2019-02-06

Franz-Josef Overbeck 司教 :「カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」

Bischof Franz-Josef Overbeck

神学雑誌 Herder Korrespondenz の2019年02月号にドイツの Essen 教区の Franz-Josef Overbeck[フランツヨーゼフ・オーヴァーベック]司教がゲスト・コメンテーターとして書いたテクストが,LGBTQ+ 関連のニュースのなかで話題になっています.題して :「偏見を克服すること ! カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない」(Vorurteile überwinden ! Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern). 

Franz-Josef Overbeck 司教は,1964年生れ.1989年,25歳時に Joseph Ratzinger 枢機卿(当時)により司祭に叙階.神学博士.2007年に司教に叙階され,2009年から Essen 司教,2011年からドイツ連邦軍指導司教.

彼がその寄稿において言っていることは,わたし(ルカ小笠原晋也)の主張とほぼ一致しているので,御紹介したいと思います.

ただし,最後の方で彼は「同性どうしが性的関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問い」に関して判断保留を表明していますが,わたしは,カトリック教会において,性的指向や性同一性 (sexual orientation and gender identity : SOGI) にもとづくあらゆる差別は,同性カップルに結婚の秘跡を授けないという差別も含めて,如何なる条件においても正当化され得ない,と考えています.

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偏見を克服すること ! 

カトリック教会は homosexuality に対する見解を変えねばならない 

Vorurteile überwinden ! 
Die katholische Kirche muss ihre Sicht auf Homosexualität verändern
Von Franz-Josef Overbeck

今,homosexuality についてどう考えるかという問いほど,カトリック教会のなかで人々を熱くさせる問題はほかにほとんど無い.全世界的に見れば,homosexual の人々にとっては,最小限の対人的な敬意を払ってもらうことさえ必ずしも確実ではない.カトリック教会において,より立ち入ったしかたで homosexuality に関する道徳的な価値判断の問題に取り組むことは,現在,喫緊の課題である.それは,[聖職者による青少年に対する]性的虐待に関する MHG 調査[Mannheim, Heidelberg, Gießen の三大学の研究所による合同調査;20189月にドイツ司教協議会に報告された]の検討から出発した議論の流れのなかで,カトリック道徳学を考慮に入れないでおくべきではない,というドイツ司教協議会の要請に応えるためである.仮定および問いとしてかかわっているのは,このことである:もしかして,sexuality に関するカトリック教会の教えの幾つかの内容が,人間の sexuality の諸現象を不幸にもタブー視することを促したのではなかろうか?そのことは,特に homosexuality について妥当する.なぜなら その推察によれば 教会の[homosexuality に関する]あのように否定的な見方は,個々人の心理においても,また,ついには,教会組織においても,[homosexuality という]性の現象形態の不健全な排斥を または,否認をさえ 促進したからである.

ここで,何をどう関連づけようと,ひとつのことは確かである:ひとりの人間の性的指向 heterosexual であれ homosexual であれ そのものは,性的虐待の原因と見なされることはできないし,かつ,そうされてはならない.また,専門家の見解によれば,pedophilia homosexuality との間には,いかなる内的な関連性も無い.それゆえ,たとえば,性的虐待の問題は,司祭職への門戸を自分は heterosexual だと感じている男たちだけに制限することによって解決され得る,と主張するとすれば,それはまったくの見当違いであろう.そのような対策によっては,まさに,教会内における排斥 問題多き排斥 を惹起したあの態度が継続され,さらには強化されることになるのではなかろうか?とわたしは自問する.また,そのような対策によっては,性的虐待というこの非常に複雑な問題に関して我々は確実な解決法を既に所有している,という危険な錯覚が大きくなることにもなるのではなかろうか?

