2018年1月2日火曜日

Come out of the closet !



Ave Maria, gratia plena ! Dominus tecum.
Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus nunc et in hora mortis nostrae.
Amen.


新年明けましておめでとうございます!

御存じのように,元旦は,1968年に,福者教皇 Paolo VI(今年,列聖される見込み)によって「世界平和の日」[ Giornata mondiale della pace ] と定められました.

2018年の平和のために皆さんと祈りを分かち合いたいと思います.

元旦の御ミサに与れなかった方々のために,第一朗読の主の祝福のことば(民数記 6,24-27)を引用します:


主があなたを祝福し,守ってくださいますように!
主があなたに向けて御顔を輝かせ[意味:微笑む御顔をあなたに見せ],恵みを与えてくださいますように!
主があなたに向けて御顔を上げ[意味:慈しみ深くあなたをまなざし],平和を与えてくださいますように!

教皇 Francesco は,戦争の悲惨さを告発し,平和の必要性を強調するために,年末,この写真をカードにして配布するよう,教皇庁の報道局に要請しました:



カードの裏には,"... il frutto della guerra"[... 戦争がもたらすもの]と記され,教皇のサインが付されています.


さらに,スペイン語でこう説明されています:
Un niño que espera su turno en el crematorio para su hermano muerto en su espalda. Es la foto que tomó un fotógrafo americano Joseph Roger O’Donnell después de el bombardeo atómico en Nagasaki. La tristeza del niño sólo se expresa en sus labios mordidos y rezumados de sangre[この子がおぶっているのは,弟の亡骸である.彼は,火葬場で順番を待っている.この写真は,原爆で攻撃された長崎で,アメリカ人写真家 Joseph Roger O'Donnell により撮影された.子の悲しみは,噛みしめられて血のにじむ彼の唇にのみ表現されている].

この悲惨さは,この72年間,世界の幾つもの場所で繰り返されてきました.さらに,今や,核兵器の用いられる戦争の危機が再び迫っています.

しかるに,安倍晋三政権は,USA から大量の兵器を購入し,自衛隊の攻撃力を増強し,日本を戦争へ駆り立てようとしています.

日本社会が平和の意義に改めて目覚めるためには,1945年を再体験せねばならないのでしょうか?

話題を変えて,
元旦は,やはり御存じのように,神の母聖マリアの祝日でもあります.

この記事の冒頭に掲げた写真は,Notre Dame de Paris の主祭壇の向かって右手の柱のところに置かれた聖母子像です.(参考までに,12月31日,聖家族の日のミサの録画を御覧ください.特に,閉祭の際に,司祭たちはその聖母子像に祈りを捧げています).

わたしは,Paris に滞在するときは,たいてい,Notre Dame de Paris の主日 18:30 の御ミサに与ります.パリ大司教 André Vingt-trois 枢機卿(彼は今月隠退し,Michel Aupetit 大司教が新たに着座します)の説教がすばらしいのと,この聖母子像が好きだからです.

Raffaello の Madonna Sistina も好きですが,Notre Dame de Paris のこのマリア様は,冠をいただく天の后として,より威厳と憂いを有しているように見えます.右手には百合の花を持ち,左手で幼子イェスを抱いています.幼子は,右手で聖母のマントをつかみ,左手には地球を表す球を持っています.

Gérard Braumann という人が個人的な趣味で (?) つづっているブログの記事によると,この像は14世紀なかばに制作され,当初は Île de la Cité 内の別の聖堂のものでしたが,1855年に現在の場所に移設されました.

『サテンの靴』などの戯曲で知られるカトリック作家 Paul Claudel (1868-1955) は,時代の風潮に流されるがままに無神論者,唯物論者でしたが,18歳の年の降誕祭の日,単なる好奇心から,Notre Dame de Paris のこの聖母子像の近くで,立ったまま,晩課で聖歌隊の子どもたちが歌う Magnificat を聴いていたとき,突如感動に襲われ,信仰に目覚めた,とみづから証言しているそうです.

