2017-01-21

小宇佐敬二神父様の説教,2017年01月15日,LGBT 特別ミサにて

2017年01月15日の LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教





今日は年間第二主日です.主の洗礼が御公現とぶつかって月曜日になったので,今日が第二主日ということになります.

洗礼のことを思い起こしながら,洗礼者ヨハネがイェスについて証しをする.それが今日のヨハネ福音書の場面です.

ヨハネ福音書は,0119節からカナの婚宴まで,七日間の日取りを重ねながら描いていきます.創世記の初めの七日間の創造物語と重ね合わせるようにして.そして,その第二の日が洗礼者ヨハネの証しの日と言ってよいかと思います.

ヨハネは,自分の方へイェスが来られるのを見て,遠くの方から来られるのをじっと見詰めて,ふたりの弟子に言います:「ごらんなさい,神の子羊だ」と.

この「神の子羊」という言葉は,そのままの形では旧約聖書のなかにありません.しかし,ひとつには,出エジプトのとき,一歳の子羊がほふられ,その血がユダヤの人々の家の柱とかもいに塗られることを通して,死をもたらす神の御使いがそこを過ぎ越したということから,この「身代わりの子羊」を指す.もうひとつには,イザヤの「主のしもべの歌」の第四の歌に記されている「贖いの子羊」を指す.このふたつの子羊が,旧約聖書的な原点となっているでしょう.そのことを意識しながら,洗礼者ヨハネは,「見よ,世の罪を取り除く神の子羊だ」と言って,イェスを指し示します.

イザヤ書4001-11節には,天の御使いが二種類登場します.ひとつは,主の道を整えるために遣わされる天使,その姿.そして,もうひとつは,神を指し示す天使.四つの福音書とも,イザヤ40章にもとづいて洗礼者ヨハネのことを述べています.ヨハネ福音書は,特に,神を指し示す御使いという役割を洗礼者ヨハネに付しています.ほかの三つの福音書は,イェスのために,イェスに先立って道を整える役割の者として,ヨハネを位置づけています.

イザヤ4009-10節では,神を指し示す御使いはこう言います:「見よ,あなたたちの神を,見よ,主なる神を!神は力を持って来られる,御腕を差し伸べ,イスラエルを解放される」.そして,神は,羊飼いのように子羊を懐に抱き,母羊をいざなって導いてくださる.そのような哀れみ深い神であることが記されています.

イザヤ4001節で「わたしの民を慰めよ」と語る主なる神の姿.それが,この哀れみに満ちた神です.そして,同じイメージを以て,「見よ,神の子羊だ,世の罪を取り除く方だ」 これが,ヨハネの宣言になります.

「世の罪を取り除く」とは,どういうことなのか?

わたしたち人間を根源から支配しており,捉えているもの,それは,罪の支配と死の支配です.そして,罪と死は,人間の原罪によってもたらされた.エデンの園の物語が,その根底にあります.

エデンの物語の中で,罪とは何なのか.それは,人間が真ん中に立ち入ること,園の中央に立ち入ることです.それが人間の根源的な罪として描かれています.

真ん中という絶対的な場は,神のものです.その神の場に人間が立ち入る.人間を絶対化していく.そこに,自己中心性という人間の罪があります.人間の自己中心性のゆえに,神と人間との関係は損なわれます.それは,死を招きます.人間は,死の淵にたたずむものとなっていきます.

罪と死の支配からの解放.それは,聖霊による洗礼によって実現していきます.

聖霊による洗礼.それは,十字架上の死という身代わりの,贖いの行為です.この贖いによって,わたしたちは清められます.

そして,復活という出来事によって,死を乗り越えていく.さらに,聖霊の注ぎを通して,新しい人として立ち上がらされていく.

この聖霊の注ぎは,人間に根源から欠落している神の命,永遠の命がわたしたち人間のなかに注がれていくという新しい創造のわざを示しています.

