2019年2月13日水曜日

日本におけるカトリック聖職者による青少年に対する性的虐待事件 — 被害者自身による初の証言


今月21-24日,Vatican で,世界各国の司教協議会の長を招集して,カトリック教会における青少年に対する性的虐待の問題と未成年者の保護の問題に関する会議が開かれます(通称 Vatican sex abuse summit : ヴァチカン性的虐待サミット).

それに対する皮肉のごとくに,今までも homosexuality に関する著作を多数発表している社会学者 Frédéric Martel 氏が,Vatican に内在的な homosexuality に関する研究書 Sodoma — Enquête au coeur du Vatican[ソドム — ヴァチカンのただなかにおける調査](英訳表題 : In the Closet of the Vatican : Power, Homosexuality, Hypocrisy[ヴァチカンの隠し所:権力,ホモセクシュアリティ,偽善]を,その会議の初日に合わせて出版します.The Guardian 紙は「Vatican の司祭の 5 人に 4 人は gay だ」との見だしのもとに,その本を紹介しています.

そして,日本でも,カトリック聖職者による性的虐待の被害者が,初めて,みづから名のり出ました:竹中勝美さんです(1956年生れ — わたし[ルカ小笠原晋也]と同い年です).彼の証言が,文藝春秋2019年03月号に発表されました.以前に彼が洗礼名「エドワード」名義で発表した書簡回想の方が,記事よりも,彼の痛々しい経験をなまなましく伝えています.

それによると,竹中勝美さんは,初等教育期間を東京サレジオ学園で過ごしました.1955年から 6 年間,学園の小中学校の校長を務めた Thomas Manhard 神父 SDB (1914-1986) から,竹中さんは,9-10歳ころ,頻繁に性的虐待を受けました.その後遺症は,長年にわたって彼を苦しめ続けました.

わたしは東京学芸大学附属小金井小学校中学校に通っていたので,そのすぐ近くにあるサレジオ学園の名前はなじみのものでした.そのなかで子どもたちに対する虐待が頻繁に行われていたのかと思うと,今さらながら,強いショックを感じます.ともあれ,竹中さんの勇気をたたえるとともに,彼の証言が日本におけるカトリック教会の改革に貢献してくれることを願いたいと思います.

今までも繰り返し強調してきたように,カトリック聖職者による青少年に対する性的虐待の原因は,加害者の homosexuality に存するのではありません.そうではなく,カトリック教義が homosexuality を厳しく断罪していることこそが問題です.

カトリック聖職者には castitas[貞節,貞潔]の義務が課せられています.その義務を果たし得るためには,単に性欲を「我慢」すればよいのではなく,しかして,欲望の昇華 (sublimation) が達成されていなければなりません.欲望の昇華に至るためには,自身の sexuality に関する自覚と内省の多大な努力が必要です.

ところが,教義が homosexuality を断罪しているせいで,gay である神学生の場合,排斥と否認のメカニズムが働き,自身の sexuality に対する自覚的な取り組みをすることが困難になってしまいます.すると,どうなるか?「わたしは,女性に接しても性欲をまったく感じないから,性的な問題を克服することができている」とカン違いしてしまいます.そして,司祭に叙階され,たまたま,身近に子どもたちがいる環境で働くことになると,どうなるか?排斥されたものの回帰の症状として,抑えがたい性的衝動が襲ってきます.子どもに手を出してはいけないとわかっていながらも,その行動を抑制することはどうしてもできません.そして,適当な合理化のもとに,性的行動を強迫的に反復することになります.

では,神学生から gay を除外すればよいのか?それは,技術的に不可能です.まさに教義による homosexuality 断罪のせいで,gay である神学生は自身が gay であることを自覚し得なくなっているからです.そのような場合でも有効な「homosexuality 探知機」として機能し得る心理テストのようなものは,ありません.勿論,直接の面接によっても,確信的に察知することはできません.

Vatican は,考え方を根本的に方向転換する必要があります.教義における homosexuality に対する断罪を即座に廃するべきです.homosexual である人々が教会のなかで抑圧されているように感じざるを得ない雰囲気を変えるべきです.

聖職者が gay であっても,それはまったくかまわないことです  castitas の義務が守られているならば,つまり,性的欲望の昇華が達成されているならば.

そして,それは,heterosexual の聖職者の場合にも,当然,当てはまります.司祭による女性に対する性的暴力の事件も,昔から,かつ,最近も,大きな問題になっています.

人間存在は,本来的に性的なものです.神が人間をそう創造したからです.性的な欲望の問題については,それにフタをして,そこから目をそらしていたのでは,解決は得られません.欲望の昇華にこそ主題的に取り組むべきときがきたのだ — わたしは,精神分析家として,そう思います.