そのような神との出会いは,日本社会においては,どのようにして起こり得るでしょうか – キリスト教の信仰がまったく広まらないままの日本社会において?

というのも,ある人へ信仰を伝えることは,その人に向かって教条的な宣伝をすることによってではなく,その人のために神との出会いを準備することによって,初めて可能になるからです.

では,ある人のために神との出会いを準備するための条件は何でしょうか?

菊地功東京大司教様は,新年のメッセージで,教皇 Benedikt XVI の2005年の回勅 Deus caritas est[神は愛である]25段を引用なさっています:


教会の本質 [ Wesen ] は,三重の任務において表現される:神のことばの告げ知らせ (kerygma-martyria), 秘跡の祭典 (leiturgia), 愛の奉仕 (diakonia). それらの使命は,相互に条件づけられ合っており,相互に切り離されない.愛の奉仕は,教会にとって,他人まかせにしておけるかもしれない福祉活動ではなく,而して,教会の本質に属するものであり,教会そのものの不可欠の本質表現 [ Wesensausdruck ] である.

そこにおいて,教皇 Benedikt XVI は「表現」(ausdrücken, Ausdruck) という語を二度繰り返しています.その語の接頭辞 aus は「外へ」を表します.英語では out of です.

また,名誉教皇は「本質」(Wesen) という語を三度繰り返しています – 本質を,内に秘めたままでいるのではなく,外へ現さねばならない,という文脈において.

主 Jesus の言葉が想い起こされます:「秘められているのは明かされるためにほかならず,隠されているのは明るみに来たるためにほかならない」(Mc 4,22).

キリスト教は,単なる「教え」ではなく,実践です.それは,神の本質ないし神の真理がおのづと自身を示現しようとするがままに示現し得るために奉仕することに存します.

教会の本質は三つの任務  神のことばの告げ知らせ,秘跡の祭典,愛の奉仕 – において表現される,と Benedikt XVI が言うとき,それは,それら三つが神の本質の自己表現(自己示現)の三つの方途であり,しかも,神の本質の自己示現は,教会を構成するわたしたち信者ひとりひとりにおいて – かつ,によって – 成起する,ということです.

ですから,教皇 Francesco も,キリスト教信者は「仲間うちに閉じこもっていてはならない;福音を宣べ伝えるために教会の外へでなさい」と勧告しています:


教会が,すべての人々へ福音を宣べ伝えるために,外へ出ること ‒ すべての場所へ,すべての機会に,ためらわず,いやがらず,おそれずに,外へ出ること ‒,それが,今日,肝腎なことである.福音の喜びは,人々すべてのためのものである.そこから排除されてよい者は,誰もいない (Evangelii gaudium, nº 23).

かくして,キリスト教信者が日本社会において誰かのために神との出会いを準備し得るとすれば,そのためには,まず,我々自身が「外へ出る」ことが必要である,と言えるでしょう.

勿論,それは単なる「書を捨てて,街へ出よう」ではありません.そうではなく,「わたしは Jesus Christ を信ずる者だ」ということを公にすることです.

信者であることを社会のなかで,社会に対して,隠したまま,ミサに与って,御聖体をいただければ,それで十分だ ‒ そう思う人もいるでしょうし,そのような信仰の様態を否定することはできません.しかし,福音宣教の観点から見るなら,そのような場合には,ひとつぶのタネはひとつぶのタネであるにとどまります.何倍か,何十倍かの実りをつけることはできません.

LGBTQ+ に関するテクストや記事を読んだことのある人なら御存じのように,"come out of the closet" という表現があります.closet は,何かをしまっておく「たんす」や「納戸」であり,引きこもる「小部屋」です.そこに何かを隠しておき,あるいは,そこに隠れているための空間です."come out of the closet" は,隠れた状態から外へ出て,白日のもとへ身をさらすことです.LGBTQ+ の文脈では,自身が同性愛者や transgender や queer 等々であることを全面的に  あるいは,限定的に ‒ 公表することを指します.

