2019年3月1日金曜日

小宇佐敬二神父様の説教,2019年2月24日,LGBTQ+ みんなのミサ


Henrik Olrik (1830-1890), a detail of the alterpiece of Sankt Matthaeus Kirke in Copenhagen

2019年0224日の LGBTQ+ みんなのミサにおける小宇佐敬二神父様の説教

小宇佐敬二神父様は,2017年08月以来,御病気の療養中ですが,比較的体調の良いころあいを見はからって,久しぶりに LGBTQ+ みんなのミサの司式をしてくださいました.神父様に改めて感謝します.

小宇佐神父様の熱意のこもった説教をお聴きください.音声ファイルは こちら から download することができます.以下は,当日の福音朗読のテクストに続いて,神父様の説教の書き起こしテクストに若干の補足をしたものです.

******
年間第 7 主日(C 年)の福音朗読:ルカ 6 章 27-38節

[そのとき,イエスは弟子たちに言われた:]わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく.敵を愛し,あなたがたを憎む者に親切にしなさい.悪口を言う者に祝福を祈り,あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい.あなたの頬を打つ者には,もう一方の頬をも向けなさい.上着を奪い取る者には,下着をも拒んではならない.求める者には,誰にでも与えなさい.あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない.人にしてもらいたいと思うことを,人にもしなさい.自分を愛してくれる人を愛したところで,あなたがたにどんな恵みがあろうか.罪人でも,愛してくれる人を愛している.自分によくしてくれる人に善いことをしたところで,どんな恵みがあろうか.罪人でも同じことをしている.返してもらうことを当てにして貸したところで,どんな恵みがあろうか.罪人さえ,同じものを返してもらおうとして,罪人に貸すのである.しかし,あなたがたは,敵を愛しなさい.人に善いことをし,何も当てにしないで貸しなさい.そうすれば,たくさんの報いがあり,いと高き方の子となる.いと高き方は,恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである.あなたがたの父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深い者となりなさい.人を裁くな.そうすれば,あなたがたも裁かれることがない.人を罪人だと決めるな.そうすれば,あなたがたも罪人だと決められることがない.赦しなさい.そうすれば,あなたがたも赦される.与えなさい.そうすれば,あなたがたにも与えられる.押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,ふところに入れてもらえる.あなたがたは,自分の量る秤で量り返されるからである.

今日の福音朗読 (Lc 6,27-38) は,マタイ福音書の「山上の説教」(the Sermon on the Mount, le Sermon sur la montagne, die Bergpredigt) に対して,「平地での説教」(the Sermon on the Plain, le Discours dans la plaine, die Feldrede) と呼ばれるところです.

そこでは,「山上の説教」と同じような言葉の断片が,「山上の説教」とは違ったしかたでまとめられています.おそらく,「山上の説教」と「平地での説教」の比較から,聖書学で「資料仮説」[マタイ,マルコ,ルカの三つの共観福音書のテクストがいかに成立したかの過程に関する文献学的仮説]と呼ばれるものが生まれたのではないのかと思います.

イエス様の言葉が,さまざまな伝承として,福音書を記す者たちに伝えられて行き,それを,福音書記者たちは,自分の神学,キリストの理解,イエスの理解に基づいて,編集して行く そういった痕跡が,これらふたつの膨大な説教集(マタイ福音書とルカ福音書)の相違のなかに見うけられるのか,と思います.

ルカ福音書の「平地での説教」(Lc 6,17-49) は,大きく三つのセクションに分けられます.第 のセクションは「幸いと災い」です.そして,第 のセクションは,ちょうど今日読まれた箇所です.「愛の法則」というまとまりを付けたらいいのではないかと思います.さらに,それに続いて,「人間への勧告」としてまとめられる第 部が来ます.そして,次の章の始めにまとめの言葉が続きます.

このように三部構成でつづっていくのは,ルカ福音書記者の特徴です.

ルカは,この第 部で,「愛する」とはどのようなことなのかを,イエスの言葉を思い起こしながら,まとめています.

「愛する」ということの中心になっているのは,36節の「あなたがたの父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」であろうかと思います.

マタイ福音書では,同じ言葉がちょっと形を変えて用いられています.「あなたがたの天の父が完全であるように,あなたがたも完全なものになりなさい」(Mt 5,48) — これが,マタイの描き方です.

天の父の完全さと,子であるわたしたちの完全さは,違います.「天の父が完全であられることを根拠として,あなたがたも完全なものになりなさい」ということです.

ルカは,マタイの「完全な」という言葉を,「憐れみ深い」という言葉に置き換えています.

「憐れみ深い」は,旧約聖書のなかでも何回も繰り返されている言葉です.

この言葉の発端となっているのは,「神は御自分に似せて人を創造された」ということです.わたしたちは,神の似姿として創造された それが,根底にある理解です.そして,野の生き物や空の鳥をすべて支配させ,その世話をさせる そのことをとおして,わたしたちは神に似るものとなって行きます.

