Nashville 市長は,市の名が冠されたその声明を直ちに非難し,良識的なジャーナリズムは批判的な記事を発表しました.
カトリック教会からもプロテスタント教会からも,Nashville 声明を批判し,LGBTQ+ を擁護するために,何組かの肯定と否定から成る声明が発表されました.ここに翻訳して御紹介します.
ひとつは,LGBTQ+ 擁護で有名な James Martin 神父様の Twitter での発言です.一連の tweet は,「sexuality に関する Nashville 声明に対する七つの簡潔な答え方」と題されて,the Washington Post にまとめて転載されました.
もうひとつは,親 LGBTQ プロテスタント諸会派の関係者多数が連名で発表した声明です.
sexuality に関する Nashville 声明に対する七つの簡潔な答え方 by Fr James Martin SJ
わたしは肯定する:神は LGBT の人々すべてを愛している.
それに対して,Jesus が我々を侮辱したがっている,裁きたがっている,あるいは,LGBT の人々をさらに差別したがっている,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:我々は皆,回心が必要だ.
それに対して,おもな罪人は LGBT の人々である,あるいは,LGBT の人々だけが罪人である,と何らかのしかたで特別視することを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,Jesus は,断罪ではなく歓迎を以て導いた.
それに対して,Jesus が裁きをもっと欲している,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:LGBT の人々は,洗礼のおかげで,教会のまったき一員である.
それに対して,LGBT の人々が自分たちは教会の一員ではないと感ずるよう神は欲している,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:多くの教会によって,LGBT の人々は,自分たちがあたかも汚れた者であるかのように感じさせられてきた.
それに対して,我々が LGBT の人々の多大な苦しみをさらに増すよう Jesus は欲している,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:LGBT の人々は,わたしが知る最も聖なる人々に属している.
それに対して,Jesus は我々が他者を裁くよう欲している,ということを,わたしは否定する.そのようなことを Jesus は明らかに禁じている.
わたしは肯定する:LGBT の人々は,御父により愛されており,御子により招かれており,聖霊により導かれている.
それに対して,LGBT の人々に対する神の愛に関してわたしが否定することは,何も無い.
それに対して,Jesus が我々を侮辱したがっている,裁きたがっている,あるいは,LGBT の人々をさらに差別したがっている,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:我々は皆,回心が必要だ.
それに対して,おもな罪人は LGBT の人々である,あるいは,LGBT の人々だけが罪人である,と何らかのしかたで特別視することを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:社会の辺縁にいる人々に出会ったとき,Jesus は,断罪ではなく歓迎を以て導いた.
それに対して,Jesus が裁きをもっと欲している,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:LGBT の人々は,洗礼のおかげで,教会のまったき一員である.
それに対して,LGBT の人々が自分たちは教会の一員ではないと感ずるよう神は欲している,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:多くの教会によって,LGBT の人々は,自分たちがあたかも汚れた者であるかのように感じさせられてきた.
それに対して,我々が LGBT の人々の多大な苦しみをさらに増すよう Jesus は欲している,ということを,わたしは否定する.
わたしは肯定する:LGBT の人々は,わたしが知る最も聖なる人々に属している.
それに対して,Jesus は我々が他者を裁くよう欲している,ということを,わたしは否定する.そのようなことを Jesus は明らかに禁じている.
わたしは肯定する:LGBT の人々は,御父により愛されており,御子により招かれており,聖霊により導かれている.
それに対して,LGBT の人々に対する神の愛に関してわたしが否定することは,何も無い.
