2019年3月25日月曜日

教皇フランチェスコの天国と地獄に関する教え

ダンテの『地獄』の最終歌 (Canto XXXIV) のための Gustave Doré (1832-1883) による挿絵

以前にも紹介したことがありますが,教皇 Francesco は,2015年03月08日にローマ市内のある小教区を訪問した際,ガールスカウトの少女の質問 :「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言いました:

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あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です.

では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています.

しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました :「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」.

神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから.

地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です.

そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです — 神との関係を全然欲しがらずに.

他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う :「主よ!...」.

その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く.

イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う :「主よ,わたしを憐れんでください!」.

すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43). 

なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです.

地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです :「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」— 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます.

わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!

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死後,わたしたちはどうなるのか?それは,死の穴に直面するわたしたちが,不安におののきながら,自問する問いです.歴史上,さまざまな想像力がさまざまに答えてきました.

しかし,実は,本質的に重要なのは,「死後どうなるか?」に関する空想的な答えではなく,しかして,死の穴に直面する不安から逃げない,という態度です.そして,死の穴に直面しつつ,今,どう生きるべきか,今,どう在るべきか,について問うことです.

教皇 Francesco は,こう答えています:もしあなたが「我々人間は自律的に自立しており,自身に起こることは,単なる偶然を除けば,すべて,自業自得,自己責任であって,神の愛による救済や赦しはあり得ないこと,無用なことだ」と思っているなら,あなたの世界は地獄です.あなたは死後,神罰によって地獄へ突き落とされるのではありません.神の愛の福音に対して耳を塞ぎ,神へ背を向けたままでいるあなたは,今,地獄を生きているのです.

なぜ今の日本社会が地獄のようであるのか,よくわかります.

神は律法をふりかざして処罰したりはしません.神は愛し,赦し,救ってくださいます.神に愛されたいと欲する者は,今,もうすでに,神のみもとにいます.神とともにいます.イェスとともに天国にいます.

以上が,教皇 Francesco の天国と地獄に関する教えです.

ルカ小笠原晋也

2019年3月10日日曜日

homosexuality に関する日本カトリック司教協議会の見解について

Deus caritas est[神は愛である]
a stained glass work by Christopher Whall (1849-1924)
in the Church of the Holy Cross, Sarratt, England

昨日,Twitter で,我々の友人,細川隆好さんが,日本カトリック司教協議会が2015年05月06日付で発表した文書のなかで homosexuality に言及していることを紹介してくれているのを,見かけました.わたしは,この文書に今まで全然気がついていなかったので,ここで取り上げておきたいと思います.教えてくださった細川隆好さんに感謝します.

皆さん憶えていらっしゃるように,2014年と2015年に家族を主題とするシノドス (Synodus Episcoporum) が行われ,それを受けて,2016年,教皇 Francesco は使徒的勧告 Amoris laetitia を発表しました.

2014年のシノドスの報告書は,2015年のシノドスを準備するための文書 Lineamenta として発表されました.そして,その際,報告書の内容に関連する 46 の問いが,さらにそこに付加されました.

以下に紹介する文章は,Lineamenta として発表された2014年のシノドスの報告書のうち homosexuality に関連する部分の邦訳,ならびに,付加された 46 の問いのうち homosexuality に関連する部分の邦訳,および,それら 46 の問いに対する日本カトリック司教協議会の回答のうち,homosexuality に関連する部分です.

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[2014年のシノドスの報告書から]

homosexual な性的指向を有する人々に対する司牧的注意

55. homosexual な性的指向を有する人々をメンバーとして擁する家族がある.そのことに関して,我々は,そのような状況に対して為すべき司牧的注意について,問いあった — 教会の教えに準拠しつつ :「homosexual なつながりと,結婚および家族に関する神の計画とを,同列に置くこと,あるいは,両者の間に類似性を認めること — たとえ遠く離れた類似性であれ — には,如何なる根拠も無い」.とはいえ,homosexual な性向を有する人々は,敬意と心遣いを持って迎え入れられねばならない.「彼れらに対しては,不当な差別の刻印は,如何なるものも,避けるべきである」(教理省,「homosexual な者どうしのつながりを合法的なものと認める計画に関する考察」(Considerazioni circa i progetti di riconoscimento legale delle unioni tra persone omosessuali, 4) (2003).

