2019年9月12日木曜日

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年08月25日


Fra Angelico (1395-1455) : il Giudizio Universale (1431 circa)
nel Museo nazionale di San Marco a Firenze

鈴木伸国神父様の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年8月25日(年間第21主日,C年)


第一朗読:イザヤ 66: 18-21
第二朗読:ヘブライ書簡 12: 05-07, 11-13
福音朗読:ルカ 13: 22-30

そのとき,イェスは,町や村を巡って教えながら,イェルサレムへ向かって進んでおられた.すると,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた.イェスは,一同に言われた:「狭い戸口から入るように努めなさい.言っておくが,入ろうとしても入れない人が多いのだ.家の主人が立ち上がって,戸を閉めてしまってからでは,あなたがたが外に立って,戸を叩き,『御主人さま,開けてください』と言っても,『おまえたちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである.そのとき,あなたがたは,『御一緒に食べたり飲んだりしましたし,また,わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言い出すだろう.しかし,主人は,『おまえたちがどこの者か,知らない.不義を行う者ども,皆,わたしかた立ち去れ』と言うだろう.あなたがたは,アブラハム,イサーク,ヤーコブや,すべての預言者たちが神の国に入っているのに,自分は外に投げ出されることになり,そこで泣きわめいて歯ぎしりする.そして,人々は,東から西から,また,南から北から来て,神の国で宴会の席に着く.そこでは,後の人で先になる者があり,先の人で後になる者もある.(Lk 13: 22-30)


ミサに初めて与るときには,まわりの動作に合わせようとしたり,会衆側からの応唱についていこうとしたりして,緊張することがあります.熱心な信者さんは,司祭の唱える祈りに心を合わせようと意識を集中しようとつとめる方もいます.ですが,わたしのひとつの薦めは,周りにいる人たちのことは気にせず,「は~ぁ,この一週間,一ヶ月間,疲れた」と思いながら,ゆっくりと頭を空にして与ることです.「天のいと高きところには神に栄光」という歌も,何も考えずに,教会のきれいな天井を見上げながら,大きな声で歌っていると,だんだん日々のめんどうくさいことも忘れていって,元気になったりします.そして,司祭の説教を聴くころになると,何か良い話を聴けるかもしれないという気分になってくることもあります.そうすると,話を頑張って聴こうとするより,話しが自然にこころに吸い込まれていったりもします.

今日の福音で,「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」(Lk 13.23) と,ある人がイェスにきいています.「救われる者は少ないのでしょうか?」— つまり,少しの人しか救われないのではないかと懸念しているのでしょう.

この「救われる」という言葉は,あとに出でくる宴会場の「門が閉まる」(13.25) という話しと重ね合わせると,「天国に入れるかどうか」という懸念とつながっているような気がします.

さて,わたしたちは天国に入れるんでしょうか?そこに招かれる人は多いんでしょうか?あるいは,多くの人は閉め出されてしまうのでしょうか?

少し祈ってみたのですが,まずはじめに現れたのは,まるで親しい仲間から閉め出されたときに感じるような怯えと孤独感でした.もしかしたら,小学校や中学校のときにそんな経験があったのかもしれません.また,今もそれと気づかずに感じているのかもしれません.しかし,祈っているうちに,何か違う感じがしてきました.「それは,神様がわたしに示してくださろうとしているものではない」という感じかもしれません.

入れるかどうか,もしかしたら閉め出されるかもしれない,という不安 — たしかに,それは,「お前たちがどこの者か知らない」(13.25, 27), 「外に投げ出される」(13.28) などの言葉が指示するところではありますが — は,今日の福音の中心的なメッセージではない気がします.祈りながらテキストを読み返している間に,「救われる者は少ないのでしょうか?」という問いに対してイエスは直接(「少ないよ」とか「たくさん救われるよ」とは)答えてはいないことに気づきました.結局,こう感じられてきました :「救われるのかどうか」と問うこと自体に何か心のボタンの掛け違いのようなものがある.その気づきの瞬間から,祈りが心に流れ込んできた気がします.

