2017-04-25

Rainbow Life の交流会に参加して

バイリンガルゲートという IT 企業の社長が個人的な動機から (?) 始めたらしい sexual minority のためのポータル Rainbow Life が主催する交流会に,4月23日,日曜日の午後,参加してきました.開催場所である文京区の施設不忍通りふれあい館わたし(ルカ小笠原晋也)の自宅に比較的近いところにあるので,気軽に行ってきました.

主催者側からは,Rainbow Life の担当者,山梨純佳さんと,運営スタッフのひとり,鈴木伸二さんが参加しました.一般参加者は十数人.全部で二十人弱でした.年齢層は,20歳代から50歳代まで,さまざまでした(60歳代は,多分,わたしひとりだけ).sexuality については,gay, lesbian, bisexual, ally がそれぞれほぼ同数ずつと見受けられました.queer の人もいました.intersex と transgender は,今回の参加者のなかにはいなかったようです.

ふたつのグループにわかれて,それぞれで分かち合いが行われました.わたしが参加したグループでは,coming out が主要な話題となりました.

今回,coming out に関する困難や悩みを改めて聞いて,初めて気がついたことが幾つかあります.いずれも,普段おもな情報源にしている英語の記事における考え方と,日本での考え方との違いに関係しています.ひとつは,自身の sexuality を公にしないでいることを特に苦痛とは感じていない LGBs が少なからずいる,ということ.もうひとつは,coming out が身近な人々に与える効果を非常に強く気にする LGBs が多いということ.

英語圏では,多くの LGBT 団体がこう勧めています:自身の sexuality を隠して生きて行くことは,自分自身に対して嘘をつくことであり,様々な意味で苦痛である;だから,come out して,本来の自分を肯定し,自身に正直になり,より積極的に生きて行こう.

ところが,日本では,そのような考え方は必ずしも多数派ではないようです.むしろ,自身の sexuality を隠したまま生活していて特に問題は無いと思っている人に,今回,何人か出会いました.ちょっと驚きました.

それから,英語圏では,coming out が身近な人々に如何なる効果を与え得るかについては,ほとんど問題にされないだろうと思います.勿論,「come out して,受け入れられるか,拒絶されるか」という悩みはあります.そして,実際,coming out が身近な人々を驚かせたり,憤慨させたりすることもあるでしょう.しかし,そのような反応は,あちらの問題であって,こちらの問題ではありません.

それに対して,日本では,「come out することが,身近な人々にどのような 迷惑 をかけるだろうか」という悩みが非常に深刻であるようです.特に,「親不孝」になるのではないかという悩みが.

多分,「身近な人々に迷惑をかけてまで come out したくない」という思いが,「come out しなくても何の苦痛も無い」という考えの根底にひそんでいるのでしょう.

わたしがカトリックであると知って,ある人が「或る僧侶が,人間はすべて悪であると言っていた」と教えてくれました.わたしは仏教に関しては専門的な知識を持ち合わせてはいませんが,多分,『無量寿教』の言う「心常念悪,口常言悪,身常行悪,曾無一善」(心は常に悪を念じ,口は常に悪を言い,身は常に悪を行い,かつて善はひとつも無い)などの命題に基づいている思念でしょう.

わたしが驚くのは,その人も,その人が言及した僧侶も,仏教のそのような思念に関して平然としていられる,ということです.

輪廻転生のなかで幾世をも生き続ける衆生はすべて,本源的に悪であり,現世か来世において業(ゴウ)に関してつぐないを果たすことができたとき,やっと死(涅槃)へ滅することができる.そのような仏教の思念ほどに,現に存在しており,今を生きている人間について否定的な思考は,ほかにあるでしょうか?日本社会ほどに人間存在の尊厳をないがしろにしている社会は,戦争状態にある国々を除いて,ほかには無いとすれば,それは,仏教のそのような人間存在否定が日本人の mentality の基礎を成しているからではないでしょうか?

日本社会では,人間存在の尊厳はないがしろにされている.それは明白な事実です.被害者は枚挙にいとまがありません.何らかの意味で差別されている人々,社会的弱者と呼ばれている人々は,すべてそうです – 女性,外国人,貧困に苦しむ人々,部落差別に苦しむ人々,いじめを受けている人々,等々.そして,性的少数者も日本社会の被害者です.

そのような被害者である LGBT が「coming out は身近な人々に 迷惑 をかけてしまう」と思い悩む.この自己肯定欠如は,仏教だけのせいではないかもしれませんが,仏教に大きな責任があることは否定できないでしょう.

あらゆる人間は,神の愛し子です.あなたは,神に愛されています.あなたが今,ここに存在しており,生きているのは,あなたが神に愛されているからです.

神の愛による人間存在の肯定こそが,キリスト教信仰の根本を成しています.

「世間」や「他人」や「家」に「迷惑」をかけることを回避せねばならないと考える日本人の mentality は,自身の存在を根本的に規定するものが,慈しみ深い神ではなく,常に厳しく批判的であるそれらの他者(世間,他人,家)であることによっています.

もしわたしが他者たちに「迷惑」をかけることによって他者たちから拒絶されれば,わたしの存在は否定され,わたしが存在し続けることは不可能になってしまう.神との関係を識らない日本人は,そう思い込んでいます.

ところが,まことには,わたしの存在を可能にしているのは,世間や先祖や親の「おかげ」ではなく,神の愛です.

「誰それのおかげ」という表現には,わたしは他者に何かを負うており,つまり,その他者に対して負債を有しており,それゆえ,常に返済を迫られおり,それができていないがゆえに非難されている,という事態が含意されています.

それに対して,神の愛は無償です.神は,何の見返りも求めずに,あなたを愛し,あなたの存在を肯定しています.神の愛の前には,日本的な他者への負債は帳消しにされています.あなたの罪を,神はすべて赦してくださいます.

日本的な他者関係 (relation imaginaire) のなかに囚われて,まわりの人々に迷惑をかけることに思い悩む前に,まず,あなたの存在は神の愛により肯定されており,神の愛のなかに包容されているのだ,ということを知ってください.神は,あなたが本来的に生きることを,欲しています.神は,あなたが自身の真理をごまかしたり隠したりすることを,望んではいません.

あなたの coming out が何らかの否定的な結果を生ぜしめたとすれば,それは,あなたのせいではなく,あなたのまわりの人々が神の愛に反する態度を取っているせいです.そのような人々が神の愛に気づくことができるよう,祈りましょう.

交流会の場では,ほかの参加者の話を聞きたかったので,神の愛の本質的な重要性について多くを語ることはしませんでした.

社会的な差別は,人権蹂躙です.そして,「人権」は,「神の愛にもとづく人間存在の尊厳」の概念無しには,ただの空語です.実際,日本社会では,裁判官すら判決のなかで個人の人権を本当には尊重しないことが少なからずあります.

女性差別の問題も,性的少数者差別の問題も,人権問題です.それがいつまでも解決されないのは,人間存在の尊厳がないがしろにされているからであり,そして,それは,日本社会では神の愛を識るキリスト者が極端に少ないからです.

差別されている人々が神の愛にもとづいて日本社会を変えて行くことができますように!そして,そのことに協力し,そのために協働するのは,神の名においてキリスト者すべてに要請されていることです.

ともあれ,今回の交流会では,ほかの機会にお会いすることのできない方々と直接お話しすることができ,大変有意義でした.企画した主催者側の山梨純佳さんと鈴木伸二さんに感謝します.次回の交流会は06月11日に予定されています.都合がつけば,また参加したいと思います.

ルカ小笠原晋也