2019-07-12

James Martin 神父様 SJ の説教,World Pride NYC 2019 前晩のミサ,2019年06月29日


2019年06月30日に World Pride NYC 2019 のパレードが行われる前日,6月29日の晩,LGBTQ Catholic community のために,Church of St Francis of Assisi において,James Martin 神父様 SJ の司式によるミサが行われました.その説教の録画とテクストが公開されています.


説教の邦訳を以下に掲載します.

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年間第13主日
第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62




[Jesus Christ の]弟子である — それは,何を意味するでしょうか ? Christian である — それは,何を意味するでしょうか?自由である — それは,何を意味するでしょうか?カトリック信者として,LGBTQ カトリック信者として,あるいは,LGBTQ カトリック信者の家族,友人,同盟者として,[Jesus Christ の]弟子であり,Christian であり,自由であることは,何を意味するでしょうか?

今日の聖書朗読は,一見すると,わたしたちにはたいして関係が無い,と思われるかもしれません.つまるところ,列王記が書かれたのは紀元前550年ころ — ユダヤの民がバビロンで捕虜となっていた時代です.聖パウロの Galatia の信者たちへの手紙が書かれたのは,紀元55年ころです.ルカ福音書 — 今日,朗読されたもののうちでは最も新しいもの — が書かれたのは,紀元85年ころです.そのような昔のテクストが言っていることは,今のカトリック信者たちにとっては,たいした意味はないだろう,いわんや,LGBTQ の人々にとっては,なおさらたいした意味はないだろう,と思われるかもしれません.

いえ,とんでもない.とても意味があります.聖書は,生きている〈神の〉ことばです.朗読された箇所がどれほど昔に書かれたものであっても,わたしたちがそれらを読み,聞くとき,わたしたちの耳が神のことばに開かれるなら,神の声は常に明かされます.

福音朗読の箇所から始めましょう.Jesus は,牧者としての働きを求めてくる人々に,正面から,あい対します.

Jesus は,Jerusalem へ向かう途中です.Jerusalem には,彼の運命が彼を待ち受けています — 受難と,十字架上の死と,そして,復活です.Jerusalem に到着する前でさえ,彼は,敵意を持つ人々に直面します.そして,彼はそのことを知っています.彼がサマリアをとおるとき,人々は彼を拒絶します :「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」とルカは言っています.なぜか?宗教的な理由によって:サマリア人は,「よきイスラエル人は,いかなるものか?」について,とても異なる考えを持っており,Jerusalem の神殿を神がいます座とは認めてさえいません.サマリアの人々の拒絶に対して,Jesus の弟子たちは,彼れらを処罰したい,と思います.しかし,Jesus は「ダメだ」と言います.Jesus は,彼れらを罰しようとはしませんが,しかし,拒絶のせいで意気消沈したりもしません.

ついで,Jesus は,「弟子にしてください」という求めへ注意を向けます.彼は,とても無愛想に対応します.彼は,彼の弟子となることの代価をよくわかっており,弟子になりたいと言ってくる者たちにも,その代価を覚悟してほしい,と思っています.ある者が「あなたがおいでになるところなら,どこへでも従ってまいります」と言う.「本当かい?」と Jesus は言う — ルカはそうは書いていませんが —「もしわたしについてくるなら,あなたは,ねぐらすら持てないことになる」.Jesus の弟子のすべてが旅の途上の Jesus につきしたがっているわけではありません — Martha や Maria のように,家にとどまっている者もいます — が,弟子の多くは,実際,Jesus と同じく,旅回りを続けています.弟子になるということには,旅回りの生活を続けるということも含まれているのだぞ,と Jesus は言っています.

ほかの弟子たちのなかには,ふたり,家族に対する責任にもとづく言いわけをする者がいます.ひとりは,「父を葬りに行かせてください」と言い,もうひとりは,「家族にいとまごいをするために行かせてください」と言います.しかし,Jesus は,そのような言いわけを受けつけません.しかし,彼は,本当に,死者が死者を葬るだろうと思っているのでしょうか?そうではないでしょう.彼は,話しのポイントをわからせるために,誇張法を使っているだけです.

もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたはタフでなければならない.もしわたしにつきしたがってくるなら,あなたは後ろを振り返ることはできない.

Jesus は,旧約聖書の預言者たちよりも徹底的です.第一朗読の列王記(上)では,Elijah は,Elisha を預言者とするために彼に油を注ぐよう神に命ぜられ,自分の外套を Elisha にかぶせます.Elisha は,しかし,「父と母に別れの接吻をさせてください」と言い,それをすませてから,Elijah につきしたがいます.

Jesus は,もっと徹底的です.彼は「ダメだ」と言います.家族を言いわけにするな.わたしにつきしたがうことより優先されるものは何も無い — 家族に対する義務でさえも.

