれ,侵すことのできない人間存在の尊厳を持っており,いかなる差別の対象にもなり得ない.

差別するということは,尊厳をないがしろにすることです.個人の名前のかわりに,レッテルを貼ることです.たとえば,あなたはスペイン人だから,こういうことはわからないでしょう;あなたは独身だから,この問題について語る資格はありません;あなたは LGBT だから,しかじかの権利はありません... そのように,レッテルを貼られ,差別されます.

しかし,その人は,単にスペイン人でしょうか? 単に独身者でしょうか? 単に LGBT でしょうか? いいえ,その人は,しかじかという固有名を持つ人です.その固有名で呼ばれるべき人です.次いで,その人はスペインで生まれ,独身であり,LGBT であり,さらにほかの多くの属性を有しています.

そのような属性以前に,人は,固有名と,固有の尊厳とを持っています.

今日の福音によって,わたしたちは支えられ,励まされます.親に感謝しましょう.どの人間にも,等しくかけがえのない尊厳がそなわっていることを自覚しましょう.そして生まれてくるすべての子どものために祈りましょう.

わたしたちは皆,聖霊によって親から生まれてきました.クリスマスの夜には,親に感謝,神に感謝,命の為に感謝して,グロリアを唱えましょう:天のいとたかきところに神に栄光!

わたしたちは,あらゆる妊娠において命を大切にし,誰も排除されない,誰も差別されない世の中を作って行きたいものです.地上に平和があるように,平和を作るように,努めたいものです.

2016年12月24日土曜日

降誕祭おめでとうございます ‒ ルカ小笠原晋也より

降誕祭おめでとうございます!

Λόγος [ Logos ] の受肉,主 Jesus Christ のお誕生を祝いましょう!神の子 Jesus の御降誕は,存在の真理の自己示現です.

そして,わたしたちは皆,男も,女も,性的少数者の人々も,誰もが,神の子です.神により創造されたものとしての人間は,誰もが,ひとりの χριστός christus : 聖別のために塗油された者]です.ですから,人間は,誰もが,存在の尊厳を有しています.

そのことを,わたしたちの主 Jesus Christ は,御自身の誕生を以て,証明してくださっています.神に感謝しましょう!

さて,sexual minority の人々とともに歩むわたしたち有志カトリック信者の活動 LGBTCJ にとって,2016年はとても実り多き年でした.Deo gratias !

まず,何よりも,LGBT 特別ミサ.社会的に差別されてきた人々の司牧に御理解のある神父様たちにより,今年7月から毎月一回,性的少数者限定の御ミサを立てていただけるようになりました.日本のカトリックの歴史のなかで初めてのできごとです.主の恵みに感謝します.そして,御協力くださる神父様がたに感謝します.LGBT 特別ミサは,来月からも継続されて行きます.LGBTIQ+ の人々が各人の所属する小教区の御ミサに何の気がねもなく参加することができるようになるときまで.

世界的には,先月までの12ヶ月間は慈しみの特別聖年でした.それによって教皇 Francesco は,このことを強調しました:キリスト教の根本は,律法に存するのではなく,愛に存する.誰をも排除せず,あらゆる人を包容する神の愛です.

神の律法に準拠する司牧が,律法の普遍性にこだわるあまり,例外的少数者を排斥し,差別することになるのに対して,神の愛を実践する司牧は,わたしたちひとりひとりに寄り添い,各人を個別的に導いてくれます.神の愛へ心を開く人は,誰もが救済されます.

聖パウロが強調しているとおりです : πλήρωμα οὖν νόμου ἡ ἀγάπη [すなわち,愛は,律法の完成である](Rm 13,10).

いまだに聖書の文言の断片を以て性的少数者を断罪する者たちは,このことがわかっていないのです:「イェス・キリストにおいて命を与える霊気の律法は,罪と死をもたらす律法からわたしを解放してくれた」(Rm 8,2) ; 「キリストは,わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださった」(Ga 3,13).

また,4月には教皇 Francesco は,使徒的勧告 Amoris laetitia [愛の喜び]を発表し,インタヴューにおいてだけでなく,公式文書において初めて,性的少数者を積極的に包容する司牧的配慮を明確に打ち出しました.

残念ながら,教皇 Francesco は,同性カップルに結婚の秘跡を授けることを容認するところまでは踏み込みませんでした.しかし,それを以て彼が十分に liberal でないと非難することはできません.彼は,教会の分裂を招かないよう慎重であるだけです.実際,同性婚法制化をめぐっては,幾つもの国々で世論は賛否に二分され,激しい対立が起きています.ですから,律法にこだわらないでおきましょう.異性カップルであれ同性カップルであれ,ふたりの人間が誠実に互いを愛し合うとき,それは神の愛の徴です.神は,慈しみ深く,ふたりを祝福してくださいます.それこそが,本当の結婚の秘跡です.

いわゆる gender theory に対する教皇 Francesco の批判は,LGBT 活動家たちから,性的少数者の問題に関する無理解として非難されました.しかし,それも当たっていません.教皇が言いたいのは,このことです : sexuality は,神による創造の賜であって,社会学的な人為産物ではない.

議論の混乱を避けるためには,わたしたちは性別について三つの概念を区別しなければなりません.ひとつは,生物学的な sex ; ふたつめに,社会学的な gender ; そして第三に,ontological sexuation [存在論的な性別化].この第三の性別こそが,神による創造の賜です.それは,生物学にも社会学にも還元され得ません.性的少数者に関して性別を論ずるとき,とりわけ transgender の問題を論ずるときは,わたしたちは,ontological sexuation の概念に準拠しなければなりません.それは,性に関して心身二元論を超克するための唯一の道です.

先日 80 歳のお誕生日を迎えたパパ様が,これからも笑顔で元気にカトリック教会を全包容的な神の愛の完成へ導き続けることができますように!

最後に,sexuality の問題は,女性や性的少数者の人権の問題であるにとどまりません.女性と性的少数者に対する差別を克服するための社会活動と性理論によって,このことが明らかになってきました:人間が神の愛に対して心を閉ざす悪へ陥ってしまう理由は,男性中心主義 [ androcentrism, male chauvinism ] に存する.そして,男性中心主義を動機づけているのは,家父長主義 [ patriarchalism ] であり,さらにそれを動機づけているのは,phallofascism です.

性的少数者を擁護する活動は,フェミニズムとの連帯において,男性中心的な日本社会の構造を変革する可能性を追求して行きます.そして,その際,わたしたちを導いてくれるのは,神の愛です.

また,資本主義と科学技術による支配のもとで,日本社会も世界も,人間の尊厳がますますないがしろにされる方向へ向かって行きつつあります.そのような動向に対する最も有効な批判を可能にしてくれるのも,神の愛です.

喜ばしき御降誕祭と幸多き新年を皆様とともにお祈りいたします.

神の愛の恵みがますます豊かに皆様とともにありますように!

LGBTCJ 共同代表
ルカ小笠原晋也

主の御降誕おめでとうございます ‒ ペトロ宮野亨より

主の御降誕に心からの感謝を捧げ,皆様と一緒にお祝いします!