「主よ,救われる者は少ないのでしょうか?」— こう質問する人は,もしかしたら,救われることを望もうか,望むまいか,迷ってる人のように思えてきました.「天国にはたくさんの人は入れない,もしかしたら,わたしも入れない — だとしたら,違うことを考えた方がいい.もしそうだとすれば,本当は天国に入りたいにしても,結局入れないなら,違うことを考えた方がいい.天国のことは心から締め出して,世の中で成功し,楽しいことに身を浸すことにこころを向けたほうが得ではないか」.そんなこころの動きが,この問いの裏にはあるのかもしれません.

わたしたちが天国に入れるとすれば,それはどんなときでしょうね?わたしたちが天国に入れないとしたら,それはどんなときでしょうか?これは,わたしたちがこころに浮かべるべき質問ではない気がします.わたしたちが「入る」と思っても,天国というのは相手(神様)のいる話ですから,わたしが「入ります」と言っても,「いいや,残念でした」と言われてしまったら,それっきりということになるかもしれません.

しかし,逆に考えれば,相手がいるということは救いだ,とも思えます.誰かが,悪い人ではなくて,普段の生活のときから「人をだますのはいやだなあ」とか「人を蹴落とすのはやめておこう」と思っていて,「優しい神様といっしょに住むのは気持ちがいいだろうなあ」と思っていて,心のなかにこの優しい思いの場所が増えてゆけば,天の国の門は,場合によって,たとえ閉まりかけているようなことがあっても,その門の隙間はその人の目の前で,ゆっくりゆっくり,少しづつ少しづつ,もう一度開いて行くような情景がこころに浮かびます.

ところで,わたしは,土曜日から今朝にかけて,帰省していたんですが,家には今年高校 3 年生になる姪と甥がいました.二人は大学受験をすると聞いていましたので,甥に,学校見学をしてきたかと問うと,彼は,高校の先生に,「学校見学用に準備してある日は,客寄せのようなもので,実際の学校生活とは違うから,あまり役に立たない」という旨のことを言われたそうで,「行っていない」との返事でした.わたしは,行って見るように勧めました.とりあえず行ってみて,「ああ,いいなあ,ここに来てみたいなあ」と思えれば,勉強がはかどるからと.「ああ,ここに来たいなあ」と思うと,心はまっすぐ勉強に向かいます.逆に,「受かるかなあ,受からないかなあ,どうかなあ,不安だなあ」と心配していては,心が勉強に向かい難いからです.

わたしたちは,望むものを前にしたとき,そして,そうしたときにこそ,不安を意識するものです.本当に手に入れたいものにチャレンジするとき,心はそれを失うときの不安をも予期するものです.「この人は,わたしのことを受け入れてくれるかなあ,わたしのことを話したら,今までどおりに接してくれるかなあ... もしかしたら,心を閉ざしてしまうかもしれないなあ...」.そう思えば,思えば思うほど,たとえ本当にはその人の心の扉が閉ざされていなくても,自分の方の見え方のなかで,扉の隙間は狭くなっていってしまいます.でも,そこでその狭い扉に身を入れてみれば,気づくかもしれません :「ああ,こんなに広かったんだ,この門は!」と.

「救われる者は少ないのでしょうか?受け入れてもらえる人は少ないと思いますか?」— そう質問していると,天国の門は,自然に,どんどん閉まって行く,どんどん遠くなって行く... そのような気がします.

こころの扉が少しづつ狭くなってゆくとしたら,たしかに,天の門の隙間は狭くなってゆくでしょう.そして,自分の目には閉ざされてしまっているように見える扉の前で,道の上で,泣きわめいて,歯ぎしりをすることになったら,つらいことです.わたしたちの心が自然に神様と人に向かって開かれて行くように願って,毎日,過ごすことができますように.

帝国の逆襲 —「キリスト教 性教育 研究会」について(Twitter account @glory_of_church を行っているのは誰か?)



「キリスト教 性教育 研究会」について(Twitter account @glory_of_church を行っているのは誰か?)


