2017-01-09

福音館書店の月刊誌「母の友」の LGBT 特集について

『ぐりとぐら』や『魔女の宅急便』などの児童書の出版社として有名な福音館書店は,幾つかの月刊誌も出しています.子ども向けの『こどものとも』や『かがくのとも』など.

それらと並んで,「幼い子を持つおかあさん,おとうさんに;子どもにかかわるすべての人に」向けられた母の友』も.1953年に創刊された長寿雑誌です.発行部数は,『母の友』編集部によると,現在,約12,000部.

その『母の友』が,2017年2月号で特集「LGBT ‒ じぶんの性をいきる!」を組みました.




周知のように,性的少数者のなかには,自身の sexuality について親に come out することができずに苦悩する人々が少なくありません.また,子どもから告げられた事実を受けとめることができず,子どもに対して怒りを向けて拒絶したり,自分自身を責めてしまったりする親も少なくありません.

そのような状況のなかで,子育て中の人々を読者として想定する雑誌が LGBT を特集テーマに取り上げたのは,とても有意義であり,画期的なことだと思います.

この特集を組んだ経緯を『母の友』編集部に問い合わせたところ,次のように御返事いただきました(御回答くださいました『母の友』編集部に感謝いたします):

近年,メディアなどで報道が進み,LGBT という言葉は広まりを見せているように感じるのですが,「正しい理解」もともに広まっているのだろうかといった疑問から,今回の特集が生まれました.また,当事者の皆さんが幼いころから悩みを抱えていらっしゃること,親御さんとの関係について深く悩まれておられることから,育児雑誌である『母の友』でも特集を組んでみよう,となりました.

内容は:

牧村朝子
「ロラウェイ・ロラ・リンクのおはなし」

藥師実芳
「100人いたら100通りの性」

小林りょう子
「寂しくて辛くて悲しい時間が少しでもなくなるように」

南和行
「ふうふのかたち,家族のかたち」

まず,冒頭に引用されている三つの証言が印象的です:

「幼稚園のころ,お遊戯会でウサギ役の衣装にキラキラしているスカートがあり,それを着たくてその役を希望した.しかし,男の子だからという理由で,キラキラのスカートははかせてもらえず,代わりにダボダボなズボンを渡され,それでウサギ役に臨んだ.抗議してはいけないものと思ったし,渡されたからには着ないといけないんだなと悟った.そのころから,自分が置かれている性別に違和感を覚え始めた」(20歳代,trans woman : 生物学的には男性だが,存在論的には女性).

「女の子と遊ぶのが好きだったんだけれど,“男の子らしくしなさいよ” とよく指導されていた.男の子らしくなるようにと柔道を習わされたり,“あんたの将来が不安だよ” と親に嘆かれていた」(20歳代,gay).

「保育園のときから “オカマ” とからかわれていた.先生たちも見ていたけれど,何も言ってくれなかった」(20歳代,genderqueer : 存在論的性別が男女いずれとも特定されない).

sexuality とは何でしょうか? 藥師実芳氏は,その四つの要素を挙げています:生物学的性別, 心理学的性別(自分の性を自身でどのように認識しているか),性的指向(どの性別の相手を性愛の対象とするか),性表現(服装や話し方などを通じて,自身の性別をどのように表現するか).

それらの四要素を並列的に列挙することは,あまり標準的ではありませんし,合理的でもありません.

まず基本的には,sexual identity(性同一性:男であるか,女であるか,いずれでもあるか,いずれでもないか,いずれとも定めがたいか,等々)と sexual object choice(性対象選択:性的関心の対象が異性か,同性か,いずれでもあり得るか,いずれでもないか,そもそも性的関心が無いか,等々)とのふたつの側面が問われます.

そして,sexual identity については,さらに三つの側面が区別されます : biological sex(生物学的性別),sociological gender(社会学的性別),ontological sexuation(存在論的性別化).

生物学的性別は,基本的には性染色体により規定されます.ただし,或る種の先天的な異常によって,性染色体により規定される性別に合致しない身体表現が起きたり,そもそも性染色体そのものに異常がある場合もあります.

社会学的性別は,社会規範として他者から期待され,あるいは押しつけられる性別役割です.それらは,成長過程を通じて,多かれ少なかれ引き受けられたり,引き受けられなかったりします.いずれにせよ,それらは,社会学的に規定される人為産物です.

存在論的性別化については,ここで厳密に説明することは困難なので,おおまかにひとくちで言うと,それは,神による創造の賜です.社会学的人為産物ではありません.神により与えられた性別です.

存在論的性別化によって我々は,我々がひとりの存在者として存在するや,既に,「男で在る」,または「女で在る」,または「両者のいずれでも在る」,または「両者のいずれでもない」,または「両者のいずれとも定めがたい」,等々の様態において存在しています.そのことは,自身の性別が如何なるものかを「認識」ないし「認知」する以前の所与の事実です.

存在論的性別化という概念は,特に transgenderism について考えるときに必要不可欠です.transgender の人々は,例えば,生物学的には男性であっても,生まれたときから既に女性で在り,あるいは逆に,生物学的には女性であっても,生まれたときから既に男性で在る.彼ら彼女らが「男で在る」または「女で在る」等々の存在論的な事実は,生物学的性別にも,性別「自認」にも,還元され得ません.

よく言われる「心の性別」という観念を持ち出すことは,sexuality に関して心身二元論に陥ることにしかなりません.かつ,性別の「自認」が生物学的性別の「事実」に合致しないならば「認知の歪み」を認知療法で矯正すればよい,という誤った考え方を正当化するだけです.