わたしはこの数年,聖体拝領で,ひとつの「気持ちと心」を味わえるように,神に願い続けています.それは,御聖体の形にまでなって,わたしの中に入ってきてくださる主イエスの「気持ちと心」です.

これだけを噛みしめて味わいます.

これにより深まるわたしの中身は,「神を愛する気持ちや心もすべて神からいただいているから,神を愛せる.自分の力ではない.わたしはただの器」という実感です.

わたしは神に愛されているから,神を愛する「愛」や人を愛する「愛」を神はすべて常に下さっている,と実感しています.

では,クリスマスでは,どうでしょうか.赤ちゃんにまでなって,わたしたちに現れてくださった主イエスの「気持ちと心」は,例えばどんなでしょうか?

非暴力,無抵抗,堕胎拒否,LGBT 賛美,命そのもの... この他にも沢山あるでしょう.

わたしが最も感謝しているのは,「親が赤ちゃんに捧げる無償の愛を,三位一体の御交りは天国から見ていて,羨ましくなって,赤ちゃんになってその愛を実感したかった」という恵みです.人に愛される実感を神が感じたがっているという恵みです.

この他には,聖マリアは,わたしたちと同じ質素なありふれた女性です.特別ではない普通の人間に,神は御計画を打ち明けています.それも,聖堂の中ではなくて,マリアが家でくつろいでいるときに,神は,その日常生活のなかに来て,愛を打ち明けます.

自宅のなかに神がドアを開けて入ってくる情景は,わたしの心の扉を神が開けて,わたしの部屋に入ってきてくださる情景と一致します.

ある神父様は,「神を,生活の場や日常の些細な出来事のなかに感じないならば、それは単に神を理性で捉えているだけで、まだ命の神と出逢い触れ合っていない」と言っています.

アビラの聖テレサは「神は台所の鍋のなかにもおられる」とわたしたちに諭しています.「罪に較べて無限に偉大な神の愛を,いつも感じて,頼りましょう」と言っています.

わたしがスゴイなと感じるマリア様は,「何故,そのご計画がわたしなんですか?」と素直に本質的な質問を神にしています.神にいつも尋ねて答えや恵みをいただく信徒の姿を,わたしたちに教えてくれます.

神は,わたしが常に問いかける存在です.「何故わたしは○○○なんですか?」と問いかけます.

御復活祭前後に過越の神秘を祈るとき,わたしの問いに答えて,主はいつもメッセージをくださいます:「わたしはあなたのために死んだ.わたしに従いないなさい」と.

クリスマスのときのわたしへの答えは,「わたしはあなたのために生まれた.わたしに従いなさい」です.

三位一体の御交りとの交りを感じるクリスマスでありますよう,皆様のため,心から祈ります.

皆様に感謝をこめて,

LGBTCJ 共同代表

ペトロ宮野亨

2016年12月21日水曜日

12月18日の LGBT 特別ミサでの共同祈願

昨日,12月17日は,教皇 Francesco の80歳のお誕生日でした.パパ様は,2013年3月の就任以来,同性愛を断罪してきた従来のカトリック教会の態度を改めて,性的少数者に対しても包容的な司牧をするよう,機会あるごとに強調してくださっています.神の愛は,誰も排除せず,あらゆる人を包容します.神の愛に忠実であることができるために,これからもパパ様が笑顔で元気にカトリック教会を導き続けることができますように.

今年,性的少数者の司牧のために御理解のある神父様がたのおかげで,わたしたちは毎月,LGBT 特別ミサを立てていただくことができるようになりました.主の恵みに感謝いたします.また,御協力くださる神父様がたに感謝いたします.来年も,より多くの性的少数者の人々が,「あなたは神に愛されている」という福音の喜びのうちに救われることができますように.

東京以外のところで,性的少数者のために司牧してくださっている神父様たちと,その御ミサに与っている人々のために祈ります.また,わたしたちの友人,平良愛香さん,中村吉基さん,上野玲奈さんを始めとする LGBT プロテスタント牧師さんたちと,その礼拝に与っている人々のために祈ります.彼ら彼女らの上に主の恵みがますます豊かにありますように.彼ら彼女らのひたむきな努力によって,日本じゅうの性的少数者の人々へ神の愛のメッセージが伝わりますように.

12月01日は,世界 AIDS Day でした.今までに AIDS で亡くなった兄弟姉妹たちのために祈ります.彼ら彼女らは,神の愛につつまれて,天の御国で安らいでいます.また,現在治療を受けている兄弟姉妹たちのために祈ります.病状ができるだけ安定し,日常生活を平穏に送り続けることができますように.今後,AIDS の治療方法がさらに進歩して行きますように.新たな HIV 感染者の数が減って行きますように.

さまざまな事情から今日の御ミサに与ることができない兄弟姉妹たちのために祈ります.主は,社会のなかで辺縁に追いやられた人々をひとりも見捨てません.誰も排除せず,あらゆる人を包容する神の愛の恵みが,今日これなかった兄弟姉妹たちに豊かに注がれますように.また,主によって今日ここに集う幸せを恵み与えられたわたしたちが,ひとりでも多くの兄弟姉妹たちへ神の愛の福音を伝えて行くことができますように.

ルカ小笠原晋也

2016年12月20日火曜日

台湾における同性婚法制化問題をめぐる社会対立のなかで,ひとりのカトリック同性愛者は言う:「愛において我々は何も恐れない」

アジアで最も LGBT friendly な国のひとつと言われている台湾で,同性婚法制化法案が議論され,世論は賛否半々に二分されています.

Tsai Ingwen(蔡英文)総統は,同性婚法制化に賛成する若い世代の支持を受けて2016年 1 月に選出され,5月に就任しましたが,保守派の反発を恐れて,この問題に関する態度を明確にしていません.

台湾で同性婚法制化が急に政治課題となったきっかけは,或る自殺でした.国立台湾大学のフランス文学教授 Jacques Picoux は,約40年間連れ添った同性パートナー Tseng Chingchao が癌で亡くなる際に,医療に関する意志決定にも死後の遺産相続にも関与することができず,今年10月,自殺しました.この痛ましい事件が,同性婚法制化の動きを急加速させることになりました.しかし,それに対する反発も引き起こすことになりました.

台湾でキリスト教徒の数は総人口の約 4.5 % であり,カトリックとプロテスタントが半々です.キリスト教は,少数派ではありながら,クリスチャンである政治家や知識人の存在のため,社会的影響力を持っていると言われています.

台湾のカトリック司教たちは同性婚法制化に反対の意見を表明していますが,若いカトリック信徒のなかには賛成する人々が多いようです.

わたしたちも,亡くなった Tseng Chingchao と Jacques Picoux のために祈りましょう.また,台湾の人々が神の愛のもとに対立を乗り越え,少数者の権利を尊重する全包容的な社会を築いて行けるよう祈りましょう.

ところで,同性婚法制化をめぐる社会対立の激化のなかで,我々の友人 Frank Wang さんは,12月04日付の Taipei Times にすばらしい意見記事を発表しています.是非日本の皆さんにも読んでほしいと思い,邦訳しました.翻訳を快く承諾してくれた Frank Wang さんに感謝します.




