2019-06-09

なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのか

2019年04月28日,Tokyo Rainbow Pride のパレードにて

Happy Pentecost and Happy Pride !

今日(6月 9日)は,聖霊降臨の祭日でした.そして,今月は,世界的には,あちらこちらで LGBTQ+ の祭典が行われる Pride Month です.

6月 6日付の Washington Post 紙に,The case for why Catholics should march in LGBT Pride parades[なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのかの主張]と題された論評記事が掲載されました.筆者 John Gehring 氏は,Faith in Public Life という団体の Catholic Program Director という肩書きを持っている人です.彼は,記事のなかで,Thomas Tobin 司教 — 彼は anti-LGBTQ な主張を tweet した — に対する批判を展開しています.以下に,記事全文の邦訳を紹介します.

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なぜカトリック信者は LGBT Pride Parades で行進すべきなのかの主張

by John Gehring

Stonewall In の常連たちが沈黙し続けることを拒み,gay であるアメリカ人たちのための市民権運動の口火を切ってから50年たって,Pride行事は多くの州でなじみ深い伝統となっている.6月をとおして行われるパレードや講演会やシンポジウムは,人々の尊厳を — 歴史的に差別され,今も差別に直面し続けている人々の尊厳を — 肯定するものである.

LGBT Pride Month の祭典に参加する宗教指導者たちがいるなかで,ひとりのカトリック司教[USA の Massachusetts 州にある Providence 教区の Thomas Tobin 司教]の tweet が,social media で論争を引き起した — カトリック教会は同性婚に反対し,同性どうしの性行為を断罪しているのに,カトリック信者が LGBT の行事に参加してもよいのか?

Thomas Tobin 司教 の2019年06月01日付の tweet :「忘れないように:カトリック信者は,6月に行われる LGBTQ “Pride Month” の行事を支持したり,それらに参加したりすべきではない.それらの行事は,カトリックの信仰と道徳に反する文化と活動を宣伝し,奨励するものであり,特に子どもたちに対して有害だ」.

わたしは,わたしが所属する小教区の教会を愛し,かつ,わたしの gay である友人や家族を愛するカトリック信者として,この Thomas Tobin 司教の表現 — 偽善的で,homophobic で, いたずらに不安をあおる表現 — に,うんざりさせられている.今,カトリック教会は,何十年にもわたって子どもに対する性的虐待を組織的に隠蔽してきたことが明らかになった後,道徳的な信頼性を取り戻そうと悪戦苦闘している最中である.そのようなときに,カトリック指導者が Pride 行事は「特に子どもたちにとって有害だ」と言い放つとは,何とも驚くべき自覚欠如の露呈である.

また,それは,特別に調子はずれで欺瞞的な断言である — なにしろ,Thomas Tobin 司教は,1990年代,Pittsburgh 教区の補佐司教を務めていたわけだが,それは Pennsylvania 州 — 同州においては,数十年にわたって1000人以上の子どもたちが300人以上の司祭たちによって性的虐待を受けてきたと信ぜられる,と[2018年8月に発表された]州の大陪審による壊滅的な調査報告は告発している — にある六つの教区のひとつである.だが,Thomas Tobin 司教は,昨年[2018年]夏に行われたあるインタヴューにおいて,こう言ってのけた:聖職者による性的虐待を監視することは,当時,彼の責任の範囲の外にあることだった,と.

Thomas Tobin 司教は,昨年夏,Twitter は彼の spiritual life にとって妨げとなり,「わたしにとっても,ほかの人々にとっても,罪を犯す機会」となり得る媒体である,と述べ,Twitter をやめるつもりだ,と言っていた[が,実際にはそうはしなかった].もし仮にその計画に忠実であったなら,彼は,賢明であっただろう.

わたしたちの歴史と文化において,gay と lesbian と transgender の人々は,しばしば,彼れらの宗教保守的な家族によって見棄てられ,教会によって拒絶されてきた.そのような事実への反応において,わたしたちは,彼れらを愛する.彼れらの人間性と基本的な尊厳を回復させ,称えること — Pride 行事に参加するカトリック信者たちがしているのは,そのことである.

National Center for Transgender Equality[transgender の人々の平等のための全国センター]と National LGBTQ Task Force[LGBTQ の人々にかかわる諸問題について調査し,問題解決を図るための全国的な委員会]は,全国で六千人以上の transgender およびジェンダー不適合の人々にインタヴューした結果,41 % が自殺未遂歴のあることを見出した(それに対して,一般人口においては,自殺未遂歴を有する人は 1.6 % のみである).学校におけるいじめ,職場におけるいやがらせ,物理的および性的な暴力を経験したことがある,と答えた人の割合も高かった.Human Rights Campaign[人権キャンペーン]によると,2018年,USA においては,transgender の人々が少なくとも26人,殺害されている.被害者のうち,82 % は非白人のトランス女性であり,大多数は35歳以下であった.