もっと具体的に言うと,わたしたちは,命の世話をすることをとおして,命の創造者であり,命を慈しみ,育んでおられる天の父なる神の似姿として,成長して行くことができる それが創世記のたいせつなメッセージである,と言ってよいかと思います.

わたしたちは神の似姿として成長して行く そこに,人間の目的,神による創造の目的が記されます.

そのように受けとめるなら,わたしたちはどのように自分自身を実現して行けばよいのか? それは,神様の似姿になって行くということであり,神様がどのようなかたであるかを探して行くということです.人生は,自分探しの旅であり,自分を探すということは,自分のプロトタイプ,原型である神様を探すということにつながって行きます.

では,神様はどのようなかたであるのか? それが,聖書の最初からの,いうなれば「探求」の目的である,と言ってよいかと思います.

神様は,聖なるかたです.しかし,実は,「聖である」は,非常に不思議な表現です.「聖である」という言葉には,具体的な概念がありません.神様には,これという概念が無い.いや,神様を概念づけたとき,人は間違ってしまう そう言うことができるかと思います.

「聖である」は,ヘブライ語で קָדוֹשׁ (qadowsh)[カドーシュ]と言います.それは,神様にのみ向けられた,神様にのみ属する呼び方である,と言うことができます.

神様は,聖である.もっと具体的に,「清い」とか「美しい」とか「正しい」とか,あるいは「愛」とか「憐れみ」とか「義」とか,さまざまな言い方で,神様の属性 神様の本性は目に見えませんが,属性は,人間に理解可能な姿で表されます を言うこともできます.そのような形で,神様の属性が記されて行きます.

イエス様をとおして示される神様の属性 それは:無条件にわたしたちを愛しておられるかたである;きわまりなく,わたしたちの痛み,悲しみ,苦しみ,そして喜びに,共感してくださるかたである.

この「共感」のことを「憐れみ」と呼びます.

そして,際限なくわたしたちを赦し続けてくださるかたである.

「愛」と「憐れみ」と「赦し」そこに,イエスをとおして表現された神の本質を見る.それが,わたしたちの信仰の始まりと言ってよいかと思います.

わたしたちは,無条件に愛されています.「無条件に」とは,「何々だから愛する」という理由がない,ということです.利口だから,良い子だから,言うことを聞くから... 普通,人間は,条件をつけて,美しいから,力があるから,等々のゆえに,愛そうとします.

しかし,神様がわたしたちを愛してくださるとき,そこには条件はありません.「おまえがいる,そこにいる それがわたしの喜びだ」.それが,わたしたちに向けられた神様の愛である,と言ってよいと思います.

そのような神様の愛に応えて行くわたしたちの姿 その第一は,「無条件に愛してくださるかたに対して,無条件の信頼を寄せて行く」ということです.それが,わたしたちの信仰です.

そして,神様の無条件の愛を周りの人々に伝えて行くことは,わたしたちの周りにいる人たちひとりひとりの命をはぐくみ育てて行く,ということにつながって行きます.

わたしたちに際限のない憐れみを与え続けて行ってくださるかた;わたしたちの痛みや悲しみや苦しみ,そして喜びに,こよなく共感してくださるかた そのような神様の憐れみに応えて行くこと,神様の憐れみに共感して行くこと,それが,わたしたちが神の似姿として実現されて行くためにだいじな視点になって行くのではないか,と思います.

神様は,際限なく赦し続けてくださるかたです.わたしたちが神様の似姿として実現されて行くためには,神様の赦しを 特に,十字架のできごとをとおして示されているイエスの赦しを 学び,そして,みづからも赦しの力を得て行く,赦しの力を与えられて行く必要があります.そのことをとおして,わたしたちは,聖なるもの,神の似姿として実現されて行くことができるのではないか,と思います.

愛も憐れみも赦しも,人間の「性別」には関係ありません.神様の似姿となっていくことには,性 (sexuality, gender) は関係ありません.

神様には,性別はありません[『カトリック教会のカテキズム』370段落を参照].神様御自身は,性別を超越している存在です.

神様御自身は性別を超越している その超越性のなかへ,わたしたちは招かれているということ,それも確かな現実であるかと思います.

わたしたちが神様の似姿として実現されて行くために必要なこと,それは,互いの命をはぐくみ育てて行くことであり,ひとつひとつの存在をたいせつに実現して行くことです.動物であれ,植物であれ,あるいは,単なる物質であれ,神様の創造のわざとして生み出されたものです.それらひとつひとつの重さをしっかりと受けとめ合って行くこと それが最もたいせつなことかと思います.

神様は,しばしば,男性的なイメージで描かれます.そこには,おそらく,力ある神,全能の神というイメージが,あるいは,古代のユダヤの文化的なイメージが,反映しているのだろうと思います.

しかし,旧約聖書において,すでにイェレミヤ書においても,イザヤ書 特に,第 2 イザヤ書以降 においても,神様は,母性豊かな存在として描かれています.