ルカ小笠原晋也

2019年2月6日水曜日

Franz-Josef Overbeck 司教 :「カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」

Bischof Franz-Josef Overbeck

神学雑誌 Herder Korrespondenz の2019年02月号にドイツの Essen 教区の Franz-Josef Overbeck[フランツヨーゼフ・オーヴァーベック]司教がゲスト・コメンテーターとして書いたテクストが,LGBTQ+ 関連のニュースのなかで話題になっています.題して :「偏見を克服すること ! カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」(Vorurteile überwinden ! Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern). 

Franz-Josef Overbeck 司教は,1964年生れ.1989年,25歳時に Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)により司祭に叙階.神学博士.2007年に司教に叙階され,2009年から Essen 司教,2011年からドイツ連邦軍指導司教.

彼がその寄稿において言っていることは,わたし(ルカ小笠原晋也)の主張とほぼ一致しているので,御紹介したいと思います.

ただし,最後の方で彼は「同性どうしが性的関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問い」に関して判断保留を表明していますが,わたしは,カトリック教会において,性的指向や性同一性 (sexual orientation and gender identity : SOGI) にもとづくあらゆる差別は,同性カップルに結婚の秘跡を授けないという差別も含めて,如何なる条件においても正当化され得ない,と考えています.

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偏見を克服すること ! 

カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない 

Vorurteile überwinden ! 
Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern
Von Franz-Josef Overbeck

今,homosexuality についてどう考えるかという問いほど,カトリック教会のなかで人々を熱くさせる問題はほかにほとんど無い.全世界的に見れば,homosexual の人々にとっては,最小限の対人的な敬意を払ってもらうことさえ必ずしも確実ではない.カトリック教会において,より立ち入ったしかたで homosexuality に関する道徳的な価値判断の問題に取り組むことは,現在,喫緊の課題である.それは,[聖職者による青少年に対する]性的虐待に関する MHG 調査[Mannheim, Heidelberg, Gießen の三大学の研究所による合同調査;20189月にドイツ司教協議会に報告された]の検討から出発した議論の流れのなかで,カトリック道徳学を考慮に入れないでおくべきではない,というドイツ司教協議会の要請に応えるためである.仮定および問いとしてかかわっているのは,このことである:もしかして,sexuality に関するカトリック教会の教えの幾つかの内容が,人間の sexuality の諸現象を不幸にもタブー視することを促したのではなかろうか?そのことは,特に homosexuality について妥当する.なぜなら その推察によれば 教会の[homosexuality に関する]あのように否定的な見方は,個々人の心理においても,また,ついには,教会組織においても,[homosexuality という]性の現象形態の不健全な排斥を または,否認をさえ 促進したからである.

ここで,何をどう関連づけようと,ひとつのことは確かである:ひとりの人間の性的指向 heterosexual であれ homosexual であれ そのものは,性的虐待の原因と見なされることはできないし,かつ,そうされてはならない.また,専門家の見解によれば,pedophilia homosexuality との間には,いかなる内的な関連性も無い.それゆえ,たとえば,性的虐待の問題は,司祭職への門戸を自分は heterosexual だと感じている男たちだけに制限することによって解決され得る,と主張するとすれば,それはまったくの見当違いであろう.そのような対策によっては,まさに,教会内における排斥 問題多き排斥 を惹起したあの態度が継続され,さらには強化されることになるのではなかろうか?とわたしは自問する.また,そのような対策によっては,性的虐待というこの非常に複雑な問題に関して我々は確実な解決法を既に所有している,という危険な錯覚が大きくなることにもなるのではなかろうか?

ひとつのことは確実である:あらゆる人間は,きわめて敬意と愛に満ちた対人関係に与り得る.そこから特定の人間集団を排除するとすれば,それは,当事者にとっては耐え難い偏見の表現であり,つまるところ,彼れらを差別し,犯罪者扱いすることをさえ助長する.従来どおり,ひたすら自然法 [ Naturrecht, lex naturalis ] にもとづいて homosexuality を知覚し,評価することを単に繰り返すだけならば,教会と密なつながりを持つ信者たちの間でさえ,教会の性道徳に対する信頼性の劇的な喪失を阻止することはできないだろう この懸念は根拠がある,とわたしは思っている.

いかなる観点においてであれ「sexuality を人間的なものにする」こと [ Humanisierung von Sexualität ] は,今日,同じ程度に「sexuality personal なものにする」こと [ Personalisierung von Sexualität ] を意義している.この背景を前にして,もし仮に sexuality に関する問いにおいて人々の経験 および,人々の経験を反映する人間科学 との対話を忌避するならば,なおさら,カトリック道徳学は,知的領域において一顧だにされなくなる危険をおかすことになる.

