2019年9月4日水曜日

Father Bryan Massingale : 偶像崇拝に立ち向かうこと

John Singer Sargent (1856-1925)
Moloch (1895)
from the Triumph of Religion (1895-1919), murals at the Boston Public Library


今年(2019年)は,さまざまな歴史的できごとが50周年を記念しています.LGBTQ+ community にかかわるものとしては,1969年06月28日に始まった Stonewall 反乱が筆頭に挙げられます.そして,LGBTQ+ カトリック信者たちにとって意義深いこととしては,LGBTQ+ カトリック信者の信仰共同体 Dignity の創立が挙げられます.

Dignity は,Stonewall 反乱に触発されて,かつ,1965年12月に司牧憲章 Gaudium et spes の発表を以て閉会した第二 Vatican 公会議の精神 — 現代社会に開かれた教会の精神 — において,Patrick Nidorf 神父(1932年生,聖アウグスチノ修道会司祭,1973年に聖職から離れ,心理療法家となった)の指導のもとに,Los Angeles 大司教区内で創立されました.現在,その活動は,DignityUSA および Dignity Canada の名称のもとに,全米とカナダに広がっています.

その DignityUSA が主催して,今年の06月30日から07月04日まで,Chicago で,Global Network of Rainbow Catholics の大会が行われました.その最終日に,「LGBT+ の正義のわざを行うための神学的任務」の表題のもとに,三人の神学者が参加するパネル・ディスカッションが行われました.そこで,関係者にとっては大変な驚きがありました.その驚きをもたらしたのは,三人うちのひとり,Bryan Massingale 神父です.

Bryan Massingale 神父は,STD (Sacrae Theologiae Doctor) の学位(教皇庁立大学の神学博士の学位)を有する道徳神学の専門家で,現在,NYC にあるイェズス会系の大学 Fordham University の神学教授です(つまり,神学者として高名であり,かつ,高く評価されている人です).その人が,何と,彼のスピーチの冒頭で,gay であることを come out したのです!彼は,こう話し始めました:「わたしは,この対話に,黒人であり,gay である司祭かつ神学者としてやってきました」.その場がどれほどの驚きと感激に湧いたか,詳しく伝えられてはいませんが,想像に難くありません.

ともあれ,Bryan Massingale 教授は,「LGBTI 司牧任務のために偶像崇拝に立ち向かうこと」(The Challenge of Idolatry for LGBTI Ministry) という表題のもとに講演を行いました.

彼が「偶像崇拝」という語を用いたことに,わたしは注目します.わたしも,カトリック教会にとって最大の課題は,偶像崇拝を克服することだ,と考えるからです.では,今,カトリック教会のなかで崇拝されている「金の仔牛」は何なのか?それは,「自然法」(Lex Naturalis) と「教会の教導権」(Ecclesiae Magisterium) である,とわたしは思います.両者を合わせて,カトリック教会における「形而上学的偶像崇拝」(metaphysical idolatry) と呼びたいと思います.Blaise Pascal (1623-1662) は,カトリック教会で崇拝されている形而上学的偶像を「哲学者と神学者の神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼びました... が,話が長くなりますから,今は立ち入らないでおきましょう.Bryan Massingale 教授の話を聞きましょう.

彼は指摘します : LGBTQ+ カトリック信者が立ち向かう主要問題は,性倫理 (sexual ethics) の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.

彼は,1982年,神学生時代に初めて参加した Ignatian retreat における経験について,こう語っています:
祈りのために与えられた聖書の箇所のひとつは,創世記の最初の創造の物語だった.わたしは,祈りのなかで,自身を,神が 6 日間で万物を創造する過程を眺める観察者として思い描いた.わたしは,神が創造したものを見た.それは,すばらしかった.ただし,わたしは気がついた:創造が完了したとき,そこにはひとりの黒人もいなかった.ひとりの gay もいなかった.神の似姿に作られた者たちすべてを見たとき,わたしのような者[黒人である者,gay である者]は,ひとりもいなかった.そのことは,わたしに深い動揺を与えた.わたしの精神は苦痛を覚えた.わたしは打ちのめされた.長年にわたって「人間は皆,神の似姿に創造された」と教えられてきたのに,わたしは,わたしのなかの深いところで,そのことを信じてはいなかったのだ.わたしの祈りは,わたしが「神の似姿」として黒人も gay も思い浮かべることができない,ということを暴いてしまったのだから.
わたしは,そのことを retreat director に告げた.彼女は,賢明にも,聖書のほかの箇所をわたしに与えた.神の愛について語られている箇所だった.しかし,わたしは,祈ることができなかった.わたしは,神の愛について何も聞きたくなかった.わたしは怒っていた.わたしは,神がわたしを黒人に創造したこと,gay に創造したことに,怒っていた.
ある晩,わたしは,夜中に目がさめて,怒りと悲しみを覚えて,枕を叩きながら,神に向かって幾度もこう言った :「なぜあなたは,わたしにこのようなことをしたのですか?あなたにそのようなことを頼んだおぼえはありません.いったい,あなたはどのような神なのですか?なぜあなたは,わたしを,このようにひどい痛みと傷と拒絶を被らねばならないように,創造したのですか?」わたしは,叫び,わめき,泣いた.怒りと悲しみに,からだが震えた.
そのように叫び,悲しみ,わめいた後,わたしの傷と怒りと不安と苦痛がすべて尽きた後,初めて,神は,わたしの魂の裂け目をとおって入って来た.神のことばが聞こえた :「わたしの目に,おまえは価値あるものだ.わたしは,おまえを愛している」(Isaiah 43,04). わたしは,また泣いた.喜びに泣き叫んだ.言葉にならない喜びだった.それから,わたしは,創世記 2 章で語られている創造の物語 — 神が土から人間を創造する物語 — を祈った.わたしは,自身を,神により創造される源初の人間として見た.そして,神がわたしに命を — 神の命を — 吹き込んでくれるのを,感じた.わたしは,やっと,本当に,神による創造の一部になることができた.