人間は,自己中心性のゆえに,神が望まれていることを実現していくことができない.神が望まれていることは平和であるのに,いまだかつて戦争が絶えたことがない.神が望まれていることは平等なのに,さまざまな差別や区別がある.能力や力や,そういったものの行使を通して,でこぼこの世界が作られていく.それが,一方の人間の現実である.さらに,神が望まれていることは正義と誠実であるにもかかわらず,人はごまかし,だまし,利益を自分のものへと集めようとしていく.

そのような人間のなかに新しい命を創造していくこと.それが,救いのわざとして,神のわざとして,わたしたちの内にもたらされます.

平和を,平等を,そして義を実現していくために,そして,そのことを通してわたしたちが新しい人とされていくために,イェス様は,わたしたちを清め,死を乗り越え,そして,新しい命,聖霊による洗礼を授けられます.

この新しい命,神の命の根源的な本質は,愛することができるという力です.そして,赦し合うことができる.そして,共感し合っていくことができる.そういう関わりを構築していく力です.

そのために,ひとりひとりがみづからの足で立ち上がり,自立し,そして,自分自身を相対化しながら,主体的に物事を受けとめていく.そして,自分の足で,目的,神の命に向かって歩んでいく.この自立性と主体性と責任性,それが,わたしたちひとりひとりの内に与えられていきます.

そのように命を育み,育てていくこと,そこにわたしたちの大きな使命があります.

そのように命を育み,育てていくために,神様は,秘跡的な恩恵をわたしたちに与え,そして,御言葉で導かれ,わたしたちの歩みを確かなものとして支えてくださいます.それが,イェス様を通してもたらされていく命の恵みです.

この年間の始めに当たって,わたしたちは,この秘跡的な恩恵を意識していきましょう.そして,神の言葉による導きと秘跡的な養いに応えて,わたしたちひとりひとりが輝いていくこと,そこに神様の大きな望みがあります.

神様は,命の創造に当たって,大きな感動を示しながら,大きな期待を命に向かって投げかけました ‒ 「産めよ,増えよ,満ちよ」と.牧畜用語で訳すと「産む,増える,満ちる」ですが,農耕用語で訳すと「実をつける,そして,大きくなる,さらには,内実が豊かになる,熟する」.ただ単に生き物たちの数が増えるだけでなく,そのひとつひとつが個性豊かなものとして実現していくこと,そこに神様の望みがあります.

ヨハネ福音書15章では,この神様の祝福の言葉を農耕用語で翻訳して,「実をつける,そして豊かになる,喜びで満たされる」という言葉に置きかえていきます.

わたしたちひとりひとりが個性豊かなものとして実現していくこと.この世界,この宇宙の中にたったひとつしかないものとして実現していくこと.そのものしか持たない香りや味わいを豊かに醸し出していくこと.そこに神様の大きな期待があります.

この期待に向かって応えていく,それが,救いの道を整えていく神の子羊の大きな役割であると言ってよいでしょう.

ひとりひとりが神様の子供です.まだ右も左もわからない,ちっちゃな赤ちゃんにすぎない.でも,神様の愛する赤ちゃんです.イェス様が命をかけて教えてくださった,父である神の愛,慈しみ.この慈しみのなかで,わたしたちひとりひとりが,わたしにしかない味わいを,香りを,豊かさを,わたしたち自身の内に実現し,そして,それを神様へのささげものとしていく,神様への喜びとしていく.そこに,わたしたちの大きな道,答えがあろうかと思います.

この年間の始めに当たって,わたしたちの一年を生きていく方向,それをしっかりと受けとめ直していきたいと思います.

世界には,これからももっと大きな混乱が起こるでしょう.世界の情勢はそのように動いていきます.多分,保護主義という自分たちの利益を守ろうとする動きがいろいろなところで起こり,そこから外されていく人たちとの格差はますます広がっていって,そして,苦しむ者,踏みにじられる者が数多く生み出されていく.世界はそのように動いていくでしょう.

でも,そのなかにあってこそ,わたしたちはひとりひとりが神様にとってかけがえのない人間なんだ,存在なんだという原点を思い起こしながら,ともに生きることの喜びを証しし続けていくことができますように.そこに,わたしたちの大切な使命があろうかと思います.