2017-10-29

教皇 Francesco の生と性の神学

教皇 Francesco の「生と性の神学」





教皇は同性カップルの civil union を認めた


Papa Francesco は,カトリック教会の門を LGBTQ+ に対して大きく開くことに貢献してきましたが,同性婚を異性婚に対してまったく差別しない「結婚の平等」に関しては自身の考えを公に明確に述べてこないできました.確かに,2016年の使徒的勧告『愛の喜び』251段において結婚の平等は否定されていますが,それは,2015年のシノドスの参加者たちが作成した最終報告書のなかの文章の引用にすぎませんでした.しかし,2017年09月06日に出版された本 Politique et société[政治と社会]のなかで,教皇は同性婚を「結婚」と呼ぶことに対する否定的な意見をみづからはっきり表明しました.

周知のように,同性婚を認めるか否かに関しては,カトリック信者たちの間でも,社会一般においても,激しい意見対立があります.今,教皇が完全な結婚の平等を是認すれば,カトリック教会が内部分裂する危険すらあります.そのような事態を招かないために教皇は慎重を期したのだ,と解釈することもできるでしょう.

ともあれ,Papa Francesco が結婚の平等を認めなかったのは,残念なことです.しかし,必ずしも残念ではない側面もあります.

 Politique et société は,フランスの社会学者 Dominique Wolton による教皇のインタヴューにもとづいています.彼は,2016年02月から一年間,毎月一回 2 時間ずつ,教皇と対話し,教皇の口からさまざまな言葉を引き出しました.

話題は,本の表題が示すように,政治と社会にかかわることから個人的な出来事に至るまで多岐に及んでいます.精神分析家としてわたしが特に興味深く思ったのは,42歳のとき Jorge Bergoglio 神父は短期間ながら精神分析を経験したことがある,ということです.

当時,1978年,アルゼンチンは軍事専制政権によって支配されていました.1976年から1983年まで続いた軍政時代,多くの反政府活動家が逮捕され,拷問され,暗殺されました.カトリック教会の上層部は体制派でしたが,民衆の司牧に直接たずさわる神父たちのなかには反体制派もいました.イェズス会のアルゼンチン管区長として,Jorge Bergoglio 神父は,民衆の側に立ちたいと思いつつも,イェズス会の内部分裂を回避せねばならない,という矛盾のなかで,非常に苦悩していました.そのことは,先ごろ日本でも上映された Daniele Luchetti 監督による教皇の伝記映画 Chiamatemi Francesco (2015) にも描かれていました.

そのような危機的な状況のなかで,彼は,或るユダヤ人女性精神分析家のところに週に一回,半年間通いました.当時,アルゼンチンの精神分析家たちの多くはクライン派でしたから,彼女もそうだったでしょう.半年間,週に一回の面接では十分に精神分析を経験したとは言えませんが,彼にとっては「とても助けになった」(p.386) と教皇は言っています.

1953年に或るフランス人司祭が精神分析的観点を応用して性について書いた本が禁書に指定されたことに象徴される過去の Vatican の精神分析に対する拒絶反応を想起するなら,今や教皇が精神分析を受けていたことを公言することができるのも第二ヴァチカン公会議の効果である,と言えるでしょう.

話を同性婚のことに戻すと,教皇は Wolton との対話においてこう語っています (pp.321-323) :


教皇:同性の人どうしの結婚について,どう考えるか?「結婚」は,歴史的な語です.教会においてだけでなく,人類においてはずっと,結婚はひとりの男とひとりの女との結婚です.それを,星影のもとで変えるわけには行きません.(...)

それを変えることはできません.それは,ものごとの自然です.ものごとは,そうなっているのです.ですから,[同性どうしの場合は]civil union[原文ではフランス語で union civile : 異性どうしか同性どうしかにかかわりなく,結婚の場合とほぼ同等の権利と保護をカップルに与える法的制度;カトリック教会は,civil union のカップルには「結婚の秘跡」を授けない]と呼びましょう.


真理に関しては,おふざけをしないでおきましょう.まことに,背後に潜んでいるのは,ジェンダーイデオロギー (idéologie du genre, gender ideology) です.子どもたちは,性別を選ぶことができる,と本でも学びます.なぜなら,ジェンダー –「女である」または「男である」こと – は,選択の問題であって,自然の事実ではないから?そのようなことが,誤りを助長します.

だが,ものごとを,実際にそうであるように言いましょう:結婚は,ひとりの男とひとりの女との結婚です.それが,正確な用語です.同性どうしの union は,civil union と呼びましょう.

Wolton : ジェンダーイデオロギー,それは同じ問題ではありません.それは,社会学的偏向です.それは,こう言うことに存します:性別は未分化であって,ひたすら社会が男性の役割と女性の役割を割り当てるのだ,と.ひどいものです,そのような決定論は.自然も文化も,あったものではありません.運命も自由も,ありません.社会的決定があるだけです.その決定論に反対ならば,保守反動と呼ばれます.「あなたは,カトリック教会の立場を採っている」と言われてしまいます!そのようなイデオロギー的偏向は,この20年間に起こりました.

教皇:現時点で,それは危機的な混乱です.わたしは,或る日,Piazza San Pietro で,結婚について語りながら,公にそう言いました[おそらく,2015年06月14日,ローマ教区会議開会式での演説で].わたしは言いました:「新しい観念があります.ジェンダーイデオロギーというこの新しい観念は,基本的に言って,差異を恐れることに基づいているのではないか,とわたしは自問します」.(...)