Christians United in Support of LGBT+Inclusion in the Church(教会における LGBT+ 包容を支持するために一致するクリスチャンたち)の声明(2017年8月30日付)
Jesus Christ のあとに従う者として,わたしたちは,あらゆる時代において,神の愛と恵みと真理を証しせねばならない.わたしたちは,神を信じ,神に仕える.神は,生きており,働いており,わたしたちが
Jesus Christ の似姿および彼れが宣言した王国へもっと近づけるよう,絶えず導いてくださっている.Christ 御自身がわたしたちに断言したように,聖霊に従うことは,しばしばわたしたちを変化の時代へ導く.そこにおいては,わたしたちは,自分たちの伝統と慣習について反省し,それらを
Jesus Christ の心と手本により明らかに適うものへ改革するよう呼びかけられている.それは,キリスト教の歴史全体を通じて当てはまることである.かくして,わたしたちは,わたしたち以前のあらゆる時代と同様に,キリスト教の教えと慣習について反省し,悔い改め,それらを
Jesus Christ において啓かされた神の心と意志により密接に添うものへ改革するよう呼びかけられている.
教義や伝統を考え直し,改革するよう,神がわたしたちに呼びかけているのに,聖霊の導きにさまざまなしかたで抵抗し,旧来の教義や伝統に固執する者たちは,いつの時代にもいる.わたしたちの歴史を通じて,聖霊が聖化する業(わざ)の最先端を行く者たちは,当初,既成のキリスト教組織に属する者たちによって,排除され,差別され,悪魔視されることが,しばしばあった.21世紀の今日,教会は再び新たな改革の際に立っている,とわたしたちは信ずる.その新たな改革において,聖霊は,人間の性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えを再検討するために聖書と伝統へ立ち返るよう,わたしたちに呼びかけている.
数十年にわたり,多くの司牧者と神学者と改革者が,大胆にも,聖霊の呼びかけに応えて,性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えの理解を刷新するよう教会に呼びかけるために,歩を踏み出してきた.性的指向と性同一性に関するキリスト教の教えは,lesbian, gay, bisexual, transgender, non-binary, queer の人々を,神により創造され,完全に祝福された者として,かつ,あるがままの状態で
‒ つまり,キリスト教が従来登用し受け入れてきた異性愛規範的,家父長的,男女二元的な性的指向と性別規範に迎合する必要無しに
‒ 教会と社会の生活へ歓迎されている者として,包容し,肯定し,受け入れる.それらの預言者的な声が歩み出すにつれて,伝統的なキリスト教組織のなかからは,彼れら
‒ 聖書と伝統を再検討するよう導く聖霊に忠実に従う者たち
‒ を悪魔視し,排除し,差別するために労を惜しまない者たちが出てきた.改革者たちは偽教師であり,異端者であり,世界中のクリスチャンの小さな割合をしか代表していない,とそれらの者たちは言い張った.
特に過去20年間で,世界中で何万人ものキリスト教徒が,聖霊の促しに応え始め,聖書と伝統の教えを理解し,LGBT+ の人々と彼れらの人間関係とを全的に肯定し,受容し,称賛するようになった.伝統的なキリスト教組織のなかには,LGBT+ の包容に関する考え方を改めさせた傑出したクリスチャンの声のうねりが高まるのを抑えようとする者もいるが,否定しようのない真理はこのことであり続ける:すなわち,性的指向と性同一性に関する「伝統的」なキリスト教の教えは捨て去られつつある;そして,それに代わる新たな性的指向と性同一性の理解は,より誠実であり,よりキリスト中心的であり,わたしたちの信ずるところでは,より聖書にかなっており,それは,神の創造性をたたえ,神による人間の創造における豊かな多様性を賛美するものである.
教会のなかで,新たな一日が夜明けを迎えつつある.クリスチャンは皆,LGBT+ の同胞たちを等しく神の国に与る者として肯定し,称賛するために,大胆に,言いわけ無しに,歩み出すよう,呼びかけられている.それゆえ,Jesus Christ の教会に仕えることを望みつつ,かつ,より大きな改革と教会と
LGBT+ の人々との和解を促進することを望みつつ,わたしたちキリスト教指導者たちの連盟は,以下の肯定と否定を提示する.
