2018-04-27

カトリック教義における「自然法」の神話と「男女両性の相互補完性」の神話

Carlo Crivelli (ca 1430 - 1495), Sanctus Thomas Aquinas
from the Demidoff Altarpiece, National Gallery


「自然法」(lex naturalis) の神話と,男女両性の「相互補完性」(complementaritas) の神話 

既に見たように,CCE (
Catechismus Catholicae Ecclesiae) nº 2357 には,こう述べられている:
同性どうしの性行為は,自然法 [ lex naturalis ] に反しており,性行為を生命の賜に対して閉ざしており,[男女両性の]真正な感情的かつ性的相互補完性 [ complementaritas ] から発しておらず,如何なる場合も是認され得ない.

また,CCE nº 372には,こう述べられている:

男と女は「互いのために」造られている.神は,男と女を「半人前」の「不完全」なものとして造ったわけではない.神は,男と女を personarum communio[人と人との交わり]のために創造した.その交わりにおいては,一方は他方の「助け」であり得る.なぜなら,男と女は,同時に,人として平等 [ aequales ] であり,かつ,男女として相互補完的である [ sese mutuo complent ] からである.結婚において,神は男と女を結び合わせる – 男と女が「ただひとつの肉」と成って (Gn 2,24), 人間生命を[子孫へ]伝え得るように : « Crescite et multiplicamini et replete terram » (Gn 1,28). 人間生命を子孫へ伝えることにおいて,男と女は,配偶者および親として,無類のしかたで創造主の御業に協力する.

さらに,1986年に Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)が教理省長官として世界中の司教全員へ宛てた書簡 Homosexualitatis problema の nº 6 には,こう述べられている:

創世記に包含されている創造の神学こそが,homosexuality が措定する諸問題の適切な理解のための根本的な観点を提供してくれる.神は,無限なる知恵と全能なる愛とにおいて,万物を,神の善意の反映として,現存へ呼び出す.神は,御自身の写しや似たものになるよう,人間を男と女として創造する.したがって,人間は,神の被造物のうちで,男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] をとおして創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映するよう呼ばれている被造物である.この任務を,人間は,夫婦が相互に自己贈与することによって生命を[子孫へ]伝えることにおいて神と協力するとき,無類のしかたで果たす.

察せられるように,自然法 (lex naturalis) と男女両性の相互補完性 (complementaritas) とは,密接に関連している.自然法によれば,当然,男女は相互補完的であらねばならないことになるからである.

ところで,カトリック教義において「自然法」と呼ばれるものは,如何なるものか?


それは,いわゆる道徳神学の領域の概念である.CCE nº 1952 において,こう述べられている:
道徳律 [ lex moralis ] の表現は多様であり,道徳律の多様な表現はすべて,相互に協調されている: 
もろもろの律法すべての神における源である永遠の律法 [ lex aeterna ] ; 
自然法 [ lex naturalis ] ; 
旧約の律法と新約の律法 ‒ または,福音の律法 ‒ とを含む啓示された律法 ; 
市民法および教会法 [ leges civiles et ecclesiasticae ].

カトリック教義における自然法の概念は,おもに,聖 Thomas Aquinas が Aristoteles に準拠しつつ作り上げたものである.現代のカトリック神学のなかでは,いわゆる modernisme に対抗する保守派の néo-thomisme または néo-scolastique が,自然法の概念を重要視する.

Ratzinger 枢機卿(名誉教皇 Benedictus XVI)は,自然法の概念を CCE のなかに取り入れたことにおいては,néo-thomiste な考え方をしていることになる ‒ 第二 Vatican 公会議のときには,現代社会におけるカトリック信仰の可能性について積極的に思考しようとする nouvelle théologie[新神学]の側の神学者のひとりと見なされていたにもかかわらず.

ともあれ,信仰と神学における悪しき相対主義を批判する Ratzinger 枢機卿は,自然法への準拠は道徳神学における相対主義を退けるために必要なことだ,と考えたのであろう.

自然法は,実定法のように成文化されたものではなく,而して,人間 ‒ Aristoteles が ζῷον λόγον ἔχον[理性を有する動物]と定義し,それにならって Thomas Aquinas が animal rationale[理性的な動物]と定義した人間 ‒ に本性的 [ natural ] に備わっていると想定される理性に由来するもの,または,理性そのもののことである,と考えられている.

