聖書を楯に取って homosexuality を断罪する人々に対する答え方
上の風刺画では,いかにも保守的で頑迷そうに見える牧師が三人がかりで(つまり,多数派)ひとりの gay(つまり,少数派)を,聖書で殴り殺しています.俗に聖書の "clobber passages"("clobber" は「激しく殴打して,叩きのめす」)と呼ばれる箇所に準拠して homosexuality を断罪する人々(ユダヤ教徒にせよ,キリスト教徒にせよ)を揶揄するものです.
いわゆる clobber passages については,『LGBTQ と カトリック教義』の § 1.3.2. "homosexuality と聖書 — 聖書は homosexuality を禁止も断罪もしていない" で詳しく検討してありますので,参照してください.
ひとつだけ例を挙げるなら :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」(Lv 20,13).
Julius Veit Hans Schnorr von Carolsfeld (1794-1872), Steinigung des heiligen Stephanus
ここで改めてそのような clobber passages に言及するのは,最近,聖書の文面を楯にとって Pete Buttigieg の homosexuality を非難する福音派牧師 Franklin Graham(Billy Graham の息子のひとり)の tweet を James Martin 神父様が批判しかえしているのを見かけたからです.
その際,James Martin 神父様は,2010年に書いた記事 Dr. Laura and Leviticus を,改めて紹介しています.聖書の clobber passages を楯にとって homosexuality を断罪する人を見かけたら,その記事に紹介されている傑作な反撃のしかたを思いだして,苦笑してください.
その記事において James Martin 神父様が言及している Laura Schlessinger は,もともと生理学者(インシュリンに関する研究で博士号を取得しているので,Dr と呼ばれています)ですが,ラジオで家族カウンセリングに関連するおしゃべりをすることで全米で有名になりました.そして,保守的なユダヤ教徒の立場から,homosexuality を断罪していました.
そのような発言をラジオでする Laura Schlessinger に対する批判文書が,Internet 上に出回りました.その匿名著者は,旧約聖書を字面[じづら]どおりに了解するならどのようなとんでもないことを言うことができるかを,そこにおいて展開しています.
James Martin 神父様による短い導入を含めて,その文書の邦訳を以下に紹介します.
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Dr. Laura とレヴィ記
James Martin, S.J.
2010年08月18日
Dr. Laura Schlessinger は,昨日,ラジオ番組から降りることを発表した[訳注:人種差別的な発言をしたことによって].そのことは,彼女がときおり披露する旧約聖書の原理主義的な読み方 — 特に,homosexuality が問題となるとき — に対するあの賢い反応を思い出させた.その匿名書簡は,2000年に最初に現れて以来,web 上に広く流通してきた(その出どころをつきとめることは困難であるにもかかわらず).それは,あらゆる種類の聖書直解主義に対する健全な解毒剤である.
[以下,匿名書簡]
Dear Dr. Laura :
神の律法に関して人々を教育するためにかくも多くのことをなさっているあなたに感謝します.わたしは,あなたのラジオ番組からとても多くを学びました.そして,そこで得た知識を,できるだけ多くの人々と共有しようと試みています.誰かが homosexual lifestyle を弁護しようとするときは,わたしは,単純に,たとえば,レビ記 18,22 :「女と寝るように男と寝てはならない;それは,忌まわしいことである」の明確な断定を思い起こさせてやればよい.それを以て議論は終わり,というわけです.
しかしながら,わたしは,あなたからの若干の助言を必要としています — 神の律法の幾つかのほかの要素に関して;そして,如何にそれらに従うことができるかに関して.
1. レビ記 25,44[(前節で「イスラエルの同胞を奴隷としてはならない」と述べられたことに続いて,しかし)男性奴隷または女性奴隷が必要なら,まわりの国々から買いなさい]は,隣の国々から買った奴隷 — 男性奴隷も女性奴隷も — は所有してよい,と述べています.わたしの友人は,この律法は,メキシコ人には適用されるが,カナダ人には適用されない,と主張しています.説明していただけますか?なぜわたしはカナダ人奴隷を所有することはできないのでしょうか?