56. この領域において,教会の司牧者たちが圧力を受けることは,まったく容認しがたい.また,国際機関が,貧しい国々に対する財政援助を行うに際し,同性の者どうしの「結婚」の法制化の導入をその条件とすることも,まったく容認しがたい.

[55 および 56 に関する問い]

homosexual な性向を有する人々に対する司牧的注意は,今日,新たな課題を措定している — 特に,社会的水準において彼れらの権利[の問題]が提起されているしかたによって.

40. homosexual な性向を有する者をメンバーとして擁する家族に対して,キリスト教共同体は,如何に司牧的注意を向けるか?あらゆる不当な差別を回避しつつ,如何なるしかたで,homosexual であるという状況にある人々にかかわることができるか — 福音の光のもとで?彼れらの状況に対する神の意志の要請を,如何に彼れらに提示するか?

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日本カトリック司教協議会の〈問い 40 への〉答え

1.

i. 当事者が一番苦しんでいる。医学的治療に結びつけ、まず,人間として生きていくことができるように支援が必要。長い検査と治療の結果、性別が確定され、それによって生きる道が選択されていくのではないか。
ii. 教会は、同性婚の結婚を認めることができなくても、同性愛は本人の選択によるのではないし、神が拒絶しているとは考えられない。せめて,同性愛の傾向を持つ男女が作る家庭も神に祝福された家庭だというメッセージを発信することが必要だと思う。最近、東京都渋谷区が同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する条例を可決した(賛成派が過半数をやや上回っている)。
iii. 彼らがさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない。むしろ、社会的な少数者として受け入れる必要がある。
iv. 結婚の目的についての教会の教えを、絶えず信者たちに教える必要がある。

2. 
同性愛者が家庭の中にいると分かれば、イエス・キリストのように愛と憐みの心をもって,「罪人と罪」を区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡の時に真実を告げられると、助言する他に方法はない。

3.
i. 裁くことなく、同性愛者とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない。
ii. 教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよい方法であろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について,専門家に話をしてもらう。
iii.「結婚の本質は夫婦愛から生まれるいのちの継承にある」という、神によって示された方向性は決して変えるべきではないが、その在り方については,母なる教会の心をもって対応されるべき。宗教学・医学・科学的見地に立ち、可能な限りの解決策を試み、それでも根本的解決に繋がり得ない場合は、その人の目から涙をすべて拭い去る救いへの努力が求められる。本人たちのせいではなく、神さまから頂いた傾向だと思われるので、秘跡に与る権利があることを本人にはもちろん,家族にも話すことは大事。

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若干のコメントを述べておきたいと思います.

まず,すぐに気づくことができるように,どうやら,日本カトリック司教協議会は,sexual orientation[性的指向]と gender identity[性同一性]とを区別し得ていないようです.というのも,Lineamenta においては homosexuality — つまり性的指向にかかわること — についてしか問われていないのに,日本カトリック司教協議会の回答においては「性別の確定」 つまり性同一性にかかわること  への言及が為されているからです.まずは日本のカトリック教会のなかで LGBTQ+ および SOGI (sexual orientation and gender identity) に関する初歩的な学習が必要であることが,示唆されます.

「当事者が苦しんでいる」 それは確かです.しかし,その苦しみを惹き起こしているのは何か?それは,LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別であり,homosexuality を断罪するカトリック教会の教義であり,そして,性別男女二元論 (gender binarism) に固執する一般的な固定観念です.今,Vatican では,教皇 Francesco も含めて,gender という単語を聞くと "gender ideology" が自動的に連想されるようですが,むしろ,性別男女二元論こそがひとつの形而上学的なイデオロギーです.教皇 Francesco が強調する「男と女の差異」は,性的なものではなく,Heidegger が「存在論的差異」と呼んだものに還元されます(詳しくは,『LGBTQ とカトリック教義』第 2 部「教皇 Francesco の生と性の神学」を参照).