特に,イェレミヤ書31[1], あるいは,イザヤ書49[2] では,神様に創造の胎,子宮 מֵעִים (me`iym), בֶּטֶן (beten) — がある.そして,神様から生み出されたものとして,人間がある.人間が不幸に陥り,みづからを傷つけ,互いに損ない合って行く その様を見て,神様の胎が痛み,胎が叫び声を上げる.

イェレミヤは,神様の胎の叫びを רָחַם (racham)[ラハーム:憐れむ,愛する,慈しむ]という言葉で言っています.

ルカは,神様の憐れみに,神様の本質のひとつを認めます.だからこそ,「あなたがたの天の父が憐れみ深いように,あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」:神様の子宮が叫び声を上げるように,あなた方も,ほかの人の痛みや悲しみに対して,胎の叫び 腸の叫び,はらわたの叫び を,上げる;神様の胎の叫び,はらわたの叫びに共感して,神様の思いを受けとめて行く そこにこそ,「愛する」,「憐れむ」,「赦す」ことの根本があるのだ ルカは,そう教えています.

それが,愛の法則の根本である,と言ってよいでしょう.

わたしたちは,愛さなければならないのではなく,愛せずにはおれない;憐れまなければならないのではなく,憐れまずにはおれない;赦さなければならないのではなく,赦さずにはおれない.

なぜなら,神様のはらわたが,神様の胎が,人間の痛みや苦しみを見て,人間たちが互いに傷つけ合っているさまを見て,叫び声を上げ,苦痛のうめきを上げているから.

神様のうめきをしずめるために,わたしたちは何かせずにはおれない そこに,わたしたちの愛の法則の根本動機がある,と言うことができるかと思います.

ルカは,愛の法則を,ルカ福音書全体を包んで行く あるいは,推し進めて行く 大切な法則として,この憐れみの福音を描いていると思います.

イエスは,御自分の命を捨てて,わたしたちを愛し,神様の心の痛み,魂の痛み,胎の痛みを,わたしたちに示してくださいました.イエスの愛と憐れみにわたしたちのまなざしを向け続けて行くことができますように.わたしたちの思いが,神様の胎の叫び,胎のうめきに共感するものとなって行くことができますように.

十字架に イエスの十字架に もっともっと近づいて行きたいと願います.


******
注:

[1] イェレミヤ書3120

הֲבֵן יַקִּיר לִי אֶפְרַיִם אִם יֶלֶד שַׁעֲשֻׁעִים כִּֽי־מִדֵּי דַבְּרִי בֹּו זָכֹר אֶזְכְּרֶנּוּ עֹוד עַל־כֵּן הָמוּ מֵעַי לֹו רַחֵם אֲֽרַחֲמֶנּוּ נְאֻם־יְהוָֽה

[エフライム(創世記において,エフライムはヤーコブの息子ヨーセフの息子のひとり;出エジプト記の最後でモーセからイスラエルの民の指導者を引き継ぐヨシュアは,エフライムの子孫であるとされている;ここでは,エフライムの名はイスラエルの民全体のことを指している)の悔悛の言葉に続いて,主なる神は言う:されば]エフライムは,わが愛しき息子なのか?喜ばしき子なのか?わたしは,彼を咎めて語るときも,なおも彼のことを思っている.それゆえ,わが胎 מֵעִים ] は,彼のためにうめいている.憐れむ [ רָחַם ] — わたしは,彼を憐れむ.主の宣託.

また,小宇佐敬二神父様は,さらに,ミサ後の集いの冒頭で,イェレミヤ書3122節の最後の謎めいた文:

נְקֵבָה תְּסֹובֵֽב גָּֽבֶר

にも言及なさいました.

直訳すると:「女は,男を囲む(取り囲む,取り巻く)だろう」.

その節とその直前の節では,主なる神が「イスラエルのおとめ」(つまり,イスラエルの民)に語りかけています:「戻って来い,イスラエルのおとめよ,おまえの町に戻って来い.いつまでさまよっているのだ,反抗的な娘よ.そも,主は,新たなものを地に創造した.女は,男を囲むだろう」.

おとめマリアが新たなアダム,主イェスキリストを生むことが,預言されているのでしょうか?

[2] イザヤ書4915

הֲתִשְׁכַּח אִשָּׁה עוּלָהּ מֵרַחֵם בֶּן־בִּטְנָהּ גַּם־אֵלֶּה תִשְׁכַּחְנָה וְאָנֹכִי לֹא אֶשְׁכָּחֵֽךְ

女は,自分の乳飲み子を忘れることがあろうか?自分の腹 [ בֶּטֶן ] の息子[自分の腹から生まれた息子]を憐れむ [ רָחַם ] のを忘れることがあろうか?もし女たちが[自身の子どものことを]忘れることがあろうとも,わたし[主なる神]はおまえ[イスラエルの民]を忘れることはない.