2019年12月4日水曜日

酒井陽介 神父様 の 説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日

Nikola Sarić (1985- ), Parable of the Rich Man and Lazarus (2014)



酒井陽介 神父様 SJ の説教,LGBTQ+ みんなのミサ,2019年09月29日


第一朗読:アモスの預言 (Am 6,1a.4-7)
第二朗読:使徒パウロのテモテへの手紙 (1 Tm 6,11-16)
福音朗読:ルカによる福音 (Lc 16,19-31)

今,読まれた福音のなかで,イェスは,最後に,「もしモーセと預言者に耳を傾けないのなら...」という言葉を残しています.これは,今日の福音のことばのなかで,最も強烈なメッセージを投げかけているところだ,と思います.

モーセと預言者 — 律法と預言者のことば,預言者の証し,と呼びかえてもよいと思います.日本に生きるわたしたちは,毎日の暮らしのなかで,直接に律法や預言者のことばを意識することは,そうはない,と思います.しかし,時代と場所を超えて,文化を超えて,イェスのことばは,わたしたちに投げかけられています.二千年後の日本で彼の御ことばを読むとき,わたしたちは,そこに何を聴き取ることができるでしょうか?

今日の福音を,ふたつの点から見て行きたいと思います.ひとつは:現実をひっくり返すような奇跡は,そうは起こらない.もうひとつは:欠けていること,何かを失うことは,実は,生かされていることを意識することにつながる.この二点から,今日の福音をいっしょに紐解いて行きましょう.

日常の暮らしのなかでわたしたちに語りかけられてくる神の思い.それを,もしかしたら,直接,神から受ける場合もあれば,いろいろな善意ある人たち — わたしたちに理解や愛を示してくれる人たち — の思いや言葉を介して受ける場合もあります.そういう言葉や,そういう語りかけに,もし,わたしたちが目や耳を塞いでしまっているなら...? そういう状態でいながら,都合よく霊的な体験をすることは,あり得ない — そう言うことができるだろうと思います.

霊的な体験は,何ごとかがドラマチックにビビビッとくる,という場合もあるでしょう.本当に少ないパーセンテージの人々が特別な体験をいただける,という場合もあるでしょう.しかし,日々の暮らしのなかでは,そのような強烈な体験をするよりは,日常のなかでわたしたちが生きているときに接する神の思い,人々の理解,愛 — そういったものをわたしたちがしっかりと受け容れて,初めて,霊的な体験につながります.そういったことをまったく無視しては,そういったものから乖離したところでは,霊的な体験はあり得ない,とわたしは思います.

「恩寵は,決してわたしたち人間の自然性を飛び越えはしない.恩寵は,わたしたちの自然性を完成させるものだ」[ cum enim gratia non tollat naturam, sed perficiat... ] と,有名な神学者,聖トマス・アクィナスは言っています.わたしたちは,わたしたちのありようをとおして,恩寵をいただくことができるんだ,ということです.ですから,わたしたちのありようを無視し,飛び越え,また,現実をひっくり返して,奇跡が起こる,ということは,期待しても,そう起こることではないだろう,と思います.ですから,わたしたちが生きていくなかで,しっかりと地に足のついた営みをしていかないならば,現実を飛び越えて,急に回心するとか,急に生活が改まるとか,急に聖人になるということはない — ほぼ,そう言ってもよいのではないか,と思います.

そんなことは当たり前だ,と思うかもしれません.ただ,案外,わたしたちは,心のどこかで,いつかは変われるに違いない,いつかはやめられる違いない,いつかは成長できるに違いない,と思っているふしが,結構,あります.しかし,わたしたちが,日常のなかで,神がわたしたちに伝えてくれるさまざまな思いや神の恵みに対して開かれて行き,それを,できるだけアンテナを伸ばして,しっかりと受けとめて行く,ということがなければ,案外,それは,すどおりしてしまったり,わたしたちがそれを意識しないうちに漏れていってしまう — そんな状況かもしれません.

わたしたちは,無意識のうちに,ラザロの霊や先祖の霊が現れて,教えてくれるかもしれない,と思っているかもしれない.しかし,そうではないということを,イェスはわたしたちに伝えてくれています.

わたしたちが毎日の生活のなかで体験するさまざまな事がらは,新しい学びの機会,新しい自分との出会い,新しい自分に気づくことができる出来事 — それは,ときには,痛みを伴うことかもしれないし,思いがけないことかもしれません — に溢れている.自分の小ささ,自分の不自由さ,自分の不完全さ,そして,ときには,自分のたくましさや良さを知る体験に,実は,溢れている,と思います.

そこに,神との出会い,神からの招きが,いただけている.もう一歩足を踏み入れ,歩を進めるための勇気が,いただけている.もし,いただけているという実感がないなら,どんなに「霊的な恵み」と口で言ったところで,それは — わたしたちの目の前で起こる「奇跡」は —,わたしたちを変えることにはつながらない.なぜなら,神からの思いををしっかりと受けとめてはいないから.まずひとつ,そう言うことができるだろう,と考えます.

次に,もう一点,それは,わたしたちは,失うことによって,痛みを伴う経験によって,敢えて,生かされている,という意識を持つことができる,という点です.

そのような価値基準から見てみれば — ラザロは,実に不運な人です.それこそ,神のみぞ知るありようのなかで,彼は,人生を生ききった人なのでしょう.家族も家もなく,食べるものにも困ったラザロは,苦しみの極みのなかにいました.しかし,神は,誰よりも彼の近くにいらっしゃった.それが,イェスの福音の教えになっています.

ラザロは,生かされていました.ラザロは,自分の力で生きているという感覚以上に,きっと,生かされているということを感じた人でしょう.