「医学的治療に結びつけ」 もはや,homosexuality も transgenderism も,そのものとしては,精神疾患とは見なされていません.

「人間として生きてゆくこと」 LGBTQ+ の人々は人間です.各人が,今,あるがままに,人間として生きています.彼れらが「人間的に」生きてゆくことができるようになるためには,先ほども指摘したように,1) LGBTQ+ に対する社会の偏見と差別 ; 2) homosexuality を断罪するカトリック教会の教義 ; 3) 性別男女二元論に固執する一般的な固定観念,それら三つのものを取り除く必要があります.

「homosexual であることは本人の選択の問題ではなく,LGBTQ+ の人々を神が拒絶しているとは考えられない」— そう断言していることは,評価できます.

「homosexual の人々がつくる家族も神に祝福されている,というメッセージを発信することが必要だ」— 大賛成!是非,早急に実行しましょう.また,地方自治体による同性パートナーシップの認定に言及していることも,評価できます.

「LGBTQ+ の人々がさらされている偏見や差別は不当なものであることを,キリスト者は知らねばならない.むしろ,社会的な少数者として,彼れらを受け入れる必要がある」— そのとおりです.ただし,LGBTQ+ に対する偏見と差別にカトリック教会が加担していることを,自覚し,反省する必要があります.特に,homosexuality に対する断罪の教義と,性別男女二元論への固執が,問題です.

「結婚の目的に関する教会の教え」— 本質的に言って,それは何でしょうか?後段ではこう述べられています :「結婚の本質は,夫婦愛から生まれる命の継承にある」.そこで言う「命の継承」とは,如何なることでしょうか?まず,形而上学的な lex naturalis[自然法]の先入観を捨てましょう.そして,性別男女二元論も,生物学的な生殖を前提とする固定観念も,捨てましょう.結婚は,愛し合うカップルの愛のきづなに存します.「結婚を創造するのは,神自身である」(カテキズム 1603)— なぜなら,神は愛であるからです.ですから,教会は,異性カップルであれ,同性カップルであれ.愛し合うカップルの愛のきづなを祝福し,それを秘跡と認めるべきです.そこに差別があってはなりません.また,「命の継承」は生物学的な生殖によるものに限られる必要はなく,親子関係は adoption[養子縁組]によるものであってもよいはずです.同性カップルは,養子を迎え,その子を新たな命としてはぐくみ,信仰を伝えてゆくことができます.その側面を,教会は無視してはなりません.

「homosexual である者が家族のなかにいるとわかれば,イエスキリストのように愛と憐みの心をもって,罪人と罪とを区別して,受け入れるしかない。司祭としては、ゆるしの秘跡のときに真実を告げられたなら,助言するほかに方法はない」— この言説は,もはや容認しがたいものです.カトリック教会は,homosexuality を断罪することをただちにやめるべきです.homosexuality は,神のみわざです.神は,homosexual である人々を,そうであるがままに創造しました.homosexuality を断罪することは,homosexual の人々を創造した神を断罪することにほかなりません.そして,homosexual である人々と,彼れらの愛の行為とを区別することも,許されません.ふたりの人間が愛しあうことも,神のみわざです — 異性どうしであれ,同性どうしであれ.また,今や,カトリック教会による homosexuality に対する断罪がカトリック聖職者の pedophilia の原因のひとつであることから目をそむけ続けることはできません.

「裁くことなく、homosexual の人々とその家族を受け入れる。そして,ともに祈り、聖霊の導きを祈り求める。神の国の福音から誰一人も除外されることはない」— 賛成です.そして,聖霊は我々をどう導いているでしょうか? homosexuality を断罪することをやめなさい,と我々に告げていないでしょうか?神の愛の福音を聴くよう,耳を開くときです.