Wolton : ジェンダーイデオロギー,それは,差異の否定の危険性です.差異は,単に社会的なものではありません.もっと複雑です.ジェンダーイデオロギーは,一種のさかさまの決定論です.男も女も無く,すべては社会しだいである,と言うことによって,実際には,一種の社会的決定論が作り出されています.

教皇:ジェンダー理論 (théorie du genre, gender theory) の問題と,同性愛の人々に対する態度についてのわたしの見解とを,混同しないでほしい,とわたしは思います.


教皇が Wolton との対話のなかで同性婚について語っているのは,以上の一節においてです.

教皇が gender について語ると,英語圏の LGBTQ 活動家たちは必ず「教皇は transgender に関して否定的な見解を述べた」と反応するのですが,以上の一節においても明らかなように,教皇は transgender のことは何も問題にしていません.彼が gender ideology や gender theory の名のもとに批判しているのは,男女の性の差異を社会学的な構築物に還元しようとする「ジェンダーの社会的構築論」(social constructionist theories of gender) です.そのことについては,後ほど立ち返りましょう.

実際,今しがた引用した一節の最後でも,教皇は「ジェンダー理論の問題と,同性愛の人々に対する態度についてのわたしの見解とを,混同しないでほしい」と要請しています.この場合,「同性愛の人々」は LGBTQ+ 全体を指している,と取って良いでしょう.実際,教皇は,さまざまな機会に,同性愛者についても,transgender についても,みづから包容的な態度を取っており,また,そうすべきであると主張してもいます.教皇の LGBTQ+ に対する包容性は,一貫しています.

同性カップルには civil union が認められる,という教皇の見解は,いかにも,イタリアの社会的現実の承認です.イタリアでは,2016年5月に同性カップルの civil union が法制化されました.完全な「結婚の平等」の法制化に関しては,イタリアの世論は賛否両論に分裂し,激しい社会対立が顕在化しました.そのため,残念ながら,それは断念されました.教皇も,generazione[新たな生命を生み出すこと,生殖]の可能性(そのことについても,後ほど立ち返ります)に関連して,同性婚と異性婚とを同等のものと見なすことはできない,と考えています.

しかし,教皇が同性カップルの civil union を認めたということは,それなりの意義がある,と思われます.教皇は,同性カップルが親密な関係において生活をともにすること,および,同性カップルにも異性カップルと同等の社会的および法的な権利と保護が与えられることを,是認したのです.そこにおいて「性行為だけは例外だ」と誰が言い得るでしょうか?つまり,教皇は,同性カップルの性行為を容認したのです.「わたしは,同性どうしの性行為をそのものとして断罪することはしない」と教皇は思っている,と解釈してよいと思います.

従来,カトリック教会は,結婚したカップルの生殖可能性に開かれた – ただし,年老いた Abraham と Sarah のカップルも,聖霊と処女マリアとのカップルも,生殖可能性に開かれています –  性行為しか是認してきませんでした.しかるに,教皇は,同性カップルの civil union を認めたことによって,そのような限定を暗に撤廃したのです.

教皇の2013年7月の有名な言葉:「或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?」にならって,我々はこう言うことができるでしょう:「或るカップルが同性どうしのものであり,ふたりが愛し合っており,ふたりとも主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのようなカップルを断罪するなら,いったい,わたしは何者か?」



教皇庁生命アカデミアでの教皇演説


さて,使徒的勧告 Amoris laetitia やさまざまな説教と談話から,わたしたちは,Papa Francesco の「生と性の神学」を学び取ることができるだろうと思います.はたして,その射程は如何なるものでしょうか?

Papa Francesco の「生と性の神学」についてより詳しく見るために,彼が2017年10月05日に「生命のための教皇庁アカデミア」(la Pontificia Accademia per la Vita : PAV) の総会において為した演説を読んでみましょう.

PAV は,1994年に聖ヨハネパウロ II 世の意向により創設されました.生命倫理に関する Vatican の think tank のようなものです.Papa Francesco は,2016年,PAV の組織を改革し,2017年06月に新たなメンバーを多数,任命しました.そのなかには,ユダヤ教徒,イスラム教徒,信仰を持っていない人々も含まれます.日本人メンバーもふたりいます:刑法学者の秋葉悦子氏と,iPS 細胞の研究で2012年にノーベル生理学医学賞を受賞した山中伸弥氏です.現在の PAV は,言うなれば,Papa Francesco の肝いりの組織です.

この演説のなかで,教皇は,科学技術と資本主義が支配的である現代において,如何に生命と存在が危機的状況におかれているかについて,「生と性の神学」の観点から根本的に問おうとしています.


生命のための教皇庁アカデミアの総会の参加者たちへの教皇Francesco の演説(シノドス広間,2017年10月5日)

皆さん,

この年次総会の機会に皆さんにお会いし,嬉しく思います.先に挨拶と導入をしてくださった Paglia 大司教に感謝します.皆さんがもたらしてくださる貢献に感謝します.その価値は,時の経過とともに,ますます明らかになって行くでしょう ‒ 科学的,人間学的,倫理的な知識の深化においても,生命への奉仕においても.特に,人間の生命と,我々の共通の家である被造界とのケア (cura) において.

今回のテーマ:「生命に寄り添う ‒ 科学技術の時代における新たな責任」は,論ずるに容易なものではありませんが,同時に,論ずる必要のあることです.今回のテーマは,近年の生命科学の技術的発達に鑑みて,全地球的なヒューマニズムを問いただす好機と危機との交錯に正面から取り組みます.昨日までは思いもよらなかった生命操作を今や既に可能にしている生命技術の力は,恐るべき問いを措定します.