2. 出エジプト記 21,07[ある男が自身の娘を奴隷として売るなら,彼女は,男性奴隷と同じ条件のもとに奴隷の身分から解放されることはできない]が許しているように,わたしは,わたしの娘を奴隷として売りたいと思います.今の時代,彼女にいかほどの値段をつけるのが妥当でしょうか?
3. レビ記 15,19-24[女に月のものが訪れ,彼女の胎から血が流れ出ているときは,彼女は七日間,障りとなる.彼女に触れる者は,誰でも,その日のうちは不浄である.障りである女が寝たところは不浄となり,彼女が座ったところも不浄となる.彼女の寝床に触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.その上に彼女が座ったところのものに触れる者は,誰でも,服と身を水で洗わねばならない.その者は,その日のうちは不浄である.彼女の寝床の上にあるもの,または,その上に彼女が座ったところのものの上にあるものに触れた者は,その日のうちは不浄である.もし,ある男が女と寝ているときに,彼女の障りの血が流れ出て,彼に付いたならば,その男は七日間,不浄であり,彼が寝た寝床はすべて,不浄である]によって,わたしは知っています:月のものの不浄の期間にある女に触れることは許されない,と.問題は,どうすればある女性が生理中であることがわかるか,です.もしわたしが「あなたは生理中ですか?」とたずねれば,大多数の女性は気を悪くするでしょう.
焼き尽くしの祭壇
4. レビ記 1,09[(主にいけにえとして献げる家畜を屠り,四つに切り分けたあと)内臓と脚を水で洗い,祭司は祭壇で全部を焼いて煙にする.それが,焼き尽くしの献げものであり,主にとって慰めの香りである]によって,わたしは知っています:わたしが祭壇で雄牛をいけにえとして焼くとき,それは主にとって快い香りを発する,と.問題は,わたしの隣人たちです.彼れらは,その臭いは彼れらにとっては快くない,と苦情を言います.わたしは彼れらを打ちすえるべきでしょうか?
5. わたしの隣人たちのひとりは,安息日に働くと言い張っています.出エジプト記 35,02[(週のうち)六日間,仕事をするが,七日目には,あなたたちにとって聖なるなにごとかがある.それは,安息日 — 主の休み — である.安息日に仕事をする者は,誰でも,死刑に処せられる]の述べるところによれば,その隣人は死刑に処せられねばなりません.わたしは,みづから彼を殺すよう道徳的に義務づけられているのでしょうか?それとも,わたしは警察にそうするよう頼むべきでしょうか?
6. レビ記 11,09-12[海のものであれ,河のものであれ,水に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいものは,ひれとうろこを持つものである.しかし,ひれとうろこを持たないものは,食べてはならない.それは禁ぜられている]によって,甲殻類を食べることは忌まわしいことであるのですが,わたしの友人は,それは homosexuality より忌まわしくはない,と感じています.わたしは賛同できません.あなたはこの問題に決着をつけることができますか?忌まわしさには程度の違いがあるのでしょうか?
7. レビ記 21,16-24 は「身体障碍者は神の祭壇に近づいてはならない」と規定しており,そのなかには「視力に欠陥のある者」も含まれています.告白するなら,わたしは,読書の際,眼鏡をかけます.神の祭壇に近づくためには,わたしの視力は完璧でなければならないのでしょうか?それとも,そこには解釈の余地があるのでしょうか?
8. レビ記 19,27 は頭髪や髭に関して「あなたたちは,頭髪の縁[ふち]を,それが円を描くように切ってはならず,ヒゲの両側を切って,その形を変えてもならない」と禁止していますが,わたしの男友だちの大多数は,その禁を犯して,側頭部やもみあげを散髪してもらっています.彼らをどう処刑すべきでしょうか?