その 1 :
わたしたちは肯定する:人間は皆,神の似姿に創造されており,人類においてそれぞれユニークな性的指向と性同一性の広範なスペクトラムを通じて表現される豊かな多様性は,神の創造の業(わざ)の規模の完璧な反映である.
それに対して,神の創造の意図は性別二元論に限定されており,人間の恋愛関係に関して神が欲することはひとりの男とひとりの女との間の異性愛的な関係においてのみ表現される,と示唆するようなあらゆる教えを,わたしたちは否定する.
その 2 :
わたしたちは肯定する:神は結婚をこのようなものとして計画した
‒ すなわち,結婚は,愛し合い,仕え合い,生涯相互に誠実に委ね合った生を生きることを誓約した人間たちの間の契約の絆である.
それに対して,神は人間の恋愛関係をひとりの男とひとりの女との関係に限定しようと意図した,ということを,わたしたちは否定する.そして,互いに愛し合い,仕え合うことを契約し,誓約する人間の神聖な,もしくは市民的な権利を制限しようとする試みは,いかなるものも,神の創造の計画に対する侮辱である,と宣言する.
その 3 :
わたしたちは肯定する:堕落した人間たちの関係は大きな歪みを被り,その結果,さまざまな形の不貞や不健全な行動が生じ,それらは人類の苦しみを悪化させている;しかるに,神が欲しているのは,人間皆が愛と自己犠牲の相互関係
‒ 恋愛的なものであれ,プラトニックなものであれ,社会的なものであれ,また,性にも性同一性にもかかわりなく
‒ に入ることである.
それに対して,人間関係の堕落のゆえに性的指向と性同一性の多様性が生じたのだ,ということを,わたしたちは否定する.むしろ,堕落は,自身を与える愛
‒ その似姿にわたしたちは創造されている
‒ の代わりに,快楽主義的な自己利害にもとづいて機能する人間の能力のうちに表れている.
その 4 :
わたしたちは肯定する : intersex[何らかの先天的な条件により生物学的性別分化が非定型的である人々]として生まれた人々は,神の似姿を完全に,かつ等しく有する人々であり,完全な尊厳と尊重に値する;わたしたちは,intersex の人々を,彼れらの自己実現の旅路において,および,神によって創造された彼れらのユニークな性的指向と性同一性
‒ それが如何なるものであれ ‒ を受容する旅路において,肯定し,支える.
それに対して,intersex の人々は,性別二元論や異性愛規範的な性別規範に合致するよう求められている,ということを,わたしたちは否定する.
その 5 :
わたしたちは肯定する:男の性同一性と女の性同一性は大多数の人間の家族の反映であるとはいえ,神は,男女二元性に当てはまらない性同一性を有する人々を創造してきた.transgender の人々は,本当の性同一性とは合致しない身体を持って生まれてきた.わたしたちは,それらの人々を支えるべきである.そして,「わたしは誰か」,「どのように神はわたしを創造したのか」の問いに関して彼れら自身が識っていることを,信頼すべきである.
それに対して,身体の生物学的所与にもとづく文化的想定に合致する性同一性を受け入れるよう強いることが健全な行いであり,異性愛的男女二元論が創造における神の聖なる意図に唯一適合する反映である,ということを,わたしたちは否定する.
その 6 :
わたしたちは肯定する : LGBT+ クリスチャンは,神が欲することを履行する聖なる生
‒ すなわち,彼れらのために神が創造の際に意図したことに適うよう生きることをとおして神に喜ばれる生
‒ を生きるよう呼ばれており,また,クリスチャンすべてと同様に,わたしたちの主
Jesus Christ の手本を反映する生のリズムにあわせて歩むよう呼ばれている.
それに対して,異性愛または男女二元的性同一性が,神の創造の自然な善さを反映する唯一の正当な性的指向と性同一性である,ということを,わたしたちは否定する.
