阿部仲麻呂神父様の特別講演,LGBTQ+ みんなのミサ後,2019年6月30日
教皇フランシスコが説く三つのよろこび : gaudium, laetitia, exsultatio
皆さん,今日は集まってくださり,ありがとうございます.先ほど,御ミサもいっしょに捧げました.
今日は,今のカトリック教会の動きを紹介したいと思います.
皆さんにお配りした資料[A4 の紙一枚]は,四つに折ると,ひとつの小冊子になります.
まずこう折り,つぎにこう折ってください.「よろこびのひびき」と「聖性,聖なる生きかた」と書いてあるページが最初のページ,フランシスコ教皇のイラストが描いてあるページが最後のページです.四つに折った全体を開くと,裏面が「わたし(キリスト)のよろこびがあなたがたのうちにあるように!」と書いたページになります.
子どもたちに配ると,何も言わなくても,すぐに作ってくれるのですが,おとなに配ると,作り方がわからなくて,迷っている人が多い.おとなの方が感覚が鈍くなっているのかなと思います.修道者とか教区司祭に配ると,もっともたもたします.年齢を重ねたり,上の立場に立つにしたがって,単純なこともできなくなる,ということがわかります.
これは,もともと,ほかの講話のときに配った資料です.一枚の裏表で見ることができ,小さくたたんで持ち歩くことができ,紙の節約にもなります.あとは,塗り絵として,自分で色を塗って楽しむこともできます.
この資料は,キリスト教徒の立場で教皇フランシスコの気持ちを理解して生きるためのひとつのヒントになっています.
今年の11月にフランシスコ教皇が来日するといううニュースが流れていますが,まだ教皇庁から正式な発表は出ていないので,もう少し待つ必要があります.しかし,一応,準備委員会は立ち上がって,話し合いが始まっています.歴史上,教皇の訪日は38年ぶりになります.教皇フランシスコは266代目ですが,38年前は,264代目のヨハネパウロ II 世が日本に来ました.38年間という長い隔たりがありますが,教皇はもう一度,日本に来てくださるわけです.あとだいたい5ヶ月くらいです.
教皇フランシスコが何を思っているのかを理解すると,11月の行事の意味がもっとよくわかるだろうと思います.
わたしは,教皇フランシスコの行事に行くつもりはありません.彼が司式するおおがかりなミサに出るつもりもありません.というのは,キリストの方がだいじだからです.キリストを中心に考えます.
キリストを証しして生きるのが教皇です.彼は,キリストのメッセージを伝えるために日本に来ます.だいじなのは,キリストを理解して生きているひとりの指導者が日本に来る,ということです.キリストが主役です.キリストのメッセージを日本の社会全体に広く示す責任を感じて,彼は来ます.教皇フランシスコの来日の目的は,キリストを知らせること,キリストを人々に実感させることです.キリストを知って,学んで,受け継いで生きる — それを伝えるのが,教皇フランシスコの目的です.
わたしたちキリスト者も,彼を迎えるときに,彼の気持ちを理解して迎える必要があります.教皇フランシスコを主役にして騒ぎを盛り立てるだけでは,意味がありません.教皇は,82歳を超えた後期高齢者でありながら,体力の衰えをものともせず,日本に来てくれます.キリストを示したいがために日本に来るひとりの老人がいる — そのことの重大さの方が,意味があります.
キリストを中心にすること,教皇フランシスコが伝え,示そうとしているキリストを信じ,キリストに感謝すること — そのこと方が,教皇を特別な人として迎え,彼を主役にしてお祭り騒ぎをするよりは,もっとだいじである,と思っています.
さて,今日配ったプリントの,教皇フランシスコのイラストが書いてあるページを見てください.