なお,Taipei Times は表題を "Catholics must accept gay marriage"[カトリック信者たちは同性婚を容認せねばならない]としていますが,これは執筆者の意図どおりではありません.Frank Wang さんが付けた原題は "In Love We Have No Fear"[愛において我々は何も恐れない]です.

Taipei Times, 2016年12月04日付記事

愛において我々は何も恐れない


執筆者 : Frank Wang(王增勇,国立政治大学ソーシャルワーク研究所副教授)


同性婚は,カトリック教会内で賛否が両極端に分かれる問題である.わたしは,この論戦に巻き込まれたカトリック教会の一世俗信徒として,「怒りのせいで愛を忘れたカトリック信者」にはなるまいと努めている.

神は,我々を皆,愛しており,誰をも遠ざけようと思ってはおられない.各人の人生は,ちょうど聖書のようである: 我々は皆,神から霊気を受けている.

それは,「我々は,聖書を武器にして,真理と理性を独占しており,我々だけが人々すべてに対して審判をくだすことができる」という意味ではない.もし心が愛に満ちていないなら,言葉は虚ろに響くだけだ.したがって,重要なのは,神の命令:「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」に従って,同性婚問題を再検討することである.

神は,わたしを同性愛者として創造なさった.しかしそれは,神がわたしを他の人々より愛していないという意味ではない.それどころか,わたしが同性愛者であるということは,わたしに与えられた最大の祝福である.

わたしは,カトリック信仰のせいで同性愛者である自分を嫌悪する,ということにはならなかった;むしろ,神の無条件な愛によって,わたしは,あるがままの自分を受け入れる勇気を与えられた.

わたしも最初は自分を受け入れることができなかった.同性愛者であるせいで,大切に思っているものすべてを失ってしまうことになるのではないかと恐れていたからだ.しかし,神の愛は,恐れることはない,とわたしに教えてくださった.

同性婚問題を論ずるとき,カトリック信者は,「愛するとき,怖いものは何も無い」という根本的な論点に準拠すべきである.

多数のカトリック信者が同性婚に反対する潜在的な理由は,内在的な不安感である.社会秩序が失われてしまうのではないか,子どもたちに悪影響があるのではないか,今まで慣れ親しんできた世界がなくなってしまうのではないか,という恐れである.

しかし,信仰は我々にこう教えている:他者の苦しみに目をつぶることはできない,なぜなら,十字架上でイェスはたいへん苦しまれたから.今日,同性愛者たちが苦しんでいるのを見るとき,我々は,イェスの苦しみを思い出すべきである.少数者たちが犠牲にされるのは,「彼らは我々とは違う」という思いが不安にさせるからだ.この不安感が自身の内にあることを認めることによってのみ,我々は,神の愛を実践することができる.

教皇フランシスコは既に,同性愛者たちに対するカトリック教会の従来のふるまいについて謝罪した.

同性愛についてわたし自身が以前に感じていた不安を,ここで分かち合いたい.わたしは常々こう懸念していた:もしわたしが同性愛者なら,両親はとても悲しむだろう,特にわたしは一人息子だから.

また,こうも懸念していた: 友人たちはわたしから離れて行くだろう,わたしが「不道徳」で「ふしだら」なことをしているという理由で.わたしは,そうしたいと思っても,隣人を助ける仕事に身が入らなかった.同性愛者から助けてもらいたいと思うような人は誰もいないだろうから.

そのような自己否定をしている間,わたしは,異性愛の関係を持とうと試みた.しかし,自分自身に誠実ではなかったので,当時のガールフレンドに与えることができた感動もニセモノにすぎなかった.彼女に近しくあろうとしても,わたしは躊躇してしまい,彼女にわたしのすべてを与えることができなかった.ふたりの関係は,わたしたち双方を傷つけて終わった.今に至るまでなおも,わたしはそのことを恥ずかしく感じている.

わたしは,神によって同性愛を「直して」もらおうとした.しかし,祈りにおいて,わたしは,神がわたしを受け入れてくださり,愛してくださっていると感ずることができた.ついに,わたしは,不安のうちに生き続けることをやめた.自身と他者を欺く生活は二度としない,と誓った.

もし仮に「神は異性愛夫婦の愛にしか祝福を与えない」と信じていたなら,わたしは多分,もう既に異性と結婚していただろう.しかし,わたしも妻も,性的な欲望を満たすことができず,きっと後悔と自責の念を抱き,その苦痛の重荷を相手に背負わせることで終わっていただろう.そのような不幸な結婚生活のなかで育つ子どもが,どうして健康なおとなになり得るだろうか?

教皇は最近,人々に警告した:「敵意の伝染病」に毒されることのないように,そして,憎悪をあおるレッテル貼りをしないように,と.同性婚に関する論争によって,多くのカトリック信者がやるせない気持ちになっている.分裂によって不安が撒き散らされ,対立が生み出されたからだ.互いに愛し合うかわりに,キリスト教徒たちは,憎しみにより分裂してしまっている.

わたしは,カトリックの兄弟姉妹たちに言いたい:あなたたちが今感じている不安を,わたしもかつて感じていた.しかし,同性婚を許容することによって,あなたたちは,次世代がより良く互いに愛し合うのを学ぶことを可能にするだろう.同性婚を認めても,次世代が同性愛の世代になるわけではない.

同性愛者たちは,異性愛者の世界のなかで,自分は人間だと感ずる資格が認められるだろうという希望を持つことができない:それが,同性愛者の感ずる最大の苦痛である.どうか,わたしたちが神の愛へ立ち戻れるようにしてほしい.どうか,神を手本にして,学んでほしい,誰をも遠ざけず,他者に希望を与え,同性愛者に愛を与えることを.そして,同性愛者に知らせてほしい,彼ら・彼女らの愛も神に祝福されている,ということを.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2016年12月13日火曜日

『いのちへのまなざし』改訂版に LGBT について書いてくださる Masiá 神父様へ,性的少数者の気持ちを伝えましょう

2001年に司教団メッセージ:『いのちへのまなざし』が出版されました.



その内容は:

第一章: 聖書からのメッセージ

第二章: 揺らぐ家族
  夫婦について
  性と生殖,そして家庭
  親子について
  高齢化社会を迎えて

第三章: 生と死をめぐる諸問題
  出生前診断と障害者
  自殺について
  安楽死について
  死刑について
  生命科学の進歩と限界
  脳死と臓器移植
  ヒト胚の研究利用,人間のクローン,遺伝子治療
  環境問題

つまり,21世紀における生命倫理の諸問題に関するカトリック教会の考え方が述べられています.この本は,カトリック系の学校で副読本としても用いられていました.

しかし,今年で出版から15年が過ぎ,内容が部分的に社会の現状から遅れたものになってしまったので,現在,改訂版の準備が進められています.

特に,初版ではまったく扱われなかった性的少数者の問題が,今度は取り上げられることになっています.その執筆は,Juan Masiá 神父様 SJ が担当なさる予定です.