そのような社会の技術的進歩の効果に関する研究と取組とを強化することは,それゆえ,喫緊の要事です.そのためには,この時代の挑戦に負けないような人間学的総合を構築せねばなりません.したがって,専門家としての皆さんの助言の領域は,倫理的,社会的,ないし司法的な次元の葛藤の特異的な状況によって措定される問題の解決に限定され得ません.人間存在の尊厳と整合的であるような行動のインスピレーションを得るためには,科学と技術の理論と実践を,生命とその意味とその価値とのそれらの関係において,それらの総合的な基礎において,考察せねばなりません.まさにそのような展望において,わたしは,今日,わたしの省察を皆さんに提示したいと思います.

1. 人間という被造物は,今日,人間自身の歴史の或る特別な移行期にいると思われます.そこにおいては,古来の ‒ かつ,常に新しい ‒ 問い ‒ 人間の生の意味についての問い,人間の生の起源とその運命についての問い ‒ が,前代未聞の文脈のなかで交錯しています.

この移行期を象徴する特徴は,総合的に言って,次のことに認められ得ます:現実に対する人間の主権 ‒ 人類としても,個人としても ‒ に強迫的に中心づけられた文化の急速な流行.« egolatria » という用語を使う人すらいます.つまり,まったくの自我崇拝です.その祭壇には,あらゆるものが ‒ とても大切な愛情をも含めて ‒ いけにえとして献げられます.そのような価値観は,無害ではありません.それは,次のような主体を形成するからです:自身を絶えず鏡のなかに見つめ続け,ついには,他者と世界とへ目を向けることができなくなる主体.そのような態度の流行は,人生における愛情ときづなすべてに対して重大な帰結をもたらします (cf. Enc. Laudato si’, n
º 48).

当然ながら,人々がより良い「生活の質」を望むことの正当性や,そのことを促し得る経済的資源や技術的手段の重要性を否定したり矮小化したりすることが,かかわっているのではありません.しかしながら,[資本主義]経済と[科学]技術との同盟を特徴づける無遠慮な物質主義 ‒ それは,人間の生を,能力と利益の関数によって搾取または廃棄すべき資源として扱います ‒ が黙認されることはできません.

残念ながら,世界中いたるところで,男たちも女たちも子どもたちも,科学技術の支配と結びついた物質主義の詐欺的約束を,苦渋と苦痛を以て経験しています.以下の理由により,なおさら ‒ すなわち,市場[経済]の拡大にともなって生活の豊かさは自動的に広がるだろうというプロパガンダとは矛盾して,逆に,貧困,紛争,格差,放置,怨念,絶望,それらが満ちた地域は広がっているがゆえに.本当の科学的な,技術的な進歩は,逆に,より人間的な政治をもたらすはずでしょう.

キリスト教信仰は,「古き良き時代」を懐かしがったり,現状を嘆いたりする消極的な態度をすべて退けつつ,イニシアティヴを取り戻すよう,我々を促します.そもそも,教会が有していた寛容で啓蒙された精神の長い伝統が,近代において,科学と良心のために道を開いたのです.

世界は,キリスト教信者を必要としています ‒ 真摯であり,喜びを有し,創造的であり,提案することができ,謙虚であり,勇敢であり,世代間の断絶を修復する決意を決然と有しているキリスト教信者を.

世代間の断絶は,人生を伝えることを途絶えさせてしまいます.若者たちの熱気に満ちた可能力を称賛するとしても,しかし,誰が若者たちを成熟したおとなとなるよう導くのでしょうか?

おとなであることの条件は,責任を引き受けることができ,愛することができることです ‒ 将来の世代に対しても,過去の世代に対しても.高齢となった親の生には,それが惜しみなく与えてくれたもののゆえに,敬意を表するよう,期待されています.それがもはや有していないもののゆえに捨て去ることがあってはなりません.

2. このイニシアティヴの取り戻しのためのインスピレーションの源は,またしても,神の御ことば (la Parola di Dio) です.その光は,生の起源と運命とを照らしてくださいます.

創造と贖いの神学 ‒ あらゆる生のために,それぞれの生が生きている間ずっと,愛のことばと愛の身ぶりに自身を翻訳することができる〈創造と贖いの〉神学 ‒ が,今日,かつてなかったほどに,必要だと思われます ‒ 今,我々が住まう世界のなかで教会が歩むべき道を共に歩むために.

回勅 Laudato si’ は,創世記の始めの数章において我々に提示されている啓示の壮大な物語にもとづいて世界への神と人間のまなざしを取り戻すマニフェストのようなものです.創世記はこう言っています:我々は,それ自体として神により欲されており,愛されている被造物です.単に,生命の進化の過程において淘汰され,良く組織化された細胞の集合体であるのではありません.被造界全体は,人間という被造物 ‒ それは,親たちと子たちの全世代に渡ります ‒ に対する神の特別な愛のなかに記入されているがごとくです.

神は,生の起源を祝福し,永遠の命への運命を約束してくださっている ‒ そのことは,あらゆる生の尊厳の基礎です.すべての人々についてそうであり,すべての人々のためのそうであるのです.世の生,地に生きる男たち,女たち,子どもたち ‒ 諸民族は,彼れらにより構成されます ‒ を,神は,誰ひとり排除することなく,愛しています.そして,安心できる場所へ連れて行こうとしています.