CCE nº 1954 では,こう述べられている:

[理性を有する動物として]人間は,創造主の知恵と善意に与っており,創造主は,人間に,自身の行動の制御と,真理と善とにしたがって自身を支配する能力とを,与えている.自然法は,本源的な道徳感覚 ‒ それは,何が善であり悪であるか,何が真理であり虚偽であるかを,理性によって識別することを,人間に可能にする ‒ を表現している.

自然法は,善を為すよう命じ,罪を犯すことを禁止する〈人間の〉理性であるのだから,人間すべての ‒ かつ,各人の ‒ 魂のなかに書き込まれ,刻み込まれている.(...) しかし,人間の理性が定めることは,より高位の理性[すなわち,神の意志]‒ それへ我々の精神と我々の自由は服従せねばならない ‒ の声かつ通訳であるのでなければ,律法の効力を持ち得ないだろう.

理性を有する動物としての人間に本性的に備わっているものであるので,自然法は,普遍的であり,決して変わることはなく,永遠に保たれるものである,と思念されている.

また,CCE nº 1955 が「神により与えられた自然法 [ lex divina et naturalis ] は,善を為し,目的に到達するために取るべき方途を,人間に示す」と述べていることに示唆されているように,自然法は aristotélico-thomiste な目的論 [ téléologie ] を包含しており,そこにおいては,すべては,causa prima[第一原因]としての神から発し,そして,究極的な目的である summum bonum[最高善]としての神へ向かう.自然法が命ずる倫理的な選択は,そのような目的論に適っている,と思念されている.

カトリック教義において「自然法」と呼ばれるものが以上のようなものであるなら,確かに,「ひとつの肉となる」よう創造された男と女の関係は,相互補完的であり,かつ,「多産であれ,繁殖せよ,地を満たせ」との祝福のもとで,生殖を目的とする,と考えるのが当然である,と思念されることになる.

しかし,Martin Heidegger が「存在の歴史」(Geschichte des Seyns) として展開した形而上学批判を学んだ我々にとっては,自然法の基礎を成す Aristoteles と Thomas Aquinas の形而上学は,そもそも,現代においてはもはや無効である.

人間の本質は,λόγος[理性]を有する動物であることに存するのではない.人間は,Λόγος[神の御ことば,言語]のなかに住まう存在としての現場存在 (Dasein) である.

神は,causa prima ないし causa sui と呼ばれる存在事象にも,summum bonum と呼ばれる存在事象にも,還元され得ない.それらのようなものとしての神は,「哲学者と神学者の神」であって,「Abraham と Isaac と Jacob の神」ではない.

Heidegger (GA 11, p.77) は,暗に Pascal に準拠しつつ,こう述べている:

Causa sui としての原因 ‒ 哲学における神にふさわしい名は,それである.そのような神に,人間は,祈ることも,献げものをすることもできない.Causa sui の前で,人間は,畏怖から跪くこのもできなければ,そのような神の前で音楽を奏でたり踊ったりすることもできない.それゆえ,神無き思考 ‒ 其れは,哲学の神,Causa sui としての神を放棄せねばならない ‒ の方が,おそらく,神的な神により近しいだろう.それは,ここでは,ただ,この謂である:神無き思考の方が,Onto-Theo-Logik が自認しているよりも,神に対してより開かれている.

では,「哲学者や神学者の神」を神と取り違えることをやめるためには,どうすればよいか?

Heidegger の「存在の歴史」,および,彼が我々に示唆する否定存在論 (apophatische Ontologie) に準拠すればよい.


のみならず,形而上学,および,その歴史必然的な帰結である Nihilismus の超克のためには,否定存在論に準拠するしかない.

否定存在論は,次の四つの場所から成るトポロジックな構造として展開される: 

存在事象そのもの全体 [ das Seiende als solches im Ganzen ] の場処 [ Ort ] ;

存在事象そのもの全体の場処に対して「解脱実存的」[ ek-sistent ] である Sein[抹消された存在 : 存在]の在処 [ Ortschaft ] ;

存在事象の場処と Sein の在処とを分離する存在論的差異の切れ目,ないし穴;

存在事象の場処と Sein の在処とを分離しつつ結合する Austrag[解和]の結合縁 (le bord nodal). 