わたしたちは,概して,物を所有したり,地位を向上させたり,世界に認められるときに,ある種の幸せや高揚感を感じます.それは普通です.そして,普段はそれをあまり意識しないかもしれませんが,何かそのひとつでも失うと,大きな喪失感を感じ,自分はなんと惨めなんだろう,という思いにさいなまれることがあるものです.そうした思いからまったく自由で,とらわれのない人生を送っている人は,それほど多くはないだろう,と思います.わたしたちは皆,そのような「しがらみ」から,やはり,影響を受け,それに取り囲まれて,生きています.

わたしたちは,そのような自分の現状を全否定する必要はありません.人間ですから,当然だと思います.ただ,それだけではないのだ,ということを,今日の福音から,少し読み取ることができるかもしれません.

わたしたちは,何かが失われたり,何かを手放さなければいけなかったり,何か大切なものがなくなるときに,多いに痛みを感じます,そして,ときには,自分を惨めに思うことがあるかもしれません.もちろん,長い目で見るならば,その惨めさのなかに自分を追いやってしまうのは,決して良いことにはつながりません.しかし,自分がそのように何か欠けている,何かが足りない,何か心に空洞がある — そのような体験を人生のなかで持つこと,別の言い方をすれば,喪失感を持つことは,その空洞を何で埋めていったらいいのか,その空洞はどのように埋められるもんなんだろうか,そもそも,わたしはその空洞を何で埋めていたのか,という問いに,今一度,立ち戻る機会になると思います.

今日の福音の譬えの金持ちは — もちろん,これは,お話ですから,非常にわかりやすく仕上げられています — 毎日,ぜいたくに遊び暮らしていた.彼は,言うなれば,欠けることを体験していない.常に満たされている.そんな人は,実際にはいないと思います.しかし,彼は,常に満たされ,心のなかに大きな空白や空洞を感じないで生きていた.彼の努力もあったかもしれないし,非常に運がいい人だったのかもしれません.ともかく,彼は自分の力で生きていた.才能もあり,運も良かった彼は,いつの間にか,「わたしは,自分の力で生きている」という感覚が強くなったんだと思います.それが,ラザロとの大きな違いです.

わたしたちは,何かが欠けたとき,それも,たいせつな何かを手放さざるを得なかったり,奪われたりしたとき,大きな喪失の痛みを感じます.そして,ときには,惨めな思いにさいなまれます.ただ,そうしながら,自分の力が及ばないことがあるのだ,自分がいくらがんばっても及ばないことがあるのだ,ということを感じることができるのではないでしょうか?そして,それでもまだこうやって生きているのだ,いや,生かされているのだ,ということに,少しずつ気づくことができるのではないでしょうか?

たいせつなものを失う — それは,わたしの健康かもしれない,人間関係かもしれない,名誉かもしれない,ほかの人々からどう思われているかということかもしれない.人それぞれ,失うものは異なります.

それでも,何かが失われたとしても,わたしにつながっていてくれる誰かがいる,わたしに寄り添ってくれ,理解してくれる人たちがいる.それは,自分の力で獲得したものではなく,純然たる恵みとしての関係性だと思います.それが,信仰の世界です.

いただいたもの — 恵みとしていただいた関係性 — を,わたしたちは受けとめて行く.さらに,この空洞,この空白を,深く見つめて行くならば,そこで,わたしを全面的に受けとめてくれる神との出会いに招かれている,ということに気づくことができる,と思います.

わたしが生きるのではなく,わたしは生かされている.生きることを善しとする神の招きがある.生きてほしいと願っている神の心が,そこにある.

思うに,この世界に,完全なもの,完全な形というものは,無いでしょう.ただ,わたしたちは,抗いながらも,完全さに向かって歩んでいる.そこに向かって招かれている.

そこには,いろいろな障害物や,わたしたち自身が感じる抗いや葛藤が,たくさんあります.それが,まさに,第二朗読でパウロが言うところの「信仰の戦い」でしょう.わたしたちは,ひとりひとりの人生の物語のなかで,信仰の戦いを紡いで行くしかありません.しかし,わたしたちは,その戦いにひとりで立ち向かっているのではなく,仲間とともに,寄り添ってくれる人とともに,理解してくれる人とともに,歩んで行く — そのように,わたしたちは招かれています.

ラザロのような人間もおり,金持ちのような人間もいる — わたしは,A とか B とか,人を分類するのはあまり良くないと思うのですが... わたしのなかにも,ラザロのようなものがあり,金持ちのようなところもあります.これは皆,同じだと思います.ラザロのようなわたしもいれば,金持ちのようなわたしもいる.しかし,神は,どちらにも同じように慈しみ深いまなざしを向けてくださっている.

「わたしは,不完全で,不自由な人間なのだ」という自覚をもって歩んで行くならば,わたしたちは,惨めな思いに完全に飲み込まれることなく,新しい自分や新しい地平を見つけ,出会うことができる — そのように生きて行くよう,わたしたちは招かれている,と思います.

この世界は,わたしたちに,「生きて何かをしろ」と迫ってきます.しかし,信仰の観点から見るならば,わたしたちは,生きるということだけに終始するのではなくて,生かされています — もちろん,神によって.

神は,わたしが生きて行くことを望んでいる.神によってそのように望まれているわたしがいる.それが善き知らせである.この善き知らせを,イェスは,命をかけて,御自分の死を以って,告げ知らせてくださいました.

キリストがわたしたちひとりひとりに注いでくださるまなざしを,今一度,意識してみましょう.

わたしたちは,生きている — でも,生かされている.そして,わたしたちが生きることを何よりも望んでおられる神がいる.その観点から,わたしたちのありかた,存在,かかわりを,もう一度,見つめ直して行きたい,と思います.