2019年09月11日付の キリスト新聞 に「性教育研究会で井川昭弘氏が警鐘,『多様性』言説の『イデオロギー化』」という見出しの記事が掲載されています.それによると,先月15日,福音派の牧師,水谷潔 氏が主宰する「キリスト教 性教育 研究会」の会合が都内で開かれ,八戸学院大学 準教授,カトリック塩町教会 信徒,井川昭弘 (Facebook account) 氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演を行い,ほかに,日本ホーリネス教団の牧師,上中光枝 氏,もっぱら児童と若者を対象とする国際的な宣教組織 OneHope日本支部長,宇賀飛翔 氏,福音派クリスチャンで psychologist である James Dobson 氏が創立した原理主義的クリスチャン組織 Focus on the Family の日本における関連団体 Family Forum Japan の前代表,宣教師,Timothy Cole 氏が発表を行いました.
 
マイクロフォンを手に持ち,発言しているのが 井川昭弘 氏

記事は,井川昭弘氏の講演の趣旨を,次のように紹介しています:
今,「多様化」を唱道する言説を動機づけているのは,価値の相対化,過度の個人尊重,普遍的な「主義」や「大義」の否定の動向である.sexual orientation[性的指向]や gender identity[性同一性]は個人が自由に選択し得るものであるとする主張は,まちがっている.自己決定権があるとしても,それは,「客観的な道徳規範」である「自然法」(lex naturalis) に従わねばならない.男女の性別は生物学的な事実であり,gender role[男女それぞれの社会的な役割]の相違は,歴史的,人間学的に一定の合理性を持つ事実である.個人に対する配慮に満ちた対応や支援は必要だが,イデオロギーや政治運動と化した動きに対しては,賢明な対応が必要である.現在,日本のカトリック教会のなかでは,わたし(井川昭弘氏)のような立場は少数派であるが,わたしの主張は,本来のカトリック教会の考えである.

いやはや,井川昭弘氏の主張は,わたし(ルカ小笠原晋也)が「形而上学的偶像崇拝」と名づけて批判しているカトリック保守派の主張そのものです — 形而上学的偶像崇拝とは,ルカ福音書 15:11-32 で描かれているような愛にあふれる慈しみ深い父である神ではなく,Pascal が言うところの「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) を崇拝することに存します.保守派が崇拝する形而上学的偶像は,より具体的に指摘するなら,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) です.それらは,我々に対して,神の愛を完全に覆い隠してしまい,かつ,悪しき clericalism[聖職者中心主義]を条件づけています.「自然法」と「教会の教導権」の名において,カトリック保守派は,「わたしは真理を言っている」ということを保証してくれるものとして,神を利用し,それによって,自分たちを正当化し,権威づけています.

井川昭弘氏は「イデオロギー」という表現を使っていますが,彼の形而上学的偶像崇拝こそ,ひとつのイデオロギーです.そして,社会のなかで差別の対象となってきた人々が人間存在の尊厳の尊重を求めて立ち上がるとき,それは,人権擁護運動として,必然的に政治的にならざるを得ません.にもかかわらず,LGBTQ+ の「政治運動」はいけないと主張するなら,それは,差別を擁護することにしかなりません.

八戸学院大学のホームページ および researchmap に掲載されている 井川昭弘氏の経歴 によると,彼は,愛知県出身,1993年に南山大学法学部を卒業,1996年に九州大学法学部で修士号を取得,2003年に九州大学大学院法学科を満期退学,2014年に上智大学大学院哲学科を満期退学しています.専門分野は「カトリック社会倫理学,キリスト教哲学」であり,研究テーマは「現代のカトリック社会倫理学,自然法論」と記されています.2019年に八戸学院大学健康医療学部人間健康学科准教授となるまでは,さまざまな非常勤の教職ポストに就いていました.そのなかには,2011年から2019年までの日本カトリック神学院非常勤講師の職も含まれています.

彼の経歴を見ていると,ある人物の姿が思い浮かんできます —「姿」と言っても,実際に見たことがあるわけではありませんが.カトリック関係のテーマで Twitter をしている方々なら,見かけたことがあるでしょう :「教会の栄光」@glory_of_church の名称のもとに,homophobic な言説と,Papa Francesco を「異端」呼ばわりする言説を垂れ流しているあの Twitter account です.