9. レビ記 11,02-08[陸に生きる動物すべてに関して,あなたたちが食べてよいのは,分かれた蹄を有しており,かつ,反芻するものである.(それに対して)以下のものを食べてはならない — ラクダ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.イワダヌキ(訳注 : hyrax または rock hyrax — カワイイので,とても食べる気にはなれません): 反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ノウサギ:反芻するが,蹄を有していないから;あなたたちにとって,それは不浄である.ブタ:分かれた蹄を有しているが,反芻しないから;あなたたちにとって,それは不浄である.それらの肉を食べてはならず,それらの死骸に触れてもならない.あなたたちにとって,それらは不浄である]によって,わたしは知っています:死んだブタの皮に触れると不浄になる.では,手袋をしていれば,ブタ皮でできたボールでフットボールをしてもよいのでしょうか?
10. レビ記 19,19 は「あなたの家畜のうち相異なるふたつの種[しゅ]どうしをつがわせてはならない;あなたの畑に相異なるふたつの種[しゅ]のタネを播いてはならない;相異なる二種類の糸で織られた混紡の布地の服を着てはならない」と禁止していますが,わたしの伯父[叔父]夫婦はその律法に違反しています.彼は,農場を所有していますが,同一の畑でふたつの異なる穀物を栽培していますし,彼の妻は,相異なる二種類の糸でできた布(綿とポリエステルの混紡)の服を着ています.彼は,また,たくさん,呪ったり,冒瀆的なことを言ったりします.いったい,本当に,わたしたちは,町じゅうをあげて,彼を石打刑にするという面倒なことをする必要があるのでしょうか?(レビ記 24,10-16 : 主の名を冒瀆する者は,石打刑に処せられる).もっと手軽に,プライベートな家族パーティーの場で,彼らを火刑に処することはできないのでしょうか — レビ記 20,14 に「ひとりの男がひとりの女とその母親の両方と寝たならば,それは淫らなことであり,彼れらは三人とも火刑に処せられる」と規定されているように.
Dr. Laura, わたしは,あなたがそれらのことがらを詳細に研究しており,それらのことがらについて専門的な知識をお持ちである,と知っています.ですので,あなたは助言することができる,とわたしは確信しています.
神のことばは永遠かつ不変であることをわたしたちに思い起こさせてくださったことに,改めて感謝します.
あなたを崇拝するファンより.
(もし本当にカナダ人奴隷を所有することができないのなら,ひどく残念なことです).
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以上が,USA のイェズス会の週刊誌 America の Internet 版に2010年08月18日付で掲載された記事 Dr. Laura and Leviticus の邦訳です.
以上のような揶揄が可能であるということは,このことを示唆しています:わたしたちは,聖書を読むとき,その文面を,その「意味」において「了解」しつつ読むだけで済ますことはできません.
そのような読み方にとどまるなら,Laura Schlessinger のようになります.先に引用したレビ記 20,13 :「或る男が,女と寝るように男と寝るならば,彼れらふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼れらは処刑される.彼れらの血は,彼れら自身にふりかかる」をそのように読むなら,「男どうしで性行為をする gay たちを処刑しろ」 と神は命じていることになります.ところが,本気にそう信ずるのは,今は,ごく一部のイスラム教原理主義者たちだけです.
そのような読み方を聖書に適用することはできません.では,どう読むのか?
わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ろうとします.ただし,ただ,やみくもに聴こうとすればよいのではありません.神がわたしたちに何を欲しているのかを前提する必要があります.
神はわたしたちに何を欲しているのか?わたしたちのために何を欲しているのか?それは,わたしたちの救済です.誰をも排除せず,あらゆる者を包容する愛を以て,神は,わたしたち皆を愛してくださっており,わたしたち皆を神のみもとへ救い出したい,と欲してくださっています.
そのことを前提にして,初めて,わたしたちは,聖書の文面をとおして,神のことばを聴き取ることができます.