Jesus は,福音書のほかの箇所で,そのことを明示しています.彼の家族が,ナザレトからガリラヤ湖へやってきて,彼と会おうとします.このエピソードのことを,わたしたちはあまり話題にしません — その話にショックを受ける Christian が少なくないからです.しかし,マルコ福音書は語っています — Jesus が牧者として公に働き始めたとき,彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思う.そこで,親戚を含む〈彼の〉拡大家族は,ナザレトから,Jesus が住んでいるガリラヤ湖畔のカファルナウムにまでやってきて,彼を拘束しようとする.しかし,Jesus は,「あなたの家族が外で待っています」と告げられると,こう言う:「誰がわたしの家族か?それは,神の意志を行う者たちだ」.神とのつながりが,家族とのつながりよりも,より重要なのです.

最後に,話しの要点を理解させるために,Jesus は,大多数が農民である社会の人々がよくわかる比喩を用います:いったん鋤に手をかけたなら,後ろを振り返るな.なぜなら — 牛たちから目をそらすと,どうなるか?牛たちは,へんな方向へ進んでしまう.注意をそらすな.

さて,今日の聖書朗読箇所は,いずれも,昔に書かれたものではありますが,今日,わたしたち皆にとって — 特に,LGBTQ カトリック信者にとって —,とても有意義です.三つのことを示唆しておきましょう.

1) タフであれ [ be tough ]. この数年間,LGBTQ カトリック信者にとって,多くのポジティヴな歩みが為されました.ふたつの大きな潮流があります.最初のものは,ふたつの単語に要約されます : Pope Francis [ Papa Francesco ]. 五つの単語から成る彼の最も有名な文は,あいかわらず,これです : Who am I to judge ?[わたしは,断罪する権限を有する誰であろうか?]それは,最初は,gay である司祭に関する質問に対する答えでしたが,ついで,LGBTQ の人々すべてに関する文へ拡大されました.Papa Francesco は,gay という単語を使った史上初の教皇です.彼には,LGBTQ である友人たちがいます.そして,彼は,LGBTQ の人々をサポートする枢機卿や大司教や司教を,たくさん任命しています.もうひとつの潮流は,このことです:自身が LGBTQ であることを come out し,そのことについて open であるカトリック信者がふえるにつれて,彼れら自身と,彼れらの家族とが,彼れらの希望と願望を小教区のなかに持ち込むようになり,教会の文化が少しずつ変わってきています.

しかし,LGBTQ カトリック信者であることが辛いときもあります.カトリックの学校が〈同性婚をした〉職員を解雇する事例が,今だに起きています — straight である職員は,さまざまな教会の教えに従っていない場合でも,仕事を続けることに何ら問題が無いにもかかわらず.また,教会の指導者たちがメディアに発表する文書や声明や引用によって,このことが明らかになることもあります:彼らが LGBTQ の人々やその家族の経験に耳を傾けたことがあるという証拠は,いささかも無い,ということ.さらに,勿論,地方のレベルでは,homophobic な司牧者や教会職員や小教区信者たちがいるところが,いまだにあります.

であればこそ,Jesus のようでありましょう:つまり,タフでありましょう.そして,なによりも,あなたは教会のなかで正当な居場所を有していることを主張しましょう.御覧なさい:あなたが,自身,LGBTQ であり — あるいは,LGBTQ である人の家族であり —,かつ,洗礼を受けたカトリック信者であるならば,あなたは,教皇や司教や司牧者やわたしと同様に,教会の一員です.あなたが受けた洗礼を根拠にして,教会のなかであなたの居場所を主張しましょう.

しかし,カン違いしないでおきましょう.Jesus は,わたしたちにこう告げています:ときには辛いこともある.ときには,あなたの家族があなたを理解しないこともある — まさに Jesus の家族が Jesus を理解しなかったように.ときには,あなたはほかの人々に受け入れられていないと感ずることもある — まさに Jesus がサマリアでそうだったように.ときには,ホームレスになったように感ずることもある — まさに Jesus が野宿しなければならなかったときに感じたように.ときには,友人たちと意見が一致しないと感ずることもある — まさに Jesus が「しかえしはわたしのやり方ではない」と弟子たちに告げたときに感じたように.しかし,そのようなことはすべて,旅につきもののことです.Jesus とともにいれば,ほかの人々に理解されなかったり,受け入れられなかったり,等々のことは起こり得ます.

そのようなことすべてを通じて,Jesus は,「タフでありなさい」とわたしたちを招いています.教会のなかで居場所を主張しなさい.あなたが授かった洗礼のなかに根拠を持ちなさい.あなたは全的にカトリックである,と自覚しなさい.

カトリック教会は,歓迎し,肯定し,包容するだけでは十分ではない,という声を,わたしは最近,聞きました.わたしは賛成します.それらは,最小限のことです.それだけでなく,LGBTQ の人々は,「わたしたちは教会のなかの司牧活動すべてに参与することができるはずだ」と完全に思えるべきです.単に歓迎され,肯定され,包容されるだけでなく,みづからリーダーシップを取ることができる.しかし,そうし得るためには,あなたたちは,鋤をしっかり握り続けねばなりません.そして,タフであらねばなりません.