また,教皇 Francesco の gender theory に対する批判に対して,フェミニストや性的少数者の側から非難の声が上がっていますが,それも,存在論的性別化の概念の欠如にもとづいています.教皇が言っているのは,神から与えられた性別(すなわち,存在論的性別化)は社会学的人為産物には還元され得ない,ということです.教皇を批判する人々は,存在論的性別化の概念を欠いているので,「神から与えられた性別」を即,生物学的性別のことと捉えてしまう誤謬に陥っています.

以上の論点は,なかなか理解の難しいことかもしれませんが,性的少数者が提起する諸問題について論ずるためには必要不可欠なことです.ですので,始めにまず指摘しておきました.

さて,藥師実芳氏,小林りょう子氏,南和行氏の文章から,特に有意義とおもわれる部分を紹介しましょう.

「sexual minority の子どもは,幼いころから自分の identity を否定される場合も多く,自尊感情の低下や人間関係の障壁につながる場合もあります.いじめや暴力を受けたり,不登校になったり,自傷・自殺未遂を経験することも少なくありません.LGBT の子どもを取りまく問題は,命にかかわる問題です.だからこそ,正しい知識やサポート体制を整えることは,幼少期から行っていかないといけない課題です」 (p.21) ;

「LGBT の子にとって,親への coming out は難しいことです.身近な人であるほど,もしも否定されたら関係を取り戻せないのでは,と思ってしまうこともあります.また,coming out を受けた親も孤立しやすいです.親は,産み方,育て方がいけなかったんじゃないかと否定されたように思ってしまう場合があります.そかし,それは誤解であり,産み方や育て方によって LGBT になる,ならないが決まるわけではありません」 (p.23) ;

「LGBT の子どもにとって,自分が大人になって社会で生きて行く未来を思い描くことは,とても難しい.身近で LGBT の大人の姿が可視化されないことで,自分みたいな人間って世界でひとりだけなんじゃないかと思ってしまい,生きて行けないんじゃないかって思ってしまうんです.いつか,左利きであることと同じくらい普通に,LGBT であることや,障碍があること,人と違うということを言える社会になって欲しいと思います.それには,家庭や学校,社会を作っている大人たちがまず変わって行く必要があると思っています」 (ibid.) ;

「本来,法律上の結婚は,家族の幸せを守るためにあるもののはず.幸せの権利は,どんな家族にも平等にあります.でも,いつのまにか,人の営みと法律の重要性が逆転してしまっています」 (p.30) ;

「憲法24条の “婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し” という文言の “両性” という言葉を捉えて,“同性婚は憲法が禁止している” と言う人がいます.しかし,これは,現代国家における憲法の意義をまったく理解していない意見です.(...) 憲法24条は,結婚は本人たちの自由な意志にのみ基づくべきであり,誰かに強制されるものではなく,男女は平等,同権であることを宣言しています.(...) 制定時に念頭にあったのが男と女との結婚であるから “両性” という文言を使っているにすぎません.同性婚を禁止するためにわざわざ “両性” という文言を使ったのではない.(...) 同性カップルが結婚式を挙げるなど社会的効果を得ることは,憲法13条が個人に保証する幸福追求権の実現と言えますし,同性カップルについてだけ婚姻の法律上の効果は得られないと言うのであれば,それは憲法14条の “法のもとの平等” に違反します.同性婚法制化を憲法はまったく禁止していないのです」 (pp.30-31) ;

「男女のありかたを強制する社会が,結局,皆を生きづらくしている.LGBT という特別な人が世の中にいるわけじゃなく,これは,実は,社会的な性別による役割,gender の問題なんじゃないか.行き着くところは,feminism の人たちが戦ってきたような視点になるような気がします」 (p.32) ;

「[保守でもリベラルでも]どの政党,どの党派の議員だって,もしかしたら自分の子どもや友人が同性愛者かもしれないし,transgender かもしれない.当事者の問題となるわけです.わたしの親友が,わたしの家族が,という身近な問題として周りを巻き込んで行くことで,社会は変わって行くんじゃないかなと思います.わたし[南和行氏]は,そこに期待しています」 (p.33).

この特集を読むと,改めて,如何に日本社会と日本語が gender binarism [性別二分論]にがんじがらめに縛られているかが,よくわかります.それによって,差別やいじめが起こり,場合によって,親子のきづなも,自身の存在の根拠すらも,破壊されてしまいます.

小林りょうこ氏は言っています:「LGBT の問題は,人が人として扱われるための人権の問題だと思います」 (p.27). 

法学や社会学で人権 (human rights) と呼ばれているものの本来的な根拠は,神による被造物としての人間の存在の尊厳 (dignity) です.

人間は,男も女も性的少数者も,誰しも同じく神よって創造された者であり,誰しも等しく神によって愛されている.

神の愛に基づく人間存在の尊厳を抜きにして人権を論ずることは,人権の本質を見ないままに法学的・社会学的な形式論や技術論に終始することにならざるを得ません.

神の愛を,日本人の大多数は知りません.しかし,だからといって,日本人が神の愛に値しないわけではありません.

男にも女にも性的少数者にも,あらゆる人のために神の愛の福音を宣言することが,わたしたちキリスト教徒の使命です.

LGBT を特集したこの『母の友』が,できるだけ多くの子育て世代の人々の目にとまり,性的少数者に属する子どもたちに対して親の側から援助と支持の手が差し伸べられるようになりますように!

そして,sexuality の問題,すなわち,女性の問題と性的少数者の問題の解決の試みを通じて,日本社会と日本人の心性の奥底に巣くう性差別 (sexism) と家父長主義 (patriarchalism) が批判され,根絶されて行きますように!

ルカ小笠原晋也