「教会としての考え方を信徒に浸透させる方がよいだろう。たとえば、性的マイノリティーの問題について専門家に話をしてもらう」— まず,大司教様,司教様,神父様たちが,LGBTQ+ と SOGI に関する初歩的なことがらを勉強してください.勿論,一般信徒へ教えることも有意義です : LGBTQ+ の人々を,神の全包容的な愛にしたがって,如何なる差別もなしに,教会へ迎え入れましょう ; homosexuality を断罪するカトリック教会の教義が,如何に形而上学に毒されており,神の愛に反しており,しかも,それは司祭の pedophilia 問題の原因にすらなっている,ということを,カトリック信者皆に知ってもらいましょう.

homosexual であることは「本人たちの選択によるのなく、神さまからいただいたものだと思われるので,[homosexual の人々も]秘跡に与る権利があることを,本人にはもちろん,家族にも話すことはだいじ」— そのとおりです.LGBTQ+ であることは,神から与えられたことです.LGBTQ+ の人々は,あらゆる人間と同じく,神の被造物です.そして,そのようなものとして,あるがままに,存在尊厳を与えられています.結婚に関することも含めて,如何なる差別もカトリック教会のなかでは容認され得ません.

ルカ小笠原晋也

2019年3月1日金曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2019年2月24日,LGBTQ+ みんなのミサ


Henrik Olrik (1830-1890), a detail of the alterpiece of Sankt Matthaeus Kirke in Copenhagen

2019年0224日の LGBTQ+ みんなのミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

小宇佐敬二神父様は,2017年08月以来,御病気の療養中ですが,比較的体調の良いころあいを見はからって,久しぶりに LGBTQ+ みんなのミサの司式をしてくださいました.神父様に改めて感謝します.

小宇佐神父様の熱意のこもった説教をお聴きください.音声ファイルは こちら から download することができます.以下は,当日の福音朗読のテクストに続いて,神父様の説教の書き起こしテクストに若干の補足をしたものです.

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年間第 7 主日(C 年)の福音朗読:ルカ 6 章 27-38節

[そのとき,イエスは弟子たちに言われた:]わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく.敵を愛し,あなたがたを憎む者に親切にしなさい.悪口を言う者に祝福を祈り,あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい.あなたの頬を打つ者には,もう一方の頬をも向けなさい.上着を奪い取る者には,下着をも拒んではならない.求める者には,誰にでも与えなさい.あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない.人にしてもらいたいと思うことを,人にもしなさい.自分を愛してくれる人を愛したところで,あなたがたにどんな恵みがあろうか.罪人でも,愛してくれる人を愛している.自分によくしてくれる人に善いことをしたところで,どんな恵みがあろうか.罪人でも同じことをしている.返してもらうことを当てにして貸したところで,どんな恵みがあろうか.罪人さえ,同じものを返してもらおうとして,罪人に貸すのである.しかし,あなたがたは,敵を愛しなさい.人に善いことをし,何も当てにしないで貸しなさい.そうすれば,たくさんの報いがあり,いと高き方の子となる.いと高き方は,恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである.あなたがたの父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深い者となりなさい.人を裁くな.そうすれば,あなたがたも裁かれることがない.人を罪人だと決めるな.そうすれば,あなたがたも罪人だと決められることがない.赦しなさい.そうすれば,あなたがたも赦される.与えなさい.そうすれば,あなたがたにも与えられる.押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,ふところに入れてもらえる.あなたがたは,自分の量る秤で量り返されるからである.

今日の福音朗読 (Lc 6,27-38) は,マタイ福音書の「山上の説教」(the Sermon on the Mount, le Sermon sur la montagne, die Bergpredigt) に対して,「平地での説教」(the Sermon on the Plain, le Discours dans la plaine, die Feldrede) と呼ばれるところです.