2) 自由であれ.今日の福音朗読箇所からのふたつめの教えは,Jesus の至高なる自由です.福音がサマリアについて何と言っているかを,もう一度見てみましょう:「村人は,イェスを歓迎しようとしなかった」.しかし,Jesus は,サマリアに拒絶されても,気にしません.確かに,Jesus は,サマリアの人々が彼のことばを聴くことを欲していたでしょう.そうだったことを,わたしたちは知っています — ヨハネ福音書のなかで,Jesus は,サマリアの女と長い会話をかわしているからです.あの有名な「井戸端の女」の話です.彼女は,Jesus との出会いを,サマリアの人々と分かち合います.しかし,サマリアの人々が歓迎しようとしないなら,それで結構.Jesus は自由です.彼は,歩み続けます.

Jesus は,愛されたい,好かれたい,認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,サマリアの人々から愛されたい,という欲求からは,自由です.彼は,弟子たちから好かれたい,という欲求からは,自由です — ヤコブとヨハネを戒めたときのように.彼は,家族 — 彼の家族は,彼は正気を失ったのだ,と思っています — から認められたい,という欲求からは,自由です.彼は,このうえなく自由です.では,何のために自由なのか?— 御父の意志に忠実であるために.

LGBTQ カトリック信者たちの多くが,「わたしは歓迎されていない」と感ずる — Jesus がそう感じたように;排除され,拒絶され,ときには迫害されていると感ずる — Jesus が排除され,拒絶され,迫害されたように.それは,苦痛なことであり,腹立たしいことです.そう感じても,当然です.それは,人間的なことであり,自然なことです.そして,ときには,そのような感情が,あなたを行動へ — 迫害されている人々のために行動することへ — 駆り立てることもあるでしょう.しかし,究極的には,Jesus は,わたしたちに,こう求めています:愛され,好かれ,認められたいという欲求からは,自由でありなさい.そして,本来的なあなた自身に信頼を持ちなさい.

もうひとつ指摘しておくと,Jesus は,罰したいという欲求からも自由です.ヤコブとヨハネは,Jesus を拒んだサマリアの人々を滅ぼすために「天から火を降らせる」ことを欲しました.しかし,そのような彼らを,Jesus は戒めます.それは,彼のやり方ではない.彼は,しかえししたいという欲求からは自由です.ですから,Jesus のようでありましょう.自由でありましょう.

3) 最後に,希望を生きろ.Jesus Christ の弟子である人生は,単なる苦行ではありません.単にタフなだけではありません.単なる苦労ではありません.今日の第二朗読で,聖パウロはこう言っています:「キリストは,わたしたちを,自由のために自由にしてくださった」(τῇ ἐλευθερίᾳ ἡμᾶς Χριστὸς ἠλευθέρωσεν). すばらしい言葉ではありませんか ?Christian の生は,単なる辛い重荷や軛(くびき)ではありません — 聖パウロが用いている「軛」という語は,Jesus の「鋤」の比喩と呼応しています.Christian の生は,奴隷の軛につながれて生きることではなく,自由を生きることへの招きです.ちょうど Elijah が Elisha に外套を被せたように,わたしたちは皆,LGBTQ であろうと straight であろうと,Jesus の招きを受けたなら,神学者 Barbara Reid の表現で言えば,「Jesus の息吹 [ spirit ] という〈守ってくれる〉コート」に包まれています.わたしたちは,自由を生きています.喜びを生きています.そして,希望を生きています.

LGBTQ カトリック信者やその家族は,教会の現状を見て,こう言いたくなる誘惑にかられるかもしれません:「教会は,決して変わらないだろう」,「わたしは歓迎されていない」,「ここには,わたしの居場所は無い」.しかし,Jesus がわたしたちに住んでほしいと思っている場所は,そこだけではありません.将来は,現在よりも,もっと充実しているでしょう.そのことを,Jesus は知っています.わたしたちは,鋤をしっかり握り続けましょう — 単に道からそれてしまわないためだけでなく,地平線から目をそらさないために.

ときには,LGBTQ カトリック信者が,こう言うことがあります:わたしは,教会とも,信仰とも,神とも,縁を切った.そう言う人々は,教会のなかに Christ を探し求めるときに,しばしば,現在をしか見ていないのです.しかし,Jesus が Jerusalem で経験することは,受難と死だけではありません.最も重要なのは,受難と死ではありません.最も重要なのは,復活です.復活の善き知らせは,これです:希望は絶望より強い;苦しみは最後の言葉ではない;愛は,つねに,憎しみに対して勝利する.愛は,つねに勝ちます.ですから,希望を生きましょう.