Masiá 神父様が司式してくださる12月18日の LGBT 特別ミサの後の集いでは,新たな『いのちへのまなざし』に性的少数者についてどのような内容を盛り込んで欲しいかに関する皆さんの御意見や御要望を,神父様に聴いていただきたいと思っています.

御ミサにいらっしゃる方は,その場で直接,神父様にお話ください.

いらっしゃれない方は,LGBTCJ 宛ての e-mail で,お考えをお知らせください.わたしたちが神父様へお伝えします.

ルカ小笠原晋也

2016年11月29日火曜日

2016年12月の LGBT 特別ミサのお知らせ

2016年12月の第6回 LGBT 特別ミサについてお知らせします:

日時 : 12月18日(日曜日) 13:30 - 14:30

場所:都内(参加申込の方にのみお知らせします)

司式 : Juan Masiá(ホァン・マシア)神父様 SJ




マシア神父様は,周知のとおり,長年,上智大学や Comillas 教皇庁立大学で,人間学や生命倫理の教授をなさってきました.

避妊や妊娠中絶に関して,保守派のように一律に律法をふりかざすのではなく,教皇 Francesco と同様,苦悩をかかえた人々ひとりひとりに慈しみを以て寄り添い,ともに歩んで行くことを重んじていらっしゃいます.

今は,カトリック中央協議会の「正義と平和」協議会の「死刑廃止を求める」部会の長として,死刑廃止運動に積極的に取り組んでいらっしゃいます.

性的少数者の人々の苦悩に関しても御理解のあることは,言うまでもありません.

マシア神父様が LGBTIQ+ の皆さんとともに立ててくださる御ミサに,是非お出でください.

ミサ後の集いでは,マシア神父様を囲んで,性的少数者をカトリック教会へより良く包容するために何が必要とされているかを,LGBTIQ+ の皆さんとともに考えて行きたいと思います.

参加申込は こちら から.


2016年11月28日月曜日

2016年11月27日,Sali Augustine 神父様の司式により第五回 LGBT 特別ミサが行われました

2016年11月27日,第五回 LGBT 特別ミサが,予定どおり,都内で行われました.

この御ミサを可能にしてくださった主の恵みに感謝します.

司式してくださった Sali Augustine 神父様 SJ に感謝します.神父様は,上智大学教授としての業務が非常にお忙しいなか,LGBT 信徒の司牧のためにお時間をさいてくださいました.

そして,ボランティアで手話通訳をしてくださった方に感謝します.

11月27日は,待降節第一主日でした.典礼歴では新たな一年の始まりの日です.

福音朗読では,「目覚めていなさい」と強調されています: いつ終末が到来してもよいように,いつキリストの再臨が起きてもよいように,常に目覚めていなさい.

Sali 神父様は,三つのサンスクリット語の表現を紹介してくださいました.それらをここでサンスクリット語のまま再現することはできませんが,神父様によると,意味はこうです: 闇から光りへ,偽りから真理へ,死から永遠の命へ.

サンスクリット語で「ブッダ」(Buddha) は「目覚めた者」です.その語源 bodhi は「目覚め」です.bodhi は,中国語では「菩提」と音転記されています.日本語で言う「悟り」です.

目覚めは,闇から光りへ,偽りから真理へ,死から永遠の命への目覚めです.

そのような目覚めに,ブッダは,長年の身体的苦行の果てに死にかけたときにスジャーターにより施された乳粥を食して蘇り得たことにより,到達した,と仏教説話には伝えられています.

他方,主に信頼するわたしたちには,そのような目覚めは,神の愛により,イェス・キリストにおいて,救済として恵み与えられています.

Sali 神父様は,ひとつの譬え話をしてくださいました:



昔,ある女が,毎日,天秤棒を両肩にかついで,川へ水を汲みに行っていた.天秤棒から下げられたふたつの瓶のうち,片方には小さな穴が開いており,川で一杯にしても女が家に着くときには水の半分はそこから漏れ出てしまう.穴の開いていない瓶は,穴の開いた瓶を,役立たずとバカにし,いじめていた.穴の開いた瓶は,ついに耐えきれなくなり,女に言った:「わたしは役立たずです.わたしを壊してください」.女は,穴の開いた瓶を連れて,毎日天秤棒をかついで通る道へ出て,言った:「ごらんなさい,道の両側のうち,あなたの側には,あなたから漏れ出た水のおかげで,何とたくさんきれいな花が咲いていることか」.その道を毎日通っているのに,穴の開いた瓶はそのことにまったく気づいていませんでした.女の愛のおかげで,初めて,穴の開いた瓶は目覚めることができました.

第二朗読で,聖パウロは言っています:「あなたたちは知っています,如何なる時にわたしたちがいるのかを:今や,眠りから覚める時です.実際,今日,救済は,わたしたちが信じ始めたときよりも,もっとわたしたちに近いところにあります」(Rm 13,11).

常に目覚めていることができますように.目覚めを恵み与えてくださる主に感謝して,祈りましょう.

ルカ小笠原晋也

教皇 Francesco による「六つの幸福」

教皇 Francesco による「六つの幸福」

2016年11月01日,Malmö の Swedenbank Stadion におけるミサの説教から


Beati coloro che sopportano con fede i mali che altri infliggono loro e perdonano di cuore ;

幸いなり,他者が加えてくる苦痛に信仰を以て耐え,こころの底から赦すことのできる者らは;


beati coloro che guardano negli occhi gli scartati e gli emarginati mostrando loro vicinanza ;


幸いなり,社会から拒絶され,辺縁に追いやられている者たちの目を見つめ,彼ら彼女らに近しさを表明する者らは;

beati coloro che riconoscono Dio in ogni persona e lottano perché anche altri lo scoprano ;

幸いなり,あらゆる人のなかに神を認め,かつ,そのことをほかの人々も気づくよう努める者らは;

beati coloro che proteggono e curano la casa comune ;

幸いなり,全人類の共同の家である地球のエコロジーを守り,救う者らは;

beati coloro che rinunciano al proprio benessere per il bene degli altri ;

幸いなり,他者のために自身の安穏を断念する者らは;

beati coloro che pregano e lavorano per la piena comunione dei cristiani.

幸いなり,キリスト者たちどうしが十全に交わることができるよう,祈り,働く者らは.

Tutti costoro sono portatori della misericordia e della tenerezza di Dio, e certamente riceveranno da Lui la ricompensa meritata.

それらの者は皆,神の慈しみと優しさを担う者であり,確実に,神によってふさわしく報われるでしょう.

2016年11月21日月曜日

慈しみと包容 : 2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での教皇 Francesco の説教

神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する.God's love excludes nobody, but includes everybody.

この命題は,わたしたち LGBTCJ の旗印です.

以下に御紹介する説教において,教皇 Francesco は,キリスト教における包容の本質的な重要性を強調しています.性的少数者のことを直接には話題にしていませんが,包容の鍵言葉のもとに,教皇は,LGBT 差別を含む如何なる差別をも許さない彼の司牧姿勢を明確化しています.

