Charlotte von Kirschbaum (1899-1975) and Karl Barth (1886-1968)
2019年09月11日付の キリスト新聞 で,日本のキリスト教界のなかでも あからさまな反 LGBTQ の動きが 多かれ少なかれ組織的に 始まったことが,報ぜられた.そのことに関して,わたしは「帝国の逆襲 —『キリスト教 性教育 研究会』について」と題したブログ記事を書き,その一部は 09月21日付のキリスト新聞の「読者の広場」欄で紹介された.そして,わたしの見解に対して,10月11日付の同紙の「読者の広場」欄で,新潟市の 日本基督教団 東中通教会 の信徒,村上 毅 氏の意見が「放蕩息子の寓話は悔い改めが前提」の表題のもとに紹介されている:
9月11日付の紙面で,井川昭弘氏が「価値観多様化時代の性教育」と題して講演したキリスト教性教育研究会の記事を,なるほどと思って読みました.ところが,9月21日付の本欄に,井川氏と同じカトリック信徒の小笠原晋也氏から,当該講演は「形而上学的偶像崇拝」との投稿が詳細に掲載されていました.内容は,井川氏の講演内容に真っ向から対立するもので,この問題の深刻さを改めて感じさせられました.
わたしの所属する教会はカルヴァンによって創始された改革長老派系列の教会で,人間は神により男と女の両性に創られたことを基調と考えています.LGBTQ+ の活動内容がどのようなものか,よく理解しておりませんが,必要に応じて学びたいと願っています.
小笠原氏の投稿において,ニヒリズムを克服するのは ルカ福音書 15:11-32 で書かれてある「慈しみ深い 愛の神」であると述べられていますが,この放蕩息子の寓話の前提は,神の前の悔い改めである,ということを認識したいと思います.
村上毅氏は御自分がカルヴァン派であるとおっしゃっているので,Karl Barth を引き合いに出すことをお許しいただこう — 勿論,それは,「LGBTQ+ とキリスト教」に関する議論においては,単なる tu quoque の偽論にしかならないが.
日本のキリスト教界のなかでどれほど一般的に知られているか,わたしは知らないが,Barth は,秘書の Charlotte von Kirschbaum と,1926 年から死去するまでの 40 年以上にわたり,「不義」の関係を続けた.しかも,1929 年以降は,妻と子どもたちもともに暮らす自宅に,Charlotte を同居させた.彼らの関係は,Karl の妻 Nelly Barth (1893-1976) に非常に大きな苦痛を与え続けた.以上の事実は,Barth と Charlotte との間に交わされた書簡 Karl Barth - Charlotte von Kirschbaum Briefwechsel (TVZ, 2008) によって,もはや「うわさ」の域を超えて,実証されている.
旧約聖書の律法のなかで,十戒は「不義を犯すなかれ」と規定しているが,当時,「不義」は,男が既婚女性と性交することであり,相手が未婚女性の場合は,「不義」には当たらない.しかし,申命記に記されている律法に従うなら,Barth は,Charlotte の父親に「罰金」を払い,彼女と結婚しなければならない (Dt 22,28-29). いかにも,古代のユダヤ社会においては,男は複数の妻を持つことができた.しかし,当然ながら,現代の西欧社会においては,重婚は禁止されている.となると,Charlotte は,彼女の父親の家の前で,その町の男たちによって,石打の刑に処されねばならない (Dt 22,20-21). が,そのような私刑も,当然ながら,現代の西欧社会においては禁止されている.
さあ,信仰のなかで律法遵守を何よりも大切と考える保守的なキリスト教徒の皆さん,あなたたちは,Barth と Charlotte を前にして,彼らをどう裁くのだろう?あなたたちは,好んで homosexuality と transgender being とを断罪する限りにおいて,20世紀の最も偉大な神学者とその秘書との「不義」を裁くことを免れることはできない.
話を本題に戻そう.村上 毅 氏は,放蕩息子の譬えにおいて,父が慈しみ深く息子を赦すのは,息子が自身の罪を悔い改めたからだ,と主張している.おっしゃりたいのは,こういうことだろう:同性どうしの性行為は,聖書に記されている律法によって,罪深いものであり,当事者が自身の罪を悔い,行いを改めて,初めて,その罪は赦される.つまり,村上 毅 氏は,同性どうしの性行為が罪深いものである,ということを,無反省に信じ込んでいる.それは,わたしが「形而上学的偶像崇拝」と呼ぶものの典型的な症状のひとつである.
保守的なキリスト教徒たちが「gay[男を性愛の対象とする男]どうしの性行為は,禁止されている」と考える おもな根拠は,レヴィ記に記された規定に存する:
女と寝るように男と寝てはならない.それは,忌まわしいことである (Lv 18,22).
ある男が,女と寝るように男と寝るならば,彼らふたりが為すことは,忌まわしいことである.彼らは処刑される.彼らの血は,彼ら自身にふりかかる (Lv 20,13).
一見すると,それらの条文は,確かに,gay どうしの性行為を断罪しているように見える.しかし,「女と寝るように」という表現に注目するなら,このことを読み取ることができるだろう:おまえは,女と寝る heterosexual の男である;にもかかわらず,おまえが男と性的な関係を持つなら,それは忌まわしいことである.
つまり,それらの条文の言葉は,heterosexual の男に向けられているのであり,gay に向けられているわけではない.そもそも,旧約聖書のことばの宛先は,もっぱら,古代ユダヤ社会の支配的構成員である heterosexual の男たちであって,そこには,女性も LGBTQ+ も含まれてはいなかった.また,そもそも,SOGI に関して heterosexual でない者や cisgender でない者の存在は,古代ユダヤ社会のなかでは想定されていなかった.勿論,そのことを歴史資料にもとづいて実証的に証明することは困難であろうが,我々は,旧約聖書に描かれた古代ユダヤ社会が家父長制的であることにもとづいて,そう推定することができるだろう.
したがって,聖書にもとづいて,同性どうしの性行為を断罪することはできない — 聖書にもとづいて Karl Barth と Charlotte von Kirschbaum との関係を断罪することができないのと同様に.
ところで,放蕩息子の譬え話 (Lc 15,11-32) は,「罪 と 悔悛 と 赦し」をテーマにしているのだろうか?律法の遵守にこだわり,違反に対する神による処罰を 何よりも恐れる キリスト教徒は,そう読むだろう.しかし,そこに物語られている 慈しみ深い父 は,実際には何と言っているか?
この〈わたしの〉息子は,死んでいたが,命へ返ってきた [ οὗτος ὁ υἱός μου νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησεν ] (15,24) ;
この〈おまえの〉弟は,死んでいたが,命へ返ってきた [ ὁ ἀδελφός σου οὗτος νεκρὸς ἦν καὶ ἀνέζησε ] (15,32).
つまり,この譬え話の本当のテーマは,罪の赦しではなく,しかして,死から永遠の命への復活である.
愛にあふれる神は,既に,無償で,我々に 永遠の命 を与えてくださっている.塵から創られた我々が今,生きているのは,神が 御自分の息吹によって 神の命である永遠の命を わたしたちに吹き込んでくださったからである.我々は,今,現に,永遠の命を生きている.我々は,そのことに気づき,神の愛の恵みに感謝すればよいだけである.
それが Jesus Christ の福音の本質だ,と わたしは 思っている.
ルカ小笠原晋也