Heidegger が「存在の歴史」として展開した形而上学批判によれば,Platon が ἰδέα[イデア]を τὸ ὄντως ὄν[本当に存在するもの]として措定したことに始まる形而上学は,それによって,存在事象そのもの全体の場処と Sein の解脱実存的な在処とを分離する存在論的差異の穴を塞いでしまい,Sein をそのものとして思考することできなくしてしまった.τὸ ὄντως ὄν は,ἰδέα 以降,Aristoteles においては ἐνέργεια や ἐντελέχεια と呼ばれ,スコラ哲学においては essentia, causa prima, summum bonum などと呼ばれ,近現代哲学においては Subjekt[主体,主観]や Wille[意志]や Wert[価値]などと呼ばれてきた.しかし,今や,形而上学が Sein をそのものとして思考し得なかったがゆえに必然的に行き着いた Nihilismus[虚無主義]において,形而上学が τὸ ὄντως ὄν と見なしてきたものは何ものでもないことがあらわとなった. 

では,どうするか?まずは,新たな τὸ ὄντως ὄν として持ち出して来られるかもしれない何かを探し求めるのをやめ,Sein の Ek-sistenz の在処をそれとして支える否定存在論的なトポロジー構造をわきまえることである.

もはや神は causa prima や summum bonum と呼ばれる存在事象ではなく,理性においてあらゆる真理がすべて書かれ得るわけでもなく,そのような理性に準拠する自然法が普遍的かつ不変的な律法として可能なわけでもない. 

神の Sein は,神秘である.それは,書かれないことをやめないものである.

神の存在の真理にもとづいて「理性」が道徳的な善と義のすべてを,潜在的にであれ,既に書きあげてある,という自然法の形而上学的な想定は,神の 存在 の神秘に対する冒瀆でさえある.

我々が立ち返るべき神は,「哲学者や神学者の神」ではなく,而して,「神は愛である」の神である.誰をも裁かず,誰をも排除せず,而して,あらゆる者を迎え入れ,包容する神の愛である.

Heidegger が Austrag[解和]と呼んだものも,存在事象の場処と Sein の在処との間の差異を差異として保ちつつ,両者を結合し,和解させることを可能にするものとしての神の愛にほかならない.

もはや,形而上学において「理性を有する動物」と定義された人間に「本性的」に備わっているはずの理性や自然法が,道徳神学の基礎を成すのではない.

そうではなく,今や道徳神学の基礎となるのは,Jesus Christ が「わたしがあなたたちを愛したように,あなたたちも互いに愛し合いなさい」と言って我々に与えた愛の命令であるはずである.

では,そのとき,「男女両性の相互補完性」については如何?

上に見たように,Homosexualitatis problema において,Ratzinger 枢機卿は,「男女両性の相互的補完性 [ mutuum sexuum complementum ] は創造主の内的な単一性 [ interior Creatoris unitas ] を反映する」と論じていた.

つまり,「ただひとつの肉と成る」ことを可能にする「男女両性の相互補完性」は,申命記 6,4 において「聴け,イスラエル!」の呼びかけに続いて「我れらの神,主は,一なる主である」と公式化される神の単一性を反映するもの,と思念されている.

ところで,「男女両性の相互補完性」とは,より正確に考察してみるなら,如何なるものか? 

男女それぞれの性器の解剖学と生理学が,男女が「ただひとつの肉と成る」ことを保証しているのか? そのような男女の「性器的」相互補完性の思念は,「ただひとつの肉と成る」ことの神学的な理解としては,あまりに素朴であり,粗雑であろう. 

この「男女両性の性器的な相互補完性」という「常識」的で「普遍」的な思念が実は単なる神話にすぎない – Sigmund Freud が著書 Totem und Tabu[トーテムとタブー]で提示した Urvater[源初の父]の神話と同様に,まったくの作り話にすぎない – ということは,ラカン派精神分析家である筆者にとっては,一目瞭然である ‒ Lacan の一見逆説的な公式 :「性関係は無い」[ il n’y a pas de rapport sexuel ] にもとづくなら. 