その 7 : わたしたちは肯定する : LGBT+ の人々は,LGBT+ である個人として,かつ Jesus Christ に忠実に付き従う者として,誇りをもって公然と生きることができ,また,彼れらは,教会が
Christ のからだとなる召命を十全に受け入れ得るために,教会のリーダーシップと生と教役のあらゆるレベルにおいて,例外無く十全に受容され包容されねばならない.さらに,わたしたちは肯定する
: Christ は,教会が,性的指向や性同一性や諸個人の関係性や性に関する信念の多様性のただなかにおいて,ひとつであり,ひとつにまとまるよう,呼びかけている.
それに対して,性的指向と性同一性
にかかわる聖書の言葉をどう解釈するかに関する教えは正統性を規定する問題であり,クリスチャンの間の分裂の原因となるべきだ,ということを,わたしたちは否定する.
その 8 :
わたしたちは肯定する:世界中のキリスト教教会において,非包容的な教えは,LGBT+ の人々を心理的,精神的に著しく傷つけている.また,わたしたちは肯定する : Jesus Christ の教会は,何十万人もの人々にいじめ,虐待,家族や共同体からの排除を経験させてきた有害なメッセージの宣教について罪を負っており,Christ の名において LGBT+ の人々に対して為されてきた害について,公に悔いねばならず,LGBT+ の人々との和解を求めねばならない.
それに対して,有害な教えをやめようとせず,LGBT+ の人々との開かれた対話を拒むクリスチャンは
Jesus に忠実にならう手本に従った生を生きている,ということを,わたしたちは否定する.
その 9 :
わたしたちは肯定する:性的指向と性同一性は,相異なる多様なしかた
‒ そこには,独身であることも含まれる
‒ で表現され得る.また,わたしたちは肯定する:神が欲することへの積極的参加,同意,尊重,自己犠牲的愛は,クリスチャンにとって神聖かつ正当と見なされるべきあらゆる生と関係性の中心であらねばならない.
それに対して,関係性の家父長的,異性愛規範的なモデルに合致させるために,性的指向や性同一性を変えることを約束する何らかの形の治療を受けるよう,ある個人
‒ 特に,未成年者 ‒ に強いるべきだ,とする意見を,わたしたちは否定する.
その 10 :
わたしたちは肯定する : Jesus Christ は,人間すべてに救済をもたらすために世に来たのであり,彼れの生と教えと死と復活によって,あらゆる人は
Christ による贖いへ招かれている.
それに対して,Christ は誰かを性的指向や性同一性の理由でその愛に満ちた受容から排除する,ということをわたしたちは否定する.また,同性愛,両性愛,queer sexuality, trans identity, asexuality, その他の queer
identity は,罪深く,歪んでおり,神の創造の意図からはずれている,ということを,わたしたちは否定する.
ルカ小笠原晋也による翻訳
訳者注記:三人称代名詞を「彼れ」,「彼れら」と訳しました.特に they の訳語として gender を特定する「彼ら」や「彼女ら」を用いるのを避けるために,本来 gender neutral な指示詞「彼(か)」の利用を復活させてはどうか,と思うからです.それにともなって,単数形も「彼」(かれ)ではなく,「彼れ」(かれ)としてはどうでしょうか?「彼れ」は,gender neutral な三人称単数代名詞として用いることができるでしょう.もっとも,文書のなかでだけですが...
訳者注記:三人称代名詞を「彼れ」,「彼れら」と訳しました.特に they の訳語として gender を特定する「彼ら」や「彼女ら」を用いるのを避けるために,本来 gender neutral な指示詞「彼(か)」の利用を復活させてはどうか,と思うからです.それにともなって,単数形も「彼」(かれ)ではなく,「彼れ」(かれ)としてはどうでしょうか?「彼れ」は,gender neutral な三人称単数代名詞として用いることができるでしょう.もっとも,文書のなかでだけですが...