日本語で「生理的嫌悪感」と言います.その直訳に相当する表現は,英語やフランス語には見当たりません.「生理的に嫌悪感を感じさせる」は,英語では disgusting, nauseating, フランス語では dégoûtant, nauséabond, ドイツ語では widerlich, ekelhaft などと言うでしょう.nauseating, nauséabond, ekelhaft は,文字どおりには「嘔気を催させる」です.
食生活に関するタブーを有する宗教があります.それらの宗教の信者たちにとって,禁止された食材は吐き気を催させるでしょう.例えば,ユダヤ教徒やイスラム教徒は,我々が豚肉を喜んで食べているのを見て,「生理的嫌悪感」を感ずるでしょう.
或る民俗学者が,こう教えてくれました:キリスト教がユダヤ民族の宗教から Ecclesia Catholica(普遍的教会)へ変身するためには,食のタブーの克服は決定的な条件のひとつだったのではないか.
使徒言行録 10,9-15 で,こう物語られています:空腹を覚えた Petrus の目の前に,天から大きな布のようなものが降りてくる.そのなかには,Moses の律法で食べることを禁止された鳥獣類すべてが入っている.天の声は Petrus に「食べろ」と命ずる.彼は,そのような「下品なものも不浄なものも [ κοινὸν ἢ ἀκάθαρτον, commune et immundum ] 一度も食べたことがありません」と言って拒絶する.声は「神が浄めたものを下品と言うな」と言って,彼を叱る.
「下品かつ不浄」な食べ物を前にして,Petrus は「生理的嫌悪感」を覚えたでしょう.上に言及した民俗学者も,調査のために訪れた地で地元の人々が食する昆虫料理などを勧められると,「気持ち悪い」と思わずにはいられない – しかし,地元の人々と良い関係を築くことは良い調査の必要条件ですから,感謝していただくそうです.同様に,神の愛の福音をユダヤ人でない人々へ伝えるためには,律法に条件づけられた嫌悪感に捕らわれたままでいることはできません.
"Le baptême du centurion Corneille par Saint Pierre"
par Michel Corneille le Jeune (1642-1708)
実際,使徒言行録の物語はそのように展開して行きます.つまり,幻覚のエピソードの後,Petrus は,非ユダヤ人である百人隊長 Cornelius のところへ招かれ,福音を説き,彼の家族を始め多くの人々に洗礼を授けることになります.律法で禁止された食材を食べろという命令に「生理的嫌悪感」を克服しつつ従うことによって初めて,Petrus は非ユダヤ人へ全包容的な神の愛の福音を伝えることが可能になります.
使徒言行録 10,28 には,Petrus が確かに非ユダヤ人に対する差別感情を克服したことが記されています:「ユダヤ人にとって異邦人と接触することは律法違反ですが,神はわたしに示してくださいました – 決してひとりの人間のことを[律法の観点から]『下品だ,不浄だ』と言ってはならない,と」.
先ごろ,改正学習指導要領に関する意見公募の際,LGBT 人権擁護活動家たちは heteronormativity を前提する記述を改めるよう要請しましたが,文部科学省の回答はこうでした :「sexual minority について指導内容として扱うことは,個々の児童生徒の発達の段階に応じた指導,保護者や国民の理解,教員の適切な指導の確保などを考慮すると,難しい」.
それに関連して,先日,朝日新聞に「読者の意見」が紹介されていました.大部分は LGBT friendly ですが,ひとつだけ LGBT-phobic なものが:
小・中・高校生と3人の子どもがいる静岡県のもと看護師は,「思春期になると異性への関心が芽生える」という指導要領に「同性の場合もあり得る」と書き加えられ,教師がそう教えるようになったら,子どもにどのような影響が出るのか母親として憂慮している,と書きました.同性から告白されたらどう思うかと子どもたちに尋ねたら,「困るし,気持ち悪い」,「受け入れられない」という言葉が返ってきたそうです.「多様性を認めるという言葉のもとに『LGBT を受け入れることが道徳であり,優しさである.そうでなければ,差別やいじめである』と教育されるとしたら,子どもたちの言葉は差別発言になるのでしょうか?」
あきれかえります.いったい,この女性は,もし仮に子どもたちが「女性は生理出血するから不浄だ,気持ち悪い」と言ったならば,それを即座に差別発言と断定しないのでしょうか?ひとりの人間に関して「気持ち悪い」と言うのは,当然,差別発言です.そして,そのような差別を克服し得るようにするのが,教育の機能です.
『カトリック教会のカテキズム』2358段には,こう述べられています:
無視し得ない数の男女が,根本的な同性愛傾向を呈している.この性向は,(...) 彼らの大多数にとって,試練となっている.彼らは,同性愛者としての自身の条件をみづから選んでいるのではない.彼らは,敬意と共感と気遣いとを以て受け容れられねばならない.彼らに対してあらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである.それらの人々は,自身の人生において神の意志を実現するよう呼びかけられているのであり,また,もし彼らがキリスト教徒であるなら,同性愛者としての条件のせいで遭遇し得る諸困難を主の十字架の犠牲と結びつけるよう呼びかけられている.
そこでは「同性愛者」という表現が使われていますが,sexual minority 全体のことがかかわっていると考えてよいでしょう.カトリック信者は,LGBT の人々を「敬意と共感と気遣いとを以て受け入れる」べきであり,「あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」–「不当な差別」のなかには,Moses の律法の観点から「下品だ,不浄だ」と断罪することも含まれます.
教皇 Francesco は「司牧者としてのわたしの仕事のなかに homophobia が占める場所は無い」と断定した,と伝えられています.同様に,カトリック教会のなかには LGBT-phobia の占める場所はありません.
にもかかわらず,日本には,LGBT の人々が気がねなく御ミサに与ることのできない教会がまだまだあるようですし,LGBT-phobia を公言してはばからない人々さえいるようです.教会のなかで指導的な立場にある人々も,教皇 Francesco のように LGBT 包容の姿勢を積極的に示すことはしてくださっていません.
日本においても世界においても,教会の礎である聖 Petrus にならって,あらゆる差別を克服し,カトリック教会を本当の Ecclesia Catholica にして行くことができるよう,カトリック信者ひとりひとりのよりいっそうの自覚的努力が,必要です.
特に,大司教様と司教様に,LGBT の人々への司牧的配慮に関して『いのちへのまなざし』における以上により積極的な指導的メッセージを発していただきたく,お願い申し上げます.
ルカ小笠原晋也