なお,inclusion という語が「包摂」と翻訳されているのをときどき見かけますが,わたしたちは以前から「包容」と訳しています.

慈しみと包容


2016年11月12日,慈しみの特別聖年の接見での教皇 Francesco の説教


親愛なる兄弟姉妹の皆さん,こんにちは!

土曜日に行われてきた特別聖年の接見も,今日で最後です.そこで,慈しみの重要な側面を指摘しておきましょう.それは,包容 [ inclusion ] です.

実際,神は,愛の御計画において,誰をも排除しようとはせず,而して,すべての者を包容したいと思っておられます.

例えば,神は,洗礼をとおして,キリストにおいて,我々皆を神の子としてくださいます.つまり,キリストのからだは教会であり,我々はその手足です.

その同じ基準を,我々キリスト者は用いるよう招かれています.

慈しみとは,このように行うことです:すなわち,慈しみにおいて,我々は,我々自身のうちへ – 我々の自己中心的な安心のうちへ – 閉じこもることを避け,他者を我々の生のなかへ包容しようとします.

先ほど朗読されたマタイ福音書の一節において,Jesus は,ひとつの本当に普遍的な招きを我々に向けて発しています:「皆,わたしのところに来なさい.あなたたちは皆,重荷を背負って苦しんでいる.そのようなあなたたちに,わたしは安らぎを与えよう」(11,28). この呼びかけから排除される者は,誰もいません.なぜなら,Jesus の使命は,あらゆる者に御父の愛を啓示することだからです.

我々の側が為すべきことは,心を開くことです.Jesus に信頼し,この愛のメッセージを受けとめることです.そうすれば,救いの神秘に入ることができます.

包容という慈しみのこの側面が明らかになるのは,排除せずに – 人々を,その社会的身分や言語や人種や文化や宗教に基づいて分類せずに – 受け容れるために両腕を大きく開くときです.

そのとき,我々の前には,ひとりの愛するべき人がいます – 神がその人を愛しているように,我々もその人を愛するべきです.我々が仕事で出会う人,近所で出会う人は,神がその人を愛しているように我々も愛するべきであるひとりの人です.

異なる国の出身であり,異なる宗教の信者であっても,神はその人を愛しており,我々もその人を愛するべきです.それこそが「包容する」ということです.それこそが包容です.

今日,どれほど多くの抑圧され,疲れ切った人々に出会うことか!通りでも,公的機関でも,病院でも... それらの人々ひとりひとりの顔に Jesus は目をとめます – 我々の目をとおして.

そのとき,我々の心はどうであるか?慈しみ深いか?我々の考えは,行いは,包容的であるか?

福音書は,ひとつの偉大な包容の御業(みわざ)の計画を人類の歴史のなかに認めるよう,我々に呼びかけています.その御業は,各人に呼びかけています:各人,各共同体,各民族の自由を完全に尊重しつつ,正義と連帯と平和において,兄弟姉妹としてひとつの家族を形成するように,そして,キリストのからだである教会のメンバーとなるように,と.

疲れ切った人々を,Jesus は,安らぎを見出すために彼のところへ来るよう,招いています.この彼の言葉は,なんと真であることか!

十字架の上で大きく広げられた彼の両腕は,このことを証しています:彼の愛と慈しみから排除される者は誰もいない.最も大きな罪を犯した者でさえ排除されていない.誰も!我々は皆,彼の愛と慈しみのなかへ包容されています.

Jesus のなかへ迎えられ,受け容れられている,と感じさせてくれる最も直接的な表現は,赦しの表現です.

我々には皆,神によって赦される必要があります.そして,我々には皆,我々が Jesus のところへ行くのを – Jesus が十字架の上で我々に与えてくれた贈りものに対して我々が自身を開くのを – 手伝ってくれる兄弟姉妹と出会う必要があります.

互いに壁を高くしあうのはやめましょう!誰も排除しないようにしましょう!

そうではなく,謙虚に,素朴に,御父の包容的な慈しみの道具になりましょう.御父の包容的な慈しみ:それです!

死んで復活したキリストの大きな抱擁を,聖なる母なる教会がこの世において継続して行くことができますように.この San Pietro 広場の柱廊も,キリストの抱擁を表現しています.

他者を包容するこの動きが我々に触れてくるにまかせましょう – 神が我々ひとりひとりを迎え入れてくださる慈しみの証人であるために.

2016年11月6日日曜日

教皇 Francesco は言った:司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い

2016年10月30日,James Martin 神父 SJ に対するアメリカの LGBT カトリック団体 New Ways Ministry による Bridge Building Award [架け橋賞]授賞式の際に,教皇 Francesco の元教え子 Yayo Grassi 氏(68歳)は,教皇が彼にこう言ったと証言しました:

「司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所は無い」.

cf. https://newwaysministryblog.wordpress.com/2016/11/01/there-is-no-place-for-homophobia-pope-francis-told-gay-former-student/





Yayo Grassi 氏は高校生時代,教職に就いていたイエズス会士 Bergoglio 神父の教え子のひとりでした.Grassi 氏が同性愛者であることを,Bergoglio 神父は当時から承知していました.ふたりの友情関係はその後もずっと続いており,2015年9月の教皇訪米の際には,教皇は,Washington DC の Vatican 大使館に Grassi 氏とその同性パートナーを迎え,個人的に会談しています.

2010年にアルゼンチンで同性婚が法制化された際,Grassi 氏は,ブエノスアイレス大司教 Bergoglio 枢機卿が修道女たち宛ての書簡のなかで同性婚を厳しく非難していると報道されているのを見て,驚きました.彼の知る Jorge Bergoglio は,そのようなことをする人ではなかったからです.そこで彼は,e-mail で,恩師に真意を問いただしました.それに対して Bergoglio 大司教は,Grassi 氏の表現によると,こう返答しました:

「わたしを信じてください.報道されているようなことをわたしは全然言っていません.わたしは,修道女たちに宛てた二通の手紙で,同性婚について何も意見表明をしないようにと彼女たちに要請しました.そこでわたしが述べた言葉を歪曲して,新聞は報道したのです」;「わたしを信じてください.司牧者としてのわたしの仕事のなかに,homophobia が占める場所はありません」.

教皇 Francesco の個人的な発言に関する Grassi 氏の以上の証言は,最近の LGBT friendly な教皇の発言とも整合的であり,作り話と疑う理由はありません.

むしろ,今年5月にイタリアで同性カップルの civil union が法制化されるに至る過程で同性婚反対派により幾度か引用された「2010年に Bergoglio 大司教は同性婚を非難していた」という話の真相が,このたびの Grassi 氏の証言により明らかになりました.

2016年11月1日火曜日

LGBT 特別ミサ 第五回

この11月の LGBT 特別ミサは,27日(日曜日)13:30 から都内で行われます.(正確な場所は,参加をお申込みの方にのみお伝えします.)

今回司式してくださるのは,Sali Augustine (サリ・アガスティン)神父様 SJ です.