勿論,その人物の正体が井川昭弘氏である,と断定することを可能にする直接的な証拠は何もありません.しかし,記事によると,井川昭弘氏は「カトリック教会のなかでは,わたしのような立場は少数派であるが,わたしの考えこそ,本来のカトリックの考え方である」と言っています.彼がこの言葉を発したとき,彼の念頭にあったのは,LGBTQ+ のことよりは,むしろ,Papa Francesco のことであったはずです.なぜなら,日本でも世界でも,LGBTQ+ の人権擁護を積極的に主張しているカトリック信者はまだまだ少数派であって,多数派は,その問題に無関心であるか,または,LGBTQ+ はカトリック道徳に反している,と考えているからです.それに対して,「Papa Francesco は異端であり,我々こそが正統だ」と主張する超保守的なカトリック信者たちは,日本でも世界でも少数派です.そして,それこそが まさに @glory_of_church の中心的な主張です.

また,そもそも,以前にも紹介したとおり,実は,Papa Francesco は,「民法上の同性婚」を「秘跡としての結婚」とは認めない立場にあることを明確に表明しており,社会学の領域の gender studies を「神は人間を男と女に創造した」ことを否定する "gender ideology" として批判してもいます.そのことは,当時,世界中のメディアで広く報道されており,井川昭弘氏の目に触れなかったはずはありません.つまり,井川昭弘氏は,「わたしのような立場は少数派であるが,わたしの主張は,本来のカトリック教会の考えである」などとは言わずに,堂々と,「わたしの主張は Papa Francesco の教えとも一致している」と言えばよかったのです.その方が,少なくとも日本では,より説得力があるでしょう.ところが,彼はそうはしなかった.ということは,彼が自身を「少数派」と言うとき,それは,sexuality や gender の問題に関する少数派のことではあり得ず,しかして,Papa Francesco を異端呼ばわりすることにおける少数派のことにほかならない,と我々は推理し得るでしょう.

ともあれ,現時点では,せいぜい,井川昭弘氏の profile は @glory_of_church の人物像に極めてよく合致している,と指摘することしかできません.しかし,日本に,あの程度にカトリック神学と教会法に精通しており,かつ,あのように LGBTQ+ と Papa Francesco に対する憎悪に満ちた発言を執拗に続けることのできる人物は,極々 少数に限られます.@glory_of_church の正体に関して,日本のカトリック神学界の内情に詳しい方の御意見をお聞かせいただければ幸いです.また,ほかの「容疑者」の名前が思い浮かんでくる方は,是非,お教えください.

というのも,少なからぬ数の LGBTQ+ の人々が @glory_of_church の憎悪発言に傷つけられてきたからです.@glory_of_church の卑怯な匿名 Twitter 活動をこのまま放置するわけには行きません.また,もし,Papa Francesco を異端と見なす人物が,非常勤とはいえ,カトリックの神学校で教え,また,カトリック神学の学会で臆面もなく発言している(多分,本音を隠して)のだとすれば,看過すべからざる問題でしょう.少なくとも,彼が Papa Francesco を異端視し,かつ,LGBTQ+ の人々を「地獄へ行け」と呪っている,という事実は,衆知のものとなるべきでしょう.

他方,「キリスト教 性教育 研究会」を主宰する 水谷潔 氏の homosexuality に関する主張は,彼のホームページ に記されています.要するに,homosexual である人々は教会に受け入れるが,同性どうしの性行為は断罪する — つまり,「わたしがあなたたちを受容するとしても,それは,あなたたちが性行為を慎む限りにおいてのみであり,全面的に受け入れるわけではない」— ということです.カトリック司祭になろうとしているわけでもない homosexual の人々に対して,はなはだ非人間的な態度です.水谷潔氏の場合,それを聖書と善意の名においてしていますから,ますます処置無しです.

ともあれ,きな臭さに敏感な少数のジャーナリストたちの仕事によって「日本会議」の正体が暴かれてきたのと同様に,この「キリスト新聞」の記事は,日本において LGBTQ+ に対して逆襲してこようとしている胡散臭い「帝国」の正体の一端を垣間見せてくれています.その意味において,この記事は,一見,単なる事実報道の体裁しかとっていませんが,貴重なものです.「キリスト新聞」に感謝したいと思います.