今日,朗読された聖書のことばは,とても古く,とても異質で,とても遠くにあるもののように見えるかもしれません.しかし,実は,今のわたしたちのためにあつらえられてあることばです.神と出会うよう呼ばれたわたしたち皆のために書かれてあることばです.そこにおいて,わたしたちは,神がわたしたちにこう言うのを聴きます:タフであれ,自由であれ,希望を生きろ.カトリック信者であることに誇りを持て.そして,LGBTQ であるわが同胞たちよ,LGBTQ カトリック信者であれ — あなたたちは,そうであるよう,Jesus Christ 御自身によって,呼ばれているのです.

(翻訳:ルカ小笠原晋也)

2019-07-02

阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019年06月30日



阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019630


教皇フランシスコが説く三つのよろこび : gaudium, laetitia, exsultatio



皆さん,今日は集まってくださり,ありがとうございます.先ほど,御ミサもいっしょに捧げました.

今日は,今のカトリック教会の動きを紹介したいと思います.

皆さんにお配りした資料[A4 の紙一枚]は,四つに折ると,ひとつの小冊子になります.





まずこう折り,つぎにこう折ってください.「よろこびのひびき」と「聖性,聖なる生きかた」と書いてあるページが最初のページ,フランシスコ教皇のイラストが描いてあるページが最後のページです.四つに折った全体を開くと,裏面が「わたし(キリスト)のよろこびがあなたがたのうちにあるように!」と書いたページになります.

子どもたちに配ると,何も言わなくても,すぐに作ってくれるのですが,おとなに配ると,作り方がわからなくて,迷っている人が多い.おとなの方が感覚が鈍くなっているのかなと思います.修道者とか教区司祭に配ると,もっともたもたします.年齢を重ねたり,上の立場に立つにしたがって,単純なこともできなくなる,ということがわかります.

これは,もともと,ほかの講話のときに配った資料です.一枚の裏表で見ることができ,小さくたたんで持ち歩くことができ,紙の節約にもなります.あとは,塗り絵として,自分で色を塗って楽しむこともできます.

この資料は,キリスト教徒の立場で教皇フランシスコの気持ちを理解して生きるためのひとつのヒントになっています.

今年の11月にフランシスコ教皇が来日するといううニュースが流れていますが,まだ教皇庁から正式な発表は出ていないので,もう少し待つ必要があります.しかし,一応,準備委員会は立ち上がって,話し合いが始まっています.歴史上,教皇の訪日は38年ぶりになります.教皇フランシスコは266代目ですが,38年前は,264代目のヨハネパウロ II 世が日本に来ました.38年間という長い隔たりがありますが,教皇はもう一度,日本に来てくださるわけです.あとだいたい5ヶ月くらいです.

教皇フランシスコが何を思っているのかを理解すると,11月の行事の意味がもっとよくわかるだろうと思います.

わたしは,教皇フランシスコの行事に行くつもりはありません.彼が司式するおおがかりなミサに出るつもりもありません.というのは,キリストの方がだいじだからです.キリストを中心に考えます.

キリストを証しして生きるのが教皇です.彼は,キリストのメッセージを伝えるために日本に来ます.だいじなのは,キリストを理解して生きているひとりの指導者が日本に来る,ということです.キリストが主役です.キリストのメッセージを日本の社会全体に広く示す責任を感じて,彼は来ます.教皇フランシスコの来日の目的は,キリストを知らせること,キリストを人々に実感させることです.キリストを知って,学んで,受け継いで生きる それを伝えるのが,教皇フランシスコの目的です.

わたしたちキリスト者も,彼を迎えるときに,彼の気持ちを理解して迎える必要があります.教皇フランシスコを主役にして騒ぎを盛り立てるだけでは,意味がありません.教皇は,82歳を超えた後期高齢者でありながら,体力の衰えをものともせず,日本に来てくれます.キリストを示したいがために日本に来るひとりの老人がいる そのことの重大さの方が,意味があります.

キリストを中心にすること,教皇フランシスコが伝え,示そうとしているキリストを信じ,キリストに感謝すること そのこと方が,教皇を特別な人として迎え,彼を主役にしてお祭り騒ぎをするよりは,もっとだいじである,と思っています.

さて,今日配ったプリントの,教皇フランシスコのイラストが書いてあるページを見てください.

彼が教皇になって,年たちます.この 年間,彼が言っていることは,三つのラテン語のキーワードに要約されます : gaudium, laetitia, exsultatio.

gaudium は,2013年の使徒的勧告 Evangelii Gaudium[福音の喜び],laetitia は,2016年の使徒的勧告 Amoris Laetitia[愛の喜び],exsultatio は,2018年の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate[喜びなさい,おおいに喜びなさい]で用いられています.