彼が教皇になって,6 年たちます.この 6 年間,彼が言っていることは,三つのラテン語のキーワードに要約されます : gaudium, laetitia, exsultatio.
gaudium は,2013年の使徒的勧告 Evangelii Gaudium[福音の喜び],laetitia は,2016年の使徒的勧告 Amoris Laetitia[愛の喜び],exsultatio は,2018年の使徒的勧告 Gaudete et Exsultate[喜びなさい,おおいに喜びなさい]で用いられています.
いずれも,日本語では「よろこび」と訳されますが,教皇フランシスコのこころのなかでは,三つの「よろこび」は区別されています.
gaudium は,個人レベルのこころの安らぎ,安心感,おだやかさです.生きていてよかったという感覚です.キリストと出会った人が,「わたしは,受け入れてもらえた;わたしは存在してもいいんだ」と感ずる;「わたしが生きている」ということを全部,受けとめてもらえる,と感ずる — その感覚が gaudium です.
キリストと出会う人は皆,おちつきを取り戻す;そして,自分は意味のある存在であり,生きていてよいのだということを実感する — それは,福音書を読むと,よく出てくるメッセージです.病気を抱えている人や,差別を受けている人が,キリストから声をかけてもらい,肩に手を置いてもらい,励ましを受ける — そのような場面が,福音書のなかによくでてきます.そのときの安心感が,gaudium です.
キリストは,みづから近づいてきて,声をかけてくれ,肩に触れて,励ましてくれる.キリストは,ひとりひとりの名を呼んで,理解してくれ,そばにいてくれる.そのような善さを,キリストは持っています.そういうキリストと出会った人が感ずるのが,gaudium です.生きていて本当によかったという感覚です.
教皇フランシスコも,gaudium はキリスト者の生き方の土台になっている,と述べています.
ひとりひとりがキリストと出会って,gaudium を実感します.わたしたちは今,約二千年前に生きていたナザレのイェスという人に直接会うことはできませんが,聖書のメッセージを読んだり,こころのなかで思いをめぐらせたりすることで,キリストを感じ取ります.聖体拝領のときに,パンとなってわたしのなかに入ってきてくださるキリストを実感します.ミサは,聖書朗読と聖体拝領によってキリストと出会うひとときです.そのときの安心感を gaudium というラテン語は言います.キリストとかかわるよろこびは,キリスト者にしか味わえないよろこびです.
ふたつめのよろびは,laetitia です.それは,人間関係における相手とのキャッチボールのようなやりとりのよろこび,かかわりやコミュニケーションの楽しさやうれしさ,友情のよろこび,愛のよろこびなど,複数の人間がいっしょに生きるときにこころに感ずるうれしさのことです.gaudium — 安心感,自分が認められているという感覚 — を持っている人が,他者と出会い,かかわるときに感ずるこころの動きです.人間関係のよろこびです.
キリストと出会ったわたしたちひとりひとりが,今度は,出かけていって,ほかの人に会い,いっしょによろこびあい,気持ちをやりとりする;自分のよい思いを相手にわたし,相手からも感謝の気持ちを受け取る;そのように,気持ちをキャッチボールのようにやりとりし,つながりあう — 教皇フランシスコは,わたしたちにそうするよう勧めています.
三つめの喜びは,exsultatio です.人間関係が明るく整って,コミュニケーションが深まって行くと,生きている空間全体が意味を持ってきて,輝き始めます.本当に自分を理解してくれる友だちを見つけたときに,わたしたちは,こころが明るくなっていくのを感じます.人生に意味が出てきます.生きている空間全体が特別に思えてきます.親しい人といっしょに過ごしているとき,自然環境全体が非常に輝いて見えることがあります.
そのように,生活空間そのものの輝きと明るさのなかで,人間どうしの深いつながりにもとづいて,存在が意味を帯びてゆく状況 — それが,exsultatio です.それは,あらゆる生きものの調和の状態,全宇宙の明るい響き合いの状態です.この最終的なよろこびは,生活環境そのものが祝福されてよいものと感じられる状態のことです.