この数十年間の聖書解釈学や道徳神学の認識との対話も,学びと認識の進歩が始めから排除されてはいないようなしかたで行われているはずである.そのようであってこそ,伝統は,キリスト教の始まり以来そうであるように,生き生きとした出来事であり続ける.キリスト教道徳が理性に適うものであることに賭け,それとともに,「単純明瞭」であるかのごとくに見える答えを選ぶよう誘惑する原理主義に抵抗することは,カトリック神学の強みに属すことであるのだから,カトリック教会の教えは,人間の実存が性的なものであること および,そのことについてより深く知ること に対して,自身を閉ざしてはならない.

それは,性道徳の問い 特に homosexuality の問い については,このことを意義する:すなわち,文化と時代によって条件づけられた諸表象 それらは,同性どうしの sexuality に関する聖書の文言へも輸入されている について,この[伝統を生き生きとした出来事にする]光のもとに,新たに省察し,聖書的倫理の基本的な かつ,ある意味で「時代を超えた」 諸様相からそれら[文化と時代に条件づけられた諸表象]を明確に区別すること.そこにおいては,「識別能力」 それを以て,聖書的な伝統と教会の伝統の多層性のなかから,今日,何を如何なるしかたで妥当なものとせねばならないかを我々が見つけ出し得るところの「識別能力」 が問われている.そも,正当にも,カトリック教会には,あらゆる時代において善とまことに人間的なものと そこにおいて神の意志が我々と出会うところ を探し求めることが,期待されている.

それゆえ,人間の sexuality に関する認識が深められることによって,過去の時代のもろもろの偏見 それらは,今日に至るまで致命的に影響を及ぼしている が克服されるならば,それは,基本的に言って,カトリック教会にとって喜ばしい限りである.homosexuality の「脱病理学化」は,当事者たちにとっては,過去と現在における 部分的には途轍もない 受難の歴史からの遅すぎる解放を意義する.この数年間,当事者たちとの多くの対話は,わたしに多くのことを考えさせ,わたしの心を動かし,わたしの視野を広げてくれた.それゆえ,今や homosexuality に関する[性道徳的な]知覚と価値判断に関して教会内で議論すべきときとなったとしても,その議論は,当事者たちが過去に受けた傷 その傷口は,まだほとんど瘢痕化していない がまた新たに口を開くことのないようなしかたで為されるべきである.その歩みは,同性どうしが[性的]関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問いからは切り離した形で,計画表のなかに予定されている.いずれにせよ,homosexuality というテーマに関して,我々は,第二ヴァチカン公会議の確信を心にとめるべきであろう:「謙虚に,かつ,辛抱強く,ものごとの秘密を探求しようと努める者は,みづからはそうと気がついていない場合でも,神の手によって導かれているかのごとくである 万物を支えつつ,あらゆるものが,それが其れであるところのものであるようにしている神の手によって」(GS 36).

(ルカ小笠原晋也による翻訳)

2019年2月4日月曜日

菊地功東京大司教様に LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を届けましょう

菊地功大司教様と LGBTCJ 共同代表 小笠原晋也
2017年12月25日10時からの降誕祭ミサ後,東京カテドラルの敷地内にて
小笠原が手に持っている本は,大司教様の著書『真の喜びに出会った人々

菊地功 東京大司教様は,2019年01月の東京教区ニュースに掲載されている彼の新年の挨拶の文章のなかでもおっしゃっているように,彼の宣教司牧方針の策定のために信仰共同体からの意見を募集しています.

2018年05月20日付で発表された「多様性における一致を掲げて」のなかで列挙されている10の課題:

1 : 修道会の垣根を越えた、教区における司牧協力体制の充実
2 : 滞日外国人司牧の方向性の明確化と見直し
3 : 継続信仰養成の整備と充実
4 : 現行「宣教協力体」の評価と見直し
5 : カトリック諸施設と小教区・教区との連携
6 : イベントの豊かさだけではなく、霊的にも豊かな共同体の育成
7 : 信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実
8 : 文化の多様性を尊重した典礼の豊かさの充実
9 : 教区全体の「愛の奉仕」の見直しと連携の強化
10 : 東日本大震災への取り組みに学ぶ将来の災害への備えの充実

に関して,「そのすべてでもかまいませんし,また一部でもよいのですが、それぞれの共同体の中で是非とも話し合っていただいて,意見を交わし、それを集約した上で、文書をもって,皆様の提言を私に御提出いただけませんでしょうか。ひとつでも多くの小教区共同体や修道院共同体からの御意見や御示唆をお待ち申し上げます。御提出いただく期限は、2019年の聖霊降臨(6月 9日)といたします」(2019年01月08日付東京教区ニュースより)とのことです.

2019年01月14日の「東京教区年始の集い」でお会いした際に,大司教様に直接確認したところ,LGBTCJ からも是非,意見を寄せて欲しい,とのことです.