いずれも,日本語では「よろこび」と訳されますが,教皇フランシスコのこころのなかでは,三つの「よろこび」は区別されています.

gaudium は,個人レベルのこころの安らぎ,安心感,おだやかさです.生きていてよかったという感覚です.キリストと出会った人が,「わたしは,受け入れてもらえた;わたしは存在してもいいんだ」と感ずる;「わたしが生きている」ということを全部,受けとめてもらえる,と感ずる その感覚が gaudium です.

キリストと出会う人は皆,おちつきを取り戻す;そして,自分は意味のある存在であり,生きていてよいのだということを実感する それは,福音書を読むと,よく出てくるメッセージです.病気を抱えている人や,差別を受けている人が,キリストから声をかけてもらい,肩に手を置いてもらい,励ましを受ける そのような場面が,福音書のなかによくでてきます.そのときの安心感が,gaudium です.

キリストは,みづから近づいてきて,声をかけてくれ,肩に触れて,励ましてくれる.キリストは,ひとりひとりの名を呼んで,理解してくれ,そばにいてくれる.そのような善さを,キリストは持っています.そういうキリストと出会った人が感ずるのが,gaudium です.生きていて本当によかったという感覚です.

教皇フランシスコも,gaudium はキリスト者の生き方の土台になっている,と述べています.

ひとりひとりがキリストと出会って,gaudium を実感します.わたしたちは今,約二千年前に生きていたナザレのイェスという人に直接会うことはできませんが,聖書のメッセージを読んだり,こころのなかで思いをめぐらせたりすることで,キリストを感じ取ります.聖体拝領のときに,パンとなってわたしのなかに入ってきてくださるキリストを実感します.ミサは,聖書朗読と聖体拝領によってキリストと出会うひとときです.そのときの安心感を gaudium というラテン語は言います.キリストとかかわるよろこびは,キリスト者にしか味わえないよろこびです.

ふたつめのよろびは,laetitia です.それは,人間関係における相手とのキャッチボールのようなやりとりのよろこび,かかわりやコミュニケーションの楽しさやうれしさ,友情のよろこび,愛のよろこびなど,複数の人間がいっしょに生きるときにこころに感ずるうれしさのことです.gaudium 安心感,自分が認められているという感覚 を持っている人が,他者と出会い,かかわるときに感ずるこころの動きです.人間関係のよろこびです.

キリストと出会ったわたしたちひとりひとりが,今度は,出かけていって,ほかの人に会い,いっしょによろこびあい,気持ちをやりとりする;自分のよい思いを相手にわたし,相手からも感謝の気持ちを受け取る;そのように,気持ちをキャッチボールのようにやりとりし,つながりあう 教皇フランシスコは,わたしたちにそうするよう勧めています.

三つめの喜びは,exsultatio です.人間関係が明るく整って,コミュニケーションが深まって行くと,生きている空間全体が意味を持ってきて,輝き始めます.本当に自分を理解してくれる友だちを見つけたときに,わたしたちは,こころが明るくなっていくのを感じます.人生に意味が出てきます.生きている空間全体が特別に思えてきます.親しい人といっしょに過ごしているとき,自然環境全体が非常に輝いて見えることがあります.

そのように,生活空間そのものの輝きと明るさのなかで,人間どうしの深いつながりにもとづいて,存在が意味を帯びてゆく状況 それが,exsultatio です.それは,あらゆる生きものの調和の状態,全宇宙の明るい響き合いの状態です.この最終的なよろこびは,生活環境そのものが祝福されてよいものと感じられる状態のことです.

教皇フランシスコは,そういうメッセージを,環境問題に関する2015年の回勅 Laudato si’ のなかで述べています.

教皇は,12世紀の聖人,アシジのフランチェスコの歩みをまねようとしています.それで,教皇としての名も,その聖人にのっとって,フランシスコとしています.

12世紀の聖フランチェスコは,何をしたか?自然の緑あふれる土地を歩きながら,ロバや,馬や,あらゆる生きものを優しくなでながら,感謝しつつ旅をする生活です.彼にとっては,すべての生きものが神の前で尊い命です.彼は,歌を歌いながら,旅をします.歌と祈りと自然環境の生きものが一体化した状態での旅です.生きものを認めて,すべてを作った神に感謝する生活を,彼はおくっていました.

教皇フランシスコは,その12世紀の聖人をまねようとしています.あらゆる生きものといっしょに神を賛美すると,生きていることがそのままで祈りになり,その祈りは天に昇って行きます.そのような壮大な感覚があります.それが exsultatio です.

それは,宇宙万物の響き合いとかかわり合いのよろこびとうれしさであり,生きものがいきいきとスキップして,よろこんで踊っている状態です.

赤ちゃんや幼な子は,うれしいことがあると,ジャンプして踊りながら,手をパチパチ叩いて,躍動して,踊ります.赤ちゃんや幼な子が持っているすなおな態度,踊りながら,からだでよろこびを表現する姿 それも,exsultatio につながってゆきます.

世のなかの生きものも,すなおに感情を表して,からだで表現して,踊ることがあります.ネコもイヌも,うれしいことがあると,シッポをふります.