そこでは,「山上の説教」と同じような言葉の断片が,「山上の説教」とは違ったしかたでまとめられています.おそらく,「山上の説教」と「平地での説教」の比較から,聖書学で「資料仮説」[マタイ,マルコ,ルカの三つの共観福音書のテクストがいかに成立したかの過程に関する文献学的仮説]と呼ばれるものが生まれたのではないのかと思います.

イエス様の言葉が,さまざまな伝承として,福音書を記す者たちに伝えられて行き,それを,福音書記者たちは,自分の神学,キリストの理解,イエスの理解に基づいて,編集して行く そういった痕跡が,これらふたつの膨大な説教集(マタイ福音書とルカ福音書)の相違のなかに見うけられるのか,と思います.

ルカ福音書の「平地での説教」(Lc 6,17-49) は,大きく三つのセクションに分けられます.第 のセクションは「幸いと災い」です.そして,第 のセクションは,ちょうど今日読まれた箇所です.「愛の法則」というまとまりを付けたらいいのではないかと思います.さらに,それに続いて,「人間への勧告」としてまとめられる第 部が来ます.そして,次の章の始めにまとめの言葉が続きます.

このように三部構成でつづっていくのは,ルカ福音書記者の特徴です.

ルカは,この第 部で,「愛する」とはどのようなことなのかを,イエスの言葉を思い起こしながら,まとめています.

「愛する」ということの中心になっているのは,36節の「あなたがたの父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」であろうかと思います.

マタイ福音書では,同じ言葉がちょっと形を変えて用いられています.「あなたがたの天の父が完全であるように,あなたがたも完全なものになりなさい」(Mt 5,48) — これが,マタイの描き方です.

天の父の完全さと,子であるわたしたちの完全さは,違います.「天の父が完全であられることを根拠として,あなたがたも完全なものになりなさい」ということです.

ルカは,マタイの「完全な」という言葉を,「憐れみ深い」という言葉に置き換えています.

「憐れみ深い」は,旧約聖書のなかでも何回も繰り返されている言葉です.

この言葉の発端となっているのは,「神は御自分に似せて人を創造された」ということです.わたしたちは,神の似姿として創造された それが,根底にある理解です.そして,野の生き物や空の鳥をすべて支配させ,その世話をさせる そのことをとおして,わたしたちは神に似るものとなって行きます.

もっと具体的に言うと,わたしたちは,命の世話をすることをとおして,命の創造者であり,命を慈しみ,育んでおられる天の父なる神の似姿として,成長して行くことができる それが創世記のたいせつなメッセージである,と言ってよいかと思います.

わたしたちは神の似姿として成長して行く そこに,人間の目的,神による創造の目的が記されます.

そのように受けとめるなら,わたしたちはどのように自分自身を実現して行けばよいのか? それは,神様の似姿になって行くということであり,神様がどのようなかたであるかを探して行くということです.人生は,自分探しの旅であり,自分を探すということは,自分のプロトタイプ,原型である神様を探すということにつながって行きます.

では,神様はどのようなかたであるのか? それが,聖書の最初からの,いうなれば「探求」の目的である,と言ってよいかと思います.

神様は,聖なるかたです.しかし,実は,「聖である」は,非常に不思議な表現です.「聖である」という言葉には,具体的な概念がありません.神様には,これという概念が無い.いや,神様を概念づけたとき,人は間違ってしまう そう言うことができるかと思います.

「聖である」は,ヘブライ語で קָדוֹשׁ (qadowsh)[カドーシュ]と言います.それは,神様にのみ向けられた,神様にのみ属する呼び方である,と言うことができます.

神様は,聖である.もっと具体的に,「清い」とか「美しい」とか「正しい」とか,あるいは「愛」とか「憐れみ」とか「義」とか,さまざまな言い方で,神様の属性 神様の本性は目に見えませんが,属性は,人間に理解可能な姿で表されます を言うこともできます.そのような形で,神様の属性が記されて行きます.

イエス様をとおして示される神様の属性 それは:無条件にわたしたちを愛しておられるかたである;きわまりなく,わたしたちの痛み,悲しみ,苦しみ,そして喜びに,共感してくださるかたである.