聖書に書かれた創造の物語は,常に改めて読み直されるべきです ‒ 神の愛の所作の大きさと深さ全体をその尊さにおいて感ずるために.神は,被造界と歴史を,男と女の契約 (alleanza) に委ねます.

この男と女の契約は,いかにも,結婚と家族とによる生の伝達の道を標しづける愛の結合 ‒ 個人どうしの,実り豊かな結合 ‒ により押印されています.しかし,それは,その[個人どうしの愛の]印の彼方へまで及びます.男と女の契約は,社会全体の演出を引き受けるよう,呼ばれています.それは,世界に対する責任を負うことへの招待です ‒ 文化においても政治においても,労働においても経済においても.そして,さらに,教会においても.単に,機会の平等や相互の承認がかかわっているのではありません.かかわっているのは,就中,生の意味と諸民族の道とに関する男と女の合意[相互理解,協調](intesa) です.男と女は,ただ愛について語り合うよう呼ばれているだけではなく,而して,愛とともに,あらゆる被造物に対する神の愛の光のなかで人類の共同生活が実現されるために何を為すべきであるかについて語り合うよう,呼ばれています.語り合い,契約を結び合う ‒ なぜなら,両者のいずれも,男だけでは,女だけでは,世界に対する責任を引き受けることはできないからです.神は,男と女を一緒に創造しました ‒ 両者の差異を祝福しつつ.男と女は一緒に罪を犯しました ‒ 神に取って代わろうとする思い上がりによって.男と女は一緒に,キリストの恵みによって,神の御前に戻ります ‒ 神が両者に任せた〈世界と歴史の〉ケア (cura) を引き受けるために.

3. 要するに,一種の本当の文化革命が,現代の歴史の地平線にあります.そして,教会は,率先してそこに参加せねばなりません.

この展望において,何よりも先に,遅れ怠りを正直に認めねばなりません.不幸にも女性たちの歴史に刻印を残してきたさまざまな形態の[女性を男性よりも下位に置く]差別 (subordinazione) は,決定的に廃されねばなりません.

ひとつの新たな始まりが,諸民族のエートス (ethos, ἦθος) のなかに書き込まれねばなりません.そして,それを為し得るのは,ひとつの新たにされた〈同一性と差異の〉文化です.

「男女の性の差異をラディカルに中性化し,ゆえに,男と女の合意を根本的に無効化することによって,人間存在の尊厳のために道を改めて開くことができる」という〈近年提起された〉仮説 [ social constructionist theories of gender ] は,正しくありません.男女の性の差異 ‒ それは,人間存在の尊厳のために減殺不可能な価値を有しています ‒ の価値を損なうような性差の否定的解釈に対して反論する代わりに,性差を事実上なきものにしようとする人々がいます.彼れらは,性差を人格発達や人間関係にとって重要でないものにする技法や実践を提唱しています.しかし,「中性」のユートピアは,性的に異なる心身構造の人間的尊厳をも,生の生殖的伝達の人間的な質 (la qualità personale della trasmissione generativa della vita) をも,同時に取り去ってしまいます.性の差異を生物学的または心理的に操作すること (la manipolazione biologica e psichica della differenza sessuale) ‒ biomedical technology はそのような操作が自由意志により完全に可能であるかのように垣間見させていますが,そんなことはありません!‒ は,かくして,〈男と女の契約を涵養し,創造的で実り豊かなものにする〉エネルギー源を取り壊してしまう危険性を有しています.

世は神により創造されたということ (la creazione del mondo)と,御子は御父から生まれたということ (la generazione del Figlio) との神秘的なつながりは,我々を驚かせ,感動させることを決してやめません.その神秘的なつながりは,御子が,我々に対する愛のゆえに,マリア ‒ イェスの母,神の母 ‒ の胎のなかで人間と成ったこと (farsi uomo del Figlio) において,啓かされます.この啓示は,存在の神秘と生の意味とを決定的に照明します.

そこから出発して,生殖(generazione :「生む,生まれる」ということ)のイメージは,[生命,命]に関する深い知恵を放射します.

生は,賜としていただいたものである限りにおいて,賜において称賛されます:[賜である]生を生むことは我々を生まれかわらせ,[賜である]生を使うことは我々を豊かにします.

人間の生の生殖 (la generazione della vita umana) に関して為される脅し ‒ あたかも生殖は女性に対する侮辱であり,公共の福祉に対する脅威であるかのごとくに ‒ によって措定される挑戦を受けて立たねばなりません.

生殖の可能性の条件を成す〈男と女の〉契約 (l’alleanza generativa dell’uomo e della donne) は,男たちと女たちの全地球的なヒューマニズムを守るものであって,それに対する handicap ではありません.もし我々がこの真理を拒むなら,我々の歴史が新しくされることはなくなってしまうでしょう.

4. 生に寄り添い,生をケア (cura) する情熱は,その個人的ならびに社会的歴史全体をとおして,憐れみと優しさのエートスの回復を要請します ‒ その差異における人間存在の誕生と再生のために.