からだでよろこびをすなおに表現すると,その震えは空気に伝わって,皆が幸せになります.

人間も,幼な子のような気持ちでよろこび踊りながら,すべての善さを受け入れて,感謝して,ほめたたえて,踊る それが理想です.ところが,成長するにしたがって ものの見方を整えて,頭だけで判断して行こうとするおとなの状態になるにしたがって からだが動かなくなります.頭だけで判断して固まってしまい,よろこびをすなおにからだで表現することができなくなります.

世界中の司教や司祭たちのなかには,硬直した状態で厳しい顔をしている人が多い,と思います わたしもそのひとりですが.緊張して,かしこまって,からだが固まって,動かない.人をすぐに助けない.動きのない直立状態で終わってしまう そのような人が教会のリーダーになっている場合があります.それは,本来的な exsultatio からはほど遠い姿です.

誰でも,幼な子のようにならなければ,神の働きのなかに入れない そう,イェス・キリストはよく説明しています.すなおにこころの思いをからだで表現して,踊りながら,まわりの人を楽しませるような,思い切った態度をとらないと,神の働きから遠ざかってしまいます.幼な子の持ってる喜びの表現 踊りながら,素直に感謝して過ごすという態度 から学ぶ必要があります.

以上のように,教皇フランシスコは,よろこびを,三つのイメージ gaudium, laetitia, exsultatio で説明しています.

日本語ではすべて「喜び」と訳されますので,三つの意味あいの違いが薄まってしまいます.しかし,よいところもあります.すべて「喜び」と訳されることによって,三つは統一されます.「喜び」という言葉のなかに三つのレベルの意味が含まれ,一体化しています.「喜び」のひとことで全体を表しています.個人レベルのうれしさも,二人以上の人が出会って,気持ちをやりとりするときのよろこびも,宇宙的な〈生きものが踊りながらたたずんで過ごす〉態度も,全部,切り離せません.それらは連続していて,ひとつのこととして生じてくる.その全体を,からだで味わって生きる感覚が,「喜び」の一語にはあります.

たとえば,この祭壇の前に花が飾ってあります.その美しさがあります.そして,それを丁寧に活けて準備してくださった方々のまごころが込められています.人がもっている善い志と,花の美しさとが,そこに表現されています.この場で静かにたたずんで,こころをおだやかに保っている人がおり,個人個人のよろこびがあり,人を楽しませようと花を準備してくださった方のまごころがあり,花そのものの美しさがあります.それらがすべて調和しているのが,この聖堂の空間です.こういう場でいっしょに集まって祈ることは,教皇フランシスコが教えている三つのよろこびの意味を同時に味わうことになります.この祈りの場にたたずむだけでも,三つのよろこびを味わうことができます.

以上,gaudium, laetitia, exsultatio という三つのよろこびの動きを紹介しました.

単純に,よいことを認めあって生きることが,一番,キリスト者としての道になるのではないかと思います.

皆さん方も,ひとりひとり,よいものを持っています.各人,考え方や性格があります.さまざまな立場の人が集まっていることに,意味があります.

皆さんは,それぞれ,自分の生活の環境で穏やかに生きて行こうとし,真剣に歩んでいる.そして,キリストを知ることになって,キリストに興味を持って,キリストとこころの会話をしながら生きている.皆さん,個人レベルのよろこび (gaudium) を持っていると思います.

そういう人々が,このように月に一回集まるとき,同じ気持で生きている人がいるということを発見して,人間どうしのつながりができて,それが laetitia に発展します.

さらに,ここに飾られてある花の美しさ,ほかの生きものの美しさにも気がついて,それを味わうことができます.12世紀の聖人,アシジのフランチェスコがだいじにした感覚 (exsultatio) を,今も生きることができます.

日本には,あらゆる生きもののつながりをだいじにしながら,旅をして,景色を眺めながら,喜ぶ感覚があります.12世紀のアシジのフランチェスコの態度は,日本人が千年以上保ってきた喜び 自然環境のなかで自然と一体化して生きる喜び と,共通性があります.

第二次世界大戦中の日本で,アシジのフランチェスコの伝記が翻訳され,彼に関する解説書がたくさん出回ったことがありました.自然環境のなかで感謝し,生きものの命の響き合い楽しむフランチェスコの exsultatio を,日本人は,敏感に感じ取って,彼を尊敬して,勉強し始めた時期あったのです.

今から70年ほど前の日本で,洗礼を受けた人々のうち,特に知識人は,フランチェスコという洗礼名をつけてもらう人が多かった時期がありました.ものごとを分析して,切り離すのとは逆に,いっしょにつなげて楽しむという態度に興味を示す人々が知識人のなかに増えた時期がありました.競争して,人を蹴落として,自分だけ生き残ろうとすることの愚かさへの反省から,協力して,生きものといっしょに楽しむというフランチェスコのイメージが,憧れとして受け入れられていたのです.そのような生き方の象徴として,アシジのフランチェスコが尊敬されていたのです.