では,たとえば,レビ記 20,13 をわたしたちはどう読むことができるのか?まず「処刑」に関しては,神は,人間がほかの人間の生命を奪うことを許してはいません — たとえ,ある国の刑法に死刑が規定されいても,それは神の欲するところに適ってはいません.
聖書の律法書において「処刑」への言及があるとき,それは,人間が人間に対して為すことではなく,しかして,神が人間に対して為すかもしれないことです.
昔,今村昌平により映画化された佐木隆三の小説『復讐するは我にあり』(1976) のおかげで日本でも有名になった聖 Paulus のローマ書簡の一節 (12,19) と,彼が引用した申命記の一節 (32,35) を思い出してもよいでしょう :「復讐と報復は,わたし[主]のものである」.あるいは,その少し後に見出される一節を思い起こしてもよいでしょう :「死なせ,生かすのは,わたし[主]である」(Dt 32,39).
しかし,それは,何か恐ろしげな「神罰」がくだされるというようなことではありません.そうではなく,このことです:神は,ある種の人間には永遠の命を与えてくださらない — より正確に言えば,ある種の人間には,「人間は誰しも,今,永遠の命を生きることができるのだ」ということに気づくことを許さない — ということです.
教皇 Francesco は,ある少女から地獄に関する質問を受けたとき,彼女にこう答えました:もしあなたが神に向かって「わたしには,あなたの愛は必要ありません」と言うなら,もしあなたが神の愛を欲さずに,神から遠ざかろうと欲するなら,そのとき,あなたは現に地獄にいるのだ.
神による報復は,そのようなものです.それが,神による処刑です.
しかるに,もし仮にあなたが今,地獄での死を生きていても(あるいは,地獄での生を死んでいても),あるとき,ふと,あなたが神の愛を欲するなら,神はあなたを赦し,死から永遠の命へ復活させてくださいます.
神による処刑は,常に,神による赦しと復活の可能性を包含しています.
では,「男が,女と寝るように,男と寝る」とは,如何なる事態を言っているのか?それは,単純に同性どうしの性行為のことを言っているわけではありません.それは,神による処刑 — 地獄での死を生きること — を招くような重大な行為です.それは,如何なる行為か?先ほど見たとおり,それは,神の愛を拒む行為,神の愛にもとる行為です.つまり,わたしが,神に愛されているひとりの人間を,神がその人を愛しているように,愛さないままに,単に欲望を束の間,満たすためだけに消費するとき,わたしは神の愛に背いています.
レビ記 20,01-16 においては幾つかのケースに関して死刑が規定されていますが,それらはいずれも,神の愛に背くことにかかわっています.たとえば,隣人の妻と姦淫を犯した男は処刑される,と規定されています.その場合,姦淫とは,愛の無い性行為,欲望を満たすためだけの性行為のことです.
ですから,単純に「男が男と寝れば,処刑される」ということではありません.姦淫の場合と同様,神の愛に背いて,単に欲望を満たすためだけにそうするなら,それは,地獄での死を生きる事態を招くことになる,ということです.同性どうしであれ,異性どうしであれ,愛を以て相手を尊重しない性行為は,そのような報いを受けます.
それに対して,同性どうしが,互いを神の愛し子として尊重し合い,互いに愛し合うなら,彼れらの性行為は神の愛に背くものではありません.ですから,忌まわしいものとして死罪に値するものではありません.
むしろ,冒頭の風刺画が示しているように聖書の文面を楯にとって gay を傷つけるような者たちこそは,神の愛に背いたことによって,地獄での死を生きるよう定められています — あるいは,たぶん,もう既に,今,現に,地獄での死を生きており,地獄での生を死んでいることでしょう.
ただし,そのような者たちも,何らかの機会にふと神の愛を少しでも欲することがあるならば,神による救済に与る可能性が無いわけではありません.
わたしたちは,聖書の文面をとおして,神の愛のことばを聴き取ろうと努めます.聖書の文面が神の愛を覆い隠してしまうような事態を招いてはなりません.