Notre Dame de Paris が炎に包まれていたとき,神はどこにいたのか?
(USA のイェズス会の週刊誌 America のインターネット版に2019年04月16日付で発表された James Martin 神父 SJ の記事 — 動画つき — を翻訳して紹介します.)
昨日の痛ましい Notre Dame de Paris の火災は,世界を驚きと悲しみのうちにひとつにしたように思える.Jesus Christ の受難と死と復活を世界中のクリスチャンが記念する聖週間の始まりに起きたこの象徴的な出来事は,ほとんど耐え難いものだ.告白すると,わたしは,あのすばらしい古い教会が燃えるのを見ながら,泣いた.
中世の石のカテドラルから煙が吹き出し,木の屋根から炎が跳ね上がり,そして — たぶん,最も悲惨な瞬間 — 屋根を飾る金属製の尖塔が燃えかすのように焼け落ちたとき,わたしたちの多くは,Jesus の受難と死を思わずにはいられなかった.彼が十字架上で公開処刑される間,ちょうど昨日のように,群衆は,恐れおののきながら見つめていた — 自身を無力なものと感じ,悲しみに打ちのめされ,「いったいわたしに何ができるというのか」と自問しながら.
群衆のなかには,Jesus の母 — Our Lady, Notre Dame — がいた.聖母マリアは,まさに知っている — 愛する者が苦しみ,死んで行くのを見ながら,何もできずに,そのかたわらにたたずむということが,どういうことであるかを.
しかし,聖母マリアは,また,ある意味で,あの悲しみのときに神は彼女とともにいることも,知っている.
だが,わたしたちは,こう問うこともできるだろう:昨日,パリで,神はどこにいたのか?
その答えは:神は,いたるところにいた.ひざまづき,祈り,Ave Maria や Lourdes の聖歌を歌う群衆のなかに,神はいた.人々は,祈り,歌いながら,聖母マリアの助けを求めていた — 彼女の教会が燃えるのを目の当たりにしながら.そのような人々の姿は,深い信仰の表現だった.そして,神はそこにいた.
神は,消防士たちのなかにいた.フランスの霊気的な心を象徴する建物が燃えるなかへ,彼らは,自身の危険を顧みず,飛び込んで行った.それは,まさに,神の愛の喩えだ.神は,どれほどわたしたちを愛しているか? — 燃え上がる建物のなかに救助のために飛び込んで行く消防士ほどに.
そして,神は,消防隊付の司祭[Jean-Marc Fournier 神父]とともにいた.彼は,カテドラルの最も貴重な聖遺物 — イェスに被せられた「いばらの冠」と信ぜられているもの — を救い出すために,自身の生命を危険にさらした.その聖遺物は,Notre Dame de Paris の建物の物語が主の受難と死とに密接に結びついていることを,生き生きと想い起こさせてくれる.
昨夜遅く,火が消し止められた後,わたしたちは,劇的な光景を目の当たりにした:十字架である.それは,煙が立ちこめるカテドラルのなかで,祭壇の上に高々と輝いていた — クリスチャンの希望の力強い象徴として.
希望こそ,究極のメッセージだ.そして,そのことを最もよく知っているのは,Notre Dame[聖母マリア]にほかならない.彼女は知っている:苦しみが最後の言葉なのではない,と.
聖週間の物語は,単純に死と破壊の物語であるわけではない.それは,より重要なことに,希望と新たな命の物語だ.聖金曜日は,復活の主日なしには意味をなさない.聖母マリアは知っている:希望は絶望よりも強く,愛は憎しみよりも強く,命は死よりも強い,と.そして,彼女は知っている:神がともにいてくだされば,不可能なことは何も無い,と.クリスチャンとは,悲しみを知りつつも,希望のうちに生きる人々である.
この動画に映し出されるイメージを見つめながら,そして,来る年月のうちに再建されて行くだろう Notre Dame de Paris とともに,Notre Dame[聖母マリア]の祈りを請い願おう — 彼女は,苦しむ者とともにいるということが何を意味するかを知っており,かつ,新たな命の約束に希望を持つということが何を意味するかをも知っている人である.
(翻訳:ルカ小笠原晋也)