就中,生涯のさまざまな年齢 ‒ 特に,子どもたちと高齢者たち ‒ に対する感受性を改めて見出さねばなりません.高齢者においてデリケートで脆いもの,傷つきやすく,衰えて行くもの,そのようなものすべては,もっぱら医療と福祉にのみ担当させておくべき事柄であるわけではありません.そこにおいてかかわっているのは,魂と感受性を有する人間たちのなかには個人や共同体によって聴かれ,認められ,守護され,尊重されることを求めている人々がいる,ということです.もし或る社会のなかでそのようなことはすべて売り買いされるしかなく,役所の規則に縛られており,技術的に提供されるだけであるなら,そのような社会は生の意味を既に見失っています.そのような社会は,生の意味を,幼い子どもたちに伝えることはなく,年老いた親たちのなかに見出すこともありません.ですから,我々は今や,そうと気づかぬうちに,子どもたちに対して常により大きな敵意を有する町や,高齢者たちに対して常により無愛想な共同体を,作り上げています.その壁には,扉も窓もありません.壁は,防護してくれるはずですが,現実においては,息を詰まらせるだけです.

神の慈しみを信ずることの証し ‒ それは,あらゆる正義を精製し,成就します ‒ は,さまざまな世代の間に本当の憐れみが行き来することの本質的な条件です.それ無しには,世俗の都市の文化は,ヒューマニズムの麻痺と堕落に抵抗する可能性をまったく持てません.

以上のような新たな地平線のなかに「生命のための教皇庁アカデミア」の使命は書き込まれている,とわたしには見えます.困難なことだとはわかっていますが,しかし,情熱をかきたてることでもあります.わたしは,こう確信しています ‒ 皆さん ‒ 善意の人々と研究者たち ‒ がこれだけいらっしゃるのですから,不足はありません.皆さんは,宗教に関しては方向性はさまざまであり,世界についての人間学的および倫理的な視覚もさまざまですが,善きことの分かち合いを思い,諸民族のためにより真正な「生の知恵」を報告する必要性を共有しています.人間の生のために価値ある道理の探求に専念する人々多数との開かれた,かつ実り多い対話が成立し得るでしょうし,そうなるべきです.

教皇と教会全体は,皆さんがこの使命を引き受けてくださることに感謝します.人間の生に責任を以て寄り添うこと ‒ その受胎から始まり,その道行き全体にわたり,そして,その自然な終わりに至るまで ‒ は,自由で熱意ある男女と,金で雇われた者ではない牧者とにとって,愛を要する分別と知性の仕事です.皆さんが有する科学と良心によって彼れらを支える皆さんの意図を,神が祝福してくださいますように.ありがとうございます.そして,わたしのために祈ることも忘れないでください.



以上が,2017年10月05日の教皇庁生命アカデミアでの Papa Francesco の演説の全文の邦訳です.

このテクストが発表されると,再び,英語圏の LGBTQ 活動家たちは「教皇は transgender について否定的な発言をした」と非難しました.しかし,生命技術の時代における生命倫理という文脈をふまえてよく読むならば,教皇は transgender については何も語っていません.

先ほども指摘したように,教皇が批判しているのは,男女の性の差異を社会学的な構築物へ還元しようとする social constructionist theories of gender[ジェンダーの社会的構築論]です.男女の性の差異については,後ほど立ち返ります.

とりあえず,transgender の人々はこのことに気づくべきす:社会学者たちの social constructionist theories of gender は,transgender の人々が性別適合手術を受ける必要性を否定します.なぜなら,その理論によれば,男女の性別は単なる人為産物であり,仮象的なものにすぎないのだから,「自分の『本当』の性別と身体的な性別との不一致」は偽問題であり,気にする必要のないことだからです.実際,feminist たちのなかには,「transgender は gender binarism を強化する」と考えて,transgender の存在を嫌悪している人々も,多数ではありませんが,います.



創造と生殖 (creazione e generazione)


生と性の神学の観点から,我々は,まず,教皇演説の次の一節に注目しましょう:

la creazione del mondo[世は神により創造されたということ]と,la generazione del Figlio[御子は御父から生まれたということ]との神秘的なつながりは,我々を驚かせ,感動させることを決してやめません.その神秘的なつながりは,御子が,我々に対する愛のゆえに,マリア ‒ イェスの母,神の母 ‒ の胎のなかで人間と成ったこと (farsi uomo del Figlio) において,啓かされます.この啓示は,存在の神秘 [ il mistero dell'essere ] と生の意味 [ il senso della vita ] とを決定的に照明します.

「Christ が乙女マリアの胎内で人間となったことにおいて啓かされる creazione と generazione との神秘的なつながり」とは,どういうことでしょうか? 

おそらく,教皇の意図は,『カトリック教会のカテキズム』372段に述べられていることの意義を説明し,展開することに存するのでしょう:

男と女は,互いのために[一方は他方のために]造られている:神は男と女を「半分」や「不完全」に造ったのではない:神が男と女を創造したのは,人間存在の交わりのためである.その交わりにおいて,各々は他方のための「助け」であり得る – なぜなら,両者は,人間存在として等しいと同時に,男と女として相補的であるから.結婚において,神は,男と女が「ひとつの肉」となることによって人間生命を伝え得るように,男と女を結び合わせる:「多産であれ,ふえよ,地を満たせ」(Gn 2,24). 子孫へ人間生命を伝えることによって,男と女は,配偶者かつ親として,唯一的なしかたで,創造主のわざに協力する.

la creazione del mondo[世の創造]: 神は,愛の顕現のために,世を無から創造 (creatio ex nihilo) します.創造主による無からの創造は,被造界に存在するもの(das Seiende, 存在事象)の存在の可能性の条件であり,存在事象にとって「存在の神秘」です.

la generazione del Figlio : 父なる神から子なる Christ は生まれます (ἐκ τοῦ πατρὸς γεννηθείς ; ex Patre natus). 世界中の教会で毎主日唱えられているニケアコンスタンチノープル信条は,Christ は « γεννηθείς, οὐ ποιηθείς ; genitus, non factus »[神により造られたのではなく,父から生まれた]のだから,« ὁμοούσιος τῷ πατρί ; consubstantialis Patri »[本有において父と同じである]と強調しています.