LGBTQ+ の人権擁護に関して先進的である国々では,coming out は積極的に推奨されています.差別をなくすためには,かつ,正当な人権を認めさせるためには,まず,「わたしは同性愛者だ,transgender だ,queer だ,等々」ということを社会のなかで「目に見える」(visible) ようにする必要があるからです.

それに対して,日本では,「わたしは,come out しないままで何の不都合もない.むしろ,隠れたままでいる方が差別を免れることができる.また,秘密の場所でいくらでもさまざまなしかたで楽しむこともできる」と考える人々が少なくないようです.

しかし,それでは LGBTQ+ の人権の主張と擁護という観点からは,何の進展も望めません.社会のなかで差別は温存されるままです.とりわけ,LGBTQ+ に属するかもしれない子どもたちに対する学校などでの差別やいじめは解消され得ません.

"come out of the closet" ‒ LGBTQ+ にかかわるテクストから学んだこの表現は,今や,日本のカトリック信者にとっても非常に重要な意義を持っている,と言えるでしょう.「わたしはカトリック信者だ」と come out すること,それこそが,日本社会における福音宣教の基本条件であり,その第一歩であるからです.

LGBTQ+ にとっても,カトリックにとっても,日本社会のなかで come out するのは多大な勇気を要することです.なぜなら,日本社会は「皆とは異なる」ことについて非常に不寛容であるからです.

なぜ日本社会は「皆とは違う」ことについてかくも不寛容なのか?それは,差異という裂け目が惹起する不安に耐えることができないからです.

「あの人は,変わった見かけの人だ,一般的でない考えを持っている人だ,世間のしきたりを無視する人だ,非国民だ,外国人だ」等々 ‒ それは,不安にさせます.その不安が耐え難いものであるとき,差別,排除,迫害が起こります.

日本社会は,不安の忍耐の限度が非常に低い社会です.なぜなら,神の愛を識らないニヒリズムの社会であるからです.

ニヒリズムとは,このことに存します:人間は神を忘れ,神は人間を見捨て,両者の間をつなぐものが何も無い.

しかるに,神を忘れた人間と,人間を見捨てた神との間をつなぐものがあります.それは,神の愛の受肉としての Jesus Christ です.

菊地功東京大司教様のモットーは「多様性における一致」です.

多様性は,多様な差異を包含します.それらの差異を無効化し,消し去るのではなく,差異を差異として保ち,尊重しつつ,なおかつ,バラバラに解体してしまうのではなく,ひとつのまとまりを保ち得ること ‒ それが,多様性における一致です.

では,何がそのような状態を可能にするのか?それは,神の愛にほかなりません.多様性の一致は,神の愛における一致です.神の愛が,差異の裂け目の不安に耐えることを可能にし,その裂け目によって隔てられた一方と他方との間にひとつのつながりをつけることを可能にします.教皇 Francesco が用いた表現で言うなら,「橋を架ける」ことを可能にします.

"Come out of the closet !" それは,日本社会におけるキリスト教信者の基本的な標語ではないでしょうか?その coming out によって,初めて,神の愛と隣人愛の可能性の条件がもたらされ得るからです.

世界で二十数カ国において同性婚の法制化にまで至った LGBTQ+ の人権擁護運動は,同性愛者の社会的可視化としての coming out から始まりました.最初の一歩は小さな一歩にすぎなかったでしょう.しかし,そこから社会全体の変化がもたらされました.

日本においても,わたしたちひとりひとりの小さな一歩が,神の愛による社会全体の変化をもたらすことになるかもしれません.

主よ,あなたの愛に信頼するわたしたちが日本社会のなかであなたの愛を証しすることができるよう,わたしたちを導いてください.Amen.

ルカ小笠原晋也