教皇フランシスコは,そういうメッセージを,環境問題に関する2015年の回勅 Laudato si’ のなかで述べています.
教皇は,12世紀の聖人,アシジのフランチェスコの歩みをまねようとしています.それで,教皇としての名も,その聖人にのっとって,フランシスコとしています.
12世紀の聖フランチェスコは,何をしたか?自然の緑あふれる土地を歩きながら,ロバや,馬や,あらゆる生きものを優しくなでながら,感謝しつつ旅をする生活です.彼にとっては,すべての生きものが神の前で尊い命です.彼は,歌を歌いながら,旅をします.歌と祈りと自然環境の生きものが一体化した状態での旅です.生きものを認めて,すべてを作った神に感謝する生活を,彼はおくっていました.
教皇フランシスコは,その12世紀の聖人をまねようとしています.あらゆる生きものといっしょに神を賛美すると,生きていることがそのままで祈りになり,その祈りは天に昇って行きます.そのような壮大な感覚があります.それが exsultatio です.
それは,宇宙万物の響き合いとかかわり合いのよろこびとうれしさであり,生きものがいきいきとスキップして,よろこんで踊っている状態です.
赤ちゃんや幼な子は,うれしいことがあると,ジャンプして踊りながら,手をパチパチ叩いて,躍動して,踊ります.赤ちゃんや幼な子が持っているすなおな態度,踊りながら,からだでよろこびを表現する姿 — それも,exsultatio につながってゆきます.
世のなかの生きものも,すなおに感情を表して,からだで表現して,踊ることがあります.ネコもイヌも,うれしいことがあると,シッポをふります.
からだでよろこびをすなおに表現すると,その震えは空気に伝わって,皆が幸せになります.
人間も,幼な子のような気持ちでよろこび踊りながら,すべての善さを受け入れて,感謝して,ほめたたえて,踊る — それが理想です.ところが,成長するにしたがって — ものの見方を整えて,頭だけで判断して行こうとするおとなの状態になるにしたがって — からだが動かなくなります.頭だけで判断して固まってしまい,よろこびをすなおにからだで表現することができなくなります.
世界中の司教や司祭たちのなかには,硬直した状態で厳しい顔をしている人が多い,と思います — わたしもそのひとりですが.緊張して,かしこまって,からだが固まって,動かない.人をすぐに助けない.動きのない直立状態で終わってしまう — そのような人が教会のリーダーになっている場合があります.それは,本来的な exsultatio からはほど遠い姿です.
誰でも,幼な子のようにならなければ,神の働きのなかに入れない — そう,イェス・キリストはよく説明しています.すなおにこころの思いをからだで表現して,踊りながら,まわりの人を楽しませるような,思い切った態度をとらないと,神の働きから遠ざかってしまいます.幼な子の持ってる喜びの表現 — 踊りながら,素直に感謝して過ごすという態度 — から学ぶ必要があります.
以上のように,教皇フランシスコは,よろこびを,三つのイメージ — gaudium, laetitia, exsultatio — で説明しています.
日本語ではすべて「喜び」と訳されますので,三つの意味あいの違いが薄まってしまいます.しかし,よいところもあります.すべて「喜び」と訳されることによって,三つは統一されます.「喜び」という言葉のなかに三つのレベルの意味が含まれ,一体化しています.「喜び」のひとことで全体を表しています.個人レベルのうれしさも,二人以上の人が出会って,気持ちをやりとりするときのよろこびも,宇宙的な〈生きものが踊りながらたたずんで過ごす〉態度も,全部,切り離せません.それらは連続していて,ひとつのこととして生じてくる.その全体を,からだで味わって生きる感覚が,「喜び」の一語にはあります.