ひとつのことは確実である:あらゆる人間は,きわめて敬意と愛に満ちた対人関係に与り得る.そこから特定の人間集団を排除するとすれば,それは,当事者にとっては耐え難い偏見の表現であり,つまるところ,彼れらを差別し,犯罪者扱いすることをさえ助長する.従来どおり,ひたすら自然法 [ Naturrecht, lex naturalis ] にもとづいて homosexuality を知覚し,評価することを単に繰り返すだけならば,教会と密なつながりを持つ信者たちの間でさえ,教会の性道徳に対する信頼性の劇的な喪失を阻止することはできないだろう この懸念は根拠がある,とわたしは思っている.

いかなる観点においてであれ「sexuality を人間的なものにする」こと [ Humanisierung von Sexualität ] は,今日,同じ程度に「sexuality personal なものにする」こと [ Personalisierung von Sexualität ] を意義している.この背景を前にして,もし仮に sexuality に関する問いにおいて人々の経験 および,人々の経験を反映する人間科学 との対話を忌避するならば,なおさら,カトリック道徳学は,知的領域において一顧だにされなくなる危険をおかすことになる.

この数十年間の聖書解釈学や道徳神学の認識との対話も,学びと認識の進歩が始めから排除されてはいないようなしかたで行われているはずである.そのようであってこそ,伝統は,キリスト教の始まり以来そうであるように,生き生きとした出来事であり続ける.キリスト教道徳が理性に適うものであることに賭け,それとともに,「単純明瞭」であるかのごとくに見える答えを選ぶよう誘惑する原理主義に抵抗することは,カトリック神学の強みに属すことであるのだから,カトリック教会の教えは,人間の実存が性的なものであること および,そのことについてより深く知ること に対して,自身を閉ざしてはならない.

それは,性道徳の問い 特に homosexuality の問い については,このことを意義する:すなわち,文化と時代によって条件づけられた諸表象 それらは,同性どうしの sexuality に関する聖書の文言へも輸入されている について,この[伝統を生き生きとした出来事にする]光のもとに,新たに省察し,聖書的倫理の基本的な かつ,ある意味で「時代を超えた」 諸様相からそれら[文化と時代に条件づけられた諸表象]を明確に区別すること.そこにおいては,「識別能力」 それを以て,聖書的な伝統と教会の伝統の多層性のなかから,今日,何を如何なるしかたで妥当なものとせねばならないかを我々が見つけ出し得るところの「識別能力」 が問われている.そも,正当にも,カトリック教会には,あらゆる時代において善とまことに人間的なものと そこにおいて神の意志が我々と出会うところ を探し求めることが,期待されている.

それゆえ,人間の sexuality に関する認識が深められることによって,過去の時代のもろもろの偏見 それらは,今日に至るまで致命的に影響を及ぼしている が克服されるならば,それは,基本的に言って,カトリック教会にとって喜ばしい限りである.homosexuality の「脱病理学化」は,当事者たちにとっては,過去と現在における 部分的には途轍もない 受難の歴史からの遅すぎる解放を意義する.この数年間,当事者たちとの多くの対話は,わたしに多くのことを考えさせ,わたしの心を動かし,わたしの視野を広げてくれた.それゆえ,今や homosexuality に関する[性道徳的な]知覚と価値判断に関して教会内で議論すべきときとなったとしても,その議論は,当事者たちが過去に受けた傷 その傷口は,まだほとんど瘢痕化していない がまた新たに口を開くことのないようなしかたで為されるべきである.その歩みは,同性どうしが[性的]関係を持つことや生活を共にすることの教会内での位置づけに関する敏感な問いからは切り離した形で,計画表のなかに予定されている.いずれにせよ,homosexuality というテーマに関して,我々は,第二ヴァチカン公会議の確信を心にとめるべきであろう:「謙虚に,かつ,辛抱強く,ものごとの秘密を探求しようと努める者は,みづからはそうと気がついていない場合でも,神の手によって導かれているかのごとくである 万物を支えつつ,あらゆるものが,それが其れであるところのものであるようにしている神の手によって」(GS 36).

(ルカ小笠原晋也による翻訳)