神は何の助けもなく無から世を創造し得るとしても,la generazione del Figlio が起こり得るためには,創造主の側からの要請に対するひとりの被造物 – 乙女マリア – の側からの応答 : « γένοιτό μοι κατὰ τὸ ῥῆμά σου ; fiat mihi secundum verbum tuum »[おことばのとおりのことがわたしに起こりますようにが必要です.

この fiat の応答によって初めて,マリアは,イェスの母として,特権的なしかたで創造主のわざに協力し,参与することになります.そして,それによって初めて,本有において父と同じである子たる Christ がひとりの人間的 Dasein[現場存在]として世に誕生することができます.

そこに,creazione ex nihilo と generazione ex Patre との「神秘的なつながり」が存します.単なる被造物としての存在事象は,そのものとしては,神の本有 (存在事象そのもの全体としての「存在」から区別するために Heidegger が抹消して表記する「存在」: Sein, すなわち,存在の解脱実存的な在処,ek-sistente Ortschaft des Seyns) から切り離されています – 言い換えると,Heidegger が「存在論的差異」(die ontologische Differenz) と呼んだ差異によって隔てられています.しかし,創造主に対する被造物の側からの fiat – 勿論,この fiat そのものも,神の恵みによるものです – によって生まれる人間は,その Dasein において,存在事象と神の本有とを「神秘的」に結び合わせることができます.

そのことを,Heidegger は,Austrag[解和]と呼びます.それを我々は,「存在論的差異」との関連において,「存在論的結合性」(nodalité ontologique) と呼んでもよいでしょう.

この nodalité という表現は,Lacan が精神分析の純粋基礎について思考するための道具として数学的トポロジーから取り入れた「ボロメオ結び」(noeud borroméen) に由来します.



ボロメオ結びは,三つ以上の輪の独特な結合性に存します.この写真は,四つ輪のボロメオ結びです.そこにおいては,任意のひとつの輪が切れると,全体のボロメオ結合性が成り立たなくなります.つまり,例えば緑色の輪が切断されると,青,黄,赤の輪は相互に離ればなれになってしまいます.また,任意のふたつの輪は,通常の鎖の輪のように相互にかみ合うことはなく,相互に自由であり,相互の隔たり,相互の差異が保たれています.例えば,青色の輪と赤色の輪は相互に自由であり,隔たっています.しかし,黄色の輪と緑色の輪の仲介によって相互に結びつけられており,全体のボロメオ結合性に与っています.要するに,ボロメオ結びにおいては,構成員は各々相互に自由であり,隔たっており,相互の差異を保ちつつ,かつ,各々が相互に対等な資格において,全体としてひとつの結合性を構成しています.ボロメオ結びにおいては,そのように,各構成員の対等のもとに,自由(差異)と結びつき(結合)とが両立可能であるような,一種独特の連帯性が成り立っています.



イタリアの貴族 Borromeo 家が自身の紋章に三つの指輪からなるボロメオ結びを取り入れたのも,各分家相互の独立性と連帯性の象徴としてであったでしょう.ボロメオ結びは,今,我々にとって望ましい社会構造のモデルを成している,と言うこともできるでしょう.

話をもとに戻すと,存在事象と神の本有とを相互の存在論的差異において相互に結び合わせる存在論的ボロメオ結合性を,聖書は「契約」(בְּרִית [ beriyth ], διαθήκη, alliance) と呼んでいます.

創造主が欲する愛の顕現は,存在事象と神の本有との存在論的ボロメオ結合性としての「契約」– creazione と generazione との神秘的な結合性 – に存します.そして,それは,わたしたちの主 Jesus Christ の Dasein において完成されています.

この存在論的ボロメオ結合性を生きること,各自自身の Dasein においてみづから存在論的ボロメオ結合性で在ること,それが,我々人間にとって「生の意味」である,と言うことができます.

教皇 Francesco の「生と性の神学」は,生について以上のことを言おうとしている,と我々は解釈します.



生殖可能性と「命の与え主」聖霊


ところで,その場合,generazione とは何でしょうか?それは,生物学的な意味の「生殖」に限られるのでしょうか?そうではないでしょう.というのも,生物学的に言えば高齢のゆえにとうに生殖可能ではなくなっていた Abraham と Sarah のカップルにさえ,神は Isaac の generazione を可能にします.不妊症にもかかわらず,Manoah の妻は Samson を,Anna は Samuel を,生むことができます.そもそも,乙女マリアは,未婚のまま,性行為も無しに,イェスを宿します.

本当の意味での generazione は,生物学的な「生殖」には限られません.なぜなら,本当の意味で命を与えるのは,聖霊であるからです.そも,ニケアコンスタンチノープル信条では,聖霊 (τὸ πνεῦμα τὸ ἅγιον, Spiritus Sanctus) は ζωοποιόν, vivificans(命を作るもの,命を与えるもの)と形容されています.第二コリント書簡 (3,6) では,聖パウロはこう言っています : « τὸ γὰρ γράμμα ἀποκτέννει, τὸ δὲ πνεῦμα ζωοποιεῖ ; littera enim occidit, Spiritus autem vivificat »[律法の文字は殺し,霊気は命を作る,命を与える].

