2019年4月21日日曜日

主の御復活おめでとうございます

Caravaggio (1571-1610), Maria Maddalena in estasi (1606), collezione privata

なぜ主の復活のお祝いのメッセージに Maria Magdalena の肖像を添えるのか — しかも,復活した Jesus に近寄ろうとする彼女に対して発せられた彼の言葉 "Noli me tangere"(わたしに触れるな)の主題のもとに描かれた数々の名作のひとつではなく,神秘的な恍惚の状態にある彼女を描いた Caravaggio の作品を?

その理由は,Jesus は決して Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と禁止したりはしなかった,ということだけではありません.

話はちょっと横道にそれますが,説明しておきましょう.そうです,復活した Jesus は Maria Magdalena に「わたしに触れるな」と冷たく禁止したりはしませんでした.

ヨハネ福音書 20 章 17 節で,何と言われているか?ギリシャ語の原文では,彼は彼女にこう言っています : μή μου ἅπτου.

文法的に説明すると,ἅπτου は動詞 ἅπτεσθαι[自身を ...へ固定する,つかむ,とらえる,しがみつく,触れる]の二人称単数の命令形です.μή は否定辞です.ですから,その文は確かに一種の否定命令 — つまり,禁止 — を表してはいます.しかし,それは単なる「触れるな」ではありません.

もし単純に「わたしに触れるな」という禁止を言うのであれば,古代ギリシャ語では,動詞を接続法アオリストに活用して,μή μου ἅψῃ と言うはずです.それに対して,Jesus が Maria Magdalena に発した言葉 — 直説法現在の否定命令 μή μου ἅπτου — が示唆しているのは,こんな光景です:復活した主を見て,彼女は,喜びのあまり,彼に抱きついた(あるいは,もし 彼女は 地面に ひざまづくか ひれ伏している と 想像するなら,彼女は 彼の下半身に 抱きついたか,彼の足を 手で握りしめた — 実際,マタイ福音書 28,09 では,Maria Magdalena と もうひとりの Maria は,復活した Jesus のまえに ひれ伏して,彼の足を つかんで [ κρατέω ] います); そして,彼女がいつまでもそうしているので,Jesus は彼女に優しく言った :「わたしにしがみつき続けるな — いつまでもそうしていないで,いいかげんに放してくれよ」.

Vatican の web site に提示されている ラテン語聖書 では,当該箇所は,"noli me tangere" ではなく,"noli me tenere" と訳されています.つまり,「わたしをいつまでも[地上に]とどめておかないでくれ」.その方が,それに続く言葉 :「なぜなら,わたしはまだ御父のところへ昇っていないのだから」ともよりよくつながります.

最新の聖書協会共同訳では,いまだに「わたしに触れてはいけない」と訳されています.もはや,それは誤訳であると言わざるを得ません.

話をもとに戻すと,この記事の挿絵として "Noli me tangere" ではなく,恍惚の Maria Magdalena の肖像を選んだのは,単に Jesus は彼女に「わたしに触れるな」とは言わなかったからだけでなく,しかして,そもそも,死者たちのうちから復活した主は,40日間,幽霊のような地上的な「存在事象」として,彼女や弟子たちとともに「存在」したはずはないからです.

わたしは,むしろ,こう思います:福音書に物語られていること — 復活した Jesus は最初に女たちに(特に Maria Magdalena に)現れた — が真理を言っているとするなら,それは,このことである:つまり,十字架上で処刑された Jesus は,今,我々が Maria Magdalena と呼んでいるひとりの女性(または 女性たちの一団)において(「の『こころ』のなかで」とは 言いません),死から永遠の命へ「復活」したのだ.そして,そのことは,同時に,彼女が Jesus によって 永遠の命へ「復活」させられた,ということでもある.

まさに,Maria Magdalena における「復活」の成起を以て,キリスト教と呼ばれる信仰は誕生しました.それがいつのことなのか — Jesus の処刑(推定,紀元30年)から三日めのことなのか,何週間ないし何ヶ月か後のことなのか,あるいは何年も後のことなのか — は,定かではありません.勿論,最初のパウロ書簡(第一テサロニケ書簡)が書かれたと推定される紀元51年より前であることは確かですが.

Caravaggio が描いた恍惚における Maria Magdalena の肖像は,彼女における Jesus の「復活」の瞬間と,それと同時的な彼女自身の「復活」の瞬間 — すなわち,キリスト教の誕生の瞬間 — の図像化である,と言うことができます.

使徒 Paulus は,ユダヤ教聖典の解釈によってキリスト教神学を形成して行く彼の作業のなかで,Jesus の「復活」がひとりの女性において成起したという事実を 無視しました.しかし,口承の伝統においては Maria Magdalena は忘れ去られることはなく,彼女の名は福音書のなかにしっかりと書きとめられました.そして,彼女は,主の復活を使徒たちに告げ知らせた第一証言者として,Apostola Apostolorum[使徒たちの使徒]の称号のもとに崇められています.彼女における「復活」の成起がなければ,キリスト教は誕生し得なかったのです.

