2017年2月19日,LGBT 特別ミサにおける小宇佐敬二神父様の説教
The Sermon on the Mount by Carl Heinrich Bloch
今,毎主日の福音朗読で,「山上の説教」があわただしい感じで読まれています.今日の箇所は,「山上の説教」(Mt 5,1 - 7,29) を前半,中半,後半に分けるなら,前半のしめくくりの箇所であり,そして,そのひとつ前の「盗んではならない」ということに関するイェス様の釈義と言ってよいかと思います.それが描かれています.
この「盗んではならない」に対して,イェス様の教えは,「盗まれる前に与えよ」です.「与える」ということに大きなポイントがあると思います.
さて,「“隣人を愛し,敵を憎め”と教えられ,命じられている.しかし,わたしは言っておく.敵を愛し,自分を迫害する者のために祈りなさい」.ここに,ひとつの大きな,イェス様独特の意味合いが含まれています.
「隣人を愛し,敵を憎め」.
『聖書と典礼』には,「敵を憎め」という言葉は旧約聖書のなかには見られない,という注釈が置かれています.確かに,「敵を憎め」という表現そのものは出てきませんが,しかし,詩編 139 の 19-22 節で,こう言われています:
「どうか神よ,逆らう者を打ち滅ぼしてください.わたしを離れよ,流血をはかる者,たくらみをもって御名を唱え,あなたの町々をむなしくしてしまう者.主よ,あなたを憎む者を,わたしは憎み,あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし,激しい憎しみを以て彼らを憎み,彼らをわたしの敵とします」.
詩編 139 は,「山上の説教」のなかで実は三回取り上げられると言ってもよい重要な詩編で,この前半の部分は主の祈りの導入でも用いられています.18 節までは,神様の創造の業,全知,全能,遍在,さまざまな神様の素晴らしさを歌っている素晴らしい歌です.
しかし,19 節から大きくトーンが変わってきます:
「主よ,あなたを憎む者を,わたしは憎み,あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし,激しい憎しみをもって彼らを憎み,彼らをわたしの敵とします」.
神を憎む者らをわたしは憎み,わたしは彼らをわたしの敵とする.これは,実は,いわゆる聖戦 (jihad) の原理と言ってもよいかもしれません.神を敵とする者を,わたしたちは打ち滅ぼすのだ
‒ そういう論理です.
イェス様は,この論理を退けます.
「神を憎む者を,わたしは憎む」ということは,わたしはこの「神を憎む人」に反応している.神様に反応しているのではない.人に反応している.反応の仕方が間違っています.人にではなく,神様に反応しなさい.
あなた方の天の父は,善人の上にも悪人の上にも等しく雨を降らせ,太陽を昇らせているではないか.自分を憎む者に対して恵みで応える,愛で応える
‒ それがあなた方の天の父である神なのだ.この父である方に反応しなさい.
「わたしたちの父」と呼ばれる天の父のもとでは,わたしたち誰もが父の愛する子である.父の愛する子であるということにおいて,敵も,わたしたちを憎む者も,同じく父の愛する子,兄弟,隣人ではないか.
天の父は,憎しみに対して愛で応える.この父の心に反応して行くとき,わたしたちは,父の似姿として成長して行くことができる.そのことがイェス様の大事な教えであろうと思います.
あなた方の天の父が完全であられるように,あなた方も完全なものとなりなさい.
天の父の完全さ ‒ 「清い」,「聖である」,「義である」,「慈しみ深い」など,さまざまな形で天の父の完全さが示されています.イェス様は,そのなかから,無条件の愛を注がれる方,際限の無い赦しを行われる方,そして,深い共感と憐みをわたしたちに注がれる方,それら三つを特に取り上げながら,天の父の完全さを示しています.
では,わたしたち人間の完全さは,いったい何なのか.その問いが,教えのなかの大きなポイントとして,マタイ福音書全体のなかで展開されているのではないかと思います.
イェス様が教える「子であるわたしたちの完全さ」とは,天の父の無条件の愛に対して無条件の信頼を以て応えて行こうとすること;天の父の思いをわたしたちのうちにしっかりと受けとめて行くこと;そして,その恵みのなかで成長させていただくこと
‒ それらが,子であるわたしたちの完全さ,確かさである,と言ってよいでしょう.
この完全さ,確かさを生きていくために,まず,小さなもの,貧しい者,打ちひしがれた者である自分自身をしっかりと受けとめ直して行く.そして,小さな者であるわたしたちは,同時に,神様の愛する赤ちゃんである,神様の愛する子である,ということ ‒ そのことをしっかりと受けとめて行く.まず,そこから出発する.それが,イェス様の教えです.イェス様をとおして与えられる導きです.そして,聖霊の注ぎをとおして,さらに,秘跡をとおして,わたしたちは養われて行きます.
「貧しいものは幸いである」.
この「貧しい」は,ヘブライ語で
ani と言います:
ギリシア語にも日本語にも翻訳することのできないこのヘブライ語独特の言葉にもとづいてイェス様は教えておられただろう,と思います.
それは,自分の力で自分の頭を持ち上げることのできない弱さを指す形容詞です.それは,赤ちゃんの姿であり,あるいは,大金持ちから莫大な借金をして頭を持ち上げることのできない貧乏人の姿であり,あるいは,強大な敵に侵略されて,その敵の前で頭を持ち上げることのできない被支配者のことであり,あるいは,年を取り,病に倒れ,自分の頭を自分の力で持ち上げることのできない人のことであり,あるいは,悲しみに打ちひしがれ,うなだれてしか歩くことのできない人のことです.
そのような弱さを身に負っているわたしたち,この小さな者たちこそが,幸いなんだ.そのように弱いあなた方の首を,天の父はしっかりと持ち上げてくださる.天の父は,あなた方を立ち上がらせてくださる.天の父は,あなた方を御自分の子と呼んでくださる.
自分の弱さや未熟さや至らなさ,さまざまな欠点や欠落,それらを受けとめ直しながら,神様の創造の業のなかで,わたしたちは,天の父の子として完成されて行く.そのような神様の再創造の業に与ることによって,わたしたちは,神の似姿として成長して行き,実現されて行く
‒ そうなって行くことができる確かな道があるのだ,とイェス様は招いておられます.
その招きは,『創世記』の冒頭に描かれている天の父の招き,神の招きです.互いの命を育み育てて行くこと.地を治め,すべての生き物の世話をすること.それらのことをとおして,わたしたちは,命を愛する者として,神の似姿として,実現されて行くことができるのだ
‒ そうイェス様はわたしたちを招き,そして,御自分の命をとおしてわたしたちを浄め,聖霊の注ぎをとおしてわたしたちを新しい人として立ち上がらせてくださったのです.
わたしたちは,父である方の完全さのなかで,子として,父の恵みのなかを歩いて行く.父の手のなかで育まれて行く.この確かさを,完全さを,身に負って行きたいと願います.そこにわたしたちの信仰の原点がある,と言ってよいでしょう.
小さなものであるわたしたち
‒ しかし,小さいままでとどまっているわけではない.わたしたちは,神様の赤ちゃんとして,今は小さなものでありながらも,大きく育てられて行く.天の父の手のなかで育てられて行く.天の父に抱かれて育まれて行く.この道が,そして,そこへの招きが,わたしたちにもたらされています.
小さなもの ‒ 神様の赤ちゃん ‒ であることをしっかりと受けとめ,そして,天の父の愛のなかで,あわれみのなかで,赦しのなかで,育まれて行く.御ことばに導かれ,秘跡に養われ,新しい人として育まれて行く.この道をわたしたちが日々歩んで行くことができますように.