ダンテの『地獄』の最終歌 (Canto XXXIV) のための Gustave Doré (1832-1883) による挿絵
以前にも紹介したことがありますが,教皇 Francesco は,2015年03月08日にローマ市内のある小教区を訪問した際,ガールスカウトの少女の質問 :「神様は皆を赦してくださるのなら,いったい,なぜ地獄はあるのですか?」に答えて,こう言いました:
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あなたの質問は,とても重要なものです.いい質問です.そして難問です.
では,わたしも質問しましょう.神様は誰でも赦してくださるのかな?[少女たちの答え:はい,誰でも赦してくださいます].神様は善意に満ちているからかな?[はい,神様は善意に満ちています].そう,神様は善意に満ちています.
しかし,あなたたちも知っているように,とても傲慢な天使がいました.とても傲慢で,とても頭の良い天使です.彼は,神様のことを妬みました.妬んで,神様の地位を欲しがりました.神様は,彼を赦しました.しかし,その傲慢な天使は言いました :「あなたに赦してもらう必要はありません.わたしは自力で大丈夫ですから」.
神様に向かって「どうぞ御勝手に.わたしも自分で勝手にやりますから」と言うこと,それが地獄です.地獄に行く者は,地獄に送られるわけではなく,みづから地獄へ行くのです:地獄にいることをみづから選ぶのですから.
地獄とは,神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲することです.それが地獄です.容易に説明できる神学です.
そう,悪魔が地獄にいるのは,みずからそう欲したからです — 神との関係を全然欲しがらずに.
他方,あの罪人のことを思い出してごらんなさい:極悪人で,この世の罪すべてを犯し,死刑を宣告されて,冒瀆的なことを言い,罵る,等々.そして,処刑されようとするとき,死のまぎわに,天を仰いで言う :「主よ!...」.
その罪人は,どこへ行くかな?天国へ?地獄へ?はい,大きな声で...[少女たち:天国!]そう,天国へ行く.
イェス様といっしょに十字架にかけられたふたりの盗人のうち,ひとりは,イェス様を罵る.彼は,イェス様を信じない.しかし,もうひとりの心のなかでは,ある時点で,何かが動く.そして彼は言う :「主よ,わたしを憐れんでください!」.
すると,イェス様は何と言うかな?憶えているかな?「今日,あなたは,わたしとともに天国にいることになる」(Lc 23,43).
なぜか?なぜなら,あの盗人は「わたしを見てください,わたしのことを憶えていてください」とイェス様に言ったからです.
地獄へ行くのは,神様に向かってこう言う者だけです :「わたしには,あなたは必要ありません.わたしは自力で大丈夫です」— 悪魔がそう言ったように.悪魔だけは地獄にいる,とわたしたちは確信できます.
わかったかな?質問してくれてありがとう.あなたはまるで神学者だね!
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死後,わたしたちはどうなるのか?それは,死の穴に直面するわたしたちが,不安におののきながら,自問する問いです.歴史上,さまざまな想像力がさまざまに答えてきました.
しかし,実は,本質的に重要なのは,「死後どうなるか?」に関する空想的な答えではなく,しかして,死の穴に直面する不安から逃げない,という態度です.そして,死の穴に直面しつつ,今,どう生きるべきか,今,どう在るべきか,について問うことです.
教皇 Francesco は,こう答えています:もしあなたが「我々人間は自律的に自立しており,自身に起こることは,単なる偶然を除けば,すべて,自業自得,自己責任であって,神の愛による救済や赦しはあり得ないこと,無用なことだ」と思っているなら,あなたの世界は地獄です.あなたは死後,神罰によって地獄へ突き落とされるのではありません.神の愛の福音に対して耳を塞ぎ,神へ背を向けたままでいるあなたは,今,地獄を生きているのです.
なぜ今の日本社会が地獄のようであるのか,よくわかります.
神は律法をふりかざして処罰したりはしません.神は愛し,赦し,救ってくださいます.神に愛されたいと欲する者は,今,もうすでに,神のみもとにいます.神とともにいます.イェスとともに天国にいます.
以上が,教皇 Francesco の天国と地獄に関する教えです.
ルカ小笠原晋也