たとえば,この祭壇の前に花が飾ってあります.その美しさがあります.そして,それを丁寧に活けて準備してくださった方々のまごころが込められています.人がもっている善い志と,花の美しさとが,そこに表現されています.この場で静かにたたずんで,こころをおだやかに保っている人がおり,個人個人のよろこびがあり,人を楽しませようと花を準備してくださった方のまごころがあり,花そのものの美しさがあります.それらがすべて調和しているのが,この聖堂の空間です.こういう場でいっしょに集まって祈ることは,教皇フランシスコが教えている三つのよろこびの意味を同時に味わうことになります.この祈りの場にたたずむだけでも,三つのよろこびを味わうことができます.
以上,gaudium, laetitia, exsultatio という三つのよろこびの動きを紹介しました.
単純に,よいことを認めあって生きることが,一番,キリスト者としての道になるのではないかと思います.
皆さん方も,ひとりひとり,よいものを持っています.各人,考え方や性格があります.さまざまな立場の人が集まっていることに,意味があります.
皆さんは,それぞれ,自分の生活の環境で穏やかに生きて行こうとし,真剣に歩んでいる.そして,キリストを知ることになって,キリストに興味を持って,キリストとこころの会話をしながら生きている.皆さん,個人レベルのよろこび (gaudium) を持っていると思います.
そういう人々が,このように月に一回集まるとき,同じ気持で生きている人がいるということを発見して,人間どうしのつながりができて,それが laetitia に発展します.
さらに,ここに飾られてある花の美しさ,ほかの生きものの美しさにも気がついて,それを味わうことができます.12世紀の聖人,アシジのフランチェスコがだいじにした感覚 (exsultatio) を,今も生きることができます.
日本には,あらゆる生きもののつながりをだいじにしながら,旅をして,景色を眺めながら,喜ぶ感覚があります.12世紀のアシジのフランチェスコの態度は,日本人が千年以上保ってきた喜び — 自然環境のなかで自然と一体化して生きる喜び — と,共通性があります.
第二次世界大戦中の日本で,アシジのフランチェスコの伝記が翻訳され,彼に関する解説書がたくさん出回ったことがありました.自然環境のなかで感謝し,生きものの命の響き合い楽しむフランチェスコの exsultatio を,日本人は,敏感に感じ取って,彼を尊敬して,勉強し始めた時期あったのです.
今から70年ほど前の日本で,洗礼を受けた人々のうち,特に知識人は,フランチェスコという洗礼名をつけてもらう人が多かった時期がありました.ものごとを分析して,切り離すのとは逆に,いっしょにつなげて楽しむという態度に興味を示す人々が知識人のなかに増えた時期がありました.競争して,人を蹴落として,自分だけ生き残ろうとすることの愚かさへの反省から,協力して,生きものといっしょに楽しむというフランチェスコのイメージが,憧れとして受け入れられていたのです.そのような生き方の象徴として,アシジのフランチェスコが尊敬されていたのです.
教皇フランシスコは,その12世紀の聖人のイメージを,自分の立場として表明しています.教皇は,若いころ,日本に宣教師として渡り,日本の生活のなかで人々と出会いたいという夢を持っていましたが,肺結核を患って,片方の肺を摘出したこともあり,健康があまりすぐれなかったので,日本に宣教に来ることができませんでした.彼は,一回,挫折しているわけです.
若いころに来日の夢を持ちながら,実現できなくて挫折したこの人物が,日本にやってきます.教皇フランシスコにとっては,尊敬する日本の文化や考え方のなかに入り込んで,人々と出会いたい,かかわりたい,という夢を,80歳を過ぎてから,ようやくかなえることになるわけです.彼は,かつて一度だけ訪日していますが,そのときはまだ教皇ではありませんでした.
教会組織全体は,二千年も続いているので,ガタがきて,おかしくなってるところも,歪んでいるところもあります.そのなかで,もう一度やり直して,しっかり人を受け入れて,理解しようとするリーダーがここにいます.教皇フランシスコという人物の歩みも,わたしたちにとって励ましになります.