2018年4月16日月曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBT 特別ミサ,2018年03月25日(枝の主日)

十字架を担うキリスト,作者不明,1520年ころの作
Museum voor Schone Kunsten (Gent)

しあわせの形と心のつよさ

枝の主日(マルコ 14.1 - 15.47)

枝の主日の朗読は聖金曜日の朗読に似ています。でも,その中心となるモチーフは違うように感じています。

聖金曜日がイエスの苦しみと、その苦しみのうちに顕される神の愛を核とするなら、枝の主日のモチーフはむしろ、この神の愛に向かう人間の様々な態度にあるように思います。

この態度は今日の朗読の中で、また私たちの生活の中で,鮮明にコントラストをなしています。

過越祭をまえにエルサレムは緊張に包まれています。群衆の待望と、為政者たちの奸計と殺意、そしてイエスに従う者たちの不安と恐怖が,渾然とその都市を覆っていました。

群衆の待望は、ユダヤ人をローマの支配から開放してくれる政治的指導者に向けられています。だから入祭の朗読(マルコ 11.1-11)では彼らは棕櫚の枝を振って「新しい王」のエルサレム入城を祝います。

でも,もちろん,この待望ははかないもので、彼らの心は為政者たちにそそのかされて変わります。入場のを祝う歓声は、すぐに福音朗読にある、この新しい王を「十字架につけろ」という叫びに変わってしまします。

枝の主日は,わたしたちに踏み絵を迫るようなコントラストを見せます。

一方では,憎しみと嘲り、恐怖と不安が渦めいています。ペトロとヤコブとヨハネは、血と涙を流して祈るイエスを残して,眠ってしまいます。ユダはイエスを売って、銀を手にします。祭司長たちと最高法院は,偽証をならべ、奸計の枠を狭めてゆきます。そのなかで,兵士たちは、いち早く力あるものの側につき、無実の人にあざけりを向けます。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」それを見た祭司長たちは,それをあおるようにあざけります。「他人は救ったのに、自分は救えない。... 今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」

他方で,イエスはその間、沈黙のうちに留まります。福音には「何もお答えにならなかった」と記されていますが、その姿は他の朗読箇所がもっと詳しく描いています。イザヤは「主はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった」;「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」と語り、パウロは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無に」したと語ります。イエスは、父なる神の語りに忠実に、自分の道を歩もうとします。

わたしたちは,ユダのようにイエスを売ることはしないでしょうが、苦しみを身に受けようとするイエスに本当に付き従うほどの愛があるのかどうかわかりません。

ピラトはこの二つの力のあいだを漂っています。彼は,かならずしも祭司長たちの言うままに受け取りはせず、イエスにその真偽を確かめようとしています。また,理不尽に見える決定を迂回しようと、囚人の解放を提案してもいます。しかし結局、自分からは何も決めず、促されるままにイエスを兵士たちに差し出します。彼は、人はだれでも死を恐れ、権力に屈するはずだと思っていたのでしょうか。彼は突き動かされ、流され、世の波にのって自分の地位を守ろうとします。


ところで,わたしたちは、毎日の日常のなかで何をもとめているのでしょうか。今日、この聖堂の外には、桜が満開となった最初の日曜日で、お花見の祝祭の雰囲気があふれています。それと対比すれば、この聖堂のなかで祝われている枝の主日は、どこかおどろおどろしいもののようにも見えるでしょう。

人は,誰しもつらさを逃れ、楽しさに惹かれるものですが、そのなかに自分への呼びかけに応える実感と、かみしめるような深い充実が宿っているとは限りません。

Facebook で、Twitter で、Instagram で、人々は「自分は幸せを感じている側の人間だ」と互いに喧伝し、自分にもそう信じ込ませようとしているように見えます。また,ソーシャルメディアの外で顔と顔を合わせて出会う人でさえ、その持ち物で、姿勢で、表情で「わたしは社会的に惨めな者ではない」と語りあってるように見えることもあります。

ひとりひとりがその写真と笑顔の裏に抱えているはずの悩みや辛さ、憧れや希望を、人は誰にも見せないまま、この世を渡り、人生を過ごしてゆくのでしょうか。

わたしには,そんな世の在り方が、自身のうちに不安と妬みを宿しながら、イエスをいけにえに見立てようとして「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と、イエスを責めた祭司長たちの姿に重なって見えます。

確かに,人が自分を見下さず、幸せなものとして見てくれることは,私たちの心を軽くしてくれます。しかし,人の目が、わたしたちが自分のこころの奥に感じるはずの、深い安心や感謝や幸福感を作り与えてくれるわけではありません。

人が受け入れようと、さげすもうとも、イエスのうちに変わらずに響いているのは,「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる」(イザヤ)という実感でしょう。

そこを離れては、目に見える幸せも、偽りを映しこんでしまうような素地が、そこにはある気がします。世の人の声に従い、世の人の目に美しく見せようとしても、こころに深く呼びかける神の声をおいては、こころが嘘なしに満たされることもないでしょう。

イエスは、広い門、恐れの唆しに迷わされることなく、人が本当に祝福を抱きしめることのできる道を示してくれています。

怖いからと言って、恐れに聞き従う人の耳には、その声が小さくなるとは言っても、結局,恐れのささやきが残るでしょう。先を進まれるイエスとともに、こころを強くして、祝福の呼びかけに耳を傾け、その方へ進めば、祝福の感覚は,はじめには小さく、人の目にも留まらないにしても、かならずこころの底にゆるがない明るさと暖かさを伝えてくれるものだと思います。