先週の土曜日(2019年6月1日),Dallas で,黒人トランス女性である Chynal Lindsey の遺体が,警察により発見された.彼女は,過去三年間に Dallas で殺害された少なくとも四人めの黒人トランス女性である.

もしカトリック司教がそのような文脈を理解しておらず,デジタル説教壇を,癒すのではなく,傷つけるようなしかたで利用するならば,彼は,差別的文化 — そこにおいては,固定観念が強化され,差別が祝福され,極右は暴力に訴えてもよいと励まされる — に貢献することになる.

Thomas Tobin 司教を弁護するために集まったカトリック信者たちは主張する:彼は単純にカトリック教義を表現しただけだ,と.しかし,それは欠陥のある議論である — そのような議論は,せいぜい,論者は教会の教えを狭く,機械的にしか理解していない,ということを明かすか,あるいは,より悪い場合には,教会の教えを,現実に有害な結果を招くしかたで歪めている.

教皇フランチェスコは,使徒的勧告 Amoris laetitia[愛の喜び]において,カトリックの教義と道徳律を「人々の生に対して投げつける石」(#305) にしないよう,カトリック信者に警告している.そのような態度は,「通常,教会の教えの背後に隠れる閉ざされた心」(ibid.) を証すものである.カトリック教会は同性婚に反対しており,また,男女の結婚以外の状況におけるあらゆる性関係を断罪しているが,しかるに,カトリック教会のカテキズム (#2358) は,こうも述べている : gay の人々は「敬意と共感と気遣いとを以て,受け容れられねばならない.彼れらに対して,あらゆる不当な差別の刻印は避けるべきである」.Pride 行事は子どもたちとって危険であると述べる司教の言葉は,LGBTQ の人々を悪魔化し,差別的に刻印する危険性をはらんでおり,カテキズムが禁じている「不当な差別」の一例である.

よい知らせもある.Thomas Tobin 司教は多くの注目を集めたが,彼の見解は,教会の指導者たちのうちでは,声高な少数派を反映しているにすぎない. transgender の人々や同性カップルと出会う教皇フランチェスコによって形づくられ,発展しつつある司牧神学は,より多くの司祭たちと司教たちが LGBTQ の人々との架け橋を作るよう,促している.それは,非難ではなく,謙虚さと聴く態度とを要することである.

Newark 大司教 Joseph Tobin 枢機卿は,2年前,Newark のカテドラルに LGBTQ の巡礼者たちを迎えたとき,彼れらにこう言った:「わたしはジョセフ,あなたたちの兄弟です」.San Diego の Robert McElroy 司教は,2016年,イェズス会の週刊誌 America magazine とのインタヴューにおいて,同性どうしの関係を「内在的に乱れたもの」と呼ぶカテキズムの言葉づかいを「非常に破壊的な表現であり,司牧において用いるべきではない,とわたしは考える」と述べている.

Chicago や New York や San Francisco のような都市にある小教区のカトリック信者たちは,何年も前から Pride 行事に参加し続けている.より保守的な地方においても,連帯を証しするカトリック信者たちはいる.Kentucky 州の Lexington 教区の John Stowe 司教は,2017年,Lexington 市の最初の Pride Interfaith Service へ書簡を送り,行事を「あまりにしばしばキリスト教徒たちからの差別に苦しんできた人々へ手を差しのべるすばらしい行い」と絶賛している.

キリスト教の伝統においては,pride[傲慢]は「七つの大罪」のひとつと見なされてきた.キリストに従う者は,極端な放縦や過度な個人主義に用心すべきである.では,場合によって Pride parades において見うけられる自由放埒な雰囲気と,キリスト教徒はどう折り合いをつければよいのか?

1960年代の black pride の表現が白人至上主義者たちの抑圧的な不正義に対する反応であったのと同様に,LGBTQ Pride の行事は,LGBTQ の人々にとって安心できる空間となるよう作られている.彼れらは,ある種のコミュニティのなかで通りを歩いているとき,彼れらの身体的な安全性が尊重されるか否かを懸念する理由を有している.

わたしは,gay ではない白人男性として,そのような現実を経験したことがない.もし仮に,わたしが,ケバケバしく過剰に見えるかもしれない Pride 行事における解放と歓喜の表現を断罪するならば,わたしは,安楽で特権的な場所から批判を行っていることになるだろう.もし仮に共感が欠けていれば,わたしは,Jesus が時をすごした辺縁的な場所へは行かないことになるだろう.わたしが prideful[傲慢]になることへの人間的な誘惑に対して用心するとしても,黒人トランス女性 — 彼女は,へたな方向へ街角をまがると殴打されるかもしれないと恐れ,あるいは,12の州では性同一性を理由にして合法的に解雇されるかもしれない — が prideful[自身に誇りを持つ]になっていけないわけがない.

カトリック教会の指導者たちは,Pride 行事について断罪の態度を取る前に,よりキリスト教徒的な答えをしようとするがよいだろう.そして,他者が経験する辛さや不愉快を追体験してみようとするがよいだろう.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)