もうお気づきのことと思いますが,「復活」は,「よみがえり」でも「死後の世界」のことでもありません.それは,わたしたちに,生物学的な意味における「死」の後に起こる何ごとかではありません.

もし仮にそう考えるなら,それは仏教の浄土信仰と本質的に何ら変わらないことになってしまいます.死後に天国ないし浄土に行くことが,今,生きていることよりもより重要なことになってしまいます.そして,それは,「我々は,今,生きており,今,実存している」ということの「かけがえのなさ」を,相対化し,むしろ,「死後の生」よりもより軽いもの,より非本質的なものと見なすことになってしまいます.そして,そのような思念は,キリスト教をも,仏教と同様に,単なる葬式のための儀式へ変質させてしまうことでしょう.また,さらには,自殺のみならず,「生きて存在していることは四苦八苦にほかならず,諸行無常であるのだから,人間たちをすべて,できるだけ早く涅槃に至らしむることこそが,彼れらを救済することになる」という邪悪な他殺の思想をさえ正当化することになるでしょう.

キリスト教は,そのような仏教と同じではあり得ません.なぜなら,「死から永遠の命への復活」は,死後に起きる何ごとかではなく,しかして,今,生きている我々の実存において成起することであり,かつ,我々が今,生きているからこそ,我々の実存において成起し得ることであるからです.

キリスト教の教義において「死から永遠の命への復活」と呼ばれている事態は,単なる神話ではありません.そうではなく,人間が今,神の命(存在)を生きる,ということです.そして,それが可能なのは,神は,御自身の命(存在)を以て,人間を生かして(存在させて)くださっているからです — 神の息吹 [ πνεῦμα ] によって,神の愛によって

人間の生は,単なる生物学的な生に還元され得るものではありません.人間が生きている生は神御自身の生であり,人間の存在は神御自身の存在です.

先ほど,「主は Maria Magdalena の『こころ』のなかで復活した」と言うのは適当ではない,と言いました.その理由は,こうです:かかわっているのは,「こころ」ではなく,存在である;主は,Maria Magdalena の存在そのものにおいて復活したのであり,彼女のみならず,あらゆる人間の存在において復活する;そして,ひとりの人間の存在において主が復活するということは,同時に,その人間が復活するということである.

愛を以て 無から すべてを 創造する 神は,我々ひとりひとりを 愛を以て 創造するとき,我々ひとりひとりの存在を 神御自身の存在によって 可能にしてくださいました — 神の愛によって

そのことは,創世記 2,07 においては,神話的に こう 物語られています :「神なる主は,土から取った塵を以て 人間を 形づくった.そして,その鼻の孔に 命の息を 吹き込んだ.そして,人間は 命ある存在となった」.

つまり,我々 人間が 今 生きている 命は,神御自身の命 — 永遠の命 — に ほかならないのです.

そのことに気がつき,そのことに感謝しましょう.そのとき,我々は,死から永遠の命への復活を自覚することができ,その喜びを生きることができるからです.

そして,その喜びは,原罪からの解放としての罪の赦しの喜びでもあります.

死から永遠の命への復活と,無からの創造と,罪の赦し — それら三つの教義が如何に密接に関連しあっているかが,示唆されます.

ところで,今年の聖週間は,本当に悲しい週でした — 我々が愛する Notre Dame de Paris の火災のゆえに.それは,まるで乙女マリアの火刑を目の当たりにするような苦痛でした.

今日,復活の主日,ある意味で,我々が感ずる主の復活の喜びは,復活した主と出会った Maria Magdalena が感じたであろう喜びと同じです — かけがえのないものの喪失を経験した後の喜びである限りにおいて.

もうひとつ,重大な喪失を,我々は最近,味わいました.カトリック聖職者による青少年および女性に対する性的虐待の構造的な蔓延による〈カトリック教会そのものへの信頼の〉喪失です.

一方は偶発的な喪失であり,他方は必然的な喪失です.しかし,それらふたつの喪失をほぼ同時に経験した我々は,そこから新たな創造が成起し得ることを予感します — 聖職者中心主義によらないカトリック教会と律法中心主義によらないカトリック信仰の可能性が,改めて我々に与えられたのです.

ある意味で聖職者中心主義を象徴する Notre Dame de Paris の建設は,12世紀に始まりました.今 thomisme と呼ばれている律法中心主義を象徴する聖トマス・アクィナスが生きたのは,13世紀でした.両者は,homosexuality と transgender を断罪し,排除するカトリック教会の象徴でもあります.

Maria Magdalena の経験がキリスト教信仰の出発点であったとすれば,聖職者中心主義も 律法中心主義も,我々の信仰には異質なものであり,不要なものです.

今日,復活の主日,わたしたちは,改めて,キリスト教の原点である Maria Magdalena の経験を経験しなおしましょう.

主の御復活,おめでとうございます!