2017-02-10

Robert Barron 司教:「キリスト教には,下腹部の問題よりももっと多くのことがある」

Los Angeles 大司教区の Robert Barron 補佐司教が出演した Dave Rubin のインタヴュー番組 The Rubin Report が,先月30日に Internet で放送されました.



Robert Barron 司教 (1959 - ) は,出版,テレビ,ラジオ,Internet などのさまざまなメディアを積極的に利用する福音宣教に取り組んでいます.神学教授として大学で教鞭を取っていましたが,2015年に教皇 Francesco により Los Angeles 大司教区補佐司教に任命されました.

Dave Rubin (1976 - ) は,USA の stand-up comedian(ひとり漫才師)です.2006年に gay であることを come out し,2015年に同性パートナーと市民法的にも結婚しました.無神論者を自認しています.Internet で毎週放送される政治的話題を扱うインタヴュー番組 The Rubin Report を担当しています.

Jeannine Gramick シスターと故 Robert Nugent 神父とにより1977年に創設された LGBT 擁護カトリック活動 New Ways Ministry02月07日付の blog で,そのインタヴューにおける Barron 司教の発言とインタヴュー後に発表された彼の blog 記事の言葉は,おおむね肯定的に評価されています – 今のところ司教は,教皇 Francesco にならって,同性カップルに婚姻の秘跡を授けるところまでは踏み込んでいないのですが.

Barron 司教はこう言っています:

もし gay[この語で LGBT 全体を指しています]の人がカトリック教会から聞く唯一のことが「おまえは内在的に乱れている」でしかないなら,我々の側こそ非常に深刻な問題を抱えていることになります.もし我々のメッセージの受け取られ方がそのようであるなら,乱れているのは我々の方です.メッセージの伝わり方に関して,我々に問題があります.
gay の人が教会から受け取るメッセージ nº 1 は,これであるべきです:あなたは,神の愛し子です;イェス・キリストの慈しみによって抱きしめられています;神の命をたっぷり分かち合うよう招かれています.あなたは神の子であり,永遠の命に与るよう呼ばれています.

つまり,Barron 司教はこう考えています:カトリック教会の性的少数者とのかかわりの出発点は,包容 [ inclusion ] であるべきだ.それは,教皇 Francesco が手本を示しているアプローチだ.

2月01日付の blog で,Barron 司教はこう書いています:

人々が "pelvic issues"[下腹部の問題]にばかり気を取られているせいで,福音宣教の仕事が根元において掘り崩されてしまっている.あなたが新約聖書の偉大なテクストを読むなら,それらの著者たちが第一にあなたにわかってもらいたいと思っていることは性道徳のことだという印象を,あなたは決して受けないだろう.彼らがあなたに知ってもらいたいと思っているのは,このことだ:イスラエルの歴史が頂点に達したとき,神は,十字架上で処刑されて復活したメシアのペルソナにおいて,世の王として君臨しに来た.神,贖い,十字架,復活,主イェス,福音宣教 – それらのことこそが新約聖書の主要テーマである.(...) 確かに,我々の性生活を主イェスの支配のもとに置くことは重要である.しかし,今日,世俗界のかくも多くの人々にとって,宗教は,性行動の取り締まりでしかなくなっているのではなかろうか.だとすれば,おおいに不幸なことだ.(...) The Rubin Report の視聴者たちが,キリスト教には "pelvic issues" よりももっと多くのことがあると認識してくれるよう,わたしは望んでいる.

"pelvic issues" の pelvis は,骨盤のことです.かつて,腰を振りながら歌う Elvis Presley に女性たちが熱狂したとき,人々は彼を "Pelvis" Presley と揶揄しました.今の Beyoncé や Lady Gaga のステージを見たら,それこそ腰を抜かすでしょう. 

同性婚に関しては,Barron 司教は,USA におけるその法制化を今さらくつがえそうとするは賢明ではない;そんなことに教会の資源を無駄に費やすべきではない,と考えています.きわめて良識的な判断です.

日本において,司教様たちが個々に,あるいは司教団として,「下腹部の問題」に関して何か公式に意見表明をしたことがあるのかどうか,不勉強のわたしは知りません.日常的に接する機会のある神父様たちが sexuality にかかわることについて何かおっしゃるのを聞いたこともありません.

しかし,キリスト教は,特にカトリックは,性道徳に関して厳しい,という印象は,一般の人々に共有されています.聖職者の独身制も影響しているでしょう.

教皇様は,ことあるごとに,性的少数者の司牧に関して包容性を強調しています.わたしたちがいつも唱えているように,神の愛は誰も排除せず,誰をも包容します.

2020年の東京オリンピックを控えて,LGBT の話題が取り上げられる機会が社会的に多くなってきている今,日本の司教様たち,神父様たちも,sexual minority の人々に関するカトリック教会の包容的な姿勢を積極的にアピールしていただきたいと思います.

最後に付け加えると,pelvic issues というような表現を以て sexuality の問題を矮小化するのも,好ましいことではない,とわたしは思います.sexuality は,人間存在の根本にかかわることです.

また,一般的に言って,人生において,愛が如何なるものであるかを識るために,性的な関心は必要条件です.特に男にとっては.

旧約聖書において神の愛について語られるとき,「嫉妬」とか「熱情」という意味の語が – つまり,性愛について用いられる語が – 用いられており,また,雅歌において男女間の性愛が神と人間との間の愛の比喩として歌われていることは,周知のとおりです.

2018年に若者をテーマとするシノドスが予定されています.若者について考えるとき,sexuality のことを抜きにするわけには行きません.

sexuality を無視し,抑圧したままで,神の愛を語ることはできません – 如何に新約聖書で ἔρως や ἐπιθυμία との区別において ἀγάπη という語が用いられてはいても. 

欲望を満たすことは,対象として如何なる存在者を以てしても如何なる存在事象を以てしても不可能である – この不可能性を通してしか,神の愛を識ることはできません.そして,神の愛を識らずして隣人愛を実践することもできません.

教会の教えは pelvic issues へ還元され得ないと強調するのは正当なことですが,さりとて,sexuality の問題を矮小化してもならない... 最良の解決は,愛し合うカップルが多数,御ミサに与るようになることではありませんか – 異性カップルであれ,同性カップルであれ?

教会がそのような場になり得るよう,皆さんとともに主にお願いしたいと思います.

ルカ小笠原晋也