Rembrandt, Himmelfahrt Christi
昔の典礼では ‒ わたしが子供のころも
‒,復活の主日から40日めの木曜日が,主の昇天の祝日とされていました.その日は,ミサのなかで福音書の朗読が終わると,復活のロウソクの火が消されました.主が天へ昇って行き,地上にいなくなったことの象徴です.
この「40日め」は,第一朗読で読まれた使徒言行録でルカが記しているスケジュールのものです.主の昇天の「いつ,どこで」に関しては,四つの福音書の記事にいろいろな相違があります.
マルコ福音書には,そもそも昇天の記事はありません.イェスの墓を訪れた婦人たちは「ガリラヤへ行け」という天使の命令に恐怖を感じた
(16,8) という言葉で,福音書は唐突に閉じられます.
マタイ福音書 (28,16-20) では,弟子たちは,指定されたガリラヤの山へ行き,復活したイェスに出会います.イェスがその山から昇天したのかどうかは,福音書の記事からはよくわかりません.が,ともあれ,その場面は,おそらく,復活の主の顕現の最後の出来事として記されています.
山の頂で復活の主と出会う ‒ 人間は,山へ登って行き,天と地との接点である山頂で主と出会う
‒ ということは,主は山頂よりももっと高いところから来られたのだ... そのようなイメージが福音記者マタイのなかにあるのではないか,と思います.
ヨハネ福音書では,週の最初の日の朝早く,イェスの墓が空(から)であることが確認されます.その空の墓のところで,マグダラのマリアは復活の主に出会います.マリアがイェスにすがりつくと,「すがりつくのはよしなさい.わたしは,まだ父のもとへ昇っていない」とイェスは答えます.同じ日の夕方,弟子たちも復活の主と出会います.主は,弟子たちに息を吹きかけ,「聖霊を受けなさい」と言います.ヨハネ福音書では,復活と昇天と聖霊降臨が一日の出来事として描かれているわけです.
ルカは,使徒言行録のなかで,主の昇天を復活の主日から40日めの出来事と記しています.40は,イェスが荒れ野でサタンの誘惑を経験した40日であり,出エジプトでイスラエルの民が荒れ野を旅した40年でもあります.ルカは,40という数の象徴性にこだわりながら,五旬節,7週めの祭りの日を聖霊降臨の日,教会の誕生日としたかったのではないか,と思います.
四人の福音記者は各々の神学にしたがって主の昇天の場所や日取りを記しているので,いつどこで何があったかは,歴史的な事実としてはまったくわかりません.教会は,ルカのスケジュールに則って典礼暦を作っています.その方が典礼のために都合が良いからでしょう.
主の昇天.天に挙げられる.この「挙げられる」という言葉が,非常に重要なポイントになります.
その発端は,第二イザヤ書[注:イザヤ書は三部に分けられる
‒ 第一部は 1-39章,第二部は40-55章,第三部は56-66章]のなかで歌われる「主のしもべの歌」[注:第一歌
42,1-9 ; 第二歌
49,1-12 ; 第三歌
50,4-9 ; 第四歌
52,13 - 53,12 ; 第五歌
61,1-3]のうち第四の歌の最初の部分です:「見よ,わたしのしもべは栄える.栄光を受け,高く挙げられる」(Es 52,13).
高く挙げられる.「高挙」とも言います.はるかに高く挙げられ,崇められる.そこには,三つの側面があります:十字架に挙げられる,死者のうちから挙げられる,父の右の座に挙げられる.十字架,復活,昇天
‒ それら三つの「高く挙げられる」は,ひとつの出来事の三つの側面です.そのことを理解するのが非常に大切です.そして,何のために,三つの「高く挙げられる」‒ 十字架,復活,昇天 ‒ の出来事が起こり,書き記されたのか,その意味がとても大事です.
十字架は,わたしたちの罪を告発します.わたしたちは,自分の罪をみづから引き受け,贖い,自身を死へ引き渡します.そして,その贖いをとおして,罪を清めていただきます.そこに,十字架の意味があります.
復活は,死を乗り超えて,新しい命のもとに,神の子として,立ち上がらせていただくことです.
そして,そのように立ち上がらせていただいた者は,天の父の右の座へまで引き上げていただけます.
イェス様は,その道を最初に行きました.十字架のイェス,復活のキリスト,昇天のキリスト.その道を,わたしたちも皆が歩んで行きます.