本当の意味での「生殖可能性」(generatività, capacità generativa, capacità di generazione) は,生物学的なものではなく,而して,聖霊による generazione のために創造主へ fiat と答え得ること  神の恵みによって  に存します.それは,乙女マリアだけの特権ではありません.あらゆる人間は,神の恵みによって,そう答えることができます.たとえ生物学的な意味においては生殖可能ではない – 何らかの医学的条件のせいで,あるいは同性カップルであるがゆえに,等々 – としても.しかも,カップルである必要すらありません.乙女マリアがまさにそうしたように,人間パートナー無しに,聖霊とのカップルにおいて,fiat と答えることができれば,その人は独身でも生殖可能です.

そのような観点からは,生殖能力を有する男女の結婚カップルのみが生殖可能である,と考える必要はありません.何らかの医学的な条件によって,あるいは同性カップルであるがゆえに,あるいは独身であるがゆえに,生物学的には子を授かることができない者たちが養子を取ることも,generazione のひとつの可能な様態です – fiat と答える用意ができていれば.

むしろ,fiat と答える用意ができていないのに生物学的な意味で親になってしまった者たちは,最悪の場合,子の存在を受け入れることができず,neglect によって子を死なせてしまうことすらあります.残念ながら,それは,「命の与え主」聖霊の恵みを受けた generazione ではありません.

generazione について,Papa Francesco は生物学主義的観点にとどまっているかのように見受けられます.そのことは,「結婚は,男と女との結婚だ」という彼の見解,および,gender の社会的構築論に対する批判とも,関連しています.男女の性の差異について問う際に,立ち戻りましょう.



男女の性の差異と存在論的差異


Papa Francesco は,一貫して,男女の性の差異 (differenza) を,還元不可能なものとして,強調します.一見すると,それは単なる生物学主義的な先入見にすぎないように見えます.しかし,そうでしょうか?「生と性の神学」の観点から考えてみましょう.

2015年6月14日のローマ司教区総会での演説で,Papa Francesco はこう言っています:男であることと女であることは,「存在の多様性」であり,「人間存在を定立する第一の差異,最も根本的差異」である.そのような差異に対して恐怖を感ずる人々がいる[性の差異を社会学的構築物に還元しようとする一部の社会学者たち].男と女は「両者の差異において互いに愛し合う」.男と女が性の「差異を引き受ける」ことは「挑戦」であり,「その挑戦は両者を豊かにし,成熟させ,成長させる」.男女の性の差異という「多様性は,何と大きな富であることか!その多様性は,相補性となり,相互性となる.それは,一方と他方との結び目 (nodo, noeud) である.差異における相互性と相補性は,子どもにとってとても重要である」.

また,2015年4月15日の一般接見において,Papa Francesco はこう言っています:「男と女は,カップルとして,神の似姿である.男と女の差異は,対立や従属のためのものではなく,而して,常に神の似姿において,communione[交わり]であり,generazione である」.「ジェンダー理論は,もはや男女の性の差異に直面することができない.差異をなくすことは,解決ではなく,問題である.男と女は,関係性の問題を解決するためには,より互いに語り合い,聴き合い,識り合い,愛し合うべきである.互いを尊敬し合い,友情を以て協力するべきである.そのような基礎のうえに,神の恵みによって支えられて,生涯にわたって続く結婚と家族の結合を考えることできる」.「神は,男女の契約に,地を委ねた」.「神との communione は,男女の communione に反映される.天の父への信頼の喪失は,男と女の間の分裂と葛藤を生ぜしめる」.

以上から推察されるように,Papa Francesco は男女の性の差異を,単純に生物学的なものと見なしているわけではなく,而して,存在論的なものとして考えようとしています.

性別に関して,我々はかねてよりこう提唱しています:性別を考える際には,transgender に関してよく言われるように,生物学的ないし身体的な性別と「心理学的」な性別の二種類を素朴に前提すればよいのではなく,次の三つの観点が必要である:

1) 生物学的性別 (biological sex) : 基本的には性染色体により規定される身体的な性別(ただし,何らかの先天的な条件のもとで非定型的となり得る);

2) 社会学的性別 (sociological gender) : ジェンダーの社会的構築論が問題とする性別;

3) 存在論的性別 (ontological sexuation) :「男である」,「女である」,「男でも女でもある」,「男でも女でもない」,「男であるか,女であるか,流動的である,特定し得ない」等々は,この存在論的性別の問題である.transgender の問題は,身体的性別と「心理学的」性別との不一致ではなく,身体的性別と存在論的性別との解離に存する.いわゆる心理学的性別は,「性自認」という表現に現れているように,自身の性別の「認知」(cognition) により規定されると見なされているが,そのような思念は,transgender において「性自認」を身体的性別に一致させようとする「認知療法」を正当化することになってしまうだろう.「心理学的」性別という概念や「性自認」という表現を用いることは,それゆえ,避けるべきである.

Papa Francesco が神学的に問おうとしている性別も,存在論的性別です.ところが,論者の大多数は生物学的性別と社会学的性別とをしか考慮しないので,性別の問題について適切に思考することができません.

存在論的性別の概念は,精神分析において Freud の所論を批判的に捉え直す Lacan が公式化した「性別の公式」(les formules de sexuation) にもとづくものです.詳しく論じようとするとかなり長くなってしまうので,概要を提示するにとどめましょう.

存在論的に「男である」を規定するのは,男の自我理想 (Ichideal) としての phallus Φ との同一化です.それは,生物学的ないし身体的な性別にかかわりません.ですから,身体的に女性であっても,自我理想 phallus と同一化していれば「男である」ことになり,逆に,身体的に男性であっても,その同一化がなければ,「男である」ことにはなりません.

