James Tissot (1836-1902)
With Passorver Approaching, Jesus Goes Up to Jerusalem (1886-1894)
Brooklyn Museum
阿部仲麻呂神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年6月30日
第一朗読:列王記上 19, 16b. 19-21
第二朗読:ガラテヤ書簡 5, 1. 13-18
福音朗読:ルカ 9,51-62
今日[の福音朗読箇所]は,イェス・キリストが,決意して,イェルサレムの都に向かう場面です.
イェルサレムに行くということは,十字架につけられるということです.
イェスさまは,三年間,必死に,出会う人々を助けながら,旅をしました.その総まとめとして,神のわざを実現するために,都のイェルサレムに入ろうとします.
ところが,サマリアの人々は,「純粋な」ユダヤ人ではなく,いろいろな民族の人々が結婚して生まれた子どもの子孫ですので,民族のさまざまな状況を抱え込んで生きています.サマリアの人々は真剣に生きているのに,ユダヤの血だけを持つ人々から差別されていました.彼れらは,生活の状況や仕事の都合で,さまざまな民族の協力関係のなかで生まれた子どもたちの子孫ですが,「サマリア人」と呼ばれて,差別を受けていたわけです.
そのように差別を受けて苦しんでいる人たちからすると,イェスさまがユダヤ人だけしかいないイェルサレムの都に入るということは,裏切り行為に見えたわけです.強い立場に立つ人々のもとに出向くイェス・キリストを見たときに,サマリアの人たちは反対します.それまではイェス・キリストを歓迎していた人々ですが,しかし,あのイェルサレムにだけは行ってほしくないという気持ちを持ってました.
ところが,イェスさまは,それでも,まっすぐイェルサレムに入ろうとします.でも,反発にあいますので,別の村に入って,そこに泊まってから,イェルサレム入りを準備する — そういう動きになっています.
このように,今日の福音朗読の箇所では,一方には,神の思いを生きようとするイェス・キリスト — まっすぐに進む彼の姿 — があり,他方には,彼を迎える人たち — 彼れらは,自分たちの都合で考えてしまい,自分たちの状況しか見ない — がいて,両者は対立している,ということが描かれています.
人間が抱える問題,それは,自分を基準にして見てしまうので,他の人を理解しないという狭さです.ユダヤの人々がそうでした — 自民族だけを守ろうとして,他民族を理解しない.多くの民族の人たちの間の新しい結婚生活を祝福しないユダヤの狭い考え方の指導者をはじめ,イェルサレムの市民たちの差別意識があったわけです.
イェス・キリストは,そういう差別の中心地に向かって入って行こうとします.差別感情を全部消し去って,神の思いだけを受け入れて生きる新しい流れを作ろうとして,戦っていたのが,イェスさまです.
でも,三年間,イェスさまといっしょに関わりながらも,サマリアの人たちは,イェスさまの最後の決意を理解できませんでした.やっぱり,サマリアの人たちからすれば,何十年にもわたってユダヤ人から厳しく見くだされてきた思い出があり,それを忘れることができなかったわけです.イェスさまもユダヤ人の一員として生まれていますから,三年間はサマリアの人たちと仲良くなりましたけれど,またイェルサレムに行ってしまうということで,サマリアの人たちからすれば,「あのイェスさまでさえもユダヤ人のひとりにすぎなかったのか」と失望の気持ちが生じたわけです.
しかし,イェスさまは,民族にこだわりなく,ひとりひとりの人を助けようとして,まっすぐ進んでいるだけです.
イェルサレムには何があるのか?神さまの思いを受け継いで祈る神殿があります.その神殿の場で,イェスさまは,本当の祈り方を人々に示そうとする.そのために,わざわざそこに入っていくわけです.
人間の思惑による憎しみ合いの社会状況のなかで,そこに絡め取られることなく,神の方に向かって進み,しかも,差別意識を持つ人たちの感情をいさめて,回心させよう — そういう壮大な目標を持っていたのが,イェスさまです.そのために自分の身がどうなってもよい — 自身を捧げるつもりで,必死で旅をしています.
今日,この社会で,人々のいろいろな生き方を理解しない狭さを持つ人がおります.二千年前のユダヤ民族の単一の血筋だけを守ろうとする狭い人たちがいたのと同じ状況が,今日の社会でも続いております.