ところで,水谷潔氏の意見は,基本的に,『カトリック教会のカテキズム』が homosexuality に関して述べていることと一致しています.カトリック教会は,その教義が包含する形而上学的偶像崇拝を速やかに一掃する必要があります.Papa Francesco が試みているのは,まさにそのことです.そして,それがゆえに,彼に対する保守派の反発も熾烈を極めています.反フランチェスコ派の筆頭は,周知のように,前教理省長官,Gerhart Müller 枢機卿です.彼は,2017年,Papa Francesco によって,教理省長官の職から事実上,解任されています.

19世紀以来,我々はニヒリズムの時代を生きています.ニヒリズムに対する有効な対抗手段として,名誉教皇 Benedictus XVI は『カトリック教会のカテキズム』のなかにスコラ的な「自然法」を持ち込みました.一見すると,自然法は,ニヒリスティックな価値崩壊に対抗し得る唯一の確固たる支柱であるように見えます.しかし,違います.そのような形而上学的偶像崇拝は,能動的なニヒリズムの一型にすぎません.

ニヒリズムの克服を可能にするのは,神の愛だけです.Papa Francesco が試みているのは,カトリック教会を,自然法によってではなく,神の愛によって基礎づけることです.わたしたちも,Papa Francesco の試みに協力しましょう.

May the Force be with you !
神の愛がいつも皆さんとともにありますように!

ルカ小笠原晋也

2019年11月18日 追記 : Twitter account @glory_of_church の homophobic な tweet の幾つかを Twitter 社へ通報していたところ,2019年11月10日,@glory_of_church は Twitter Rules に違反している と認定されました.それによって,@glory_of_church の活動がすぐさま停止されるわけではありませんが,違反 tweet は削除ないし非表示となったはずです.今後も Twitter Rules 違反を繰り返すなら,@glory_of_church の account は全面的に停止されることになるでしょう.
 

2019年12月11日追記:その後,Twitter 社は,Twitter Rules にもとづいて,@glory_of_church の tweet を幾つか削除した後,その活動再開を許可しました.今のところ,@glory_of_church 自身も,以前に比べれば 活動を かなり自粛しているようです.彼が Twitter Rules に再び違反することのないよう,祈りましょう.

2019年9月4日水曜日

Father Bryan Massingale : 偶像崇拝に立ち向かうこと

John Singer Sargent (1856-1925)
Moloch (1895)
from the Triumph of Religion (1895-1919), murals at the Boston Public Library


今年(2019年)は,さまざまな歴史的できごとが50周年を記念しています.LGBTQ+ community にかかわるものとしては,1969年06月28日に始まった Stonewall 反乱が筆頭に挙げられます.そして,LGBTQ+ カトリック信者たちにとって意義深いこととしては,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 Dignity の創立が挙げられます.

Dignity は,Stonewall 反乱に触発されて,かつ,1965年12月に司牧憲章 Gaudium et spes の発表を以て閉会した第二 Vatican 公会議の精神 — 現代社会に開かれた教会の精神 — において,Patrick Nidorf 神父(1932年生,聖アウグスチノ修道会司祭,1973年に聖職から離れ,心理療法家となった)の指導のもとに,Los Angeles 大司教区内で創立されました.現在,その活動は,DignityUSA および Dignity Canada の名称のもとに,全米とカナダに広がっています.

その DignityUSA が主催して,今年の06月30日から07月04日まで,Chicago で,Global Network of Rainbow Catholics の大会が行われました.その最終日に,「LGBT+ の正義のわざを行うための神学的任務」の表題のもとに,三人の神学者が参加するパネル・ディスカッションが行われました.そこで,関係者にとっては大変な驚きがありました.その驚きをもたらしたのは,三人うちのひとり,Bryan Massingale 神父です.

