2018-12-01

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ みんなのミサ,2018年10月28日

Nicolas POUSSIN (1594-1665), Les Aveugles de Jéricho (1650), au Musée du Louvre

「盲人の物乞いが道端に座っていた」(マルコ 10.46-52)

今日の福音は目の見えない人の話です.

インターネットのニュースで色覚異常(以前は「色盲」と呼ばれていた症状です)の方が、はじめて補正眼鏡を着ける体験が紹介されることがあります。色覚というのは不思議なもので,本当は波長の高低しかない電子線を、波長を分けてバランスをとることで、よく知られた光の三原色というダイアグラムを形成します。ですからたとえ波長上の色覚に欠けるところがあっても、そのバランスさえ補正すればほぼ色覚を再構成することができます。そう言えば簡単ですが... 一度,動画サイトで "color-blind"(英語ではこの用語はまだ使われているようです)を検索してみてくだされば、その方たちが眼鏡を着けたとたん動きが止まり、そのまましばらくしてから涙を流し、そして身の回りのものを一つ一つ自分の色覚に刻印してゆく様子がご覧になれます。見えない人が急に見えるようになるという治療がいまだ多くないのに対して、色覚異常の方は補正眼鏡を着けたときに一挙に、本当にドラマチックに新しい世界を体験します。

でも今日はこの福音を別の角度から読みで見たいと思います。というのも二つあるマルコの「盲人の癒し」の一つは、たしかにゆっくりと「見えるようになる」体験を描いていますが (8.22-26), 今日の個所は別のことを描いているように思うからです。

情景となるエリコは,いわば街道町です。山の上の街エルサレムから東に山をくだると、ヨルダン川沿いの街道にぶつかります。そこがエリコです。たくさんの人と家畜、車と荷物が土ぼこりをあげなら通りすぎてゆきます。その「路のはたに」一人の男がすわっています。しかし彼には人も家畜も目にうつりません。砂まじりの風と物音と人々の話し声が聞こえるだけです。地面の上にすわっているのでしょうから、たくさんの足音、砂利を踏む音、荷車の輪が路を踏む音を聞くでしょう。頭のうえを人の話し声がとおってゆきます。

しかし見えない人が、道を急ぐ人に普通に対等に声をかけることは難しいでしょう。この人はずっとそこにすわって過ごし、人々はどこかから来て、どこかへと向かって遠ざかってゆきます。路を急ぐ人たちは、この人とは関係のない別の世界に生きています。この人が路上にすわっているときに聞く人々の声は、どこかこの人とはまったく関係のない話し、ただのざわめきのようなものにしか聞こえないでしょう。この人は、ただずっとそこに座っていることしかない世界に住んでいるわけですから、自分とは関係のないことを話しながら通り過ぎてゆく声を、ずっとずっとずっと,砂ぼこりと風に吹かれながら,聞いていたのだろうと思います。

一日、一日がそうして過ぎてゆくなか、この人にそれまでとは違う、意味のある音が入ってくるようになります。通り過ぎてゆく声のなかで「イエス」という言葉がくり返されるのに気づきます。

願いは人のなかで気づかれることなく眠っています。それはその人が死ぬまでそのままであったかもしれません。しかし路上の、光なくすわっていたこの人のなかに、ある人の名がくり返されることで、この願いはめざめ、ついには「叱りつけて黙らせようと」してもおさえられないものになります.

いくつかの心象がわたしのこころに残ります。一つは「主がお呼びだ」という返事をもらったときのこの男の「飛び上がる」姿です。「上着を脱ぎすてて」とありますが、乞食をしている人ですからりっぱな「上着」は合わない気がします。「上に被っていたもの」ぐらいでしょうか。路上生活をしている人はよく何枚も重ね着をします。タンスはありませんから。その汚れて黒ずんでしまった厚い被りものを、まるで殻が割れてひなが飛び出してくるように、自分の両脇に置き去りにして、そこから飛び出してくる人の姿をわたしは思いうかべます。わたしはそこに長い苦痛な生活のなかで押さえつけられてきていた、彼のこころの裂け目から湧き出している、切実な願いと希求を感じます。

もう一つは「何をしてほしいか」という問いの力です。イエスはこの男に「何をしてほしいのか」と聞きます。この問いに応えてこの男は、もしかしたら生涯思いつづけていて、しかし一度も言葉にしたことがなかったかもしれない、自分の願いを形にします。「目が見えるようになりたいのです。」誰かが何か狂おしいまでに全身でねがっていることがあって、しかもそれは決して実現しないだろうと思っていれば、人は普通、それを人に気取られないように注意し、また自分の思いなかでもその思いに蓋をして、自分でも気づかないようにして過ごすでしょう。願っていることが切実であるほどそれを意識し、なおさら口に出すのは怖いものです。しかしそのときこの男は自分の思いのすべてを、自分の前に立っているはずの「何をしてほしいのか」という声の主にゆだねて、それを口にします。「目が見えるようになりたいのです。」

最後はこの男のすすんでいった「道」です。今日の福音の始めと終わりには,「道」という言葉が,とても印象的に使われています。はじめこの男は「道の端」にすわって、自分はそこにとどまったまま、右から左へ、また左から右へ近づいては遠ざかってゆく人と荷車の音を聞いているばかりでした。癒されたときは彼は、自分のねぐらに帰ることなく、その道を自分の願いをもって進んでゆくことを選びました。彼はもう目が見えるのです。同時に自分がついて行きたいをものを見つけ、もう誰かに助けてもらうことなく自分の目で見て望みに導かれて進んでゆくことができるようになったのです。彼にとって「なお道を進まれるイエスについてゆく」ことはきっとほかにたとえようもないよろこびだったと思います。