この「共感」のことを「憐れみ」と呼びます.

そして,際限なくわたしたちを赦し続けてくださるかたである.

「愛」と「憐れみ」と「赦し」そこに,イエスをとおして表現された神の本質を見る.それが,わたしたちの信仰の始まりと言ってよいかと思います.

わたしたちは,無条件に愛されています.「無条件に」とは,「何々だから愛する」という理由がない,ということです.利口だから,良い子だから,言うことを聞くから... 普通,人間は,条件をつけて,美しいから,力があるから,等々のゆえに,愛そうとします.

しかし,神様がわたしたちを愛してくださるとき,そこには条件はありません.「おまえがいる,そこにいる それがわたしの喜びだ」.それが,わたしたちに向けられた神様の愛である,と言ってよいと思います.

そのような神様の愛に応えて行くわたしたちの姿 その第一は,「無条件に愛してくださるかたに対して,無条件の信頼を寄せて行く」ということです.それが,わたしたちの信仰です.

そして,神様の無条件の愛を周りの人々に伝えて行くことは,わたしたちの周りにいる人たちひとりひとりの命をはぐくみ育てて行く,ということにつながって行きます.

わたしたちに際限のない憐れみを与え続けて行ってくださるかた;わたしたちの痛みや悲しみや苦しみ,そして喜びに,こよなく共感してくださるかた そのような神様の憐れみに応えて行くこと,神様の憐れみに共感して行くこと,それが,わたしたちが神の似姿として実現されて行くためにだいじな視点になって行くのではないか,と思います.

神様は,際限なく赦し続けてくださるかたです.わたしたちが神様の似姿として実現されて行くためには,神様の赦しを 特に,十字架のできごとをとおして示されているイエスの赦しを 学び,そして,みづからも赦しの力を得て行く,赦しの力を与えられて行く必要があります.そのことをとおして,わたしたちは,聖なるもの,神の似姿として実現されて行くことができるのではないか,と思います.

愛も憐れみも赦しも,人間の「性別」には関係ありません.神様の似姿となっていくことには,性 (sexuality, gender) は関係ありません.

神様には,性別はありません[『カトリック教会のカテキズム』370段落を参照].神様御自身は,性別を超越している存在です.

神様御自身は性別を超越している その超越性のなかへ,わたしたちは招かれているということ,それも確かな現実であるかと思います.

わたしたちが神様の似姿として実現されて行くために必要なこと,それは,互いの命をはぐくみ育てて行くことであり,ひとつひとつの存在をたいせつに実現して行くことです.動物であれ,植物であれ,あるいは,単なる物質であれ,神様の創造のわざとして生み出されたものです.それらひとつひとつの重さをしっかりと受けとめ合って行くこと それが最もたいせつなことかと思います.

神様は,しばしば,男性的なイメージで描かれます.そこには,おそらく,力ある神,全能の神というイメージが,あるいは,古代のユダヤの文化的なイメージが,反映しているのだろうと思います.

しかし,旧約聖書において,すでにイェレミヤ書においても,イザヤ書 特に,第 2 イザヤ書以降 においても,神様は,母性豊かな存在として描かれています.

特に,イェレミヤ書31[1], あるいは,イザヤ書49[2] では,神様に創造の胎,子宮 מֵעִים (me`iym), בֶּטֶן (beten) — がある.そして,神様から生み出されたものとして,人間がある.人間が不幸に陥り,みづからを傷つけ,互いに損ない合って行く その様を見て,神様の胎が痛み,胎が叫び声を上げる.

イェレミヤは,神様の胎の叫びを רָחַם (racham)[ラハーム:憐れむ,愛する,慈しむ]という言葉で言っています.

ルカは,神様の憐れみに,神様の本質のひとつを認めます.だからこそ,「あなたがたの天の父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」:神様の子宮が叫び声を上げるように,あなた方も,ほかの人の痛みや悲しみに対して,胎の叫び 腸の叫び,はらわたの叫び を,上げる;神様の胎の叫び,はらわたの叫びに共感して,神様の思いを受けとめて行く そこにこそ,「愛する」,「憐れむ」,「赦す」ことの根本があるのだ ルカは,そう教えています.