Bryan Massingale 神父は,STD (Sacrae Theologiae Doctor) の学位(教皇庁立大学の神学博士の学位)を有する道徳神学の専門家で,現在,NYC にあるイェズス会系の大学 Fordham University の神学教授です(つまり,神学者として高名であり,かつ,高く評価されている人です).その人が,何と,彼のスピーチの冒頭で,gay であることを come out したのです!彼は,こう話し始めました:「わたしは,この対話に,黒人であり,gay である司祭かつ神学者としてやってきました」.その場がどれほどの驚きと感激に湧いたか,詳しく伝えられてはいませんが,想像に難くありません.

ともあれ,Bryan Massingale 教授は,「LGBTI 司牧任務のために偶像崇拝に立ち向かうこと」(The Challenge of Idolatry for LGBTI Ministry) という表題のもとに講演を行いました.

彼が「偶像崇拝」という語を用いたことに,わたしは注目します.わたしも,カトリック教会にとって最大の課題は,偶像崇拝を克服することだ,と考えるからです.では,今,カトリック教会のなかで崇拝されている「金の仔牛」は何なのか?それは,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) である,とわたしは思います.両者を合わせて,カトリック教会における「形而上学的偶像崇拝」(metaphysical idolatry) と呼びたいと思います.Blaise Pascal (1623-1662) は,カトリック教会で崇拝されている形而上学的偶像を「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼びました... が,話が長くなりますから,今は立ち入らないでおきましょう.Bryan Massingale 教授の話を聞きましょう.

彼は指摘します : LGBTQ+ カトリック信者が立ち向かう主要問題は,性倫理 (sexual ethics) の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.

彼は,1982年,神学生時代に初めて参加した Ignatian retreat における経験について,こう語っています:
祈りのために与えられた聖書の箇所のひとつは,創世記の最初の創造の物語だった.わたしは,祈りのなかで,自身を,神が 6 日間で万物を創造する過程を眺める観察者として思い描いた.わたしは,神が創造したものを見た.それは,すばらしかった.ただし,わたしは気がついた:創造が完了したとき,そこにはひとりの黒人もいなかった.ひとりの gay もいなかった.神の似姿に作られた者たちすべてを見たとき,わたしのような者[黒人である者,gay である者]は,ひとりもいなかった.そのことは,わたしに深い動揺を与えた.わたしの精神は苦痛を覚えた.わたしは打ちのめされた.長年にわたって「人間は皆,神の似姿に創造された」と教えられてきたのに,わたしは,わたしのなかの深いところで,そのことを信じてはいなかったのだ.わたしの祈りは,わたしが「神の似姿」として黒人も gay も思い浮かべることができない,ということを暴いてしまったのだから.
わたしは,そのことを retreat director に告げた.彼女は,賢明にも,聖書のほかの箇所をわたしに与えた.神の愛について語られている箇所だった.しかし,わたしは,祈ることができなかった.わたしは,神の愛について何も聞きたくなかった.わたしは怒っていた.わたしは,神がわたしを黒人に創造したこと,gay に創造したことに,怒っていた.
ある晩,わたしは,夜中に目がさめて,怒りと悲しみを覚えて,枕を叩きながら,神に向かって幾度もこう言った :「なぜあなたは,わたしにこのようなことをしたのですか?あなたにそのようなことを頼んだおぼえはありません.いったい,あなたはどのような神なのですか?なぜあなたは,わたしを,このようにひどい痛みと傷と拒絶を被らねばならないように,創造したのですか?」わたしは,叫び,わめき,泣いた.怒りと悲しみに,からだが震えた.
そのように叫び,悲しみ,わめいた後,わたしの傷と怒りと不安と苦痛がすべて尽きた後,初めて,神は,わたしの魂の裂け目をとおって入って来た.神のことばが聞こえた :「わたしの目に,おまえは価値あるものだ.わたしは,おまえを愛している」(Isaiah 43,04). わたしは,また泣いた.喜びに泣き叫んだ.言葉にならない喜びだった.それから,わたしは,創世記 2 章で語られている創造の物語 — 神が土から人間を創造する物語 — を祈った.わたしは,自身を,神により創造される源初の人間として見た.そして,神がわたしに命を — 神の命を — 吹き込んでくれるのを,感じた.わたしは,やっと,本当に,神による創造の一部になることができた.