教皇フランシスコは,その12世紀の聖人のイメージを,自分の立場として表明しています.教皇は,若いころ,日本に宣教師として渡り,日本の生活のなかで人々と出会いたいという夢を持っていましたが,肺結核を患って,片方の肺を摘出したこともあり,健康があまりすぐれなかったので,日本に宣教に来ることができませんでした.彼は,一回,挫折しているわけです.

若いころに来日の夢を持ちながら,実現できなくて挫折したこの人物が,日本にやってきます.教皇フランシスコにとっては,尊敬する日本の文化や考え方のなかに入り込んで,人々と出会いたい,かかわりたい,という夢を,80歳を過ぎてから,ようやくかなえることになるわけです.彼は,かつて一度だけ訪日していますが,そのときはまだ教皇ではありませんでした.

教会組織全体は,二千年も続いているので,ガタがきて,おかしくなってるところも,歪んでいるところもあります.そのなかで,もう一度やり直して,しっかり人を受け入れて,理解しようとするリーダーがここにいます.教皇フランシスコという人物の歩みも,わたしたちにとって励ましになります.

阿部仲麻呂神父様 SDB の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年06月30日

James Tissot (1836-1902)
With Passorver Approaching, Jesus Goes Up to Jerusalem (1886-1894)
Brooklyn Museum


阿部仲麻呂神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年6月30日 


第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62 


今日[の福音朗読箇所]は,イェス・キリストが,決意して,イェルサレムの都に向かう場面です.

イェルサレムに行くということは,十字架につけられるということです. 

イェスさまは,三年間,必死に,出会う人々を助けながら,旅をしました.その総まとめとして,神のわざを実現するために,都のイェルサレムに入ろうとします.

ところが,サマリアの人々は,「純粋な」ユダヤ人ではなく,いろいろな民族の人々が結婚して生まれた子どもの子孫ですので,民族のさまざまな状況を抱え込んで生きています.サマリアの人々は真剣に生きているのに,ユダヤの血だけを持つ人々から差別されていました.彼れらは,生活の状況や仕事の都合で,さまざまな民族の協力関係のなかで生まれた子どもたちの子孫ですが,「サマリア人」と呼ばれて,差別を受けていたわけです.

そのように差別を受けて苦しんでいる人たちからすると,イェスさまがユダヤ人だけしかいないイェルサレムの都に入るということは,裏切り行為に見えたわけです.強い立場に立つ人々のもとに出向くイェス・キリストを見たときに,サマリアの人たちは反対します.それまではイェス・キリストを歓迎していた人々ですが,しかし,あのイェルサレムにだけは行ってほしくないという気持ちを持ってました.

ところが,イェスさまは,それでも,まっすぐイェルサレムに入ろうとします.でも,反発にあいますので,別の村に入って,そこに泊まってから,イェルサレム入りを準備する — そういう動きになっています.

このように,今日の福音朗読の箇所では,一方には,神の思いを生きようとするイェス・キリスト — まっすぐに進む彼の姿 — があり,他方には,彼を迎える人たち — 彼れらは,自分たちの都合で考えてしまい,自分たちの状況しか見ない — がいて,両者は対立している,ということが描かれています.

人間が抱える問題,それは,自分を基準にして見てしまうので,他の人を理解しないという狭さです.ユダヤの人々がそうでした — 自民族だけを守ろうとして,他民族を理解しない.多くの民族の人たちの間の新しい結婚生活を祝福しないユダヤの狭い考え方の指導者をはじめ,イェルサレムの市民たちの差別意識があったわけです.

イェス・キリストは,そういう差別の中心地に向かって入って行こうとします.差別感情を全部消し去って,神の思いだけを受け入れて生きる新しい流れを作ろうとして,戦っていたのが,イェスさまです.

でも,三年間,イェスさまといっしょに関わりながらも,サマリアの人たちは,イェスさまの最後の決意を理解できませんでした.やっぱり,サマリアの人たちからすれば,何十年にもわたってユダヤ人から厳しく見くだされてきた思い出があり,それを忘れることができなかったわけです.イェスさまもユダヤ人の一員として生まれていますから,三年間はサマリアの人たちと仲良くなりましたけれど,またイェルサレムに行ってしまうということで,サマリアの人たちからすれば,「あのイェスさまでさえもユダヤ人のひとりにすぎなかったのか」と失望の気持ちが生じたわけです.

しかし,イェスさまは,民族にこだわりなく,ひとりひとりの人を助けようとして,まっすぐ進んでいるだけです.

イェルサレムには何があるのか?神さまの思いを受け継いで祈る神殿があります.その神殿の場で,イェスさまは,本当の祈り方を人々に示そうとする.そのために,わざわざそこに入っていくわけです.

