「わたしには同性愛者の友だちがいます」論法について
人種差別主義者は,自身が行っている差別を正当化したり,それについて弁解したりする際に,このような論法をよく用います:「わたしにはユダヤ人の友だちがいます,わたしには黒人の友だちがいます.ですから,わたしは差別主義者ではありません.しかし,ユダヤ人は,黒人は...[以下,人種差別的な主張]」.
当然ながら,或る者が,被差別グループに属する或る個人を友人にしているからといって,グループとしての被差別者たちに対して差別的でないということにはなりません.
歴史上有名な例は,Adolf Hitler (1889-1945) のユダヤ人医師
Eduard Bloch (1872-1945) に対する敬愛です.Linz の開業医だった Bloch は,貧しい寡婦となっていた
Hitler の母が乳癌を患い,1907年に亡くなるまでの間,低料金ないし無料で彼女を治療しました.Hitler はその恩義を忘れず,1938年にオーストリアがドイツに併合された後も,Bloch を特別に保護し,1940年に Bloch が USA に亡命することも許可しました.しかし,勿論,Bloch との個人的な関係は,Hitler が冷酷な反ユダヤ主義者であることをまったく妨げませんでした.
「わたしには,被差別グループに属する友人がいます」論法は,LGBTQ-phobia の者たちによっても用いられることがあります:「わたしには同性愛者の友だちがいます,transgender の友だちがいます,ですから,わたしは性的少数者を差別してはいません.しかし,同性愛は,transgender は...」
最近,個人的に経験した例を御紹介しましょう.
聖書のなかには,同性愛を断罪するために利用される箇所が幾つかあります.それらは
clobber passages と呼ばれます(“clobber” は「激しく殴打して,叩きのめす」という意味の俗語的表現です).例えば,創世記
19,1-29, レビ記
18,22 および 20,13, 申命記 23,18, ローマ書簡 1,26-27, 第一コリント書簡 6,9, 第一ティモテオ書簡 1,10 などです.
しかし,『LGBT とカトリック教義』でも論じたように,それらの箇所において非難されているのは,現在わたしたちが「同性愛」という語によって理解している事態とはまったく異なることです.この解釈は,LGBTQ+ の尊厳と人権を擁護するクリスチャンの間では,今や世界的に共有されています.
ですから,先日,わたしは,Twitter で改めてこう発信しました:
今「同性愛」と呼ばれている事態について,キリスト教の聖書は何も言っていません.聖書が禁止しているのは:性暴力;異教崇拝に属する神聖売買春;他者を単に性欲満足の手段と見なし,そう扱うこと;神や他者との関係において愛を欠くことです.
それに対して,こう反論してきた人がいました:
言ってるとおもいますが... :[clobber passages の列挙].聖書の中にはそれに関することが言われているのが事実です.私は同性愛に関しての是非をここで議論するつもりはありません.ただ,聖書中にその記載は存在するようです.
それに対して,わたしはこう答えました:
御指摘の聖書の箇所で論ぜられているのは,今わたしたちが homosexuality と呼んでいる事態ではありません.詳しくは『LGBT とカトリック教義』をお読みください.よろしければ『教皇 Francesco の生と性の神学』もお読みください.
その人は,こう応じてきました:
ご指示いただいた記事を読んできました.仰りたいことは分かりました.
それから,私は同性愛者の友人がありましたし,同僚にも同性愛者がいました.気が合って,どちらとも仲良くしていました. 同性愛自体にたいする負の感情は全く持っていません.「憎悪の対象」などとんでもない.同性愛者を「憎悪の対象」にしたというキリスト者が神の愛に反していることは確かです.
[しかし]はじめにも申し上げましたが,「聖書の中にその記述はない」というのは,偽りとはいわずとも,意味がずれてはいませんか.記述はあるのですから,少なくとも「あなた方の考えているような意味とは違うと言いたい」と明確におっしゃったほうが良くはありませんか.あなたが仰りたいのは,同性愛者が異性愛者に断罪されることはキリスト教的に正しい事ではない,と言うのではないのですか?
わたしは,こう応じました:
Papa Francesco がおっしゃっているとおりです : Se una persona è gay e cerca il Signore e ha buona volontà, ma chi sono io per giudicarla ?[或る人が gay であり,主を探し求めており,誠意を持っているとする.そのような人を断罪するなら,いったい,わたしは何者か?]
『LGBT とカトリック狭義』に書いたとおり,Homosexualität は19世紀に作られた用語と概念です.古代には,同性どうしが異性どうしと同様に真摯に愛し合う事態は想定されていません.日本国憲法の制定時に同性婚が想定されていなかったのと同様です.想定されていないものは記述も禁止もされ得ません.
相手は,こう言ってきました:
禁止されているかどうかを論点に置いているのではありません.「聖書中には同性愛に関する記述はない」というあなたのお言葉に対して,私は質問を繰り返しているのです.
以下,相手は,わたしの言葉をまったく聞こうとせず,自分の一方的な主張をさらに続けますが,最後までここに再録する必要はないでしょう.
この人の言い分は,文字どおり,「わたしには同性愛者の友人がいます.わたしは,差別主義者ではありません.しかし,聖書では同性愛は断罪されています」です.LGBTQ-phobic な宗教右翼の論法の好例です.
同様の例は,あちこちで頻繁に見受けられます.また,勿論,聖書の
clobber passages をもろに同性愛を断罪するために持ち出してくる人々も,まだまだたくさんいます.
『LGBT とカトリック教義』でも論じたように,聖書が禁止しているのは,神の愛も隣人愛もないがしろにして,sexual objectification[性欲対象化:他者を単に性欲満足の手段と見なし,そう扱うこと
; Jesus が「貪欲な目で女を見る者は,それだけで姦淫の罪を犯したのだ」と言うとき,彼が断罪しているのはこの
sexual objectification のことだ,と解釈され得ます]に耽り,性暴力をふるうことです.それらは,SOGI (sexual orientation and gender identity) の如何にかかわりなく,罪深いことです.
聖パウロが言っているように,聖書は,わたしたちが愛の聖霊に導かれて読むとき初めて,生きている神の御ことばになります.字面にとらわれた読み方は,律法の文字のもとに,わたしたちから愛と命を奪い去ります.
主よ,あなたの全包容的 (all-inclusive) な愛で,あらゆる差別を無効にし,多様性における一致を実現してください.Amen.