以上のようななまなましい証しに続いて,Bryan Massingale 神父は論じます:我々が立ち向かう問題は,カトリック教会の性倫理の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.我々は,神について,誤ったイメージを与えられてきた.それは,白人であり,heterosexual である神のイメージである.それは,差別と不正義を正当化するために人間が作り上げた偶像にすぎない.しかし,我々は,そのような偶像を,神として崇拝させられてきた.その偶像神は,いけにえを要求する神であり,命を奪う神である.その神の名において,人々は,喜々として,黒人に対しても,LGBTQ+ に対しても,暴力をふるっている.そのような偶像崇拝に,我々は立ち向かう.

では,我々はどうすればよいのか?と Bryan Massingale 教授は問います.彼は,三つの示唆を我々に与えます.第一に,一部のカトリック信者がつく「うそ」を拒絶すること.LGBTQ+ の生は,神の目に価値ある生であり,我々は皆,Jesus Christus によって等しく贖われており,神によって根本的に愛されている — なぜなら,我々は皆,神の似姿に創造されているのだから.

第二に,我々は,教会のなかに勇気の文化を育てる必要がある.Bryan Massingale 教授は,聖 Thomas Aquinas を引用します :「勇気は,あらゆる徳の前提条件である」.我々は,新しい教会を作る必要がある — 服従が第一の徳である教会ではなく,勇気が第一の徳である教会を.偶像崇拝につなぎとめられた教会のなかで真理を言うためには,我々には勇気が必要である.

第三に,希望の感覚を育てよう.希望と楽観主義とは異なる.アメリカ流の楽観主義では:善は常に悪に勝つ;善人は,常に悪者に勝つ —「遅かれ早かれ」ではなく,必ず「早々と」;悪に対する勝利は,低コストである;楽観主義は,あらゆる困難はうまくかたづく,と思い込んでいる.

それに対して,希望は,こう信ずる:善は悪に対して勝利する — 究極的には,つまり,常に勝利するわけではない;そして,勝利のためには,しばしば,たいへんな代償が必要となる;戦いの過程において,多くの者が高い代価を払うことになる.

常に勝利するわけではないが,常に敗北するわけでもない — それが,クリスチャンの希望である.クリスチャンの希望は,復活にもとづいている.Jesus は,最後の瞬間に救い出されたのではない.彼は死んだ.死から出発して神がもたらし得るもの,それが復活である.復活を信ずることが,より義なる世界とより聖なる教会のために働く我々 — 我々の仕事は,遅々としてはかどらず,満足のゆく成果を生まず,危険でさえある — を支えてくれる.復活を信ずることが,我々に希望を与えてくれる.

以上が,Bryan Massingale 神父の講演の要約です.彼は,差別と排除と迫害を正当化する神を偶像と喝破しました.そのような偶像崇拝を条件づけているのが,カトリック教義が包含する形而上学的諸要素です.そのことについては,別途論ずることにしましょう.

司祭の coming out のニュースとしては,ドイツの Paderborn 大司教区Bernd Mönkebüscher 神父が,今年02月に gay であることを公にし,Unverschämt katholisch sein[はずかしげもなくカトリックであること]という本を出版しました.

偶像崇拝の問題について,ひとことだけ付け加えておくと,最近,あるカトリック司祭が神道と神社参拝に関して「宗教か文化か」と論じている記事を見かけました.まったく論点がずれていると思います.問題は,偶像崇拝か否か,そして,その偶像崇拝が何らかの強制や苦悩を条件づけているか否か,です.日本において,神道と,神道のみならず,仏教は,祖霊崇拝と不可分です.そして,祖霊崇拝は,家父長主義と不可分です.そして,家父長主義は,全体主義を生み,また,女性差別 および LGBTQ+ 差別を条件づけています.祖霊崇拝を包含する限りにおいて,神道と仏教は,単なる「日本文化」の要素ではなく,有害このうえない偶像崇拝である,とはっきり批判しておきたいと思います.

ルカ小笠原晋也