アガスティン神父様は,12使徒のひとり,聖トマスが伝道したと言い伝えられるキリスト教の伝統が生きているインドの Kerala 州の御出身です.1997年に来日し,現在,上智大学総合グローバル学部の教授です.

インドでは,キリスト教徒は少数派であり,多数派のヒンズー教徒から迫害されたこともありました.そのような少数派に御自身も属するアガスティン神父様は,民族や宗教を理由にして起こる共同体間の対立や紛争の現実,ならびに平和構築の可能性を,研究主題にしています.

性的少数者が社会のなかで如何なる立場に置かれているかについても,御自身のインド社会における少数者としての経験にもとづき,共感してくださっています.


御ミサの後は,いつものように,分かち合いの集いがあります.よろしければ御参加ください.

お問い合わせ,ならびに,参加申込は e-mail で 
lgbtcj@gmail.com へ,

または,電話:

090-1650-2207(ルカ小笠原晋也)

080-1307-3910(ペトロ宮野亨)

へどうぞ.

2016年10月29日土曜日

晴佐久昌英神父様の2016年10月23日の LGBT 特別ミサにおける説教

晴佐久昌英神父様の20161023日の LGBT 特別ミサにおける説教


(前日,1022日は,晴佐久神父様の59歳の誕生日でした).

(...)[わたしが]小学校1年になったときには,神父が我が家にやってきて,「もう1年生になったんだから侍者をやってもらう.ラテン語を覚えてください」.そうして,[神父が]我が家に通ってきては,[わたしは]ラテン語をたたき込まれた.「« dominus vobiscum » と言ったら,« et cum spiritu tuo » と答えるんですよ」.そう教わって,小学校1年生,ただただラテン語を覚えた.

あれはほとんど虐待というか洗脳というか... しかし,それは何と甘美な洗脳であり,何と聖なる虐待だったか.わたしは,そのおかげでカトリックの信仰をたたき込まれ,やがて神父にもなり,ミサに仕えて一生をささげたいと,そう願って今日も生きております.(...)

わたし,昨日59歳になりました.(拍手)ありがとうございます.

59年.おやじが,ぼくが神学校に入る前の年,50歳で死んだとき,自分も50歳まで生きられるだろうかと思った.

「神様,もし生きることができるとしたら,後は,父さんができなかった分まで代わりにぼくが働く」と,そう神様に約束した.おやじにもそう言った.もう死ぬ数週間前,「ぼくは来年神学校に入るから,父さんも頑張って」.

おやじはぼろぼろ泣いて,うれし涙かと思ったら,悔しいって泣いた.もうそれはわたし,すぐにわかった.息子が神父になった姿を自分はもう見ることができない,その悔しさですね.もう彼は死ぬことを知っておりました.

だから,わたしは言った.「自分が神父になったら父さんのおかげだ,父さんの分まで頑張る,約束する」と,そう申し上げた.その約束は決して揺るがすことはできない.(...)

わたしは,もう小さなころから注意欠陥障害を抱えておりましたし,おちついていることができない.いつも思ったことを好きなようにやってしまう.自制心がない.うろちょろうろちょろ遊び歩いていて,いつも叱られていた.(...)

わたしは,[或る教会付属の]聖ペトロ幼稚園の出身です.(...) 父はわたしにペトロという霊名をつけた.

教室にいない子供で,いつも先生に心配をかけておりましたが,わたしは幼稚園,楽園のように覚えております,楽しかった.先生たちが忍耐し,みんなが受け入れてくれて,それでわたしは自尊心を失うことなく,こんなふうにおっちょこちょいで失敗ばかりで,どうしようもない自分だということを知りながらも,「それでもいいんだ」という自分の信仰の原点は,そこで学びました.

みんな,わたしを受け入れてくれた.教会の人たち,特に両親.ミサの途中もおちつかないで,それでも精いっぱいじっとして,しんとした気持ちでお祈りしておりましたけれども.

悪餓鬼というんですか 急に思い出しました 友達と,いただいた御聖体を口の中でどれだけ溶かさずに持っていられるか,そういう競争をした.口でいただいたでしょう,舌の先に載せられたのを口の中で浮かしたままずーっと保って,ミサが終わった後,聖堂の外でせーのでみんなでべーっと出して,誰のが一番丸く残っているか.これも叱られたね,何をやっているんだ,と.

でも,楽しいこと,おもしろいこと,いっぱいあった教会.悪餓鬼でしたし,おっちょこちょいでしたし,でも,みんな受け入れてくれた.

わたしにとって教会は,どんな自分でも受け入れてもらえるという天国でありました.両親がそのような両親でしたし,教会がそのような教会でしたし.

神父になって,もう 30 年になるんですね.わたしはひたすら,「どんなあなたでも大丈夫だ,神様はあなたを愛している,神様はあなたに何も求めていない,あなたがいるだけでうれしいんだ,なぜなら神はあなたを望んで生んだからだ」と,そう福音を語り続けてまいりました.どこに行っても福音を語ってきた.

今週だって講演会,四つあったんですよ.火曜日,四谷,水曜日,竹橋,福岡市,金曜日だ.昨日土曜日は鎌倉.それぞれ切り口は違えど,どこに行ってもわたしは福音を語り続けてきた.

あなたを望んで生んだのは神だ,あなたの原点は神の内にある,あなたがどういうあなたであろうとも,何をしていようともいなくとも,あなたがどこにいようとも,いつになっても,あなたの原点は神の内にある.何も恐れることはない,あなた自身が神の喜びであり,神の親心の内に永遠なる命をいただいていて,やがてほんとうのあなたとして神の内に生まれていくんだ.ただただその神様にのみ信頼して,「こんなわたしを愛してくれている神様,ほんとうにありがとうございます,すべてをあなたに委ねます」と,そう祈って生きていく.何とすばらしい人生.

わたしはその福音をどこに行っても語り続けてまいりましたが,その原点は[子供時代の教会に]あります.カトリック教会.誰をも受け入れて,みんなが,「わたしがここにいることはすばらしい」と言える,そんなキリストの教会が,確かにありました.わたしはそこで育てられました.

父に約束したとおり,父がやりたかったこと,「我が家が教会だ」と言い続けて,みんなを集め続けて,みんなに純粋に大盤振る舞いをし続けた父.ただただもてなし続けて50歳で死んでいった父の後を継ぐのはわたしだと,そんな思いで今も教会のことをしております.

昨日,鎌倉でやった講演会は,精神障碍者のグループの講演会で,福音を語りました.

ひとりの方が,そのことがすごくうれしかったらしく,お昼のお弁当の後でわたしのところに来て,「自分は統合失調で長く苦しんできたけれども,その苦しみはほんとうに大変でしたけれども,今日この話が聞けて良かった」,そう言ってくれた.わたしは福音を語って良かったなとすごくうれしく思いました.その後でまた講話をして,午後帰る前のときに,彼は立って,みんなに証しをしました.「自分はほんとうに長い間苦しんできたけれども,病気になったおかげで信仰に出会い,洗礼を受けることができた,病気になったおかげでこの会にも加わり,今日もこの福音を聞くことができた,病気になったおかげで晴佐久神父さんに出会って,今日はほんとうに自分がどれほど幸せかということを感じた,わたしは病気になってほんとうに良かったと思います」と,そうおっしゃった.