それが,愛の法則の根本である,と言ってよいでしょう.

わたしたちは,愛さなければならないのではなく,愛せずにはおれない;憐れまなければならないのではなく,憐れまずにはおれない;赦さなければならないのではなく,赦さずにはおれない.

なぜなら,神様のはらわたが,神様の胎が,人間の痛みや苦しみを見て,人間たちが互いに傷つけ合っているさまを見て,叫び声を上げ,苦痛のうめきを上げているから.

神様のうめきをしずめるために,わたしたちは何かせずにはおれない そこに,わたしたちの愛の法則の根本動機がある,と言うことができるかと思います.

ルカは,愛の法則を,ルカ福音書全体を包んで行く あるいは,推し進めて行く 大切な法則として,この憐れみの福音を描いていると思います.

イエスは,御自分の命を捨てて,わたしたちを愛し,神様の心の痛み,魂の痛み,胎の痛みを,わたしたちに示してくださいました.イエスの愛と憐れみにわたしたちのまなざしを向け続けて行くことができますように.わたしたちの思いが,神様の胎の叫び,胎のうめきに共感するものとなって行くことができますように.

十字架に イエスの十字架に もっともっと近づいて行きたいと願います.


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注:

[1] イェレミヤ書3120

הֲבֵן יַקִּיר לִי אֶפְרַיִם אִם יֶלֶד שַׁעֲשֻׁעִים כִּֽי־מִדֵּי דַבְּרִי בֹּו זָכֹר אֶזְכְּרֶנּוּ עֹוד עַל־כֵּן הָמוּ מֵעַי לֹו רַחֵם אֲֽרַחֲמֶנּוּ נְאֻם־יְהוָֽה

[エフライム(創世記において,エフライムはヤーコブの息子ヨーセフの息子のひとり;出エジプト記の最後でモーセからイスラエルの民の指導者を引き継ぐヨシュアは,エフライムの子孫であるとされている;ここでは,エフライムの名はイスラエルの民全体のことを指している)の悔悛の言葉に続いて,主なる神は言う:されば]エフライムは,わが愛しき息子なのか?喜ばしき子なのか?わたしは,彼を咎めて語るときも,なおも彼のことを思っている.それゆえ,わが胎 מֵעִים ] は,彼のためにうめいている.憐れむ [ רָחַם ] — わたしは,彼を憐れむ.主の宣託.

また,小宇佐敬二神父様は,さらに,ミサ後の集いの冒頭で,イェレミヤ書3122節の最後の謎めいた文:

נְקֵבָה תְּסֹובֵֽב גָּֽבֶר

にも言及なさいました.

直訳すると:「女は,男を囲む(取り囲む,取り巻く)だろう」.

その節とその直前の節では,主なる神が「イスラエルのおとめ」(つまり,イスラエルの民)に語りかけています:「戻って来い,イスラエルのおとめよ,おまえの町に戻って来い.いつまでさまよっているのだ,反抗的な娘よ.そも,主は,新たなものを地に創造した.女は,男を囲むだろう」.

おとめマリアが新たなアダム,主イェスキリストを生むことが,預言されているのでしょうか?

[2] イザヤ書4915

הֲתִשְׁכַּח אִשָּׁה עוּלָהּ מֵרַחֵם בֶּן־בִּטְנָהּ גַּם־אֵלֶּה תִשְׁכַּחְנָה וְאָנֹכִי לֹא אֶשְׁכָּחֵֽךְ

女は,自分の乳飲み子を忘れることがあろうか?自分の腹 [ בֶּטֶן ] の息子[自分の腹から生まれた息子]を憐れむ [ רָחַם ] のを忘れることがあろうか?もし女たちが[自身の子どものことを]忘れることがあろうとも,わたし[主なる神]はおまえ[イスラエルの民]を忘れることはない.