それに対して,存在論的に「女である」を positive に規定するものはありません.男の自我理想 phallus Φ に対応するような「女の自我理想」はありません.ですから,「女である」と positive に言うことはできません.「男である」のではない,と negative に言うしかありません.

日常的な意味において「女である」ことは,存在論的に規定され得るものではなく,まさに社会的に構築されるものです – Beauvoir がまったく適切に « on ne naît pas femme : on le devient »[我々は,女に生まれるのではなく,女に成るのだ]と言ったように.

存在論的には,「男である」の側と,「男である」のではない側とが区別されます.そして,後者の側には,「男である」のではないあらゆる者が,その非規定性と多様性において位置づけられます.

では,Papa Francesco が「男と女との間の性的な差異」(la differenza sessuale tra l’uomo e la donna) と言うとき,それをどう思考すればよいか?

「男である」は自我理想 phallus Φ との同一化によって規定されますから,男の集合は措定され得ます.男すべてからなる集合は,ひとつの存在事象として存在します.それに対して,「女である」を規定する命題を公式化することはできません.それゆえ,女の集合は措定不可能です.言い換えると,女は,存在事象たる男に対して ek-sistent である,つまり,抹消された存在 Sein の在処に位置づけられます.

つまり,「男と女の性の差異」は,Seiendes[存在事象]と Sein との間の存在論的差異そのものです.

だからこそ,Papa Francesco は,男女の性の差異は還元不可能である,と強調します.それは,人間と神との間の – Seiendes と Sein との間の – 存在論的差異と同じものであるからです.

ジェンダーの社会構築論の名のもとに男女の性差を否認する者たちは,源初的かつ根本的である存在論的差異を否認することになります.彼れらは「差異を恐怖している」とすれば,それは,Freud の表現を用いるなら,「去勢不安」にほかなりません.



契約と愛


かくして,Papa Francesco が「男と女との契約」(alleanza dell’uomo e della donna) と言うときも,その「契約」は,人間と神との間の存在論的ボロメオ結合性としての「契約」そのものである,ということがわかります.

男と女との相互性と相補性とを可能にするのは,性器を介する性行為ではありません.Papa Francesco は,「相互に語り合い,聴き合い,識り合い,愛し合い,尊敬し合い,友情を以て協力する」と列挙しています:要するに,存在論的ボロメオ結合性としての「契約」です.ひとことで言うなら,「愛」です.その愛は,神の愛(神が人間を愛すること,人間が神を愛すること)と同じです.

「男と女との契約」を,教皇は「男と女との交わり」(communione dell’uomo e della donna) と言い換えてもいます.そして,「人間と神との交わりは男と女との交わりにおいて反映される」(la comunione con Dio si riflette nella comunione della coppia umana) と言っています.

男と女との契約と交わりとしての結婚は,人間と神との契約と交わりの象徴です.その限りにおいて,結婚は解消不可能である,とカトリック教会は定めています.

問題は,結婚するカップルが結婚の本当の神学的意義を必ずしも理解してはいない,ということです.カトリック教会は,そうならないように十分な努力を払っているでしょうか?もし教会で結婚した男女が結婚の神学的意義を理解していないままに離婚に至ったなら,責任の一部はカトリック教会の側にあるかもしれません.そのような場合に関し司牧的配慮をするよう Papa Francesco が提案しているなら,それはまったく適切であると思われます.



LGBTQ+ にとっての Papa Francesco の「生と性の神学」の意義


一見すると,Papa Francesco は,結婚の平等を認めず,生殖への生命技術の介入に対して否定的であり,男女の性の差異を還元不可能なものと強調することにおいて,単純に保守的な生物学主義と男女二元論の立場を取っているかのように見えます.しかし,以上の論考において我々が見てきたように,彼の「生と性の神学」の射程は,生物学主義や男女二元論を越えています.彼は存在論的に思考しようとしているからです.

「男女の性の差異」と教皇が呼んでいるものは,存在論的差異へ還元されます.男女の差異を差異として保ちつつ両者を繋ぐ契約と交わりと愛は,人間と神との契約と交わりと愛と同じものであり,それらは,存在論的なボロメオ結合性に存します.generazione の可能性の条件は,命を与えてくださる聖霊の働きであり,generazione は単純に生物学的な生殖に限られるわけではありません.

Papa Francesco の「生と性の神学」は以上のことを含意しているのであれば,結婚の条件はカップルの愛のみであり,カップルは異性どうしでも同性どうしでも構わないはずでしょう.同性カップルや独身者が養子を取り,愛のなかで育てて行くことも,そこに創造主の計画に対する fiat があるなら,生物学的な generazione に等しいひとつの generazione であるはずでしょう.transgender の人が身体的性別と存在論的性別との解離による苦悩を軽くするために性別適合や中性化の医学的処置を望むとき,神の愛は,それを禁止して,その人を苦しみのなかに放置することはしないはずでしょう.

結婚の平等に関しては,最初にも述べたように,Papa Francesco はこう思っているのかもしれません:勘弁してくれよ,蜂の巣をつつくようなことまで求めないでくれ.もう既に保守派の不満は十分に大きいのだから.

しかし,わたしたちは,第二ヴァチカン公会議に始まったカトリック教会の「宗教改革」をさらに進めてくださるよう,Papa Francesco にお願いしたいと思っています.わたしたちも,わたしたちに可能な限り,それをお手伝いしたいと思います.

ルカ小笠原晋也