医学や心理学を含む世の臆見においては,こう思念されている:性本能 [ sexualité, Sexualität または pulsion sexuelle, Sexualtrieb ] の発達がその完成段階としての性器的成熟に至ると,異性間の性器的な性交の行為において,性本能の十全な満足が成就される.それ以前の未成熟な段階においては,性本能は,前性器的な部分客体(たとえば,口唇にとっての乳房とその等価物,肛門にとっての糞便とその等価物,等々)において,あるいは,自慰行為において,不完全で不十分な満足をしか得ることができない.

性本能の満足のことを,Lacan は jouissance[悦]と呼んでいる.その用語によれば,未成熟な前性器的段階における満足は plus-de-jouir[剰余悦]と呼ばれ,成熟した性器段階における満足は「性器的悦,性器悦」[ jouissance génitale ] ないし「性的な悦,性悦」[ jouissance sexuelle ] と呼ばれる.

Lacan の命題 :「性関係は無い」は,「性器悦は不可能である」ということである.

なぜ性器悦は不可能であるのか?それは,それを可能にするかもしれない性器 phallus は,実際には,不可能であり,存在事象の領域には欠如しているからである.

常識的な思念において「性的」な満足と見なされているものは,不可能な性悦の代わりに,さまざまな前性器的ないし非性器的な客体において得られる剰余悦にすぎない.

男が持ち得る関繋は,悦が固着した諸客体との関繋のみである.それら客体は,本質的に fetish であり,女の存在との直接的に統一的な交わりに入ることを妨げる.

他方,女は,自身をそのような fetish にし,本来的な自己ではない fetish としてのみ男の欲望と関繋し得る.もし女が fetish としての自身を廃することを敢行するなら,彼女は,アビラの聖テレサのごとく神秘的な解脱状態に陥るが,しかし,そのような場合,彼女のパートナーは,もはや人間としての男ではなく,神そのものである.

精神分析の臨床的な作業は,悦の非性器的な固着を解消することに存する.しかし,そのような作業の結果として,男女両性の間の性器的な交わりが可能になるわけではない.

精神分析の経験においては,古代にエジプトやギリシャで広く行われていたかもしれない秘儀におけるように phallus の仮象が啓示されるのではなく,むしろ,phallus の欠如 – Freud が「去勢」と呼んでいた欠如 – の穴こそが顕わとなる.それが,Lacan が公式「性関係は無い」を以て指し示す穴である.

その穴は,不安 – Freud が「去勢不安」と呼んでいたもの – を惹起する.症状は,その不安をごまかすために穴を剰余悦で埋め合わせることに存する.精神分析治療は,逆に,穴を新たな剰余悦で埋め合わせるのではなく,口を開いた穴が惹起する不安に耐えることを可能にする.

「性関係は無い」の穴のゆえに「男女両性の性器的な相互補完性」は不可能であるのだから,男と女との関繋を特権化することは正当化され得ない.ふたりの人間の性器的な相互補完性は,異性カップルであろうと同性カップルであろうと,同じように不可能である.

我々は,むしろ,こう指摘することができるだろう:神の「内的な単一性を反映」し得るのは,男女の「性器的」相互補完性ではなく,而して,Gaudium et spes nº 49 で説かれているような愛の絆である.

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間が真摯に,誠実に,情熱的に愛し合うとき,「その愛を,主は,主の恵みと主の愛を特別に賜ることによって,癒し,完成し,高めてくださる.そのような愛は,人間的な愛と神的な愛とを結合しつつ,夫婦を,自由にして相互的な自己贈与へ導く」(Gaudium et Spes, nº 49).

異性どうしであれ同性どうしであれ,ふたりの人間がそのように愛し合うとき,それこそは優れて,一なる神の愛の徴である.

ふたりの人間の愛の関係と愛の行為は生殖を目的とせねばならない,という思念は,現代においてはもはや有効とは認められ得ない téléologie aristotélico-thomiste のものにすぎない. 

『LGBTQ とカトリック教義』(2018年05月増補改訂版)よりの抜粋

ルカ小笠原晋也