そういう苦しみの状況のなかで,それでも,今日の福音朗読箇所を読むことで,わたしたちは少し安心感を得ることができます.イェスさまだけは,人間的な思惑に絡め取られないで,神を信じて進む — そのような潔い態度を見せてくださっています.そして,狭いこころを待つ人々の気持ちを打ち砕いて,変えさせようとして,戦っています.
差別を越えて,人を受け入れて,いっしょに生きようとする — それこそが神のみむねである,という信念を以て進むのが,イェス・キリストです.
ミサは,イェス・キリストが今も生きておられて,わたしたちの心を理解して,そばにいてくださる,ということを,実感する場です.生きているイェス・キリストと旅をする歩みが,ミサの集まりです.
第一朗読と第二朗読も,真剣に生きる人々の姿が描かれています.本当のことを求めて生きようとする純粋さを持つ人は意味のある生活をしている,ということが伝わってきます.
福音朗読箇所に戻ると,イェスさまのまわりには,ついて行きたい,弟子になりたい,と名のりをあげて近づいてくる人々もたくさんいる,ということが描かれていますが,イェスさまは,ひとりひとりの状況を見て,ひとりひとりへの声のかけ方が違っています.ある人は,厳しくたしなめて,家に帰させるし,ある人には「従って来なさい」と勧めるし,各人の将来をよく眺めたうえで,別々の答えを出しています.イェスさまは,全員に対して一律に同じ答えを出すことはしない,という特徴があります.
よく,修道会や教区司祭は,若い人を誰でも呼び込んで,後継者にしようとすることがあります.人のことを考えず,組織を守って存続させるために,募集しようとします.人のこころの状況を無視して,「誰でも来なさい」と誘う — 自分たちの組織に入って仕事をしてほしいからです.そのように気軽に募集しておいて,しかし,当人が自分たちのやり方に合わないとなると,すぐに切り捨てる,追い出す — そういうことをやってしまうわけです.
しかし,イェスさまの場合は,そうではなかった.イェスさまは,相手を中心にして生きています.この人は厳しい生活に耐えられそうもないから,家に帰して,社会的な奉仕活動をとおして生きる方が,よりイェスさまのこころと一致できる — そう判断したなら,その人を家に帰させる.その場合,いくら当人がイェスさまの弟子になりたいと叫んでも,その人を戻す — それが,イェスさまのやりかたです.相手が厳しい修行に耐えきれるかどうかをよく理解した上で,無理をさせない,という優しさがあります.
このような聖書の場面を読むときに,わたしは反省させられます.修道会も教区も,若い人を誰でも募集して,入れ込もうとして,その若い人ひとりひとりの成長段階や適性を無視している場合があって,組織のために利用しようとする浅ましさがあるからです.
そう考えると,イェスさまの人に対する招き方は,人を主役にして,人を中心にして,その人の行く末をしっかり考えたうえで,言葉をかけている — そういう思いやり深さがにじみ出ています.
今日の福音朗読の箇所だけをそのまま読んでしまうと,「イェスさまは,せっかく来た人を追い返している.何て冷たいんだろう」とカン違いしがちですけれども,本当はそうではなくて,イェスさまは,その人の将来,行く末をよく思いめぐらしたうえで,言葉をかけているのであって,単に無理に相手を追い返そうとしているわけではありません.相手の立場に立って,相手の将来を理解して,見送るだけの思いやりが,イェスさまのこころの底には,隠されています.厳しい言葉を使うときのイェスさまの表面だけを見るのではなくて,そのこころの奥に隠されている親心 — 相手の将来をよく理解したうえで送り出そうとする親心 — に注目する必要があります.
聖書を読むと,イェス・キリストが結構,厳しい言葉で人に接する場面が数多く描かれていますが,イェスさまのこころの内を推測してみると,深い配慮に満ちた思いによって言葉がつむぎ出されているのが,見えてきます.
イェスさまは今日,皆さんひとりひとりのこころの奥を見てくださり,いっしょにいようとしてくださり,適切な言葉をかけようとしてくださっています.
ひとりひとりが主役であって,人生のなかで意味のある生活を続けている — それを,イェス・キリストだけはしっかり見てくださっている.
そのことを今日の福音朗読箇所から学びながら,イェス・キリストと引き続きいっしょに歩みたいという気持ちを,表明してまいりましょう.