わたしは,そのような言葉を聞けただけで,昨日ちょうど誕生日でありましたが,最高のプレゼントをもらった気持ちになりました.

永遠なる神様が,全能の神様が,すべての我が子を天地創造の始めから,どうしてもいてほしいと望んで生み,愛して育てて,今日もここに集め,こうしてわたしたちをひとつにしてくださっていること,この事実を前に,もう語る言葉もないとわたしは感動いたします.

59年前の1022日,わたしもこの世にオギャーと生まれてまいりました.それはわたしの原点です.それは,神の望みによるという原点です.

神の望みにわたしは,何ひとつ付け加えることも,差し引くこともしたくない.このわたしが神の喜びであるという,その確信を持って,これからも福音を語り続けてまいりましょう.

目を天に上げようともせず,胸を打ちながら祈ったひとりの徴税人,その心はどれほど平和か.「神様がこのわたしを愛している,この罪人を赦してくださっている,神様がこのわたしをつくり,神様が今ここに,このわたしを生かしてくださっている.天の父よ,あなたにすべてを委ねます,どうかこの弱いわたしをあわれんでください,あなたのあわれみの中でわたしは生きてまいります」.そう祈る徴税人の心は平和です,恐れがない.信頼と希望.聖なるミサです.

わたしたちひとりひとり,自分の胸に手を当てて,「主よ,あわれみたまえ」と祈ります.でも,そのとき,神様はほんとうに喜ばれる.

「義とされて家に帰ったのはこの人だ」とイェス様はおっしゃいました.義とされる,神様の思いにかなって,神様の喜びとなり,「ああ,ほんとうにこの子を生んで良かった」と神様が思う瞬間.

「天の父よ,こんなわたしをあわれんでください,わたしはあなたの子供です,あなたにすべてを委ねます」と,そう祈るとき,神様は喜ばれる.

聖なるミサにおいてわたしたちが最も為すべきことは,今ここで神がこのわたしを喜びとしてくださっていると信じて,安らぐことです.

皆さんもいろいろな思いを抱えておられるでしょうが,病気になって良かった,障害を抱えて良かった,罪人で良かった,こんなわたしで良かった,あんな失敗をして良かった,みんなから責められてほんとうに良かった  なぜなら,あなたのみもとで「主よ,あわれみたまえ」と祈れるから.「天の父よ,このわたしを  感謝します」と,そう祈ります.

2016年10月19日水曜日

SpiritDay – 性的少数者である子どもたちに対するいじめをやめさせるために

思春期は誰にとっても多かれ少なかれ人生の苦悩の時期ですが,特に性的少数者にとっては,思春期に sexuality の問題がよりいっそう深刻になります.Transgender の人々は,思春期よりずっと前から,言葉を話し始める満 1, 2 歳の幼児期から,自身の生物学的性別とは異なる性別を生きていることによる違和感に悩まされますが,やはり二次性徴が身体に現れてくる思春期に違和感はさらに強まります.

そして,性的少数者のうち少なからぬ人々が,学校などにおける偏見といじめに苦しめられます.その問題は,今年の 1月に NHK の或る番組でも取り上げられました.そこで紹介されている2014年に行われた或る調査の結果は次のとおりです:




深刻に受けとめるべき調査結果です.

全体主義的な傾向の強い日本社会は特に,何らかの意味で少数者である人々に対してあらゆる状況で排除的であり,性的少数者にとっても非常に生きづらい社会です.

USA では,1970年代以来,さまざまな LGBT 人権擁護運動が展開されています.

特に,1985年に設立された GLAAD (Gay and Lesbian Alliance Agaist Defamation の頭文字であったが,今は団体の正式名称)という NPO は,2010年以来,毎年10月の第三木曜日を SpiritDay と名づけて,性的少数者である子どもたちに対する学校などにおけるいじめをやめさせるためのキャンペーンを行っています.

今年は,10月20日がその SpiritDay です.日本でも是非広げて行きたい運動です.Spirit Day という表現は,そのままでは日本語に訳しにくいので,何か良い名称を考える必要があるでしょうが.

現在,日本の政治は右傾化しつつあると言われていますが,日本社会の全体主義的な体質は,戦前は言うに及ばず,1945年以降も一貫しており,何ら改善されていません.そのような日本人の心性を変えて行くための第一歩は,何らかの意味で少数者である人々すべての存在の尊厳を尊重することです.

LGBT カトリック・ジャパンとしては,特に,カトリック信仰を標榜する初等中等教育の学校における性的少数者いじめの問題が解消されるよう,積極的に活動して行きたいと思います.

神の愛において

ルカ小笠原晋也


付録:教皇 Francesco が2016年4月に発表した使徒的勧告 Amoris laetitia(愛の喜び)の第250段落: 

主イェスは,限り無き愛において,各人のために – 例外無く,あらゆるひとりひとりのために – 御自身をおささげになった.そのような主イェスの態度を,教会は自身のものとする.シノドスに参加した神父たちとともに,わたしは,同性愛の性向を顕わす者を内に擁する経験 – 親にとっても子にとっても容易ならざる経験 – を生きている家族の状況を考慮した.それゆえ,我々は,まず,就中,このことを改めて断言したい:あらゆる人間は,その性的性向にかかわりなく,その尊厳において尊重されねばならず,敬意を以て – 「あらゆる不当な差別の刻印」(カテキズム 2358 段落)を避ける配慮を以て,および,特に,あらゆる形の攻撃や暴力を避ける配慮を以て – 迎え入れられねばならない.重要なのは,逆に,同性愛の性向を顕わす家族メンバーが,その人生において神の意志を了解し,かつ十全に実現し得るために必要な手助けを受益し得るよう,教会が敬意を以てその家族に寄り添うことが確実にできるようにすることである.

2016年10月13日木曜日

日本会議の政治家に LGBT 差別禁止や同性婚の法制化を期待しても無駄です

朝日新聞 2016年10月13日付朝刊の「わたしの視点」欄に,EU 日本政府代表部公使参事官,小沼士郎氏は,こう書いています:


東京都から LGBT 差別解消を
東京都渋谷区と世田谷区が同性カップルを夫婦と同じような関係の「パートナー」と認める制度を始めて,間もなく一年になる.追随する自治体も少しだが増え,国政レベルでは性的少数者 (LGBT) への差別解消を目指す超党派の議員連盟が設立された.LGBT が直面する課題に日本が欧米のように本格的に取り組むチャンスが到来した.
米大統領選挙の民主党候補,Hillary Clinton 氏が国務長官時代に LGBT の権利を守る国連初の決議採択を主導し,LGBT は世界人権宣言採択から60年余りを経ても十分な取り組みがなされていない分野だと指摘し,決意を明らかにしたのは,2011年だった.
私は,医師免許を持つ外交官として国連エボラ緊急対応ミッション (UNMEER) に派遣されるなど,医療分野の国際協力に携わってきた.アフリカでは,英国の植民地統治の影響もあり,同性愛は自然に反するとして刑罰を科す法律(ソドミー法)がある国が少なくない.
国連によると,サハラ砂漠以南のアフリカでは AIDS で年間約80万人が死亡し,新規 HIV 感染者の約 5 % が同性愛者だ.しかし,処罰対象の同性愛者に対しては偏見が根強く,政府の予防策は不十分だ.だが,ガーナのマハマ大統領は,同性愛を差別する社会を変えると国際会議で宣言した.2年前に傍聴した私は,感銘を受けた.
米国の多くの州の法律も,LGBT の権利を阻害する価値観に基づく.しかし昨年,米連邦最高裁は,同性婚を認めない各州の法律は憲法に合致しないとの判決を出した.
日本国憲法24条も「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」とし,同性婚を認めない.人は等しく生まれ,平等な権利を持ち,これを保障するのが憲法だ.多様性を認めあう社会をつくるため,憲法24条の改正もいずれ国民的議論の対象とすべきだろう.だが,まずは自治体レベルの動きを加速し,LGBT への理解を深め,一歩一歩解決することから始めたらどうだろうか. 
そんななか,小池百合子氏が女性初の東京都知事に就いた.2020年に東京で行われる五輪大会は,性的指向を含め多様性を認め合うことを基本理念に掲げる.理念をかけ声に終わらせないよう,小池氏は,同性パートナーが直面する差別の解消に真正面から取り組もうとする渋谷区や世田谷区の試みを,東京都全域に広げることを都民に提案してはどうだろうか. 
日本では,性に関わることを公に語るのは気恥ずかしいという文化を背景に,多くの政治家が沈黙してきた.清新なリーダーの小池氏は,東京から日本を変えてほしい.

何と!「小池百合子氏は清新なリーダー」! 御冗談を!

小池百合子氏にせよ,稲田朋美氏にせよ,家父長主義を是とする日本会議のメンバーに性的少数者の人権の問題について何かを期待するのは,無いものねだりにすぎません.

そもそも,自民党は「人権」も「主権在民」もないがしろにしようとしています.性的少数者のみならず,民族的,宗教的,政治的なあらゆる少数者と,心身のハンディキャップを有する人々を,社会の辺縁へ追いやって,全体主義的国家体制を復活させようとしています.

政治家が人気取りのために見せるうわべにごまかされてはなりません.日本会議と自民党の真意は明確に anti-LGBT です.

日本社会の均質性を打ち壊し,多様性を実現するための第一歩は,少数者がみづから声を上げることに存します.

また,憲法24条に関しては,憲法は国家権力を制限するものであって,国民の権利を制限するものではありません.したがって,憲法24条にもとづいて同性婚を拒むことはできません.同性婚法制化のために改憲の必要性を持ち出す議論は,誤っています.だまされてはなりません.

ルカ小笠原晋也

2016年10月12日水曜日

10月11日は,カミングアウトの日

1988年以来,毎年10月11日は,カミングアウトの日 (National Coming Out Day) です.

日本社会は,基本的に,異質なものに対して自身を閉ざし,自身の内が均質であることを要請します.そして,その際に基準となるのは,男性中心の heteronormative [異性愛を社会規範とする] な価値観です.

何らかの意味で少数者である人々(性的少数者のみならず,障碍者,宗教的少数者,政治的少数者,異邦人,等々)にとって日本社会が生きづらいところであるのは,そのためです.

少数者だけではありません.男性より多数者であるはずの女性もが,女性であるというだけの理由で,差別され,軽んじられ,嫌がらせや性的暴力に絶えずさらされています.

そのようなことすべての原因は,上に述べたように,異性愛を規範とする男性優位の日本社会の構造です.多様性の実現を妨げているのは,それです.

あなたが何らかの意味で少数者であること,女性であることは,確かに,あなたの個人的な事実です.しかし,個人的なことは政治的なことです (the personal is political). 

なぜなら,人間は共同体のなかで生きているからです.共同体を構成するのは,ひとりひとりの個人です. ひとりをないがしろにして平気でいる共同体は,健全ではありません.そのような社会は,1945年以前の日本やドイツと同様に,全体主義に病んでいます.

個人的なことは政治的なことです.あなたがひとりで悩み,苦しんでいるなら,その苦悩を共同体構成員は皆,分かち合うべきです.

カミングアウトは,そのための第一歩です.

勿論,カミングアウトは強制されるものではありません.社会のなかでひとりひとりが置かれている状況は異なりますし,ひとりひとりの考え方も,気持ちも異なります.

しかし,USA の雑誌 Advocate の記事で「カムアウトする13の理由」が論ぜられています.紹介しましょう.

13 reasons why you must come out of the closet. 
LGBTIQ+ の兄弟姉妹たちへ.カムアウトしなきゃならない 13 の理由.



Browse these 13 reasons why you need to kick down the closet door and take your first fabulous step into a new world.
クロゼットのドアを蹴破って,新しい世界へすばらしい第一歩を踏み出そう.そうすべき 13 の理由をブラウズしよう.




1. Keeping something so important a secret is bad for you.
こんなに重要なことを秘密にしておくのは,あなたのためにならない.



2. Coming out empowers those who can’t.
あなたがカムアウトすれば,そうすることができない人々は力づけられる.




3. In a world filled with antigay leaders pushing for antigay policies, coming out is a political act.
LGBT を差別する政策を推進する反 LGBT 政治指導者たちに満ちた世界で,カミングアウトは政治的行動だ.




4. Dating gets way easier.
デートしやすくなる.


5. Hooking up gets way easier too.
出会いの機会もふえる.





Harvey Milk (1930 - 1978)


6. Coming out respects the hard work done by LGBT activists who came before you.
カミングアウトは,LGBT のために活動した先人の苦労に敬意を払うことだ.



7. Coming out gives you the most honest picture of life.
カミングアウトすれば,本当の人生が見えてくる.




8. Coming out may be the hardest thing you ever do in your life. It’s important to measure yourself at least once.
カミングアウトは人生のなかで最も困難なことかもしれないけれど,少なくとも一度はそういうことに挑戦するのは重要だ.




9. Coming out is the first step to appreciating your cultural inheritance.
カミングアウトは,あなたの文化的な相続財産を味わう第一歩だ.




10. Coming out will reveal your allies.
カムアウトすれば,誰が味方になってくれるかわかる.




11. When you come out, fellow LGBTQ people become less terrifying.
カムアウトすれば,ほかの LGBTQ の人々のことが怖くなくなる.



12. Coming out means you get to have “your story” – and some of them are hilarious.
カムアウトすれば,あなたの人生の物語を創ることができる.楽しい物語もあるはずだ.




13. Finally, if you cannot come out, we need you to stay strong.
最後に,カムアウトできないとしても,くじけないでいてほしい.


記事の紹介は,以上です.

政治に無関心にならず,立ち上がって,均質性を押しつけてくる日本社会の排他的構造を解体しましょう!多様性が実現されるように!少数者と女性が真に人間的尊厳を以て生きることができるように!

神の愛のうちに

ルカ小笠原晋也