以上のようななまなましい証しに続いて,Bryan Massingale 神父は論じます:我々が立ち向かう問題は,カトリック教会の性倫理の問題ではなく,偶像崇拝の問題である.我々は,神について,誤ったイメージを与えられてきた.それは,白人であり,heterosexual である神のイメージである.それは,差別と不正義を正当化するために人間が作り上げた偶像にすぎない.しかし,我々は,そのような偶像を,神として崇拝させられてきた.その偶像神は,いけにえを要求する神であり,命を奪う神である.その神の名において,人々は,喜々として,黒人に対しても,LGBTQ+ に対しても,暴力をふるっている.そのような偶像崇拝に,我々は立ち向かう.

では,我々はどうすればよいのか?と Bryan Massingale 教授は問います.彼は,三つの示唆を我々に与えます.第一に,一部のカトリック信者がつく「うそ」を拒絶すること.LGBTQ+ の生は,神の目に価値ある生であり,我々は皆,Jesus Christus によって等しく贖われており,神によって根本的に愛されている — なぜなら,我々は皆,神の似姿に創造されているのだから.

第二に,我々は,教会のなかに勇気の文化を育てる必要がある.Bryan Massingale 教授は,聖 Thomas Aquinas を引用します :「勇気は,あらゆる徳の前提条件である」.我々は,新しい教会を作る必要がある — 服従が第一の徳である教会ではなく,勇気が第一の徳である教会を.偶像崇拝につなぎとめられた教会のなかで真理を言うためには,我々には勇気が必要である.

第三に,希望の感覚を育てよう.希望と楽観主義とは異なる.アメリカ流の楽観主義では:善は常に悪に勝つ;善人は,常に悪者に勝つ —「遅かれ早かれ」ではなく,必ず「早々と」;悪に対する勝利は,低コストである;楽観主義は,あらゆる困難はうまくかたづく,と思い込んでいる.

それに対して,希望は,こう信ずる:善は悪に対して勝利する — 究極的には,つまり,常に勝利するわけではない;そして,勝利のためには,しばしば,たいへんな代償が必要となる;戦いの過程において,多くの者が高い代価を払うことになる.

常に勝利するわけではないが,常に敗北するわけでもない — それが,クリスチャンの希望である.クリスチャンの希望は,復活にもとづいている.Jesus は,最後の瞬間に救い出されたのではない.彼は死んだ.死から出発して神がもたらし得るもの,それが復活である.復活を信ずることが,より義なる世界とより聖なる教会のために働く我々 — 我々の仕事は,遅々としてはかどらず,満足のゆく成果を生まず,危険でさえある — を支えてくれる.復活を信ずることが,我々に希望を与えてくれる.

以上が,Bryan Massingale 神父の講演の要約です.彼は,差別と排除と迫害を正当化する神を偶像と喝破しました.そのような偶像崇拝を条件づけているのが,カトリック教義が包含する形而上学的諸要素です.そのことについては,別途論ずることにしましょう.

司祭の coming out のニュースとしては,ドイツの Paderborn 大司教区Bernd Mönkebüscher 神父が,今年02月に gay であることを公にし,Unverschämt katholisch sein[はずかしげもなくカトリックであること]という本を出版しました.

偶像崇拝の問題について,ひとことだけ付け加えておくと,最近,あるカトリック司祭が神道と神社参拝に関して「宗教か文化か」と論じている記事を見かけました.まったく論点がずれていると思います.問題は,偶像崇拝か否か,そして,その偶像崇拝が何らかの強制や苦悩を条件づけているか否か,です.日本において,神道と,神道のみならず,仏教は,祖霊崇拝と不可分です.そして,祖霊崇拝は,家父長主義と不可分です.そして,家父長主義は,全体主義を生み,また,女性差別 および LGBTQ+ 差別を条件づけています.祖霊崇拝を包含する限りにおいて,神道と仏教は,単なる「日本文化」の要素ではなく,有害このうえない偶像崇拝である,とはっきり批判しておきたいと思います.

ルカ小笠原晋也