その道は,イェス様自身にとっては苦難の道でした.しかし,その道を,イェス様はわたしたちのために整えてくださいました.主が整えてくださった道は,平和で安全です.
出エジプトでイスラエルの民が経験する荒れ野の旅では,荒れ野は死の場所です.食べ物も水も無い.燃える毒蛇がいる.サソリもいる.そのような死の世界をさまよい歩く
‒ それが,わたしち人間の現実です.しかし,そこに,神様が整えてくださった道が敷かれます.その道は,平和であり,安全です.
死を打ち砕き,死を乗り超えて,イェス様が造ってくださった道
‒ そこへ,わたしたちは招かれています.命の道
‒ イェス様御自身がその道です
‒ をとおって,父のもとへ,父の家へ帰る.それが,イェス様がわたしたちに伴ってくださるわたしたちの旅路です.
イェス様は,先頭に立ってその道を切り開いてくださいました.後に続くわたしたちは,平和で安全な道を歩んで行くことができます.そこに,主の昇天の大事な意義が込められています.
今日の第二朗読のなかで,聖パウロはこう言っています:「神は,キリストを,天において御自分の右の座に着かせ,すべての支配,権威,勢力,主権の上に置き」ました,そして,「キリストを,すべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」.
この世のあらゆる力,あらゆる権威,あらゆる勢力,あらゆる主権
‒ それらを凌駕したものとして,父の右の座におられるキリストの位置が描かれています.そのような位置にいるキリストは,信じる者の頭であり,教会はキリストの体である
‒ 聖パウロはそのように理解しています.
先日,アメリカの Trump 大統領が,Papa Francesco を訪問しました.いつも何を言い出すかわからず,どなったり怒ったりしている
Trump さんが,教皇の前では,借りてきた猫のようにおとなしく,緊張していました.Francesco は,彼の緊張をあっという間に解いてやりました.そして,おそらく自分に対して激しい感情を持っているであろう相手を受容して行く姿勢を,見せてくれました.
天の父の右の座に在ることの権威
‒ それは,父である神の愛にもとづく力です.父なる神は,愛する力を,赦す力を,受容する力を,イェスに権威として授けます.その権威に基づいて,愛の力にもとづいて,復活のキリストは,わたしたちの頭であるわけです.その愛の権威は,わたしたちひとりひとりを,かけがえのない神の子どもとして愛してくださいます.ですから,誰もが神と等距離にあります.
人間の世界では,力のある者が,上位を占め,下部構造をさまざまな形で支配し,収奪し,略奪します.力の構造が,人間世界を覆っています.そのような力の構造,力の支配を打ち破って,愛の支配を打ち立てていくこと
‒ それが,キリストのわざです.
キリストの権威はどのようなものか?イェス様は,十字架上のお姿をとおして,愛と赦しと共感と慈しみのすべてを込めて,わたしたちを清める贖いを成し遂げてくださいました.愛の力をとおして,わたしちを新しい命へ招き,聖霊による洗礼をとおして,わたしたちを神様の子どもにしてくださいます.そのために,御自分の存在のすべてを食物としてわたしたちに与え続けてくださいます.キリストの愛の力は,何にも増して強いものであって,何ものもこれに打ち勝つことはできません.
わたしたちは,神の命のなかへ,それによって養われるために,招かれています.父の右の座,キリストと同じ座へ招かれています.それが,わたしたち信じる者の姿であるということを,もう一度しっかりと受けとめ直して行きたいと思います.
父の右の座へ至る道を整えてくださったイェス様は,愛すること,赦すこと,共感し合っていくこと
‒ 哀れみと慈しみとを,わたしたちに注ぎ続けてくださっています.わたしたちも,主の招きに応えて,互いに大切にし合って行くことができますように,支え合って行くことができますように,受容し合って行くことができますように.
命をもっと豊かに育むために今日もわたしたちの糧としてわたしたちのもとに訪れてくださる主の命を,しっかりと受けとめ,わたしたちを養ってくださる大事な糧として,いただきましょう.
復活のキリストは,今,わたしたちのただなかに立ち,今,わたしたちを天の父の右の座へ招き,今,わたしたちを養うために御自分の全存在を食物としてわたしたちに与えてくださいます.復活のキリストを喜びのうちに迎え,喜びのうちにキリストとともに歩んで行くことができますように.