というわけで,大司教様から与えられたこの宿題に答えたいと思います.特に「霊的に豊かな信仰共同体の育成」や「信仰の多様性を反映した典礼の豊かさの充実」の項目が,わたしたち LGBTQ+ カトリック信仰共同体と関連性が高いと思います.

意見交換や議論の手段についてですが,LGBTQ+ みんなのミサの後の分かち合いの集いは議論の場所としてはふさわしくないので,メーリングリストを利用したいと思います.

まず,意見交換や議論のためのメーリングリストを作成したいと思います.参加希望者は lgbtcj@gmail.com へ「リスト参加希望」と表記したメールをお送りください.登録の期限は特に定めません.

そして,御意見を lgbtcj@gmail.com へお送りください.

お送りくださった文面は,メールアドレスや個人名を伏せた形で,メーリングリスト参加者全員へ配信します.

その意見に関する御意見等も,lgbtcj@gmail.com へお寄せください.その文面も,同様に,メールアドレスや個人名を伏せた形で,メーリングリスト参加者全員へ配信します.

顔を見ながら意見交換する機会を持ちたいという御意見が多ければ,Skype での会議の機会を持つか,または,5月26日に予定されている LGBTQ+ みんなのミサの後に,分かち合いの集いとは別に,会合の時間を取りたいと思います.

意見書の文面は,皆さんの意見と議論にもとづいて,わたし(ルカ小笠原晋也)が作成し,5月末または 6月始めにメーリングリスト参加者全員へ配信します.そして,その文面に関する皆さんの意見にもとづいて,最終的な形に整えたいと思います.

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菊地功大司教様は,2019年01月21日付のブログで「シノダリティ」について書いていらっしゃいます.

「司教たちのシノドス」(Synodus Episcoporum) は,教皇のための助言組織として,1965年,聖パウロ VI 世教皇によって設立されました.菊地功大司教様がブログで言及している「シノドス」は,若者をテーマに,2018年10月に行われたものです.

「シノドス」という語はギリシャ語の σύνοδος に由来しており,その語は共に (σύν) 道 (ὁδός) を歩む」ことに由来しています.

ですから,教皇 Francesco が「シノダリティ」(synodality, sinodalità) を強調するとき,そこには,組織の頂点に位置する者の教条的な独断や独裁とは逆に,愛を以て司教や教皇が一般信徒と共に歩み,その声に耳を傾け,愛を以て司牧することが含意されています.菊地功大司教様も,この synodality の精神を確かに実践しようとなさっています.

ブログで菊地功大司教様が言及している 2018年10月28日の Angelus の際の話のなかで,教皇 Francesco は明らかに LGBTQ+ のことに言及しています.日本語訳は,イタリア語原文ではなく英訳を邦訳しているので,誤訳している部分があります.当該箇所をイタリア語で読み直してみましょう:

Con questo atteggiamento fondamentale di ascolto, abbiamo cercato di leggere la realtà, di cogliere i segni di questi nostri tempi. Un discernimento comunitario, fatto alla luce della Parola di Dio e dello Spirito Santo. Questo è uno dei doni più belli che il Signore fa alla Chiesa Cattolica, cioè quello di raccogliere voci e volti dalle realtà più varie e così poter tentare un’interpretazione che tenga conto della ricchezza e della complessità dei fenomeni, sempre alla luce del Vangelo. Così, in questi giorni, ci siamo confrontati su come camminare insieme attraverso tante sfide, quali il mondo digitale, il fenomeno delle migrazioni, il senso del corpo e della sessualità, il dramma delle guerre e della violenza. 
この「聴く」という基本的な態度を以て,わたしたちは,現実を読むこと — わたしたちの時代の徴を捉えること — に努めました.共同体的な分析が,神の御ことばと聖霊との光のもとに為されました.それは,主がカトリック教会に与えた最もすばらしい賜のひとつです:すなわち,非常に多様な現実から[さまざまな]声と顔を集め,そして,それによって,現象の豊かさと複雑さを考慮にいれた解釈を試み得る — 常に福音の光のもとに — という賜です.かくして,この26日間,わたしたちは,数多くの挑戦 — たとえば,情報化された世界,移民の現象,身体と性の意味,戦争と暴力のドラマ — を受けながら如何に共に歩むかについて,討議してきました.

この「身体と性の意味」(il senso del corpo e della sessualità) という表現は,明らかに LGBTQ+ のテーマを指しています.教皇が LGBT という語を用いなかったのは,シノドスを準備する段階の文書には LGBT という語が用いられていたのに,最終報告書からはその語は削除されてしまったからでしょう.

ともあれ,教皇 Francesco が LGBTQ+ の人々のことを気にかけているのは,周知のとおりです.

東京大司教区においても,LGBTQ+ カトリック信仰共同体の声を菊地功大司教様に届けましょう.

ルカ小笠原晋也