人間の思惑による憎しみ合いの社会状況のなかで,そこに絡め取られることなく,神の方に向かって進み,しかも,差別意識を持つ人たちの感情をいさめて,回心させよう — そういう壮大な目標を持っていたのが,イェスさまです.そのために自分の身がどうなってもよい — 自身を捧げるつもりで,必死で旅をしています.

今日,この社会で,人々のいろいろな生き方を理解しない狭さを持つ人がおります.二千年前のユダヤ民族の単一の血筋だけを守ろうとする狭い人たちがいたのと同じ状況が,今日の社会でも続いております.

そういう苦しみの状況のなかで,それでも,今日の福音朗読箇所を読むことで,わたしたちは少し安心感を得ることができます.イェスさまだけは,人間的な思惑に絡め取られないで,神を信じて進む — そのような潔い態度を見せてくださっています.そして,狭いこころを待つ人々の気持ちを打ち砕いて,変えさせようとして,戦っています.

差別を越えて,人を受け入れて,いっしょに生きようとする — それこそが神のみむねである,という信念を以て進むのが,イェス・キリストです.

ミサは,イェス・キリストが今も生きておられて,わたしたちの心を理解して,そばにいてくださる,ということを,実感する場です.生きているイェス・キリストと旅をする歩みが,ミサの集まりです.

第一朗読と第二朗読も,真剣に生きる人々の姿が描かれています.本当のことを求めて生きようとする純粋さを持つ人は意味のある生活をしている,ということが伝わってきます.

福音朗読箇所に戻ると,イェスさまのまわりには,ついて行きたい,弟子になりたい,と名のりをあげて近づいてくる人々もたくさんいる,ということが描かれていますが,イェスさまは,ひとりひとりの状況を見て,ひとりひとりへの声のかけ方が違っています.ある人は,厳しくたしなめて,家に帰させるし,ある人には「従って来なさい」と勧めるし,各人の将来をよく眺めたうえで,別々の答えを出しています.イェスさまは,全員に対して一律に同じ答えを出すことはしない,という特徴があります.

よく,修道会や教区司祭は,若い人を誰でも呼び込んで,後継者にしようとすることがあります.人のことを考えず,組織を守って存続させるために,募集しようとします.人のこころの状況を無視して,「誰でも来なさい」と誘う — 自分たちの組織に入って仕事をしてほしいからです.そのように気軽に募集しておいて,しかし,当人が自分たちのやり方に合わないとなると,すぐに切り捨てる,追い出す — そういうことをやってしまうわけです.

しかし,イェスさまの場合は,そうではなかった.イェスさまは,相手を中心にして生きています.この人は厳しい生活に耐えられそうもないから,家に帰して,社会的な奉仕活動をとおして生きる方が,よりイェスさまのこころと一致できる — そう判断したなら,その人を家に帰させる.その場合,いくら当人がイェスさまの弟子になりたいと叫んでも,その人を戻す — それが,イェスさまのやりかたです.相手が厳しい修行に耐えきれるかどうかをよく理解した上で,無理をさせない,という優しさがあります.

このような聖書の場面を読むときに,わたしは反省させられます.修道会も教区も,若い人を誰でも募集して,入れ込もうとして,その若い人ひとりひとりの成長段階や適性を無視している場合があって,組織のために利用しようとする浅ましさがあるからです.

そう考えると,イェスさまの人に対する招き方は,人を主役にして,人を中心にして,その人の行く末をしっかり考えたうえで,言葉をかけている — そういう思いやり深さがにじみ出ています.

今日の福音朗読の箇所だけをそのまま読んでしまうと,「イェスさまは,せっかく来た人を追い返している.何て冷たいんだろう」とカン違いしがちですけれども,本当はそうではなくて,イェスさまは,その人の将来,行く末をよく思いめぐらしたうえで,言葉をかけているのであって,単に無理に相手を追い返そうとしているわけではありません.相手の立場に立って,相手の将来を理解して,見送るだけの思いやりが,イェスさまのこころの底には,隠されています.厳しい言葉を使うときのイェスさまの表面だけを見るのではなくて,そのこころの奥に隠されている親心 — 相手の将来をよく理解したうえで送り出そうとする親心 — に注目する必要があります.

聖書を読むと,イェス・キリストが結構,厳しい言葉で人に接する場面が数多く描かれていますが,イェスさまのこころの内を推測してみると,深い配慮に満ちた思いによって言葉がつむぎ出されているのが,見えてきます.

イェスさまは今日,皆さんひとりひとりのこころの奥を見てくださり,いっしょにいようとしてくださり,適切な言葉をかけようとしてくださっています.

ひとりひとりが主役であって,人生のなかで意味のある生活を続けている — それを,イェス・キリストだけはしっかり見てくださっている.

そのことを今日の福音朗読箇所から学びながら,イェス・キリストと引き続きいっしょに歩みたいという気持ちを,表明してまいりましょう.